どうか手を



! 食堂に行こうぜ」
 トイレに行っていたポルナレフさんが戻ってきたと思うと、船室のドアを開けるなり、大層な笑顔で私を呼んだ。
 向かえ側のソファーでは、承太郎君が学生帽を顔に傾けてうつらうつらと船を漕いでいる。ジョースターさんとアヴドゥルさんは、しばらく前から外の空気を吸いにデッキへ行ってしまっていた。
 窓際で椅子に腰掛けて本を呼んでいた花京院君が、
「うるさいぞ、ポルナレフ」
と静かにページを捲りながら呟いたので、私は苦笑しながらポルナレフさんを振り返った。
「私も、ちょっと喉が渇いていたところでした」
「そうだろ~? そうこなくっちゃな」
 長時間座り続けるには堅い座席から立ち上がって、膝に乗せていた荷物を花京院君に任せたのを確認すると、ポルナレフさんは私の肩を抱くようにして通路へ促した。そうしてからポルナレフさんは、
「あーやだやだ、あんまり陰気臭いと、本の虫にもいつかカビが生えちまうぜ」
とため息混じりに、わざとらしく肩を竦めて花京院君を一瞥したようだけれど、花京院君の方はもうすっかり無視を決め込んでしまったのか、本を片手に持ち替えて、頬杖をつきながら文字を目で追っている。
 ポルナレフさんはいつもの軽い言い合いを楽しもうと思っていたらしく、肩透かしを食らったように口を曲げて、来た時とは反対に静かに戸を閉めた。
 その様子に、私は少しだけ笑いが込みあげた。

 原因不明の病で倒れたホリィさんを救うため、日本を旅立ったジョースターさんが香港を発ってから、二週間近くが経とうとしていた。
 スピードワゴン財団からパイプ役として派遣された私は、本来ならば一週間前にシンガポールへ到着し、その一行と共に財団が手配したホテルへ一泊した後、飛行機で支部へ帰還する予定だった。
 しかし、財団がチャーターした船が既に敵の手に落ちており、その襲撃によってクルーザーが破壊され通信手段を失ったことから、ジョースターさん達と共に数日間、海上を漂流することになってしまった。それも一度ならまだしも、二度も遭難したのである。助かったと思った途端のことだ。
 一緒に漂流していたクルーザーの船員たちは、海上での二度目の襲撃によって嬲り殺されてしまっていた。その中で私が助かったのは、ほとんど奇跡と言ってもいい。
 シンガポールまでという条件付きのただの通信役だった私は、こうしてたった一日も経たずに、完全にジョースター一行の戦いに巻き込まれてしまっていたのだ。
 財団やジョースターさん達でさえ、敵の追手がここまで執念深いとは思っていなかったようだ。遥かに予想を超える旅程に、私が逃げる機会を失ったというのは、仕方のないことだった。

 スピードワゴン財団はジョースター一行へは食料物資や移動手段を手配するのみで、それ以上の支援は一切行っていない。軍事的支援とは無縁のため、財団は団員を危険に晒すことを最も恐れている。
 それを承知していたジョースター一行も、無関係の団員を巻き込ませまいと同行や極力の支援を断っていたのだろう。最初から最低限の連絡しか、財団とは取っていなかった。
 しかしそのせいで私はこの一週間以上、財団からの救助をとことん期待することが出来ず、帰りの飛行機が手配されたインドまでの道程を、泣く泣くジョースター一行に同行する羽目になったのである。
 無事かどうかの連絡は取ることが出来ていたのだけれど、こちらの情勢が落ち着くまで団員を派遣することは出来ないと、きっぱりと断られてしまっていた。非情のようでも、この数日で惨殺された無関係の人間を思えば、多くの命を預かる財団が無闇に団員を派遣できない気持ちも十分理解できる。
 だからこそ、私の泣きたい気持ちは全く行きどころをなくしてしまっていた。

 この人生で最も長い二週間で、私の仕事は財団のパイプ役からとにかく生きることと、ジョースター一行の旅から無事に離脱することに変わっていた。
 どうにかインドまでは辿り着かなければ──この数日はそればかりを考えていた。
 そんな覚悟をあざ笑うように、シンガポールで二人の刺客に襲われて以来、ぴたりと敵の襲撃は止んでいる。その静寂がまた、私にはひたひたと影が迫ってくるようで、一層不安を募らせてしまう。
 そうして身を固くしている私とは裏腹に、ジョースター一行と来たら漂流中のボートの上でも、襲撃されたシンガポールでも、長距離列車やインドへ向かう船の中でも、呑気にしりとりやら一発芸やらポーカーやらで毎日暇をつぶしているのだから、その肝の座り方には驚嘆を通り越してため息が出てしまう。
 でも私の心のどこかにも、平穏が存在し始めているのも確かだった。

「紅茶と……君は何かつまむかい?」
「いえ、私は喉が渇いただけなので、紅茶だけで結構です」
 私が静かに首を振ると、ポルナレフさんはウェイターに注文を告げて私に目を合わせた。目尻を下げてにっこりと笑いながら、頬杖をついた顔で私をじっと見つめてくる。
それはとても自然で綺麗な動作だったのだけれど、私にとってはあまりにも唐突でどぎまぎとしてしまう。ぎしり、と軋む音が聞こえそうなほどぎこちなく、けれど嬉しさを湛えて私も微笑み返して、ポルナレフさんへ尋ねた。
「な、何ですか…?」
、俺達ってとっても気が合うと思うんだ」
 そう言うポルナレフさんの目はほっそりと細められていて、優しげな目元に見惚れてしまいそうになる。透き通った青い目に見つめられると、冗談だと知っていても慌ててしまうのだ。
「そうですね……私もポルナレフさんがいて良かったです」
 それは本心だった。死と隣り合わせの旅で自分の身を守る術も持たず、周りは“男”を体現したような屈強で真面目な人ばかりだ。とても張り詰めている心が、和やかにはなるはずがない。
 もしポルナレフさんがいなかったならば、私は余計なことばかりを考えて、自分自身の不安で追い詰められてリタイアしていたかもしれなかった。
 目の前の彼が意識して明るく振舞っているのかはわからないけれど、ポルナレフさんのお陰で、私は生き延びられているような気がした。
「ありがとうございます……」
 なのにどうしても面と向かって言うには気恥ずかしくて、私は目を逸らして告げるのが精一杯だった。彼から毎日告げられるナンパのような言葉が、冗談交じりだからかもしれなかった。それに真剣に答えてしまう自分の生真面目さが、滑稽で重たく思えてしまうのだ。
 冗談で返せばいいのに──分かっていても顔は赤らんでしまう。
 つまらないことまで深く考えてしまうのは、惚れた弱みなのでどうしようもなかった。
「そ、そうかぁ~~?」
 照れ臭そうに頬を掻いているポルナレフさんの姿にまで、自分の言葉が届いた嬉しさを感じて胸を高鳴らせているのだから、私の病も重症も重症だった。

 恋に落ちるのに、期間は関係あるだろうか。ここ数日、そんな事ばかりを考えている。
 自分の命がもしかするとあと数日、それか数秒後かもしれないと思うと、時間というものを考えるようになってくるのかもしれない。
 もし、私がポルナレフさんに出会ったたった二週間で、一生を捧げてもいいと思えるほど惚れ込んでしまっていたとしたら、それは気の迷いなのだろうか。
 窓の外を眺めるふりをして、そっとポルナレフさんを盗み見る。どんな時でも穏やかな彼の目は、ずっと変わらない。
 頬に添えている力強い手は、その温かく穏やかな笑顔とは別に節くれだって痣があり、傷の跡なのかところどころ皮膚が変色している。
 その表情からは想像もつかないほど、苦労をしている、手だった。


「あんた! 俺から離れるなッ!」
 叫び声と共にいきなり引き寄せられたのは、霧で覆われた幽霊船の上だった。
 肩が抜けそうなほどの力で引っ張られ、胸板に強く背中をぶつける。衝撃に驚いて、呻きながら掴まれた腕を辿ると、銀髪の男性が辺りに目配せをしながら、私を腕の中へ引き込んだ。
「大丈夫です、心配いりません……!」
 尋常ではない空気に、パニックになった頭が必死に平静を保たせようと、私に言葉を紡がせる。それでも声の震えだけは隠せなかった。
 銀髪の男性は、私が声を震わせて叫ぶなり、見回していた顔をしかめて振り返った。
「心配ぃ?! 他の乗員が殺されたのを見てなかったのか? いいから、死にたくなかったら離れるんじゃねぇ!」
 有無を言わせず、銀髪の人──ポルナレフさんは船が沈むまで、私を胸に抱いて離さなかった。船に飲み込まれるようにして体を捕らわれ、絞め殺されそうになっても叫び声を上げずにいられたのは、その腕のお陰だったのかもしれない。
 だから私は恐怖に凍りついても、ポルナレフさんの体温に触れている内はまだ生きていると、安心できていたのかもしれなかった。

 その手は私を絶望から寸前のところで引き戻してくれたし、助かって命からがらボートに乗り移った時に見せた笑顔も、私に生き延びた実感を与えてくれた。
 ポルナレフさんといると、どんな時でも安心できたのだ。
「僕達から離れていた方が、追手に遭遇しても戦いに巻き込まずに済むんじゃないか?」
 貿易船に拾われてようようシンガポールに到着した時、そう言って私の身を危惧した花京院君に、真っ先に食いついたのもポルナレフさんだった。
「いや、敵は人を選ばない」
 頷きかけた私を制するように、そっと割って入る。
「財団は俺達の唯一の後ろ盾だぜ。そのものを潰せないとしても、団員を一人殺せば犠牲者を恐れて財団も頻繁に救援を送れない。寧ろを残していくのは危険かもしれないぜ」
 私は花京院君の意見はもっともだと思ったし、逆らう気もなかったのだ。しかし、後に続いたポルナレフさんの言葉も、否定することは出来なかった。
「少し考えすぎじゃないか?」
という声もあれば、どちらとも言えず唸る声もある。一番に私に体を向けたのは、やはりジョースターさんだった。
「君はどうするかね?どちらを選んでも危険があるかもしれない。君の命だ。君の判断に任せる」
 これほど決めがたい選択は経験したことがない。どっちを思い浮かべてもナイフで刺されるような感覚に襲われて、心臓が破れそうなほど激しく胸を打った。肩から落ちている腕の先では、手を握り締めているのか、汗を握り締めているのか分からない。
 ぐるぐると回る頭では、何も答えは出していなかった。早く言わなければ。決めなければ。それだけが渦巻いて、焦るばかりで結論は出てこない。
 けれど私の口は、何故か操られるように勝手に動いていた。それが何よりも怖かった。
「だ……大丈夫ですよ」
 ようやく出た言葉に、恐らくもっとも驚いたのは私だったのだ。もう後戻りは出来ない。言ってしまった。決めてしまった。
 暗闇に一人取り残されたような不安と孤独感に、私は目の前が真っ暗になっていくような気がした。
 それでも、口は止まらない。勝手に舌を滑らせていく。
「救援も、スタンドも、私一人には敵に狙われるような力は……」
「だめだ!」
 肩を掴まれる。がっしりと食い込むように、大きな手に捉えられる。顔を見るより先に、声の持ち主が誰か認識するより先に、反射的にポルナレフさんだと、私は思った。
 彼しかいなかった。私の中で、全くの他人の私を守ろうとしてくれる人は、ポルナレフさんしか思い浮かばなかった。
「……ごめんなさい」
 私は、自分の体が震えているのが分かった。いつからなのか。もうずっと前からなのか、その震えは何から沸き起こってくるものなのか。
 考えるより先にか細い声を出していた。
「やっぱり……ついていきます……お願いです……行かせて下さい……」
 自分がどんな顔をしていたのか、私には分からない。ただこみ上げるものを堪えるので必死だった。
 どちらを選んでも死ぬかもしれない選択は、きっと死ぬ瞬間よりずっと恐怖に満ちていたし、自分の身を可愛く思うあまり足手まといになって余計な犠牲者を増やすかもしれないことは、香港からの旅路で十分に感じていた。
 だからこそ、決断を覆されたことは嬉しかったのだ。巻き込まれてしまった以上、突き放されるのが怖くて仕方なかった。一人で死んでしまうのは、怖くてたまらなかったのだ。

 あれからずっと、他人にそこまで固執しなそうなポルナレフさんが、どうしてあれほど私の身を案じたのかを、ぼんやりと考えていた。
 多分、憶測でしかないのだけれど、妹さんではないかと思う。無惨に殺されたという妹さんを思い出してしまったのではないだろうかと、私は思っていた。それは私が似ているから、という意味ではない。
 ジョースター一行が旅に出てから、一体どれくらいの人間が犠牲になったのだろう。たった数人の命のために、無関係の人間がどれだけ殺されていったのだろう。それは悪意というよりも、もっと理由のない快楽のように、捨てられていったように思える。
 幾ら仇討ちのために凄惨な体験をしてきたといっても、ポルナレフさんははたしてこれだけの人の死に一度に触れたことがあっただろうか。彼だけじゃなく、この中で誰が経験したことがあるのだろう。
、君は心配しなくていい。俺を頼っていいからな」
 シンガポールのホテルの前で、私に向けて言ったポルナレフさんの目は、真剣そのものだった。私を案じるのとは別の何か深い覚悟が、その目には宿っているような気がしたのだ。
「なんつって……!」
 カッコつけすぎたかなぁ~と急に照れたように頭を掻く姿に、三年も青春を捨てるほどに自分のことで手一杯のくせに、相手にまで気を回し過ぎるその性格に、ほっとしない人間なんているのだろうか。
 彼の闇を知るからこそ、あけすけな笑顔を浮かべられる人間の深さに、惹きこまれてしまうのだ。
 そんな彼の笑顔を見て気を抜いた瞬間、恋に落ちない人間など、はたしているのだろうか。


「ん?」
 私の視線に気づいたのだろう。片手に乗せていたポルナレフさんの顔が、不思議そうに傾げられる。少し顔を赤らめながら、「なんでもないんです」と私は言った。
 私にとって今の状況はとても絶望的なのに、どうしてかこの人と一緒にいたいという思いに駆られる。私は、落ちてしまったのだ。どうしようもなく、この人に恋をしてしまったのだった。
 期間は、恋に落ちるために必要なものではない。その人を知る機会が巡ってくるのが早いか遅いか、それだけなのだ。
 私はそう、結論を出していた。
「明日の朝にはインドに着きそうですね」
「ああそうだなぁ……」
 ウェイターが背後から近寄って、注文した紅茶を運んでくる。花柄のティーポットとセットのカップが置かれるのを目で追いながら、清潔なテーブルクロスからそっと手を離す。
「やっと帰れるな」
 目を細めて穏やかに笑うポルナレフさんに、私は微笑み返していいのか迷ってしまった。喜ぶべきなのか、別れを惜しむべきなのか、その時には答えを出すことが出来なかった。
 財団の迎えが待つことは、私にとっては命拾いをすることと同じだ。もうすぐ安全な場所へ帰ることが出来る。でも、ポルナレフさんはどうなのだろう。
 ジョースターさん達の旅は、ホリィさんを救えるまでこれからまだ何十日も続くだろう。けれど終わりはあるのだ。終着点は日本を出立した時から見えている。
 じゃあポルナレフさんには?妹さんの仇とはどこにいるのだろうか。いつ、出会えるというのだろうか。彼が安全な場所へ帰る日は、何日後なのだろう。
……寂しくなるなぁ」
「…………私もです」
 詰まりそうになった声を、なんとか絞り出した。
 彼の帰る場所は、どこにあるのだろう。そう思うと途方もない絶望感に触れたようで、ぞっとして胸が締め付けられた。
 船は時折波の形を辿るように揺れながら、見逃すことがないスピードでゆったりと景色を流していく。
 カップを手で包みながら、景色と一緒に彼を見た。ポルナレフさんはやはり、柔らかな目元で海の音に耳を傾けている。


 船は明日の早朝一番にカルタッタへ入るということで、いつも誰かの船室に集まっては必死に暇を潰そうと騒がしくしているジョースター一行も、今夜だけは早々に部屋へと戻っていってしまった。
 欠伸をしているのに、今朝からずっと本を読み続けている花京院君に挨拶をして、部屋に残っていたジョースターさんと一緒に自分の部屋へと戻った。
 揺れる船に、狭い通路をよたよたと歩きながら途中でジョースターさんとも別れ、自室の前に立つ。隣の扉をちらりと見た。ポルナレフさんの部屋だ。彼は明日の準備のためか、お酒も呑まず誰よりも先に部屋へと帰っていた。
 ドアノブに触れていた手を撫でるようにして離すと、私はポルナレフさんの部屋の前にいつの間にか引き寄せられていた。
 小さい船ではないけれど、波に揺られるたびにどこかが軋む音がする。剥き出しのライトが、薄暗い通路をほんのりと照らしていた。通路には私の他には誰もいなかった。通る気配もしなかった。
 別れを言うなら今しかないと思った。ノックをするなら今だけだ。朝は慌ただしくて、彼と二人で向きあえる時間なんてもうないだろう。きっと港に到着するなり、駆け足で別れて財団の迎えと一緒に空港に向かうことになる。
 何も言わないのは嫌だった。特別なことじゃなくてもいい。きっちりと顔を合わせて、月並みな言葉でもいいから、お礼や別れを告げたかった。
 たったそれだけのことなのに、扉を叩くだけでも、彼の顔を浮かべるだけでも緊張してしまう。それが恋なのかもしれなかった。
 息を吸って、吐くのと同時にノックをしようと手の甲を振る。しかし触れる前に唐突に、扉がひとりでに開いた。
「ぽ、ポルナレフさん……!」
「……?」
 彼は目を見開いて棒立ちになっていた私を見たけれど、用があると分かるとすぐにドアを開いて室内へ促した。

「奇遇だなぁ」
「奇遇?」
 私をソファへ座らせてから、ポルナレフさんも隣へ腰を落とす。堅い素材のはずだったのに体が少しだけ沈んで、片手をついて体を支えた。
 壁向かえにあるベッドには、やはりもう既にきっちりと旅道具が整理して置かれていて、あとは寝るだけのようだった。
「不安がってるんじゃないかと思って、部屋に行こうとしてたんだよ」
 体を半分私に向けて、ポルナレフさんは変わらない調子でにこにこと楽しげに笑っている。
「慰めてあげようかなァーなんて」
 そう言って私の頬に手を当ててキスの仕草までするので、恥ずかしいやら可笑しいやらで、私の緊張なんてものはどこかへすっ飛んでいってしまっていた。
「本当ですかァ?」
 ポルナレフさんはあくまで冗談のようにキスの仕草をした。いつもと同じ冗談交じりで私の気を解した。だから私もおちゃらけて笑って、彼に顎をつきだしたのだ。

 ポルナレフさんから、急にふっと表情が消えた。呑まれそうな程澄んだブルーの目から、温かさを残して笑みが引いていく。どきりと、心臓が跳ねた。それから少しずつ、段々に胸を打ち付ける音が早くなっていく。
 私の頬に当てられていた手が、ゆっくりとなぞるように目元を撫でた。こそばゆいはずなのに、私はどうしてか笑うことが出来なかった。思考が、完全に停止している。
 動いたのは、ほんの僅かな時間の後だった。ポルナレフさんが、近づいてくるような気がした。見つめ合った時間は何分間にも思えたのに、呼吸の数がほんの数秒だったことを気づかせる。
 私はすっかり息をすることを忘れていた。思うように息が吸えない。吐くことも出来ない。ポルナレフさんの目が、そうさせているのだと思った。彼の顔が近く見えるのも、そのせいなのだと思っていた。
 息は浅いのに、私の頬から首筋に当てられているポルナレフさんの手には、私のドラムを打ち鳴らしているような脈がひっきりなしに伝わっているに違いない。
 ポルナレフさん、と名前を呼びたかった。たった一言だ。言葉にならなくてもいい。言えないのなら音だけでもいい。声を出さなければと思った。それなのに、私の喉は切り取られたみたいに声を失っている。
 視界の顔が斜めに傾いた。すぅっと緩やかに、青い目に瞼が降りていく。
 キス──
 その時になって、行為の予感が全身に巡ってくる。カッと頭が熱くなって何も考えられなくなる。私の体が甘い震えを起こした。それだけで簡単に腰が砕けそうになった。
 慌てて目を閉じると、期待と緊張で微かに耳鳴りがした。触れる。もうすぐ触れてしまう。耳を突き抜ける細い高音を聞きながら、そう思った。

「……っ」
 少しだけ冷たい感触が、私の下唇を押した。びくっと肩を揺らしてしまったが、それ以上は体が固まってうんともすんとも動かない。ポルナレフさんも唇に触れたまま、沈黙している。
 私は恐る恐る目を開けた。青い瞳と目が合って、それが困惑したように微かに揺れた。下を見る。唇に、指があった。
 ポルナレフさんは私の頬に手を当てたまま、私の唇に反対の手を添えて、狼狽えた表情を浮かべている。
 至近距離だった。彼の手さえ無ければ、唇が触れてしまいそうなほど、近い。まだどくどくと駆け足のように、心臓が脈を打っている。
 指が当てられているせいで、息を潜めてしまう。少しだけ、苦しい。
 私も動揺して、ポルナレフさんを目で窺った。指越しに、彼の息がかかる。
「……だめだ」
 絞り出したような掠れた声だった。だめだ。彼はもう一度繰り返した。
「俺は……」
 巻き込めない。小さな、顔を寄せていなければ聞こえないような小さな空気の振動が、指をすり抜けて私の頬を撫でた。
 泣きそうな顔だと思った。彼の晴れた空のような目には、諦めと、懇願が浮かんでいるように見えた。

「すまない……」
 彼が目を閉じてから、私がキスの予感を感じるまで、彼は何を思っていたのだろう。何を想像したというのだろうか。
 私の脳裏に映ったのは、彼と出会った二週間だった。光のようでいて、血に濡れた、死の二週間だった。彼の温かい腕だった。ほっとするような笑顔だった。
 ならば彼にとっての二週間は、それまでの日々は、家族の仇を探す三年間は、どうだったのだろう。どんな出会いをしてきたのだろう。どんな別れをしてきたのだろう。こんな風に、押し殺してきたのだろうか。今までも、ずっと。
 どうしてですか。聞きたかった。どういう意味ですか。何でですか。疑問符を投げかけたかった。私の張り裂けそうな心臓に、期待と落胆を混ぜた胸に、いつもの安心感を与えて欲しかった。
 巻き込めない、だなんて。そんなのは遅すぎる。私はもう巻き込まれてしまっているのだ。後戻りできないくらい、危険な運命に巻き込まれてしまっていたのだ。
 それでも突き放したのは、失うことを恐れてくれたのかもしれない。たった二週間の出会いよりも、一生の無事を選んでくれたのかもしれない。
 少しばかり軽率な彼が、私の安全に不安を抱いてしまったのだとしたら。もしもそんな風に思ってくれていたのだとしたら。いつの間にか、そんな存在になっていたのだとしたら。

 胸が、ぐちゃぐちゃに握りつぶされたようだった。別れなければならない。明日の朝、私は一人財団の元へ戻らなければならない。それは私にとって、とても喜ばしいことだ。生きる保証を得られたということだ。
 でも、もし彼が戻って来なかったら。これが最後の別れだったら──
 考えたくもないことだったけれど、彼の行動が私にこの旅の壮絶さを思い出させてしまった。
 彼はきっと“好き”という言葉すら言わせてくれないだろう。それくらいの覚悟があるような気がしてならなかった。
 心がぐるぐると掻き回される。悲しいと思った。悲しくて、胸が痛い。それなのに好きという気持ちが、幸せそうに脈を早めている。
 ゆっくりと舌がなぞっていた。シンガポールで判断を迫られた時、ジョースターさんに言った時と同じように、舌が私の思考を経ずに勝手に動いていく。
 確かに言った。私は確かに“嬉しい”と、言っていた。
「嬉しいんです……悲しいけど、嬉しいんです……」
 出たのは言葉とは反対の、震えた声だった。自分の声につられるように、ぽろぽろと涙が溢れでてくる。
 間違いではないはずだった。胸は痛いのではなく、ぐちゃぐちゃだったのだ。想われる嬉しさと、その為に伝えられない悲しさの、その両方の感覚だったのだ。
……」
 頬に添えていたポルナレフさんの指が、流れる涙を何度も何度も拭った。その体温のせいで、ますます溢れてくる。私が止めようと思っても、それは意思を持ったように次から次へと流れ落ちていった。
 怖くて、怖くてたまらなかった。二週間前、私があんなにも恐れていた一人で死んでしまう恐怖と覚悟を、ポルナレフさんは何年も抱え続けていた。ただ死ぬことよりも怖い、一人で死ぬ覚悟を、ずっと。
 彼の手は、私が泣き終わるまで唇に触れられていた。そうでなければキスをしてしまいそうだとでもというように。
 彼は、私に線を引いた。指先の、たった一本の線を。

 船がぐらぐらと揺れて、懸命に止めようとする私の涙を零させる。船室のどこかでやっぱり、何かの軋む音がする。
……」
「はい……ポルナレフさん」
 ポルナレフさんは困り果てたように、ただただ私の名を繰り返した。私が涙を零すたびに、静かに目を細めて見つめている。
 いつも優しかったその青い目が、切なげに揺らぐのを見てしまっては、その手をどけてくれとは、私にはどうしても言えなかったのだ。



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12/11/13 短編