はざまの騎士



 トントン、と扉を叩く音に、俺は矢を抱えて身構えた。
 追手が来るとは思えなかった。俺の死は疑われることなく、存在すらとうの昔に忘れ去られているはずだった。それでも圧倒的な力を思い返せば、油断だけは出来ない。
 矢の先で閉め切ったカーテンを僅かに捲り、戸口に立つ人間を伺ったが、柱が影となって完全に隠れてしまっている。怪しかった。刺客ならば恐らく少しでも情報を与えまいと、どうにかして身を隠すだろう。何より、廃屋に訪れるのに戸口を叩く人間などいるわけがない。
 振り向けば確実に柱から顔が伺える位置まで車椅子をゆっくりと引きながら、チャリオッツを戸口の方向へ構えさせた。
「……誰だ。窓の方へ顔を向けろ」
 低くはっきりとした言葉は、確かに戸口の人間の耳へ届いただろう。久しぶりに発した声にしては上出来だった。
 今の声で、俺の位置はもう知られている。いつでも動けるように車輪に片手を添えたまま、カーテンの隙間から人影が振り返るのを静かに待った。覚えず、汗が滲む。
 呼吸がひとつ。そしてふたつ。数える間に、柱からすっと、細くしなやかな女のシルエットが俺の控える窓へ姿を現した。
 一瞬、誰なのか分からなかった。まさか思い浮かぶはずもない。
「ポルナレフさん……?」
 それは到底、会えるはずもない人物だったのだ。
 戸口を開けるまでに、俺は女に動かないように指示をして、沢山の質問を投げかけた。
 好きな歌手は?好きな映画は?癖や、子供の頃の体験、スープを呑んだ後にこんこん、とカップを二つ指で叩いてしまうような、彼女しか知りえないようなことを、俺は延々と尋ねた。それに女は一つ一つ丁寧に、時には戸惑いながらも思い出すように、全てに答え続けた。
 間違いはない、と思った。どうしても信じられないことだったが、現実は偶に想像のつかない展開を呼んでくることがある。
 戸口に向かって構えていたチャリオッツの切っ先を下ろしながら、俺は乾いた喉で、最後の問いかけをした。舌がもつれないように、これまで以上にゆっくりと、口を動かした。
「……お前の名前を言え」
です」
 ずっと、聞きたかった名前だった。


 家の中に引き入れても、誰かに操られていないか。脅されて利用されてはいないか。誰かに付けられてはいなかったか。それが頭を支配して、俺は完全に警戒を解くことが出来なかった。
「どうしてここが分かった」
 そうして淡々と質問攻めにする俺に、は少し困ったように答えた。質問と言うよりも、俺の空気は尋問に近かった。
「偶然見かけたんです…薪を拾っている所を」
 は財団の自然保護の調査で一人、このイタリアまで赴いていたのだという。俺の義足と、眼帯で覆われた片目を見て少し目を伏せた後、ゆっくりと瞬きをしては顔を上げた。
「この地区の生態の資料を確認しに来ただけなんです」
 その目に嘘はなかった。肩にぶら下げた大きめの鞄からは、ずっしりと重みのある資料が見える。それを確認した後で、ようやく俺はの名前を呼んだ。
「用心深くならなくてはいけなくてな……」
 すまなかった。と俺は言って、一呼吸する間に、
「帰ってくれ」
と続けた。今度こそは絶望的な表情をしていた。
 俺はそれを無視して、キィと微かな音を立てながら車椅子を引き、が入ってきたばかりの戸口を開けた。繰り返しては言わなかった。じっとの目を見つめて、出ていくように促す。
 は埃を被った安い木製の椅子に腰を貼りつけて、俺の目に捕らわれたまま、軋むように首を振った。
「いや、です……」
 その声は、何日も喉を使っていない俺の声よりも、ひどく掠れていた。
「探していたんです……ずっと、何年も……」
 はそう言って、何かに操られるようなうつろな目をして立ち上がった。しかしその中には、気迫と必死さがこもっている。カバンを落としたのも気にならないようだった。
 財団に届けるはずの資料が、カバンから崩れて床に流れる。はそれを踏みしめてまで俺の元へ歩み寄ってきた。
 戸口を開ける俺の手を、重ねるように上から握りしめて身をかがめると、恐る恐る俺の胸へ額を寄せる。布越しに肌に触れられるこそばゆい感覚に、息を詰めた。はそれ以上動かない。俺も、動いてはいけないような気がした。
 いつの間に閉じたのだろうか。戸は手から離れて、密室を作り出していた。


 最後に人の肌に触れたのはいつだろう。こうして自分以外のぬくもりを感じたのは、遠い昔のことのように思える。もう、十年も前のことだ。
 と出会ったのは、俺にはとても一言では表すことの出来ない、人生の何もかもが詰まった奇跡の50日間の旅だった。安全のはずだった旅程で巻き込まれ死にかけたというのに、恐怖を耐えようとするの姿が、死んだ妹と重なってしまった。
 真っ青な顔で「大丈夫です」と旅の先を気遣うふりをする女を、妹のように一人で死なせるわけにはいかないと思った。
 そうして気にかけている内に、信頼しきったの笑顔と、時折見せる不安気で縋るような目に、俺は自分でも驚くほど簡単に恋に落ちてしまっていた。
 が俺に惚れているということは分かっていた。とんでもなく鈍い俺でさえ分かるほど、の赤面症はわかりやすかったのだ。どんなに隠そうとしても嘘の付けないたちのようで、目を合わせただけで幸せを滲ませる表情が、俺の心をとても安らかにさせた。

 旅の後、医療チームではなかったはずなのに、は真っ先に俺の搬送された病院へ駆けつけた。再会した時、は俺の怪我を全く顧みずに、自分の欲望のままに抱きついたようだった。俺の言葉など少しも聞いちゃいなかった。ただただ「死なないでくれ」と呟いて、激痛の走る俺の体にしがみついていたのだった。
 死ぬわけがない。死ねる怪我ではなかったというのもあるが、自分を待つ人間がいて目の前で泣いていたら、とても死のうなどとは思えなかった。
 無理やり派遣員に滑り込んだのか、は俺に付きっきりで看病をし、他の団員を呆れさせていた。その様子に別れが惜しく感じられたが、数日の治療を経てジョースターさん達と共に退院し、俺は故郷へ帰ることにした。
 何年もほったらかしにしていた妹へ、挨拶をしなければならないと思ったのだ。そうして数カ月は留守にしていた家の整理や、痛む体の療養で故郷の片田舎にとどまっていた。

 とは、あまり会うことが出来なかった。あまりにも離れすぎていたのだ。それでもいつでも会いたい人間の声を聞けるのは、俺には三年間を思えば夢のようなことだった。
 以前は当たり前にあった平穏が、その電話越しには確かに存在していた。
「体は痛みませんか?」
 は電話をする度に、俺の体を気にかけた。今日は何を食べたかも、よく尋ねた。俺が面倒臭がってパンだけを齧ったようなことを言うと、必ず、
「生きる気があるんですか!」
と妙な怒り方をするので、それが可笑しくて俺はわざと貧相な食生活を、舌の上で仕立てあげることさえあった。
 これからずっと、毎日こんなことを言い合えるのだろうか。それだけじゃない。一緒に休日を過ごせるなら、オリーブオイルの香りをさせたが、台所から振り返ったりするのだろうか。石鹸をこすりながら、俺が服につけた染みを、一生懸命に洗い落とそうとしてくれたりするのだろうか。
 そう思うと、実感しきれていなかった安らかな日常が、俺の胸にじんわりと染みこんでくる。
「ポルナレフさん……? どうしました?」
 の声と一緒に、耳から体へ心地良い何かが浸透していく。
「……
 出会って、一年も経った頃だった。
「良かったら……だけどよ」
「何ですか?」
 信頼しきった声が受話器から俺の耳をくすぐる。きょとんとした嘘の付けない顔が、向こう側に見えた。
「結婚しないか」
「……普通、電話で言いますか、そういうこと」
 俺は大層緊張したというのに、数秒の沈黙を破って聞こえたの声は、随分と憎たらしいものだった。でも、十分だった。俺にとっては少なくとも、それだけで完璧だった。
 分かっている。絶対に真っ赤だったのだ。の顔は見なくても想像できる。
 それでもやはりに言われた通り、電話で言うべきではなかったとも思った。その一生に一度しか見れない特別な赤面顔を、俺は見逃してしまったのだ。それだけは、後でとても悔やまれた。


 俺の手を、がぎゅっと握り締める。俺が振り払ってしまわないようにしているらしかった。
「……
 ようやく名前を呼ぶが、は決して動こうとはしない。腰をかがめたまま俺の胸にしがみついて、沈黙を保っている。
必死に探したのだろう。たった一本の電話の婚約を忘れずに。指輪すら渡せていなかったというのに。ずっと、ずっと探していたのだろう。たった二週間の思い出を信じて。
「帰ってくれ……」
 俺はもう一度絞り出した。その表現のままの声だった。けれどは俺の胸に押し付けた額を、何度も何度も振った。
 俺に触れているのは、の柔らかい肌だけだ。それなのに、まるで針で刺されているように体が痛む。
 もう十年だ。十年も経ってしまったのだ。の心に、俺などとっくにいなくなっているはずだった。ディアボロに切り捨てられてから、俺は誰の心からも消えているはずだった。
「私を、甘く見ないで下さい」
 は静かに言った。俺が矢の調査に出て行方不明になってから、もう十年になる。たとえ財団が探していたとしても、二三年で打ち切っただろう。ディアボロは、完璧だった。俺を違和感なく社会から切り離すのに、周囲に異変を感じさせなかった。俺は、自ら矢の調査を離れたことになっているに違いないのだ。
 それを、待ち続ける奴があるだろうか。信じられないことだ。十年なんて月日は、人を待つには長すぎる。
「私、ポルナレフさんが思うよりずっと、一途なんです」
 一途にも限度がある。自ら安息を捨てて、約束を反故にしたにも等しい男を想い続けるのは、一途などではない。それは、馬鹿なのだ。
「私を探してはいけなかったのだ……馬鹿者……」
 俺の言葉に顔を上げたは、くと堪えるように眉を下げて、一瞬泣きそうな顔をした。
「もう……馬鹿でいいんです」
一人で死ぬのだって怖くないんです、と彼女は言った。初めて会った時、あれだけ死ぬのを怖がって真っ青になりながら虚勢を張っていた顔に、今は嘘の影は少しもなかった。
は俺が矢のことで、危険な状況に陥っていることを理解しているようだった。覚悟をしているような口ぶりだったのだ。だからこそ、俺を探していたのかもしれなかった。
 熱い息を感じたような気がした。
「でもやっぱり、できるなら……一緒にいたいんです」
 に掴まれた俺の手が、どんどん熱を持ってくる。彼女の声に動かされそうになって、手に焦りが滲んでくる。
、頼む……」
 懇願するのは、俺の番だった。
「帰ってくれ……俺のことは忘れてくれ……」
 巻き込めない──あの時言った言葉は、いつまで俺とを引き離すのだろう。
 妹の仇を討った時、全ての仇のDIOを倒した時、全てが終わったと思っていた。全部、何もかも。俺の背負った宿命は、終わったと思っていた。
 忘れかけていた平穏と幸せだけが、待っているのだと疑わなかったのだ。故郷の土の匂いを思う存分体に染み込ませて、幸せを迎えにいけると思っていたのだ。の元で、あたたさを湛えて。

 母が死んだのは、まだ妹が赤子の時だった。稼ぎに出っぱなしで忙しい父親一人に、妹を押しのけて甘えるわけにも行かず、俺は小さい頃からすっかり兄が板についてしまった。
 どうしてかわからないが、責任をずっと背負っている。一人前の男が皆そうであるように、守るものを抱え続けていた。無邪気に甘えられるような安心なんて、得られないと思っていたのだ。それがどうだ。
「行けないんだよ……俺は行けないんだ」
 キスがしたかった。俺はと別れるあの夜、何もかも考えないで、一瞬のぬくもりに身を委ねたかった。愛おしさを隠さず、人に寄りかかりたいと思った。
 抱きしめられて大丈夫だと、母親のような優しさに包まれながら、一人の子供に返りたかったのだ。なら、そうしてくれるだろうと思った。
……」
 俺は言葉とは裏腹に、車椅子にかけていた片手での背中を抱き寄せていた。
 抱きしめてくれとは言わない。ただせめて、抱きしめさせて欲しかった。縋るような抱擁を、慈愛に満ちたものと勘違いしてくれてもいい。
 が“母親”でなくともいい。にとって俺は抱きしめる対象ではなく、抱きしめられる存在でもいい。の思い描く俺が、あの残酷でそれでも何年分もの光が詰まっていたような、泥だらけでも輝くような50日間の時の、頼りになるナイスガイの俺のままでもいい。縋りつかれれば鷹揚に抱き返せる、そんな男だと思われたままでもいいのだ。
 たとえが俺の頭を抱えて包み込んだとしても、俺にはもう膝枕をしてもらう暇もないし、子守唄の中でまどろむ時間もない。
 いつか夢見たあたたかなオリーブオイルと微かな石鹸の匂いは、いつの間にかあの50日間よりもっと遠くへ離れていってしまっている。
 今の俺は子供どころか、たった十年前にさえ戻れない。思うよりずっとすぐ側にあっただろう、の腕で包まれることすら。

 小さく鼻をすする音がした。がほろほろと泣いていた。また俺の胸に額を押し付けながら、静かに涙を流している。
 はふふっと、こもった声で息を吐いた。
「ポルナレフさんの匂い……」
 を抱いた手に、ぎゅっと力がこもる。
「泣いたら、嗅げなくなっちゃう……」
 キスがしたかった。何も考えずに、衝動に任せて。しかしそれよりも、このあたたかさを失うことの方が恐ろしかった。


 の涙は静かだったが、なかなか落ち着かなかった。ぽろぽろ流れてくるのを、懸命に抑えこもうとしている。そういえばあの夜もそうだったと、俺は抱えた腕の中のを見ながらぼんやりと思った。
 暫くして規則正しい息を吐くようになると、俺に隠すようにして、はびしゃびしゃの体液を恥ずかしそうに拭った。そうしてから車椅子に寄りかかっていたの体が、すっと持ち上げられる。
 見上げるような形で、それを追う。
「き……」
は僅かに戸惑ってから、俺の手をぎゅっと握った。
「キスしていいですか……?」
 恥を堪えた顔だった。はこれを言うのに、どれだけの勇気を使ったのだろう。白い肌がアルコールでも含んだのかというほど、見たこともないくらいに赤く染まっていた。
 俺は思わず頷きそうになった。胸を鷲掴みにされた感覚に、の方へ引っ張られそうになる。
 だめだ。頭で反芻する。甘い疼きを何とか呑み込んで、俺は苦々しく吐き出した。
「……駄目だ」
 途端に、赤みを残してから表情が消えた。
 車椅子の肘掛けに両手をついて、俺に覆いかぶさるようにしてが迫ってくる。
「お願いです」
 まずい──と思った。反射的な思考だった。とにかく俺は、を許してはいけないと思ったのだ。
 の胸を押して避けようとするが、その腕を捕らえられる。振り払っても押し返しても、はしがみついて離れない。力だけでは負けないが、半身が自由に動かなければ、腕に力を込めるのも難しかった。
、離せ……!」
 そうしてもみ合っている内に、が俺の腕を掴んだまま後ろへと体勢を崩してしまった。油断していた俺も、椅子から落ちてと一緒に床に転げてしまう。受身の体勢は取ることが出来なかった。
「ぐっ……」
 背中を強く打ち付けた痛みに声を漏らす。床に腕をついて起き上がろうとした。その肩を抑えこまれる。そこまでするのは一人しかいない。
 !──
 息をつく前に俺の声は吸い込まれてしまった。涙でしっとりと濡れた、の唇に。呼吸も声も、柔らかで甘美な唇に抑さえ込まれる。
 暴れたからかわからないが、の顔はやはり真っ赤だった。
 俺は抵抗していたのも忘れて、いつの間にかの両頬を手で包み込むように押さえて、噛み付くようにしてもみくちゃに絡ませていた。
 そちらから襲ったくせに、息が続かないのか逃げ腰になるが焦れったくて、ごろりと押し倒して口唇にかぶりつく。脚の力が無いために床に這いつくばるような体勢になっていたが、何もかも、触れ合ったほんの小さな熱の前では気づく余裕もなかった。

 無理な体勢の痛みで、はっと我に返る。劣情に、理性を失っていた。
 視線を落とす。床についた両腕の間に、当然だががいる。真っ赤な顔で息を切らして、普段からは想像もつかないような淫欲の滲んだ顔で溶けていた。
 こんな体で、良かったと思う。体を失って初めて、俺はそう思った。
 これ以上の責任は持てない。これ以上結ばれたとしても、残るのは己の身を守ることすらままならない、不自由な人生だ。そんな男が、の体に誓いを立てられるだろうか。

「すまない……起き上がれなくなった」
 不意に腕の力が抜けて、うつ伏せでのしかかってしまった。慌ててから体を浮かせようとすると、ぎゅっと抱き寄せられる。背中に、10本の指が縋りつく。
「すき……」
 震えるのを止められなかった。喉に力が入ったまま、ゆるゆるとの首筋に頭を垂れる。
 額にぬくもりが触れた。の滑らかで、あたたかな肌だ。とくとくと、脈を打つ振動が伝わってくる。
 俺もだ──
 息のような声が果たしてに届いたかはわからない。でも、この腕は俺が望んでいた抱擁だった。
 はそれきり口を開かない。また泣いているのだろうかと思った。しかし俺にはの胸から顔を上げることも、あの日のように涙を拭ってやることも出来ない。
 何せ俺は必死だった。が俺の体で潰れないよう、両腕で守るので精一杯だったのだ。たとえそれが、たった数センチの騎士だとしても。



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12/11/14 短編