雪のまほら



 丸一日かけて、商店を冷やかしてきた帰りだった。男が横を通り過ぎた。と思った矢先、二三歩後方でずるりと片足を滑らせ、体勢を崩して凍った地面に腰を打ち付けてしまっていた。一瞬の出来事だったので、支える間もなかった。
 転ぶ瞬間の雄叫びに振り返った時には、もう既に泥混じりの固い氷の上で、男は痛々しいうめき声を漏らしていた。凍えるような夜風が吹いていて、それから逃げるように歩く内に、足元を取られたのかもしれなかった。「あ~あ、やっちまった」と呟きながらポルナレフは男へ駆け寄った。
「あんた、大丈夫か?」
「あ、ああ…」
 痛みに体を強張らせている男の腕を、担いで立ち上がらせる。その間にも氷で何度も転びそうになりながらも、ポルナレフのコートを引っ張って掴むことで、男はようようの思いで立ち上がった。
「随分派手に転んだなぁ…腰は痛まないか?」
 黒いケーバ帽や、茶色いレザータッチの防寒コートに身を包んだ前傾姿勢の姿から、老齢かもしれないと気を使ったのだが、男はそれを煩わしそうに遮った。
 コートに付いた雪を払いながら、男が「ありがとよ」とポルナレフに目を向ける。すると男は目が合うなり、大声を上げた。
「なんだ、ポルナレフんところの」
 知人のような言い方に、ポルナレフは眉を上げた。暗がりの中に目を細め、屈んで男へ僅かに顔を寄せる。よく見ると見知った顔だった。父親が生前に、よく付き合っていた男だ。「JP」と、子供の頃に呼ばれたことのある懐かしい愛称をなぞって、男はファーの付いた帽子をかぶり直した。

 クリスマスイヴだった。都市ではひと月も前からどこもかしこも騒然として、クリスマスやその後に控えている新しい年への祝い事の準備で忙しそうにしている。
 ポルナレフの住む田舎町も、日暮れともなれば往来を忙しく行き交っていた人の姿は、皆一様に飾りをぶら下げた戸の中に隠れてしまい、闇が落ちたこの時分のあぜ道に残るのは、実家を飛び出した親不孝者か、家族に使いっ走りを頼まれた男くらいしかいなかった。
 その使いを頼まれた一人は、用事もすっかり忘れてポルナレフに向き直ってしまっている。男はろくすっぽ手伝いもせずにソファーでぬくぬくと寝そべっていたところを、蝋燭を切らしていたことに気づいた奥さんに尻を叩かれて、ドアの外へ無理やり押し出されたらしい。もう食事時だというのに、やたらとポルナレフと世間話をしたがるのは、その腹いせなのかもしれなかった。
「どっかに出かけるのかい?」
 記憶より少しばかり老けた男は、目尻の皺を寄せながら、人好きのする笑みを浮かべてポルナレフへ言った。帽子で隠れない頬と鼻は、この冬の寒さで真っ赤になっている。皮の手袋をした手でコートを掻き寄せる男の動作に、ポルナレフまで寒さを感じるようになって、思わず男の真似をした。
「俺は今年は一人だし、酒場に行こうかと思って」
「ああ、あそこのな! 俺も今通ってきたが、覗いたら結構混んでたぜ」
 今日はムサイ野郎ばっかだ、と男は顔をしかめてから「なんだ、いないのか、彼女」と改めてポルナレフをしげしげと見つめた。
「いい男なんだが、俺の娘はもういい年だからな~、惜しいなァ」
「歳は気にしないッスよ、俺」
 真顔で言ってから「なんて」とおどけると、「それじゃあ俺のカカアの面倒もみてくれ!」と男はポルナレフの背中を叩いて笑い声を上げた。
 こうして笑い合っていると、自分も町の一部に戻ったような気がしてくる。

 約一年前、ポルナレフが妹の仇を果たしエジプトから帰ってきた時には、三年ぶりの再会だったので、町の知人にはたいそう驚かれた。妹の葬儀を終わらせた後、喪も開けぬ内に、捨てるようにして家を飛び出したからだ。
「シェリーちゃんが亡くなっていきなり出ていったから、みんな心配してたぞ」
 会う人会う人、ポルナレフの銀髪を見てはそう言った。
「何にせよ、元気そうでよかった。最近戻ってきたって聞いてたが、仕事が上手く行かなかったか?」
「まあ……そんなんッス」
 何をしていたか聞かれた時には、大抵パリに行っていたと答えた。ここでは都会に行こうと思う若者が多く、ポルナレフの同級生だった知人もほとんどが、町を出ていってしまっていたからだ。お陰で町には年寄りばかりが増えてきて、姥捨て山から抜け出せるのは、今日のようなクリスマス位しかない。
 妹の仇ことは、人には話していなかった。言えるわけもなかった。この町にはスタンド使いはいない。たとえいたとしても、己のしたことが殺人だということもよくよく理解している。どんな理由があったとしても、人を殺してきたことには変わらなかった。いくらポルナレフが己の行為を正義と信じていようが、法はそうとは認めないだろう。
 多分、旅のことはこれからも胸にしまって生きていく。恋人ができようが、結婚して家庭を持とうが、きっと、死ぬまで誰に話すこともない。隠すわけではないが、今は誰かに話すという気分にはなれなかった。
 だから何となく、自分だけが変わってしまったような気がするのだろう。故郷は何一つとして変わっていないというのに、自分だけが、あの頃とはどこか違うような気がしてくる。
 20数年の間にポルナレフ家から一人ずつ人が消えていき、最後に残ったポルナレフまでもこの町を出た。故郷を去ってから、誰もがポルナレフという一家がいたことなど、次第に思い出すこともなくなっただろう。たった三年の月日でも、いつの間にか部外者になっていることだってあり得る。故郷の土を踏んだとき、喜びと感動の中に、少しだけそんな不安があった。
 だからこの男のように話しかけられた時、ポルナレフにはいつも安堵が込み上げてくる。

「ま、今日はイヴだ。考えこみすぎるなよ」
 何も話していないというのに、男は唐突に、元気づけるように言った。考えていたことが顔に出ていたのかもしれないと、ポルナレフは苦笑した。
 三年も経っていたために、町の人間もポルナレフ家に対する憐憫の情も薄らいでいるし、まさかポルナレフが未だに妹の死を引きずっているとは思ってはいない。しかし父親と親しかった男は、どこかでまだ、家族に残されたポルナレフの心情を思い、斟酌していたのだろう。
「こんなおめでたい日なんだ、気楽に行きますよ」
「そうだな!」
 男は笑いを浮かべながら、ポルナレフを見ていた。その目は何か言いたげなように思えたのだが、ポルナレフが「時間、大丈夫なんスか?」と言うと、慌てて道を振り返った。それで帰路につくのかと思えば、またポルナレフへ顔を向けて目を揺らす。迷っている顔だった。
「……来るか?」
 聞き返すように眉を持ち上げた。思ってもいなかった言葉だったので、俄に理解できなかった。
「親戚もいるが……話せば気のいいやつらばかりだから」
「い、いや~、そんな気を使わないでくれよ! 俺も酒場で飲む約束があるし」
 男はそれを聞くと少しだけほっとしたような顔をして、「なんだい、早く言ってくれよ」と鼻をすすったのに、ポルナレフは頭を掻く。
「俺よりも愛妻を喜ばしてやって下さいよ」
 言って、男のコートのポケットに入った蝋燭を指さすと、男はそれを目で追ってから「愛とかけて蝋燭だな」と呟いた。
「…その心は?」
「風前の灯火」
 ポルナレフは喉を鳴らして笑った。しんと静まり返った夜道に、静かな笑い声が伸びていく。男は苦笑いを浮かべながら肩をすくめ、最後にもう一度ポルナレフの肩を叩くと、やがて凍った道を急ぎ足で去って行った。また転ばなけりゃいいが、と暫く見届けた後で、ポルナレフも舗装のされていない堅いあぜ道を歩いた。

 360度を銀白に覆われた景色は、夏になれば麦畑になる。滴るような緑の中に、一面の黄金の穂が光を浴びて煌めき、そよぐ風にさらさらと体をなびかせるのだ。父親の車に乗って買い出しに行く時には必ず、妹と後部座席からその黄金の海をぼんやりと眺めていた。
 離れてみないと分からないものだ、とポルナレフは思った。光の波が穂を滑る光景が美しいものだとは、その時にはわからなかった。しかし当たり前だと思っていた景色は、故郷にしかない。家族との思い出の大半も、ここにしかない。小さな頃には、どこへ行くにも煩わしかったこのあぜ道も、今では特別なもののように思える。

 一緒にイヴを過ごさないか──
 そう言ってくれたのは、さっきの男だけではなかった。母親が生きていた頃から懇意にしてくれていた夫婦が、ポルナレフが一人なのを心配して、前日に声をかけてくれたのだが、それにも頷くことは出来なかった。
 折角のクリスマスイヴなのだ。そんな特別な家族の日を、三年も音信不通だった男が、両親と仲が良かったというだけで邪魔するのは気が引けた。
 何よりも、幸せそうな家族の輪の中に入れば、自分が部外者だと実感せざるを得ない。勿論惜しいとは思ったけれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。
 先ほど男へ言った約束なんてのも、勿論嘘だ。蝋燭一つであそこまでふて腐れるような男が、何年も前に死んだ友人の子供を連れていけば、男が良くても、縁者にいい顔はされないだろう。男にだって家族への考慮がある。迷惑をかけたくはなかった。
 それでも誘ってくれたことが、ポルナレフには嬉しかったのだ。そんな男の家族団欒に、水を差すようなことはしたくない。そして男だって、本当は断って欲しかったはずだ。だからポルナレフが首を振った時、僅かに安堵した表情を浮かべたのだろう。それは決して悪いことなんかじゃない。
 どうしてこの町の人間はいいやつばかりなんだろうか。思ったが、いくらいいやつだって、見知らぬ人間にわざわざ声をかけて親切にしたりはしない。だからこれは、父親が残してくれたものなのだろう。両親以外に縁者のいないポルナレフや、もし生きていたのなら妹が、困ったときに助けになってくれる人間がいるように、父が残してくれた縁なのだろう。

 空は澄み渡って星が瞬き、どこまでも世界が広がっているような、イヴにふさわしい夜だった。澄んだ空気を吸い込みながら、道の向こうの家に灯る明かりを、一軒一軒過ぎていく。今頃、あの家の中では家族が、音楽でも流しながら食卓を飾りつけて、楽しげに食事の準備をしているに違いない。
 風はいつの間にか止んでいたが、白い息が口から流れると、また凍えるような風が吹いたような気がしてくる。ポルナレフはコートの襟を立てて首を竦めながら、氷の上に降り積もった雪を踏みしめ、いつの間にか逃げるように早足で歩いていた。
 早く温まっちまおう──
 脳裏に田舎町の集会所と化している小さな酒場の灯りを思い浮かべながら、ポルナレフは息を吐きだしてかじかんだ手をすりあわせた。


 リースを置いた酒場のテーブルでは、イヴの割に酒を煽っている客が、古びて安定しない椅子を我が物にしている。家族に食卓の用意を任せ、食事時までの暇つぶしに来ている男たちのようだった。
 気を利かせているのか、いつもはバカの一つ覚えみたいに年中同じ曲を流している店内も、クリスマスソングで満ちている。
 ポルナレフはビールジョッキを煽りながら、カウンターから居間のテレビを眺めている店主を覗いた。60も過ぎただろう親父は、父が健在の頃からやる気のない顔でカウンターに座っていて、それは今でも変わりがない。無口で無愛想のくせに店が繁盛するのは、適当な目分量で頼みもしないつまみを、タダで客の前に置いていくからかもしれなかった。
 そんな気力のない親父が、時期に合わせた選曲なんてするはずもない。きっと、おかみさんが無理やりかけたのだろう。
 店内は騒々しいといえど、顔見知りは一人もいなかった。田舎でもひとつの町だ。それなりに人口もある。ポルナレフは一人でカウンターの隅に座り、ピーナッツを相手にビール、ワイン、ウィスキーと回って、周りから聞こえてくる話し声に耳を傾けながら、ゆっくりと酒を進ませた。

「ポルナレフ……さん?」
 不意に声をかけられて、テーブルを見つめていた顔を上げた。だらけた親父が陣取るカウンターの前に、酒瓶を抱えた女が立っていた。どこかで見覚えのあるような顔だ、とポルナレフは記憶を探った。
「お久しぶりです……!」
「あー……」
 女が屈託のない笑みを浮かべて近寄ってきてもまだ思い出せず、ポルナレフは「ちょっと待って」と頭に手を当て、アルコールでふやけた脳みそを動かした。その様子を見ていた女は「すみません」と口を開けると、
です……の、父の、です」
と慌てたように続けた。。それでようやく思い出した。ポルナレフは声を上げながら手を叩いた。
「あ~~! の親父さんの!」
「はい! 父がいつもお世話になってます」
 というのは日系移民の一家で、ポルナレフの両親がこの土地に越してからの古い付き合いだった。イヴの前日に、ポルナレフに一緒に過ごさないかと提案してくれたのも、その夫婦だった。

 の夫婦には、一人だけという娘がいた。確か、妹より少し年下だったような気がする。家は歩いて数分の近所だが、あまり顔を合わせたことはなく、両親のお使いでの家に訪れた時に、ちらりと挨拶をする程度だった。
 友人ではあるが、夫婦は両親よりも十も年上だった。は夫婦に遅く出来た子供のようで、目に入れても痛くないほど可愛がっていたと聞いている。結婚したばかりの頃に生まれた赤子が、腕に抱いて数時間で死んでしまったのが原因なのかもしれない。はその幼い姉の分まで、愛情を受けて育てられたようだ。
 ポルナレフも、夫婦には本当の子供のように世話になった。しかしポルナレフにとっては親というよりも祖父母の感覚に近く、育てられているでさえ、猫可愛がりされるあまりそう感じていそうだと思ったこともある。
 その家の広い裏庭には家庭菜園があり、数軒の家を挟んで小麦畑が見える。夏が来ると裏庭はの親父の楽園になり、休日などはそこで日がな野菜の手入れをしていた。ポルナレフや妹もたまにそこに呼び出され、生りすぎたトマトやら大根やらを持たせられ、「持っていけ」と振舞われたこともあった。
 その親父もおかみさんと一緒に今は定年を迎え、年金を受け取りながら毎日畑の計画でも立てていることだろう。

「どなたかと待ち合わせですか?」
「あー……」
はポルナレフの前に並ぶワインボトルとウィスキーグラスを見て、誰かもう一人が来るのだと思ったらしい。そういえばポルナレフは昔、の親父は酒好きだが持病のせいで医者に制限されているのだと、父親から聞いたことがある気がする。そのおかげでは、世の中にはボトルを一人一本空ける酒飲みもいるのだということを、知らずに育ったようだ。
「まあ……そんなんかな」
 半分空けたワインボトルを物珍しげに眺めている女の視線を辿りながら、最後にを見たのは、いつだっただろうか、とポルナレフは思った。隣に立つは、ポルナレフが思っていたのとは違って見える。
 こんな顔をしていただろうか、とに視線を戻して、思わずポルナレフはまじまじと見つめてしまった。

 両親達の仲が良くても、歳が離れているせいか近所づきあいの域を出なかった家とは、しょっちゅう互いを気にかける割には、一緒にどこかへ出かけるということは一度もなかった。あくまで地域の中での両親同士の付き合いであり、家族ぐるみの交流はない。だからポルナレフは、の親父に世話になった記憶はあっても、娘のと親しく言葉を交わした記憶はなかった。
 ただ家では、ポルナレフのことを「ジャン兄」と呼んで話題に上ることが多かったと、話には聞いていた。先程のの、ぎこちない「ポルナレフ、さん」という区切りは、その呼びづらさを表しているのかもしれなかった。
「お邪魔してすみません」
「いいよいいよ!まだ当分来ないからさ」
 謝るにポルナレフは手を振って、嘘をつき通した。ボトルを腕に抱いたは、少し恥ずかしそうに俯いている。
 それを見てまた、ポルナレフはふと思い出したことがあった。の親父が、のことでポルナレフをからかっていたことだ。はたまに家に顔を出すポルナレフを格好いいと言って、子供ながらに頬を染めていたのだという。
 それはの親父とおふくろさんが、やたらと家庭内で話題にしてはポルナレフを誉めそやすせいだったのだと思うが、そんな両親の偏った情報を鵜呑みにしたの、子供特有の年上に対する憧れだったのだろう。
 そのために、の親父にはよく「将来の嫁に」などとからかわれることもあったが、挨拶をする程度で話したこともない女の子に、ポルナレフの興味が向くことはなかった。
「……君はどうしてここに?」
 どうやら今でも好印象を抱いてくれているらしいに、何となくこそばゆくなって、ポルナレフもはにかんでしまった。
「父のお使いです。お酒、切らしてたみたいで」
 は言った。どうしても飲みたいと言った父親の我儘に、仕方なく買いに出たらしい。外の風で赤らんだ顔は、店で暖まっていたポルナレフにも寒そうに見えた。
「それじゃあ親父さんが飲み過ぎないように、今日はしっかり見張ってなきゃな」
 言えば、は元気に「はい!」と返事をして、時計を見てから父親の用事だったことを思い出したようで、邪魔したことを告げた。そうしてから「よい休日を!」と明るく笑って、慌ただしく店を出ていった。
 記憶より大きくなったの姿が、戸から窓へと映るのを目で追う。父親のために、急いでいるのだろう。母親の温かい料理と一緒に、グラスを傾けられるように。
「……いい休日を」
 小さくなる背中に向かって、ポルナレフは静かにグラスを掲げ、中の蜂蜜色のウィスキーを煽った。


 クリスマスソングが何周かする頃には、くだらない話に花を咲かせていた男たちも席を立ち始め、店内にはぽつぽつと数人が残るばかりになっていた。話す人間がいなければ、ピーナッツばかりがポルナレフの酒の相手になり、とうに器から一粒残らず消えてしまっている。
 真冬の最中、ポルナレフがグラスを傾けながら思い出していたのは、数ヶ月前の旅のことだった。
 クリスマスの日、母親のブッシュ・ド・ノエルを食べたことでも、妹と父親がくれたプレゼントを取り合ったことでもなく、酔いの回った頭で浮かべたのは、暑い砂漠の道中だった。誰も彼もが家に帰る中で、今の自分の居場所と呼べるのは、それだけのような気がしたのだ。
 エジプトの旅は、故郷へ思いを馳せていたポルナレフに、確かに希望と自由をもたらしたと思えた。全てを終えた時、見上げた空には浩然と広がる自由が見えていたはずだったのだ。でも、故郷に戻り、墓参りをし、暫く経ってから気づいてしまった。
 失ってしまったものは戻らない。取り戻せるのは、己が常に口にしていた尊厳だけだった。三年前まで当然に存在していた温かみは、もう戻っては来ない。目的を達成できた喜びの中で、ついそのことを忘れてしまっていた。
 どんなにそれを理解しても、ポルナレフはこの日だけは、どうしてもセンチメンタルになる。故郷には、思い出が多すぎた。だからこそ、無いものばかりが見えてきてしまうのだ。
 この酒屋を出て、Y字路の角を左に曲がった先に、かつて父や母、妹と暮らしていた家がある。三年越しに帰って来たばかりの家だ。しかしポルナレフはそこへは帰らず、酒場の濡れたドアを開けた。
 家の窓には灯りもなく、暖炉に火もついていない。今朝棚に置いたリースは妹のためで、その妹は決して父親にプレゼントをせがんだりはしないし、ポルナレフと取り合うこともない。グラスに注いだシャンパンを飲みながら、切り分けたラパンのグリルを口にしても、食卓に座るのはポルナレフ一人だけだからだ。いくらクリスマスソングを流したって、この寂しさだけは消えはしない。
 三年間を思えば今がとても幸せであるはずなのに、孤独感から言えば、ポルナレフはエジプトの旅には一度だってそんな感情を抱いたことはなかった。
「懐かしいぜ……」
 たった一年前のことが、何十年も経ったみたいに懐かしいと思った。絶望と焦燥感に追われる三年間で、最も楽しかったと思えた。しかし彼らにだって、戻るべき場所はある。待っている家族がいる。故郷に帰ってきた一度だけでも、クリスマスだけでもなく、もしかしたら毎日だって「お帰り」と言ってくれる人がいる。
 ウィスキーグラスを揺らしながら、ポルナレフはテーブルに映る自分の顔を見て、「情けねぇ面…」と目を細めた。

 板の上を椅子を引きずる音が鳴って、ポルナレフははっと顔を上げた。ついうとうととしていたようだった。
「そろそろ帰らねぇと、流石にかかあに怒られちまうな」
 顎髭を蓄えた男が赤ら顔で笑い、覚束ない足取りで店主の座るカウンターまで歩いて、チップを置いた。男がベルを鳴らして重い木製の店の戸を出ていくと、店内に残るのはポルナレフだけになっていた。
 結局、最後まで一人で飲んじまったな──と思いながら、残りのボトルを開けていると、カウンターから店の親父がポルナレフへと顔を覗かせた。
「お前さんももう、家に帰ったらどうだ?」
 いい時間だろ?と言うのでポルナレフが時計を見ると、なるほどどんなに豪勢な食事を用意しても、終わるには丁度いい時間だった。そのまま用意をすればミサにだって行けるだろう。
「もう少しいさせてくれ」
 5分、とポルナレフは言った。外に出ればどんなに酔っていても、寒さで覚めてしまうだろう。出来るだけアルコールを溜めておきたかった。

 一人だ、と思った。どんなに助けてくれる人間がいようと、やはり自分は一人なのだと、ポルナレフは思った。クリスマスは、その現実をつきつけられる。
 こんな日に誘ったとしても、家族を放って友人と過ごそうなどど思う人間なんて、少なくともこの町にはいない。だからこうして、閉店を無理やり引き伸ばさせてまで、ポルナレフは一人でピーナッツを相手に酒を飲んでいる。
「俺の家で飲んでくか?」
 カウンターにしがみつくようにして酒を煽っていたポルナレフに何を思ったのか、親父がそう言って、カウンター側にある戸口を指差した。店主の家に続くドアだった。この親父にだって、客のために気を利かせてクリスマスソングを用意するような伴侶がいる。
 ポルナレフはぐいっと杯を飲み干して頭垂れた。来る途中についたのだろう。ズボンの裾を汚してしまっていた泥の染みに気づいて、足でこする。
「メルシー、おっさん……帰るよ」
 それから笑って、ポルナレフが潔く勘定を差し出すと、店主がポルナレフの手ヘ向けていた視線を上げて「ありゃ」と間抜けた声を出した。追って振り向けば、窓の外の暗がりを、息を切らして女が駆けてくる。
 雪を踏む足音が近くなり、すぐにドアのベルが鳴った。
「良かった……!」
 そんな声とともに店に飛び込んできたのは、一刻ほど前に帰ったばかりのだった。
「どうした? 忘れ物かい?」
 親父が言うと、は首を振って、真っ直ぐ俺の元へ歩み寄ってきた。
「ポルナレフ、さん」
 思わぬ指名に驚いて、ポルナレフは思わず姿勢を正した。余程急いでいたのか、次の言葉を待っても出てこず、息を整えるのに数秒を要していた。
「あの、父が良かったら一緒に呑まないかって……」
「俺と……?」
「ジャン兄を酒場で見かけたって言ったら、呼んでこいって……あっ、でももう酔ってるようなら、無理にとは……!」
 は慌てたように、身振り手振りで必死に用件を伝えようとしている。これも、ポルナレフの嘘に気づいたの親父に、無理やり使いに出されたのだろうとポルナレフは思った。は騙せても、の親父は欺けなかったようだ。
「ウチは、母も私もお酒が強くないから……その」
「でも俺はプレゼントどころか花も持ってないんだぜ?」
「そんなの……! 私だって何も用意してなかったんですから」
 店の親父が、ポルナレフとが言い合っている様子を、無表情で見つめている。かと思えば、「の親父さんなら、こいつも好きだったはずだな」と言いながら、ポルナレフへ白ワインのボトルを差し出した。
「土産に持ってけば喜ぶぜ」
 ポルナレフは店主とボトルを交互に凝視した。親父は珍しく、口元に薄っすらと笑みを浮べている。笑うとどこかの映画俳優に、面影が似ているような気がした。
「……なんだか悪ィなぁ、ちゃん」
 紙幣を上乗せしてボトルを掴んでから、ポルナレフがへ向かって目尻を下げて笑うと、はぱっと顔を華やかせた。そして駆けるようにしてドアへ歩いて行く。
「とにかく来てください!」
 は体を抱きしめながら足踏みをして、早く早く、と戸口からポルナレフを呼んだ。
 ポルナレフは店の親父を振り返った。店主はまた元の無表情に戻って、カウンターに肘をついて座ると、もたついているポルナレフを追い返すようにシッシッと手を振っている。
「また来るよ、おやっさん」
 言って、ポルナレフは長い時間座っていた椅子を丁寧にカウンターに戻した。床を擦る高音の余韻に、自分のブーツの音を乗せる。
 ポルナレフが来るのを見計らってが開けたドアから、夜風が首筋をさらった。首を竦めながら、来る時はその風から逃げるように駆け込んだ酒場から、今度は自ら出ていこうとしていることに、不思議な感覚がした。

 の隣に立つと、星月夜に浮かぶ故郷の雪景色が、扉の向こうに広がっている。
 こんなんだったか?──と、店の入口に立って、ポルナレフは息を吐いた。
 闇に浮かぶ白い家々と、雪の葉をつけたような街路樹。それらが月明かりで微かに照らされ、砂糖の粒のように輝く光景は息を呑む美しさだ。夏の小麦畑も、エジプトの砂漠も、きっと負けはしない。
「行きましょう!」
 言葉を失っていたポルナレフに、明るいの声が掛かる。
 無垢な笑顔を向けるは、ポルナレフが家に来ることをどう思っているのだろうかと、僅かに気になった。大して知りもしない男を家に入れて、邪魔だとは思わないだろうか。
 しかしそう思いながら見つめていても、視線に気づいたは恥じらい気味に顔を背けるだけで、相変わらず朗らかな笑顔を浮かべている。
 こんな時に、“お嫁にどうだい?”というの親父の声が思い出された。不安を払拭するには見当違いな思考に、ポルナレフは思わず苦笑した。それは子供に言った言葉だ。今思い出すことではない。
「行こうか」
 振り切るようにポルナレフが呟くと、は白い息を吐きながら、大きく頷いた。きっと部屋を温めて二人分のグラスを用意しながら、の親父が今か今かと待っている。
 本当にお人好しばかりだと思った。その縁を作った父親に感謝すればいいのか、それとも父が死んでも気にかけてくれる一家に感謝すればいいのか、ポルナレフには分からなかった。
 しかし、その人好の血をしっかり継いでしまっているには、一番にお礼を言わなければならない。たとえ父親の使いだとしても、ろくすっぽ話したことのない男のために、凍える夜道を息せき切って走ってきてくれたのだ。
 いたわる気持ちを込めて、健気なの赤鼻をつまんでやりたくなるのを抑え、ポルナレフは雪道へ踏み出した。

 見送るように、店の扉がゆっくりと閉じていく。
「良い休日を」
 ベルと一緒に聞こえた店の親父の声は相変わらず無愛想だが、一瞬寒さを忘れるような気がした。窓の向こうでいまだ流れるクリスマスソングが、照明と共にしんとした通りに微かな明るさを灯している。
 背を向けたまま、ポルナレフは閉じていく戸へ軽く手を上げた。



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13/01/09 短編