02


 また、停電でもしたのだろうか。こんな時に病院で停電なんて、冗談にもならない。或いは、外科に電力を回すために節電でもしているのかもしれない。
 月明かりに照らされた廊下は、野戦病院のようだった。患者や見舞客でところ狭しと溢れかえっている。
 雲ひとつない夜空に浮かぶ月が、あまりにも昨夜のものと変わらないので、俺は目を覚ました時、てっきり朝にもなっていないのだと思った。しかし、とうに戦いは終わり、一日が過ぎていた。数時間前まで付きっきりでいた財団の一人が、承太郎から聞いたという事の顛末を俺に伝えた。DIOは灼熱の光のなかで砂漠の砂となり、悪の根源は一瞬で消え去った。
 しかしDIO達との戦いで、百人近い人間が死んだはずだ。三人が、仲間だった。花京院とイギーの遺体は財団が回収したが、アヴドゥルのものは未だ見つかっていない。
 松葉杖を付きながら、人の隙間をそろそろと歩く。体中が軋んで、針金で出来ているようだった。無いはずの足の指先までもが痛む。だが、痛い、と思う。俺は生きている。どうしてか、助けられてまで。

 は廊下の端っこで、蹲って泣いていた。陶磁器のような真っ白な肌のせいで、すぐにだと分かった。
 松葉杖の重い音が背後で止まったのを、気づいているはずだった。
 埃っぽい廊下の隅は好まれないのか、の隣が空いていたので、壁に松葉杖を立てかけて、俺も寄りかかる。僅かに漏らしてしまった呻き声に、女が体を掻き抱いた腕の中から、そろりと俺を上目に窺った。
 が何度か鼻をすすった。ぐすぐすと音を立てて、汚いやつだ。生憎、人に差し出せるハンカチは持ち合わせていない。
「泣かれるのにゃ、弱いんだ」
 ひっそりと零すと、少しばかり啜り泣く音が止んだ気がした。
 どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえて、俺は熱っぽい体を持て余しながら、その声に耳を澄ませた。
「……あたしを追いかけてきてくれたのは、あんただけだったんだ」
 涙声が重なった。鼻の詰まった舌っ足らずな口調で、がぽつりと呟く。
「迷惑なのは承知だよ。でも、居ても立ってもいられなかった」
 惚れちまったんだ──と、アブダビで言われた言葉を思い出す。路地をふらついている時の、頼りなげな背中も、不安げな表情も。南イタリアでカモにされた時だって、あれは、女の本当の顔だったのかもしれない。しかしそれを確かめる方法なんて、俺は持ち合わせていなかった。
 窓の下でもぞもぞと身動きをする大勢を眺め、時間を置いてから返事をした。
「……お前みたいな変わった女は初めてで、すぐ信用しろってのも無理な話だ」
 女を突き放す物言いをしながら、俺は言うほど疑心暗鬼にはなっていないことを知っていた。心は静かだったのだ。
 それは平穏からくる静けさというよりも、全てが終わってしまった後の、虚無感から来ているような気がした。
「なあ、俺は今何を考えていると思う」
 わかりゃしないと、は鼻声で呟いた。

 俺にもわからない。不安なのだ。
 死ぬ覚悟を決めた。昨日のことじゃない。妹が死んだ時、俺は遂に天涯孤独の身になった。葬式を挙げ、仇を探して旅をする内に、それを身に沁みて感じるようになった。このままずっと旅を続ければ、やがて俺を知る者はいなくなる。
 故郷に待つ家族はいない。頼る者もいない。俺という存在は、俺がいなくなった時、一瞬で消え去ってしまうものだと知った。ならば、いつ死んでもいいのだ。いつ死のうが変わらないのなら、目的を果たすために死ぬ覚悟ができる。
 それなのに、死ぬ間際を定める度に生き延ばされ、今もこうして生傷を抱えて、たった一人の女を慰める言葉にすら困窮している。
 俺はこの先を思い浮かべてみた。一週間以内には、母国に帰ることになるだろう。そうしたら、すぐに妹の墓参りをして、何年も放置していた家の整理もするだろう。留守中の家を見てもらっていた近所に挨拶をして、それから生きるために仕事を探し、どんなつまらない仕事でも帰ったら風呂に入って、それからグラスに一杯の酒を呑むかもしれない。これからは毎日そんな暮らしをすることになる。
 でも、この虚しさはなんだろうか。一体俺の体のどこから湧き出てくるのだろうか。

 もう、同じ目的で進んでくれる仲間はいなかった。高尚な大義などどこにもない。生きるための目的とは、どんなものだったのだろうか。三年前まで、どうやって生きてきたかすら、とうに思い出せないのだ。
 アヴドゥルやイギーに、詫びるべきだろうかと思った。
 しかしそれは逆に、あいつらを愚弄してしまうような気がした。感謝こそすれど、アヴドゥルもイギーも、謝罪されるために命を投げ出したわけじゃない。もし謝るのなら、目的を果たしたことを喜びきれず、与えられた命を持て余していることに対してだ。

──かすり傷ってわけじゃあなさそうだな
 少し掠れた、低い男の声が蘇った。
 承太郎は俺が目を覚まして状況を飲み込めた頃になって、病室へ姿を表した。包帯でぐるぐる巻きにされた男の姿は初めて見たので、少しばかり驚いたが、心に重たい疲れがのしかかって、どうにもそれに対して軽口を叩こうという気分にはなれなかった。
 二本足で立っているが、あいつも相当の重症なのだろう。人の間を縫って歩み寄った後、ベッド脇に腰掛ける時に、承太郎が小さく息を漏らすのが聞こえた。
 何か話すべきかと思うも、唇が鉛のようになって動かない。承太郎も重い体でシーツに皺を作るばかりで、黙ったまま、暗い病室のうごめく影という影を眺めている。
 承太郎の考えていることは、十中八九俺と同じに違いなかった。口を開けば出さなければならない話題のことが頭を占めている。出来ることなら避けて目を背けたい話題だった。しかしいずれは、どちらかが先に切り出さなければならない。俺にはまだ、その気力はなかった。
 はじめに口火を切ったのは、やはり承太郎だった。
「話は聞いたか?」
 ああ、と俺は声を漏らした。返事というよりも、それには苦渋が微かに紛れてしまって、それ以上はどうにも続けられなかった。承太郎も、俺の声に「そうか」と呟いたきりだった。
 最も重要なことで、俺たちの報告することは、互いにひとつだった。
「アヴドゥルと……イギーが……」
 声を詰まらせた俺へ、承太郎が重々しく頷く気配がした。顔は帽子のつばで陰って見ることは出来ない。しかし微かに月明かりを反射した目が、じっと暗がりのどこか一点を見つめている。
「花京院が死んだ」
 俺と正反対に、承太郎は淀みなくその言葉をなぞった。感情という感情を押し殺した声で。

 そういえばは、花京院を気に入っていたなと、ぼんやりと思い出した。あの船の上で女の相手を押し付けながら、ジョースターさんと一緒になって、花京院をからかって遊んでいたのはついこの間のことだ。
 いつも理詰めの頭の硬いことばかり言って、変にプライドの高い子供じみたところが面倒なやつで、しかしそこが無性に気に入っていた。承太郎に負けない仏頂面をしながら、よく笑うやつだとも思っていた。
 俺とは違ってまったく内面を吐き出さないから、たまにそれでよく耐えられるもんだと感心もしたが、今思えば俺は、あいつの話をちゃんと聞いていなかっただけなのかもしれない。そんなことが、今になって悔やまれる。いつもそうだ。全部。全部が終わってしまってから、気付かされる。
 待つ者もいない俺が生き残って、心配した家族が待っている花京院が死んだ。事実だけが意味もなく、何度も何度も頭に浮かんでくる。
 それでも俺は生きなければならない。それが現実だ。しかしその現実は、どうしてか決して俺に涙を流させてくれはしなかった。寧ろ、大穴の中で空を見上げているような心地にさせる。ひどく虚ろにさせていく。

 蹲ったままのが唐突に、俺に向かって腕を差し出してきた。角が破れて丸まった、一枚の紙きれだ。
「あんたが死にかけてたなんて知らなかったんだ」
 は腕ばかりを突っ張って、少しもこちらを見ようとはしないので、仕方なしにそれを受け取る。
「やっぱり、あんたに必要だろ」
「捨てたんじゃあ、なかったのか……?」
 それは以前、俺が財布に入れて持ち歩いていた、一枚きりの家族写真だった。が捨てたと言っていたはずの写真だ。
 俺が驚いてへ丸めた目を向けると、女は一瞬だけ俺を見て、バツが悪そうにすぐに目を逸らした。
「家族写真なんて、撮ったことがなかったから……それに、憧れちまったんだ」
 ぎこちなく立ち上がると、は俺の腕へおずおずと身を寄せて、
「……この人、綺麗だろ?」
と俺の母親を指さした。
「こんな人が母親だったら、なんか違ったんじゃないかって」
 悪かったよ、と矢継ぎ早に照れ臭そうな声が続いて、俺は少しだけ、へ笑いを零しそうになった。胸のあたりに、忘れかけていた懐かしい感覚が、じわりと染みてきた心地がした。
「……そうだろうな。そうしたら、お前は今頃たいそうなレディーに育ってるはずだぜ」
 他人の写真なんざ持っていても意味が無いだろうに、女にとっちゃ何一つ価値の無いものを、シワひとつ作ることなく大事にとっとくなんてよ。
 遠くで泣いていた赤ん坊は、いつの間にか泣き止んでいた。途切れ途切れに、低い穏やかな歌声が耳に柔らかく響く。異国の子守唄だろう。とても優しげな響きをしていた。

 気づけばぽろりとこぼれていた。
「迷惑なんかじゃあねぇよ」
 が俺の声を聞いて、何拍かした後に、ハッとした顔で振り返った。真意を確かめるように、不安そうな眼差しが、薄暗がりに浮かんでいる。
 俺は眉を寄せて、続ける言葉を探した。
「ただ……」
 ただ、なんなのだろうか。何か言わなければならないということは分かっていても、その先が続かない。もやもやと得体の知れない塊が胸につっかえて、感情を上手く整理できずにいる。
 言い淀んでいる俺に、「お願い」と、が慌てて口を挟んだ。焦った声色だった。
「あ、あたしも連れてって、あんたにも、あんたの家族にだって迷惑はかけない。あんたの体が治るまで世話だってするよ。前に盗んだあんたの金を返すまででもいい。なんならあたしの稼いだ金、全部あんたにあげたっていい。だから……」
 だから連れてってくれと、は頼んだ。俺にやんわりと突き放されるのだと、思ったのだろうか。
 腹に一物隠しているとは、もう思わなかった。何も手に持たない今だから感じるのかもしれない。の必死の形相は本物だった。
 家族か──と俺は思った。
 そうだ、こいつには妹は死んだと言っていたが、母親も、父親も、同様に死んでしまったのだとは、話してはいなかった。
「お前、パスポートは偽造じゃあねーだろうな」
「そんなわけあるかい。あたしにそんな頭も伝手もないよ……ホントに一人っきりなんだ」
「そうか……」
 は、は今までどうやって生きてきたのだろう。どんな風に、何を思って、この世界を渡り歩いて来たのだろう。たった一人で、一体何を目的にして。
 まるで立場が逆だった。俺こそに聞きたかった。不安じゃないのかと問いただしたかった。
 愕然とした。女に感じていた消化できない気持ちが、明るみになったからだ。女は、俺だった。いつ死のうが誰にも知られることのない、未来にあるもので孤独だけを明確に知っている人間だった。
 それでも抗おうとしている。絶望もせず、諦めることもせず、やり方は違っていたとしても、正しく生きてみたいと願っている。
 俺はさっき探していた言葉が、に対するものじゃないとはっきりとわかった。
 女が迷惑なんじゃない。これから先すべきことの何もかもが、不安だっただけなのだ。

 が、もう置いて行かれたような色を宿して、遠慮がちに俺を窺っている。
 居ても立ってもいられなくて、はるばるカイロまで追いかけて来てしまうような女なのだ。断って失意に沈んだとしても、やはり居ても立ってもいられずに、俺を探して最後にはフランスまで追いかけてくるに違いなかった。
 どんなに同情の余地があって、どんなに懇願されたとしても、承太郎なら無下もなくあしらっただろう。他のやつらだってそうだ。もしアヴドゥルがこいつに会っていたら、気難しい顔して追い払っていたかもしれない。
 でも、出来なかった。俺には到底、この視線に背を向けることは出来なかった。の目は、それが俺自身の目であるかのように俺の胸を締め付けた。目の前で俺に縋りついているのは、俺がなっていたかもしれない未来であるかのような気がしたのだ。
 もしも、もしもあいつらが生きていたのなら、こいつを追い払えない俺を笑い飛ばしてくれただろうか。
 急に痛みが突き上げてくる。体からじゃなかった。体の奥の、手の届かないずっと奥底から、ピリピリとした痛みが込み上げて、胃から胸を取り巻いていく。俺は咄嗟にぎゅっと目を瞑って、軽く唇を噛んだ。

 嘘だ。と瞼越しに、か細い声が呟いた。
「冗談だよ……本気じゃないんだ、ぜんぶ」
 ゆっくり目を開ける。薄ら笑いを浮かべたが、つばを飲み込む音が聞こえた。暗がりで見ても、女の唇は震えていた。ぎこちない音が、半開きの口から溢れてくる。
「あんたの人生をめちゃくちゃにしちまうかもしれない」
 不意に、の目尻からほろっと、透明なしずくが流れ落ちた。それと同時に、思わず俺は笑ってしまった。引きつった笑い顔だったかもしれない、しかし、必死な女の泣き顔を見て、まさか笑う日が来るだなんて思いもしなかった。
 言われなくてももうめちゃくちゃだ。だけのせいじゃない。言われて気づけば、もう人生はめちゃくちゃなのだ。でも不思議と心地いい、と思えた。それは全てが終わった今、一人ではなかったからだ。たった今、それに気付かされたのだ。
 の言葉が冗談じゃないってこともわかっている。俺を気遣って、女には珍しい理性でもって、いつも通りの嘘にしようとしたのだと知っている。
 不安げな眼差しが目の前にある。それが己を立たせているような気がする。
 どうやら知らないうちに、俺には守らないと生きれない性根が染み付いていたらしい。

 に振り回されて慌てふためく俺に、花京院の愉快げな笑い声が聞こえた気がして、耳を澄ませるも、それが幻聴だということはよく理解していた。俺はいよいよ旅の終わりを受け入れなければならなかったのだ。
 は先程から、「忘れてくれ」と、眦をこすりながら、子供のように泣きじゃくっている。
「わかった……わかったよ」
 ぐずるの頭を下へぐりぐりと押すように撫でながらあやすふりをして、俺は胸に込みあげてくるものをなんとか押し留めた。
「帰ろう」
 声が震えた。それ以上の言葉は出て来なかった。誰もが帰れるわけではないことを、俺は教えられたからだ。二人と一匹と、また、目の前で肩を小さくしている女によって。
 カイロの乾いた空気が喉をカラカラにさせる。気づけば涙が頬を伝っていた。どうして今になって流れてきたのかがわからなかった。安堵から来たのか、自分でも理解できていない喪失感から来たのか……俺にはまだ、戦いが終わったのだという実感が沸かなかったのだ。復讐心に突き動かされていた3年間は、少しばかり、長すぎた。
 しかし情けなく震えた俺の声でも、は頼もしく思ってくれたらしい。もうただひたすらに俺の胸へ顔を押し付けて、泣き止む様子がない。
 服が鼻水で汚れちまうだろうが、今ばかりは好都合だった。
 同じような街並みが、振り向いた窓の向こうのどこにもかしこにも見える。俺にはアヴドゥル達がどっちの方角へ向かっていったのか、もう分からない。
 頼む、俺を馬鹿だと笑ってくれ、頼む──
 待てども待てども、耳を澄ませども、明朗で穏やかな笑い声は返ってこない。月明かりの差す廊下には、うごめく人々と、啜り泣く声、ツンと鼻を突く薬品の匂いと、混じる生活臭に、汗の臭いが満ちている。
 目を覚ますにはとても楽園とは呼べないが、ここでよかったと思った。どんなに汚かろうが、息苦しかろうが、人のぬくもりを愛しいと思う。月光に濡れる街路を美しいと思う。
 俺はまだ生きている。またこの汚れた世界を歩いてゆくのだ。
 屈むようにして華奢な女の肩を抱き寄せるとあとは、俺が泣いているのをが気づかないふりをしてくれればいいと願うだけだった。



|終
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14/04/26 短編