というやつは、俺とたった数ヶ月しか歳が違わないくせにやたらと姉貴面をしたがるような、生意気で変にプライドの高い面倒な性格をしているが、実のところはとんでもなく抜けている。
 というのも、チラシを見ては箱を作って残飯入れにし、98円の物を買えば103円を出して、きっかり5円玉のつり銭を貰って財布へしまうくせに、チラシの内容を見忘れて安売りを逃したり、買い物をレジへ置き忘れて店員に追いかけられたりと、そんなことを頻繁にやってのけるのだ。
 小学校の遠足の前日には、俺の家まで押しかけてあれを用意したか、私はこれも用意したと騒いで、俺を押しのけておふくろと一緒に俺の荷物のほとんどを準備して帰っていったくせに、翌日になるとおやつだったりレインコートだったり、散々俺に言っていたものを自分が忘れて来たのだから、呆れ返って言葉も出なかった。
 はいつもそうだ。肝心なところでよくど忘れをする。普段は几帳面でお節介焼きなくせに、忘れてはならないものに限って、置いてけぼりにしてきてしまうのだ。その尻拭いをしなければならないのが大概、の家族なので、おふくろ伝いにいつも慌ただしい家庭内の様子を聞くと、頭のさがる思いがする。
 そしてそういうやつが、よりにもよって、俺の幼馴染だった。


ブルースよ歌ってくれ


 もうすぐ12月という頃だ。午後も4時間も過ぎれば家の周りにすとんと闇が落ちて、どこにいても眠気が襲ってくる。学校帰りの生徒も俺と同じなのか、夏よりも重たい足を引きずって、俯きながらとぼとぼ歩いているのを見ると、冬というのは陰気な季節なのだと刷り込まれるようだ。
 それでも時計というものがある限り、日が沈もうが活動しなければならないのが、ペリー来航以来の現代日本の抗えない決まりなので、俺も毎日仕方なく高校生らしい仕事をしている。言っておくが、仕方なくだ。
「あーーーーッ!!」
「へっへー、10連勝!」
 コントローラーを持ったまま立ち上がって大声を上げたが、画面と俺を交互に見て「ずるいよ!」と叫んだ。ずるいも何も、弱いのが悪い。
「それじゃあこいつも頂くぜ~」
 の目の前に置かれた個包装のお菓子を、賭けた分だけ俺の元へ寄せて、今までぶんどったのと合わせてこれ見よがしに重ねると、が悔しそうに呻いた。こいつの前にはもう、飴が数個しか残っていない。
 このお菓子は、がスーパーの買い物袋二袋にどっさりと詰め込んできたものだった。それなのに今じゃ一口で無くなる飴を残して、全部俺の手元に積み重なっているのだから、があまりにも哀れでならない。
「うくく……!」
 哀れだと思いながらニヤケ顔でへ視線を送ると、鋭い目つきで俺を睨んできたので、一層愉快な気持ちが高まった。
「いやぁ感謝して欲しいぜ、女ってのはダイエットが好きらしいからなぁー!」
 笑いの込もった声で言えば、はぶるぶると震えながら残る飴をゲーム機の前に押し出して、「リプレイ!」と画面に向かった。超能力が無くたって分かる。いよいよ次でのチップはなくなるだろう。
「懲りねぇなー」
 そう言って、初めから同じように山積みのお菓子を俺が押し出す。そうすれば幼馴染がどんな顔をするかは、とっくに承知していた。案の定、
「全部くれるなんて、仗助ったら太っ腹~!」
と強がっているの目は悔しさが滲んでいる。変に対抗心が強いために、勝負事はいつも本気になってしまう性格が、昔っからからかい甲斐があって面白かった。ただ力の差がありすぎて、そこに張り合いはないのだが。
 俺もコントローラーを握って、胡座をかいた足の上に構え、もう一度を窺った。それにしても、のこんな顔を見るのは、今日で何度目になるのだろう。

 が久々に俺の家へやって来たのは、周りがもっぱらプレステやら64やらドリキャスやら、新しいハード機器に飛びつく中、我が家の据え置きゲームが、化石とも呼ばれているファミコンからようやくスーファミに進化して暫く経ってからのことだった。それも、今から山ごもりをするのかと問いたくなるほどの、大荷物を抱えてだ。
「よっ!」
と言って上げられた、袋という袋をぶら下げてきたようなの腕を見て即座に思ったのは、が家出をして俺の家へ逃げこんできたという心配だった。
 玄関のドアを開けてそんなの姿が見えた途端に、俺は無言で開けたばかりの戸を閉めそうになった。ステージクリアのタイムを上げるという、俺のもっぱらの仕事を邪魔されかねない予感がしたからだ。俺の家を宿泊目的で訪れるのが、数年ぶりだった驚きもある。
 しかしどちらにせよ、の格好は不穏な予感をまとっていた。大きなキャリーバッグの中には、多分着替えと一緒に厄介事まで詰め込まれているのだろう。
 そう思えば、幼馴染が爽やかな笑顔を湛えていたとしても、押し開けたドアを引き戻すのも納得できるだろう。あと数センチというところで、がドアにバッグを差し込まなければ、それも上手く行ったのだ。
「ちょっとぉ! あんた年上に向かってそういうことするゥ?!」
「たった数ヶ月にしがみついてるよーな、寂しい年上をよぉー、敬えってかァ?家出ならウチはお断りだぜ」
 ドアの隙間に挟まれたバッグを押し出そうとすると、反対側から「違うって!」という声と共に必死で押し返される。
 の姉貴面は今に始まったことじゃあないが、別々の高校に通い始めてからも俺を弟分と言ってやめないので、近所ではすっかり東方家の名物にされて情けないと言ったらない。
 はそういうやつだ。折れるということがない。幾ら俺が帰れといっても、このバッグもの体力が尽きるまで、延々両側から潰され続ける羽目になるのだろう。
「いいからちゃんと開けてよ、何で閉めるの?!」
「おめー今まで何回ウチに家出してきたと思ってんだよ! その度に迎えに来た親父さんやおふくろさんとウチで喧嘩しやがってよぉ、俺はあの悪夢を忘れたことはねーぜ……!」
「そ、その節は本当に……ってだから今日は違うんだって!」
 玄関であまり騒いでいたからか、自室にいたおふくろが「どうしたの?」と様子を見に来た。がそれを見逃す筈がない。
「あっ、おばさーん! です! 入れてください! 仗助が閉め出すんです!」
 結局だ。その大声はドアを跳ね返って近所中に響き渡ったのだが、俺以外の誰もそれを気にした様子もなく、もおふくろの手によってすんなりと東方家に足を踏み入れた。
 その騒ぎでおふくろに耳をつねられたのは、俺だけだ。

 が俺の家に来ることは、どうやら初めからおふくろも承知済みだったらしいと知ったのは、にじじいの部屋を貸してからだった。ここで一週間、泊まるというのだ。
 母方の祖父が倒れ、その世話に一人娘だったのおばさんが行くことになり、親父さんは丁度出張中だというのもあって、家に年頃の娘を一人残していくのは心配だったらしい。幸いおふくろとのおばさんは、育児講習で出会って以来の無二の親友で、家も歩いて数分という近さのために、一人っ子だった俺とは、小さい頃から兄弟のように遠慮無く互いの家を行き来していた。だからが俺の家に泊まったのは一度や二度のことではない。安心して家を空けられるとしたら、おふくろに預ける以外になかったのだろう。
「ね?大丈夫でしょう?」
 おふくろが事情を説明した後で、家出ではない、と胸を張ったには閉口したが、着込んでいたコートを脱いで制服姿で廊下を横切った時は、流石にドキリとした。
 室内だからと、履いていた黒タイツまで脱いだのだろう。スカートから覗くの素足は、俺の記憶とはまったく違っていたように見えたからだ。
「な……なぁ、おめー寒くないのか?」
 どうにも落ち着かず、スカートから伸びる白い足をチラチラと見ながら言うと、は俺のズボンを指差して、
「仗助もスカート履いてみれば? 鍛えられるよ」
と本気とも冗談ともつかない恐ろしいことを言うので、「バカ言うな」と俺は顔を赤くしながらリビングへ退散してしまった。


 そうしてもジャージに着替え、宿泊準備が終わって落ち着いたところで、俺のもっぱらの仕事を手伝いたいというので、仕方なくそこら辺に放り投げていたコントローラーを引っ張りだして渡してから、一時間が経っていた。
 黙々とゲームをしていた俺に、最初に持ち込んだお菓子で賭けをしようと言い出したのはだった。それなのにこの負け具合なのだから、姉貴面したいはさぞ悔しかろう。
「つーかさんよ~~、お前弱すぎなんじゃねーのか? このままだとおめーが持ってきたおやつ、マジで全部巻き上げちまうぜ?」
「ほざいてなさい! おやつは後でおばさんに言えば返ってくるもんねーだ。あんたの説教シーン付きで」
「てンめェ相変わらずいい性格してるぜ……!」
 勝っても負けても保険を賭けておくのが本当の勝者、などと偉そうに鼻を鳴らしている。俺の幼馴染ながら、なんてしたたかなやつなんだ。岸辺露伴が一番嫌いそうなタイプだぜ、こいつは。
「チキショウ、こうなったらもー絶対勝たせてやんねぇって決めたぜ俺は!」
 そう言ってコントローラーを握り直し、スタートしたゲーム画面を本気で捉えると、はすぐに焦った声を上げた。
「あっちょっと待って! ウソウソ、待って手加減して……っ!」
「どーしたんですかァ! そーんな生ぬるいプレイじゃ満足しねぇぜ!」
「や、やめてっ……それだけは……っ!」
「ドララララァ!」
「だめ……だめぇっ!!」

 ガツンと頭に鈍痛が走って、コントローラーごと前につんのめった。何かを言う前に、「なんつー声出してゲームしてんのよ!」というおふくろの怒声が、今しがた叩かれたばかりの頭に追い打ちをかける。
「近所に聞こえたら勘違いされるでしょーが!」
 そう言いながら、呻く俺の視界におふくろはスリッパを投げ捨てた。裏にゴムが張り付けられた重いタイプのもので、腹を痛めて産んだ可愛い自分の息子へ、それを手加減なしに打ち付ける母親というのが、信じられないことだがこの世にはいるらしい。その希少な一人が、じじいの死んだ今や東方家のドンだった。
 東方の表札をくぐってテリトリーに入った者で、誰もおふくろに逆らえるものなんざいない。
「だからって、思いっきり叩くことねーじゃねぇか……!」
「あら、本気で叩いたらあんた今頃喋れてないわよ」
 俺が頭を抑えながら振り向いて言うと、腕を組みながらおふくろはカラカラと笑った。そんなおふくろを冷めた目で見つめて、視界の端のものに気づいてから、俺は無言で横にいる幼馴染を指さした。
 あれだけうるさかったも、おふくろのゴム製スリッパで手加減なしにスウィングを受けたらしく、頭を抑えてカーペットに蹲っている。スリッパを振り下ろされてから一言も、言葉らしい言葉を発していない。
 俺はおふくろをじっとりと見つめた。化粧を落としていない整った顔が、自分の投げた手榴弾が跳ね返って、足元に戻ってきたみたいに引きつっている。
 俺と目が合うと、おふくろは口に手を添えて、引きつった顔のままいたずらっぽく笑った。
「ホホ……」
 駄目だ。我が家のドンは完全に頬を染めて、機能を停止させている。俺にやるのと同じように、いつものノリでに当ててしまったのが運の尽きだ。
 といえば余程痛かったのか、片手で後頭部を抑えたままカーペットに額を擦りつけて、小さなうめき声を漏らしている。俺が行くしかないようだった。
 仕方なくの背中を擦るように手を当てて、出来る限りとびきりの笑顔で幼馴染の顔を覗きこむ。髪が邪魔をしてまったく表情は見えなかった。
、死ぬわけじゃねーんだからよ、な!」
「ダイジョーブ! は強い! 強い子だわッ! 痛いの痛いの飛んでいけーー」
 息子の声を遮り、そう言って全身を揺らして、両手を天井に振り上げ始めたおふくろのあまりの滑稽さに、俺は泣きたくなった。
「嫌だぜ俺はよぉ~~、この年になってこんな光景見るなんてよォ……!」
 思わず俺が愚痴を零した時だった。
 クックックッ。表すならそんな音だ。体を丸めたの肩が震えるなり、不気味な笑い声が漏れた。もしかすると、おふくろの馬鹿馬鹿しいあやし方が効いたのかもしれない。
 泣いてたんじゃねーのか、とひとまず安心しておふくろを見上げると、「奇策成功したり!」と言いたげなしたり顔で親指を立てているので、俺はの背中に手を置いたまま、おふくろに向かって「黙っててくれ」の意を込めて歯を剥きだしてやった。
「おばさん……」
 さっきぶりに聞いたの声は、安心した俺の心境とは裏腹に涙ぐんでいる。
「め、目を打っちゃいました……」
 うつ伏せていた顔の下からそろそろと上げられた両腕には、コントローラーががっちり握られている。おふくろが叩いた衝動で、構えていた親指にの目がクリティカルヒットしたらしい。器用なやつだ、と思わず俺は感心してしまった。
 おふくろが差し出されたコントローラーをの手から取って、俺の反対側から恐る恐る肩を撫でる。
「だ、大丈夫?」
「だいじょぶですぅう……」
 だめだこいつ、完全に泣いている。


 の泣き虫は、こいつと付き合ったものの背負う使命のようなものだ。それくらい、100パーセントと言っても過言ではないくらいの確率で、泣き顔に遭遇する。悲しくて泣くわけではないらしいのだが、本人が言うには、どうもショックとやらに弱いらしい。
 たとえば間違って舌を噛んでしまった時や、足の小指を強打してしまった時、痛みのショックで本人の意志に関係なく、涙がボロっと出てくるのだと言う。周りの人間からしてみれば、まるで泣かせたように見えるので、厄介な癖だった。でも確かに、が喧嘩をして泣いたことも、両親に叱られて泣いたところも、俺は見たことがない。
 だからは泣き虫とからかわれる度に不服そうに否定するが、そう言う割に、痛み以外でも小説や映画、それも予告編なんかで簡単に泣くようなやつなので、何を言おうと泣き虫には変わりなかった。
「それで、お姉さんはもう平気なのか?」
 おふくろから夕飯の買い出しに行け、との司令を出されたのはいいが、それは裏に俺に機嫌を探ってこい、という任務まで含んでいる。
 夜道を踏みしめながら面倒くさそうに、“お姉さん”の部分を強調して尋ねると、は「思ってもないくせに」とじろりと俺を睨んだ。どういう意味で言ったのかは知らないが、あんな程度で心配するわけがないし、たった数ヶ月先に生まれた同い年を姉貴と思うわけもない。
 まぁな。と返す俺を無視して、白い息を空中に描きながら、
「ああ~……またおばさんに迷惑かけちゃった……」
は頭を抱えて大袈裟に首を振っていた。
 迷惑というのは、中学生時代まで散々、家族喧嘩で俺の家まで飛び出してきていたことを指すのだろう。
「なんだ、分かってたのか」
「あ、でもはっきり言われると傷つく……!」
「おめーみたいなやつには、たまーにはっきり言ってやらないと駄目なんだよ」
 言えば、すかさず「兄貴面するな!」と軽い蹴りを食らった。

 おふくろは親父に関しては女々しいくせに、普段はああいう竹を割ったような性格なので、長く気にするような頭をしていない。だからのような“女の子”はいつまで経っても扱いづらいらしく、俺に対するのとは違って、すぐに甘やかしてしまうようだ。別段、を特別視して肩を持つなどということはないが、すぐに機嫌直しに俺を出動させる。まったく人の気も知りもしないで。
 学ランの上に安いダウンジャケットを羽織って、スボンのポケットに手を突っ込みながら、俺を置いてすたすたと歩くを見た。
 人の気も知りもしない。恨めしい顔で見つめたいのは、俺の方だ。

 が俺の姉貴だと言い出し始めたのは、俺が原因不明の熱で生死を彷徨ったあの頃からだ。
 のおばさんと何度も病院へ見舞いに来たみたいだが、熱に浮かされていた俺の記憶にはあまり残っていない。しかしは血も繋がっていないというのに、まるで片割れみたいに心配してベッドから離れたがらなかったという。
 異常な程に赤く、酷くうなされていた俺の顔を見て、は俺を守らなければならない脆弱な存在だと、勝手に思い込んでしまったらしい。おふくろもおふくろで、たった一人の父無し子を失う恐ろしさに、すっかり参っていたらしく、その様子がまたの正義心に火をつけたようだった。
 その時からはやたらと俺の世話を焼くようになったし、一人っ子の寂しさからか、俺を姉弟だと思いたがる傾向が強くなった。
「仗助、マフラーも手袋もしないで、風邪引くよ」
「鍛えろっつたのはおめーだろーよ」
 それは高校二年目も、もうすぐ終わりかけている今でさえ、きっと変わらないのだろう。
 些かムッとしながら答えると、は自分のマフラーを外しながら、のたくたと後ろを歩いていた俺の元までやってきて、
「冗談に決まってるでしょーが」
と俺の首にぐるぐると巻きつけた。
「うおわっ、いらねーよこんなもん!」
「また前みたいに熱出して入院したらどーすんの!」
「おめー、俺が何年風邪引いてないか知ってんのか?!」
「いいから黙って巻く!」
 ぐっと服を掴まれて、の顔が、俺のすぐ下に近づく。突き刺すような冷たい冬の空気に、シャンプーのやわらかい香りが鼻をかすめて、恨めしい思いで胸が張り裂けそうになる。
 が背伸びをして俺の首にマフラーを巻く間、何をするわけでもないのに、息を止めて待たなければならない時間が耐え難い。首の後に手を回されると、まるで抱きつかれているような気分になる。何でもない風を装うために、誰が見ているわけでなくても、顔だって顰めたくなるだろう。
「よしよし」
 笑いながら満足そうにが離れて、俺はやっと息をつけた。
「ピンクのマフラー似合うじゃん」
「ほっとけよ」
 明らかに楽しんでいる声に、さっさと歩き出すと、照れ隠しだとはますます愉悦を滲ませている。馬鹿らしい、と思った。といると、途端に自分が馬鹿臭くなる。こんなやつに恋をしている俺の姿が、滑稽に思えてくるのだ。
「……アホ、おめーが風邪引くじゃねーか」
 追いついたが首をすくめているのを見て、呟きながらマフラーに顔を埋めると、柔軟仕上げ剤の甘い香りがした。
 ちくしょう。嬉しいって思っちゃったじゃねーか。これがゲームの続きなら、完全に形勢逆転だ。

 単純なことだが、俺はわくわくしていた。その時はふわふわ浮ついた心持ちでの後ろを歩いていたのだ。僅かに胸につっかえる不満を抱えてはいながらも、確かに幸福感を感じながらスーパーに来たのだ。しかし、
「お財布忘れた……」
というの言葉で一気にいつもの調子に戻ってしまった。こいつの間抜けをとやかく言おうとは思わないが、俺まで巻き込まれるのは御免だ。お陰で青臭い想いに浸る暇もない。大きなため息が漏れる。
「お前さぁーーー」
「分かってる……分かってるから言わないで……そして黙ってお金を貸して……!」
 ズボンのポケットに突っ込んだままだった財布を取り出して、渋々の手に握らせる。後でおふくろから返ってくる保証もあるので出し惜しみはしないが、さっきまでの幸福感はもう戻ってこないだろう。

 と買い出しなんて、それはもう家出騒動の数倍は重ねているために、戸惑うことも何もない。おふくろの好みや買い物の癖まで知り尽くしているのだから、ものの数分と経たずにお使いは終わってしまった。
 買い物かごを乗せたカートを押しながら、「タピオカジュース飲みてーなぁ~」なんて言っている内に、はサクサクとレジへ歩いて行ってしまうほどだ。あいつは団欒、という言葉を知らないらしい。目的の物以外には目移りしないために、どれだけ行動が早いかは分かるだろう。財布をど忘れする以外は、まったくもって無駄がない主婦の鏡だ。
「おめーはよぉ、買い物を楽しんだりしないわけ?」
 あまりに不満に思ったので、スーパーを出るなり俺はへ声を上げてしまった。二人で一袋ずつもった買い物袋を抱え直して、「へ?」とは振り返った。
「だからよぉー、買い出しのお駄賃にアイス買ったり、おやつ買ったりそういう……」
「おやつは私が持ってきたじゃん」
「いや、そういうんじゃなくてよォ」
「あっ、明日からの朝食に安売りのヨーグルトを買っちゃった!」
「ああ、そう……」
 ため息が出た。抜けてるんだかしっかりしてるんだか、わからないやつだ。だが、そのバランスが結局プラスマイナスゼロになっているとは、本人はこれっぽっちも気づいていないんだろう。

 しっかりしている。そういう目で見れば、はめちゃくちゃ気の利くやつだ。一人っ子とはとても思えないほど、きびきびとして行動力があるように思う。小さい頃、それで俺と比較してが褒められても、全然悪い気はしなかった。誇らしくさえ思ったほどだ。
 しかし、もしそれが俺を姉弟と見立てて出来た性格なら、複雑な事この上ない。俺はを姉貴なんておぞましい生物として見るつもりはないし、そういう口うるさい家族はおふくろだけで十分だった。
 不意に強い風が吹いて、首をすくめる。手に持った重いビニール袋が、風に叩きつけられてガサガサと音を立てた。
 もうこの時間だと部活帰りだろうか。街路にそって歩いていた中学生や高校生が、軽い叫び声を上げて身をすくませている。俺の「うおっ」という声に、も小さく重ねてから、勢い良く俺を振り返った。
「今の凄かったねぇ!」
 言いながら片手でコートを引き寄せて、首元を隠している。マフラーを俺に巻きつけたせいで、晒された首元に直接風が入り込んだんだろう。俺はそれに笑ってマフラーを緩めた。
「やっぱおめーが使えよ、ホラ、帰りは交代で」
「いいよ、家まであと少しだし」
 そう言うと、は苦笑しながら歩み寄って、俺が緩めたマフラーをまた行きと同じようにぐるりと巻き直し始めた。

 は変わった、と思う。久しぶりに長い時間を一緒に過ごしたから、そう感じるのかもしれない。昔のように遊ばなくなってから、こうして姉貴面で世話を焼かれるのも、もしかしたらかなり久々のことだったかもしれない。
 一層悔しく思ってしまうのは、そのせいなのだろうか。
 人の気も知らねーでよぉ。ぽつりと思った時には、近くにぴったりと体を寄せるへ、屈んで顔を寄せていた。

 リップ音なんてものは鳴らない。コットンに触れたような一瞬の出来事だ。体を離してから、はっと気づいた。
「あっ、いや、待て! 今のはなァ……!」
 マフラーは既に丁寧に俺の首に巻き直されている。風が入らないよう、あたたかいままで歩けるよう、綺麗な巻き方で。
 は足元に置いていた買い物袋を持って、来た時と変わらず黙々と先を歩いて行く。それが不自然に思えるのは、俺がにキスをしてしまった後だからだ。
 あれ……?
 俺の体は石像みたいに固まった。
「お、おい、怒ってんの……か……?」
 動揺を隠せなかった。いきなりだったので、殴られても仕方ないだろうと、その時は思っていたのだ。それだってのにあろうことか、振り返ったが放った言葉といえば、
「……え、何が?」
だ。きょとんとした顔で、まるで何もなかったかのように。というよりも、何も分かっていないように。
 ……マジで?
 俺が一番最初に浮かべた単語はそれだ。マジで?
 と17年間の付き合いでも、まさかそんな言葉が飛び出してくるとは思いもしなかった。幾らなんでも常識の範疇を超えていたのだ。
 なんたって年頃の女なら、チューされたら「何が?」じゃ済まないだろう。いや、もしかして今時の女の半分はチューぐらいじゃ揺らがないものなのか?何から何まで西洋化してきているというが、こんな軽いキスぐらいじゃ、じゃれてるのね、とでも思ってしまうようなもんなのか?西洋のことなんざまったく知らねーが、それは困る。

 俺は途方に暮れて、の背中をとぼとぼとついて歩いた。
「明日の朝は、アロエ入りのヨーグルトだからね、仗助」
 といえば、さっきからこればかりだ。どうなっちまってんだこの女は。いや、世の中の女の頭はどういう作りになっちまったんだよ一体。
 滑稽にも程がある。今までで一番、馬鹿らしいことになってるじゃねーか。こんなこと、誰かに話せるか?
「ックショォー……」
 行きとは反対に、今度は俺が頭を抱えたくなった。抜けてるなんてもんじゃない。肝心なものどころか、は全部置き去りにしていきやがった。

 一瞬の勇気も北風に晒されて、俺は家までひたすら首をすくめるばかりだった。この借りは返す。マフラーの下に、そんな新たな火を灯しながら。



続く
theme of 100/042/買い物
12/12/16 短編