鏡にはほんとうが住む


さん」
 床を伝って堅い革靴の音が聞こえると、這いつくばってテーブルの下を覗き込んでいた私の背中に、落ち着いた低い声がかかった。
「はい」
 腕を屈伸して起き上がり、乱れた髪を耳にかけながら後ろを振り返る。派手なヘアバンドをした若い男が、リビングの戸に手をかけて佇んでいた。岸辺露伴という、私の雇い主だった。
「随分時間が経っているが、見つかったかい?」
 戸口の壁にそっと体を傾けて腕を組むその動作は、その男には溶け込んでいてとても自然だったが、妙に厭味ったらしく感じられる。
 静かに責められているようなその感覚に、僅かな居心地の悪さを感じて、私は肩からずり落ちたエプロンを何度も引き上げながら腰を上げた。
「いいえ、まだ……」
 膝立ちから立ち上がると少し視界がくらりと揺れる。まだ若いのに──と思って、場違いにも私は今朝の献立を思い返して、あまり食べて来なかったことを後悔した。軽い現実逃避だったのかもしれない。しかしそのお陰で声色からは、疲労と謝罪が滲んでいたようにも思える。
 露伴先生は体の前でエプロンを握り締める私の手をじっと見つめていた。何か言われるような気がして、焦った私は今度こそ心から口を開く。
「すみません、時間までには見つけますので。勿論、他のお仕事もちゃんといつも通りやります」
「そうしてくれよ」
 ため息のような声だった。露伴先生は私を一瞥した後、ドアノブを捻って自室へ戻っていく。ほっとして、力を入れていた肩がゆっくりとほぐれていった。
 露伴先生の目は苦手だった。まるで値踏みされているような気がするのだ。どうしてあんなに嫌らしい目つきを出来るのか、私には全く理解できない。
 つきかけたため息を慌てて呑み込んで、私は露伴先生が去っていった戸口を少しだけ覗きこんでから、また床へ体を伏せた。

 私、が広瀬康一の仲介を経て、岸辺露伴という漫画家の家に出入りするようになってから、既にふた月になろうとしている。
 求職の為に資格を取ろうと暇を見て行なっていた家政婦のパートを辞め、金銭面に不安を抱いていた頃、「さえ良ければ」と康一から個人的にバイトをしてみないかと声をかけられたのだった。
 広瀬康一は、私の小中高の後輩だった友人の弟であり、最早隠すことがなく姉弟と言っても差し支えないほど、腐れ縁に近いものを持った幼馴染でもある。母親が妊婦だった時から同じ病室だったというのもあり、付き合いもかなり深かった。
 その康一が、絶賛フリーター生活を満喫している私を心配するのも無理はなかったけれど、現役高校生にバイトを紹介された時は流石の私でも驚きを通り越して、我が身が哀れにさえ感じられた。しかし聞いてみれば、当時の私にはそれ程悪くはない条件だったのだ。

 それは康一の友人の、岸辺露伴という漫画家の家事代行をするという内容だった。所謂家政婦だ。
 岸辺露伴という名前は聞いたことがあるし、有名な人気作家だということも知っていた。その彼が杜王町の住民だということも既に町に知れ渡っていて、たとえ漫画に疎い人間でも杜王町に住むなら一度は名前を耳にしている。杜王町にひっそりと住む、隠れた有名人だった。
 その露伴先生が原稿作業などの仕事をしている間に、手の回らない広い邸内の掃除や食事の作り置きをして身の回りのお手伝いをするというのが、康一から説明された仕事の内容だ。
 康一がその漫画家と友人だったというのも驚きだが、あまり漫画を読まない私の関心を何よりも引いたのは、週四日の代行と日給が八千円だということだった。
 しかも洗濯は毎日クリーニングに頼んでいるから、しなくていいのだという。先生が仕事をしている時間だけに、ご飯を作って掃除。それも露伴先生が原稿に向かっているのは、一日4時間程度らしい。
 大掃除はひと月に一回、私が通う四日間をかけてやればいいのだという。それ以外は毎日塵取りと浴室、トイレ掃除さえしていればいい。
「そ、それで八千円……?!」
「安いんじゃない? 彼、家の修理に2000万円出したって言うし」
「にせんま……」
 愕然として指を折っている私に、康一は呆れた風に首筋を掻いていた。小指と薬指だけを立てた手を眺めながら、私は震えそうになるのを止められなかった。
「ゼロがななつ……」
 家政婦に登録していた頃は、人員が少なく、勉強をする間もないほどのシフトを組まれ、毎日クタクタになって寝るだけの生活を送っていて、これじゃあ目的を見失いかねないと辞めたことを思えば、毎日決まった時間に行って決まった時間に帰ることが出来るアルバイトは、とても魅力的だった。
 それも、決して安くはなかった家事代行の時給よりも色がついていて、何より日当だ。相手に合わずにすぐに解雇される可能性もあったけれど、最悪数万円は貰えるのは確実なのだ。
 それにその先生はまだ二十一歳なのだという。年も近いし、もしかしたら仕事もやりやすいかもしれないと思ったのだ。
 康一の勧めということもあり、私は迷うことなくその家へ家政婦という形でアルバイトを始めることになった。期間はとりあえず三ヶ月ということらしい。
「でも、僕は受けないほうがいいと思うよ」
 自分で紹介したくせに、康一は最後にそんな事を言って意気込む私を引き止めた。首を傾げれば、ちょっとため息を付いて肩をすくめる。
「だって彼、変人だから」
 友人なんでしょ?と思ったけれど、私はついに心の中に留めるに終わった。

 康一の人を見る目が如何に優れているかは、長年の付き合いで十分承知していたし、そうじゃなければどんな条件であっても受けはしなかったのだ。
 雇い主は二十一歳といえど成人した独身男性で、私も派遣の家政婦ではない。いわば個人間の取引の領域を出ない。保証はどこにもないのだ。
 それでも私は承諾を撤回しなかった。康一の紹介でもあり、何より生活資金のため、これ以上のチャンスを逃す手はないと思ったのだ。

 これからの契約の確認と仕事場の下見のために、初めて露伴先生の自宅へ訪れる日、私が薬指に指輪を嵌めて行こうとすると、康一は「そんな事をしなくても大丈夫」だと笑った。私のことは漫画家先生にちゃんと話しているらしい。それもそうだと思った。
 高価な家具も調度品も沢山置いてあるというのだから、滅多な人間を雇うはずがなかったし、だからこそ先生も康一を見込んで紹介を受けたのだろう。その康一の目に私が適ったことは喜ばしいことだけれど、それだけ用心深い人なのだから失敗はあまりできないかもしれないと、少しだけ気が引き締まったのもその時だ。
 それにちょっと変わった人らしいが、どうやら安全牌の人ということもあるようだ。それは康一をもって「変人」と言わしめる要因にあるのだろうか。
 思ったが、予防線を張っておくに越したことはないと、一応指輪は外さずに行く事にした。
 露伴先生も気づいたのか初め薬指に時折視線を送っていたが、私が家具を傷つけないよう仕事中はその指輪はもとより、貴金属を一切身につけなかったためか、それについては一切何も言われることはなかった。
 順調だった。注文も多く、たいへん几帳面な性格のため苦労も多かったが、不安に思っていた数日での解雇も特になく、できる限り要望に答えようとする私の姿勢が認められたのか、意外と順調に進んでいた。小言を言われることの方が多かったが、それでも順調だったのだ。
 それがどうだ。そのふた月は、今日で終わりを告げようとしている。

 今日は契約していた、月に一度の大掃除の週だった。床の埃だけではなく、壁も窓も階段の手すりもピカピカに磨き、見える埃は全て掃除しなければならない。ここが私の仕事の見せ場だと、張り切って露伴先生のお宅にお邪魔したのまでは良かったのだ。
 露伴先生の懐中時計を失くした──と言えば、事の重大さは十分表せただろうか。これはとても一言で説明できるものではない。
 まず第一に、岸辺露伴という売れっ子作家の金銭感覚は、同世代の人間とは遥かに違う。親元を離れてアパートに一人暮らしをする学生が、ポルシェのプラモデルを買って「ちょっと高かったなぁ」と財布を見るのとは違うのだ。この人は本当にポルシェを欲しいと思った次の日には、何の苦労もなくポルシェを買ってしまえるような、高所得者なのだ。
 その人の時計と言ったら、勿論すぐに時間が狂ってしまうような安売りのものであるはずがない。とんでもなく高価な、そして恐らく世界に一つしかない、特注の懐中時計に決まっている。
 そして第二に、岸辺露伴は縄張り意識の強い人だ。自分の作業環境を荒らされるのを極端に嫌い、一度決めた物の位置は常に把握していなければ気が済まないたちのようだった。それは彼の、修理だけで一戸建てを買えるようなデザインの家にも表れていて、私物や生活環境に対する拘りが強い。
 自分が置いた物を忘れるということはない、と彼自身思っている。記憶に僅かな疑いもなく、行動にも絶対的な自信を持っていて、間違いはないと確信しているようだった。
 それは彼が“余裕”を持つことを意識しているからであり、私が仕事をしている間の露伴先生の行動は、タイマーが設定されているかのように正確で毎日変わらなかった。それ故に几帳面で、自身のプライベートを荒らされることは苦手らしい。
 “らしい”というのは、これまで私が観察してきて思ったことだった。露伴先生のように絶対的な自信と確信があるわけではないが、必ずしも間違いではないと思っている。
 そして第三に──これが一番重要なことだった。少なくとも私にとっては、人生とプライドに関わる一生ものの問題だ。
 露伴先生の高価な私物を失くしたことで、私が「盗んだ」と疑われる可能性が十分にあるということだ。台所のたわしを失くしたのとは違う。見つからなければ買い直すなどということは出来ない。つまり永久に出てこなければ、どんなに私が潔白であろうと、1パーセント以上の疑心を持たれるという事実は免れないのである。
「あぁもう……どこに置いちゃったのかなぁ……」
 棚の埃を取るために物を移動させたのまでは良かったのだけれど、その間にひとつ、懐中時計だけをどこかに置き忘れてしまったらしい。目の前で皿を割ってしまうより、とんでもなくゾッとする失態だった。

さん」
 食事を終えたその時間、露伴先生はいつもならば仕事机に向かっていたはずだったのだが、ハタキで客室の棚の埃を払っていた私が呼ばれて振り返った時は、その事に何の疑問も持たなかった。喉でも乾いたのだろうかと、呑気なことを思っていたのだ。
 少し猫背気味にドアから顔を覗かせた露伴先生は、客室の中を少し見回しながら、
「ぼくの懐中時計を見かけなかったかい?リビングに置いていたんだけど……」
と頭を掻いた。
 リビングの掃除は今さっき終えたばかりだ。そういえば埃を取るのに、他のものと一緒に懐中時計を一度移動させた覚えがあった。全て元の位置に戻したはずだ。
「それならちゃんと元の棚に……」
と笑顔で先生の横をすり抜け、リビングの懐中時計を見かけた場所まで戻ってみるけれど、先生の言う通りそこには見当たらなかった。慌てて近くを見回す。
「あれ、おかしいですね……さっきこの辺りに…」
「掃除の時に別の場所に置いてしまったんじゃないかい?」
 後ろから覗きこむ先生の言葉に、そうかもしれないと思った。雇われて初めての大掃除だったから、頭の中で計画を立てながら物を移動させていたのだ。もしかしたらその考え事の最中に、別の場所へ置いてきてしまったのかもしれない。
「すみません、今探しますので書斎にいらして下さい」
「いいよ、君はまだ掃除もあるから一緒に探そう」
 最初は先生もそう言って、一緒にリビングと客室を探すのを手伝ってくれたのだ。でも一向に見つからないと分かると、少し責めるように、「あれは結構気に入っていたんだ」と私を見た。
 困ってしまった。何よりもショックが大きかった。神経質な性格のようなので、今までも小言を言われることもあったけれど、こうして遠まわしに責められた挙句、なじるような目で見られるのは酷く傷ついた。
 だから縋るような目をしてしまったのだ。
「絶対に見つけますから……!」
 絶対に──

 いつの間にか無意識に尖らせていた口を引き締めて、私は両手で思いっきり腿を叩いた。情けないにも程がある。
 でも、掃除している間に露伴先生の時計を失くしてしまったのは私のせいだった。幾ら先生の態度が気に触っても、誰に言われずともその原因は私にあり、責任逃れは出来ない。
「はぁ……」
 我慢していたのに、思い出したらため息が漏れてしまった。
 仕事を始める前まで思っていた、「年が近いから仲良く出来るかもしれない」という期待は全くの幻想だった。それは勤めて一日目で思い知らされたことだ。
 基本的に露伴先生との会話は少ない。勿論、彼の仕事の間の家事手伝いで来ているのだから当然のことだけれど、毎日変わることのないプログラムのように正確な習慣には、一瞬の隙もなかった。
 露伴先生は私が出勤する11時には、既に作業机に向かっている。昼食を作り終えた12時には、呼ばずとも食卓へ赴いて何か本を読みながら、私が夕飯と明日の朝食の作り置きを用意している後ろで、ゆっくりと一時間かけて食事を取る。
 その間に文句のような注文や取留めのない世間話、小言を挟んで、13時になると先生はまた机へ向かって黙々と原稿を進める。私は先生が悠々と食事をしている間に、バスルームやトイレ、廊下の掃除を始め、それらを先生の仕事が終わる15時までに済ませなければならないのだが、これが敷地が広いだけに時間がかかる。しかも岸辺露伴は目敏いだけに、仕事で手を抜けば容赦なく注文を重ねてくるので、勤める4時間は滅多に気を抜くことは出来なかった。
 そうして何とか早めに掃除を終えた後は、先生が食べ終えた食器を片づけ、それから紅茶を淹れて挨拶をし、日給を貰って帰宅するというサイクルなのだ。
 その昼食の間が殆ど唯一の雇い主とのコミュニケーション時間なのだけれど、それがまたひどいものだった。
 初日に台所の勝手が分からず、四苦八苦しながら夕食の作りおきを用意する後ろで、昼食の煮付けをつつきつつ、
「味が濃すぎる。君の料理には品と愛情が感じられないな」
と言ったのが、岸辺露伴という男であった。ダシのとり方が違うだけで、ここまで言われたのは初めてのことだ。挙句、気に入らなければ容赦なく残す。
 翌日冷蔵庫を開けて、中途半端に箸をつけて残した料理をこれ見よがしに置かれ、自分が一生懸命作ったそれを片付けるときの気持ちがわかるだろうか。しかしそれは、彼の難しい注文に適えば難なくクリアできることなので、私にとってはそれ程大した問題ではなかった。
 作りおきの並べ方やラップのかけ方、布巾のたたみ方にまでケチを付けてくるのも、「家事代行」という名目で雇われているいる以上、応えられることには応えていくのが仕事だと思うことが出来た。
 しかし散々文句を言った後で、
「君はだから今まで男と縁がないんだ」
とどこで聞いてきたのか、人が一度も話したことのないようなことまで引き出してくるので、わざと嫌味を言って日々の鬱憤を晴らしているのではないか。私をおもちゃか何かだと思っているのではないか。そう思うのも仕方のない事だったし、康一の言う通りの変人だということを認めざるを得なかった。
 そして私の要らないことまで話した康一に、あとでその事を問いただすと、
「ああ……それぼくじゃないよ」
と呆れたようなため息を付いて「もう、露伴先生は分かっててこういうことするんだから」などと白々しく顔を逸らすので、
「あんたの他に誰が話すのよ!」
と露伴先生への恨みも込めて、思いっきり鼻をつまんでやった。
 普段から露伴先生の食事時以外にはあまり会話をすることはなかったが、それ以来康一の名前を出しては同じような話してもいない私の過去を引き合いに出してからかうことがあったので、その度に私は康一を縛り上げるのに苦労をした。
 そのせいか、康一は最近では一切私へ近づこうとしない。
「最近康一君の様子はどうだい?」
 どこか楽しげにそう尋ねる露伴先生に、
「会ってませんから知りません」
と私が思い出して少しばかり眉を寄せて答えると、小さく「やりすぎたか…」という呟きが聞こえた気がしたので、やはり二人はグルだったのだろうと確信していた。

 たったふた月でも思い返せば思い返すほど、好意を持てる所が殆どない人だったけれど、それでもこれだけ続いているのが自分でも不思議だった。
 口うるさい雇い主でも、私にとって続くだけのものを無意識に見出していたのかもしれないし、思うよりずっと私は、この男と付き合っている康一を信じているのかもしれなかった。
 けれど今回懐中時計を失くしたせいで、もし盗んだと間違われるのなら、それだけは御免だった。だから私も、必死で探さなければならない。


 やはりリビングにはどれだけ探してもなかった。小さいものだからまさか間違って捨ててしまったのではと思い、慌ててゴミ箱を漁っても、生ゴミで臭くなるだけで露伴先生の懐中時計は見つからない。
 今日はまだリビングと客室の間しか掃除をしていない。もしあるとしたら、残るは客室のみだ。
 リビングの時計は二時半を指していた。まだ今日のノルマを終えていないというのに、失せ物すら見つからなければ、露伴先生に何を言われるか分かったものではない。何よりも、康一に合わせる顔がない。
 思って、残り少ない勤務時間を気にしながら、早足で客室のドアノブを捻る。開くドアを目で追うと、視界に飛び込んでくるものがあった。部屋の隅に、露伴先生がしゃがみ込んでいた。
 どかどかと床を踏み鳴らして油断していたために、部屋にいた人影に私は一瞬怯んでしまった。突然開けたからか、露伴先生も少し驚いたようだ。振り返った目が、僅かにいつもより見開かれている。
「す、すみません、失礼します……!」
「ああ、構わないが…もしかして見つかったのかい?」
「いえ……」
 萎んでいく私の声に、露伴先生は何も答えなかった。私は急いで言葉を継ぐ。
「リビングにはなかったので、ここに持ってきてしまったのかもしれないです」
「そう? だったらすぐに見つかるかもしれないな」
 簡単にそう言って、前になじるような目で見ていたことなどすっかり忘れた様子で、のんびりと棚を物色し始めている。
 私はホッとしたような、何となく腑に落ちないような気持ちになりながら、自分が歩いた経路を順々に辿る。額縁や本棚、食器棚と殆どアンティークのような客室はかなりの広さがある。部屋の奥、窓の近くにある漆塗りの大きな柱時計を横切って、その半分ほどの大きさのある鏡を、私はちらりと横目に見た。

 ひた、と目が合う。
 露伴先生──ではなかった。彼は私の背後でゆったりと時計を探している。それなのに、鏡に向かっている私と目が合うはずがない。しかし鏡の中彼は、今まで見たこともないような、呆けた顔をしてこちらを見つめていたのだ。私がふと鏡を見て目が合った途端、驚いた顔をして鏡の中の私を見つめ返した。
 目が合ったのは、露伴先生に似ているようで全く違う人だ。岸辺露伴という人は縄張り意識の強い人だ。プライドが高く、決して余裕を崩すまいと心がけている人だ。いつも人をおちょくることばかりを楽しみに生きているような、そんな人間だ。
 そんな彼が、あんなに油断をした表情で私を見るだろうか。

 私は何気なく背後を振り返った。理由はなかった。ただ何となく意識がそちらに引っ張られたのだ。
 露伴先生がまさか──と振り向いた先では、先生はやはり腰に当てた手をそのままに背を向け、時計を探して辺りを見回している。
 もしかして鏡越しに部屋を見回したのだろうか、と私は思い直した。向き直ってから鏡の下の小棚へ手を置いて、引き出しを一つ一つ丁寧に開けた。
 そうしてからふと、鏡へ目を向ける。また、目が合う。岸辺露伴の皮を被った、人間の素を表したような純朴そうな男が、鏡の中に存在している。しかしそれも、すぐに逸らされた。
 けれど私はまんじりと、鏡の中彼を見つめ続けた。
「先生、時計は見つかりましたか?」
「まだだ。君のお陰で苦労しているよ」
「あの……」
「何だい」
 鏡越しに、露伴先生へ話しかける。じっと、鏡の中彼の横顔を見つめる。
「すみませんでした、置いた場所を忘れてしまって……」
 いつもの露伴先生ならば、いくら謝ったところで小言は免れないどころか、今は先生に背を向けたままでいるのだから、それが彼の気に触れば解雇寸前まで追いやられるはずだった。それが私がふた月で思い描いた、岸辺露伴という人物像だったのだ。
「ああ、まったくだね」
 そう言った声色は普段の偏屈な作家先生と何も変わりなかった。鏡の彼がゆるりと私へ振り向いて、何事か言おうと口を開きかけた。
 けれど鏡の彼が鏡の私の視線に気づいた途端、丸く口を開いたままぴたりと動きを止めてしまった。鏡を通して視線が交わって離れない。
 私には彼がどう動くのか、言葉を紡ぐのか予想ができなかった。何故なら、鏡の彼は私の知る岸辺露伴ではないからだ。
「……だが、動かしたということはいずれ見つかるということだ」
 消えたわけじゃない。と鏡の人はそう言った。そうしてから俯き加減に目を逸らす。その横顔に、整えた髪が少しだけ影を作った。
 鏡の中の私はまだ彼を見つめている。いつもとは違い、不思議と驚くほど素直に言葉が出てくるのを感じた。
「近い内に、必ず見つけます。何日かけてでも、責任をもって探します」
「……ああそうしてくれ…君が見つけてくれ」
 鏡の彼はひっそりと息を吐くように言った。
 意外だった。何もかもが意外だった。だからじっと見つめてしまったのだ。鏡の彼が、モスグリーンの薄いカーディガンのポケットに手を入れ、落ち着かなく触っていたことにも、だからこそ私は気づいたのかもしれない。
 もぞもぞと指先で何かを弄ぶようにしていた彼は、鏡越しの私の視線に気づいたのか、俯き加減のまま窺うようにこちらにまた視線を寄越したけれど、鏡の私と目が合った途端、すぐにバツの悪そうに顔ごと振り切った。

 鏡の中には真実が存在している。ちゃんと整えたと思っていた髪の乱れや、掃除しきれていなかった棚の埃や、並びが整っていない食器と、そしてそれらの前を向いた私の目には見えない筈の、背後の世界が広がっている。
 別の目が私にもう一つの真実に気づかせる。もう一人の彼の存在に気付かせようとしている。そして、先生のいたずらにも。
「露伴先生」
 開けた小棚を静かに閉めながら、私はもう一度鏡越しに呼びかけた。鏡の中彼の肩が、少しだけこちらへ動いた。
「お茶を淹れますから、少し休憩なさって下さい。そうしたら見つかる気がするんです。呆気なく出てくるような気がするんです」
 彼のカーディガンに突っ込んだ手が、思案するようにゆっくりと何かを撫でている。そうだな。先生の低い声が、穏やかに息を吐いた。
「……君も、帰る前に飲んでいくといい。今すぐ、用意してくれるかい」
「はい、勿論です」
 鏡の彼が振り返って、観念したように肩を落として口元を緩めた。それを確認してから私も先生を振り返る。今度こそ確かに、岸辺露伴は鏡の彼と同じように笑っていた。

「すまない、焦りや必死な表情の資料が欲しくて、君を利用した」
 露伴先生は私の淹れた紅茶を口に含むなり、私が血眼になって探しまわっていた懐中時計を、カーディガンからあっさりと取り出した。岸辺露伴は“リアリティの追求”と言い張って自身の行動を正当化しようとしている。顔に似合わず、どうもいたずら好きがすぎるらしい。
 許さない──とは言えなかった。なじられた時は情けなさに悔しい思いをしたが、この契約を結ぶ前に、さんざ康一に「変人だよ」と念を押されていたのだ。それにこのふた月の小言と嫌味とからかいと来たら、合わせればこれの比ではない。今更これくらいで怒るようなら、私はとっくに露伴先生の世話を放棄していただろう。
「もういいですよ……とにかくほっとしました」
 面倒な雇い主がいたものだと思った。人をからかうのが趣味の癖に、自分がおちょくられるのは許せないプライドの高い性格で、何をしても“リアリティの追求”と言えば大抵のことは納得させられると思っている漫画家先生なのだ。
 ため息と一緒に紅茶を頂いてからソーサーへカップを置いて、改めて正面に腰掛ける先生へ一つお辞儀をした。
「あとひと月も、よろしくお願いしますね」
「ああ……」
 椅子に凭れていた先生は、ソーサーを片手に紅茶を傾けながら、意外そうに眉を上げて私を横目に見た。
「君は意外とタフなんだな」
 その一言がどういう思考の末に発せられたのか、私に知るすべはないけれど、その言葉とさもおかしそうに喉を震わせる声だけで、露伴先生の対人関係の片鱗を、意図せず窺ってしまったような気がした。

 そっと、先生を盗み見た。紅茶を啜る露伴先生は、まったくいつも通りの厭味ったらしい顔をしている。あの鏡の彼の面影は、最早どこにもない。
 私が見た鏡の人は、どこへ行ったのだろうか。あの余裕を貼りつけた顔の内側に、本当に存在しているのだろうか。多分それには、間違いはないのだろう。
 そうしてきっと、鏡の彼にはもう一人の私が見えていたのかもしれない。目を見開いた純朴な表情や、いたずらが見つかった子供のような顔をした彼に、不思議な愛しさが湧き上がった、もう一人の私が。
「それじゃあ先生、今日は失礼します」
「明日はちゃんと仕事をしてくれよ」
 誰のせいと分かっていてそう言ってのけたワガママ王岸辺露伴に、私は遂に呆れた表情を隠すことが出来なかった。微かに頬を引きつらせた私に、露伴先生は歯を見せたしたり顔で笑う。
 鏡の人は、先生にも見えただろうか。もしかして今も、見えているのだろうか。
 不覚にも、岸辺露伴を可愛いと思ってしまった、もう一人の私が。



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12/11/11 短編