22時には鐘が鳴る


 さわやかな風だった。台所の換気にと開けた窓から、岸辺邸の広い裏庭が一望できる。
 こまめに手入れしているのだろうか。整然と形よく刈られた緑一面の敷地には、初夏の明るい日が差して、点々と顔を出す花の色を淡くさせている。芝生へ伸びるテラスの柱の影が風が吹くたびに涼しげにゆらゆらと揺れて、そよぐ音が聞こえるとまな板を前に私も清々しい気持ちになる。

 岸辺露伴のアルバイトはとても捗っていた。あれ以来露伴先生の妨害もなく、坦々と時は過ぎていった。私の貯金は着々と溜まっていくし、勉強をする時間もたっぷり取れる。これ以上ありがたいことはない。
 拝むように手をこすり合わせて仕事の準備に取り掛かっていると、いつもは作業部屋で原稿に向き合っている露伴先生が、珍しく台所に顔を出した。
「やあ」
 私の方をちらりとも見ず、一言そう言って黙々とテラスに歩いて行く。手には園芸用のスコップをぶら下げていたので、花の手入れでもするのだろう。
 てっきり庭師を頼んでいるのだと思っていたので、驚いて返事をするのも忘れてしまった。この広い庭を、こつこつと仕事の合間に一人で作り上げたのだろうか。花壇の前にしゃがみこんで、あの背中を丸めてえっさえっさと雑草をとっている所を想像すると、とても微笑ましい。
 少し意外に思って暫くぼーっと露伴先生の背中を眺めていた。でも網戸を開ける音にはっとして、私は慌てて声を掛けた。
「あっ、露伴先生、今日のご飯は何がいいですか?」
「食べられるものを出してくれ」
 いつ食べられないものを出したというのか!──思ったものの、いつもこういうわけでもないので、この憎たらしい回答は今日の気分なのだろう。
 だったら岸辺露伴の舌が“食べられるもの”を、精一杯作ってやろうじゃないか。
「ふふっ」
 思わず笑い声を漏らすと、庭用のサンダルを履いていた露伴先生が不思議そう、というよりも訝しげな顔で私を一瞥した。

 露伴先生におちょくられて時計を紛失した罪をなすりつけられてからというもの、一番変わったのは私だろうと思う。あれほど嫌だった岸辺露伴の偏屈な性格が、どうにも可愛らしく見えて仕方なくなってしまったのだ。
 減らず口と憎まれ口のダブルパンチには苛立ちを抑えられないと思うこともあるが、それも先生の癖の前では愛おしさに変わってしまうのだ。
 そう、露伴先生は子供っぽかった。ついこの間までねじ曲がっていやらしいと思えていた性格が、急に純粋で裏表のないまっさらなものに見えてきたのだ。どんな魔法を使えばそうなるのか、私自身にもよく分からない。
 近々天変地異が起こるかもしれないと冗談に思ってみたけれど、もしこのことを康一に言ったのなら、私よりもひどい例えを出してきたかもしれないだろう。
 露伴先生の少年のようなあどけなさを含んだいたずら顔は、特に私の心をかき立てた。いたずらっぽくニヤーッと笑う顔は、それはもう可愛くて仕方ないのだ。母性をくすぐられるようで、構ってあげたくなってしまう。
 こんなことが知れれば、露伴先生の咬み殺さんばかりの睨み顔が待っているので到底口に出すことは出来ないが、とにかく私はあの日から露伴先生の挙動が一々可愛く見えてしまって、ほとほと困り果てていた。
 まったくそうは見えないかもしれないけれど、困っていたのだ。それは露伴先生のいたずらに憤っていた過去の私が、今の私に抵抗しているからかもしれない。岸辺露伴の仕打ちを忘れたのか!と。
 しかし、露伴先生の好奇心からくる突飛な言動に触れるたびに自然ににやけてしまう口は、思ったところで収まりようもない。万一見られでもしたら、岸辺露伴ときたら先程のように自分の奇行を棚に上げて見下げる態度を取ってくるのだから、彼よりも常識人という自信と安らかな心を保つためにも、私のにやけはどうにかして治さなければ困ってしまうのだ。

 千切りにした野菜をフライパンで煮込みながら、ふと窓の向こうを見た。露伴先生がスコップで花壇の土を掘り返している。新しく苗を植える様子もない。
 何をしているのかと興味がわいて見守っていると、露伴先生は肘の手前まで入る深さに掘るなり、おもむろに手を突っ込んで何かを探すように手をかき回し始めた。
 あまりに真面目な顔で、芝生に這いつくばりながら穴に手を入れているので、私も段々に気になってくる。野菜が煮えるまで時間があったので、「露伴先生!」と尋ねてみることにした。
「何してらっしゃるんですかー!」
 手拭きで手の水を拭って台所からテラスに向かって叫んでみる。一心不乱にかき混ぜていた手を休めて、露伴先生は少し鬱陶しそうに私を見てから、土だらけの手で顔を拭いた。
「ミミズを探しているんだ。後でまな板を持ってきてくれ」
「み……っ」
 土まみれの真顔に、何をするんですか?とは到底聞けなかった。何に使うんですか、とも。聞けるわけがない。今時小学生でもこんなことをするだろうか。
 考えこみそうになる頭を無理やり庭から外すと、私の目の前にはまな板が鎮座している。あと少しで何か良からぬことに使われる運命を背負った、岸辺家のまな板だ。
 露伴先生はこのまな板でミミズに何やらした後、はたして毎日このまな板の上で切った食材を食べて過ごすのだろうか。先生が食べるものだから私は別段気にはしないけれど、あまり想像はしたくない。
 でもやっぱり、胸がうずうずとした。顔をひきつらせながらも、私の半分は、露伴先生の好奇心に可愛さを感じている。日に日にそれは募るばかりで、露伴先生にどんな悪態をつかれようと止めようもなくなっていた。

 それに拍車をかけているものもある。
 いたずらと好奇心の塊のような露伴先生だけど、彼にも弱点はあった。それがまた私の心をくすぐるのだ。
 高慢でワガママな先生の弱味を握ったと思うと、少しでも怯む顔が見れるんじゃないかと浮き立ってしまう。露伴先生が人をおちょくるのも、そのせいかもしれないと何となく分かってしまったのが悔しい。
 弱点というのも、露伴先生はあまりウリ科のものが好きではないらしい。食べようとすれば何でもぺろりと平らげるが、何せ気分屋だからその時々によって食べることもあれば残すこともある。それをどうにかして食べさせようと試行錯誤しているのが、私のもっぱらの仕事だった。

 どこから仕入れてきたのか、冷蔵庫を大量のきゅうりが占めていた時は、きゅうり漬けからきゅうりのサラダ、きゅうりの煮付け、きゅうりのちらし寿司、きゅうり乗せの中華そば、きゅうりのサンドイッチなどもう何から何まできゅうり三昧にして、露伴先生をげんなりさせた。
「ぼくはウリ科の臭いが嫌いなんだよな」
 きゅうり生活3日目にして早くも箸を置いた露伴先生の顔と言ったら、まるで親にゲームを取られた子供のようだった。
「日が経てば経つほど、カメムシみたいな臭いがするだろ?」
「冷蔵庫いっぱいにきゅうりが入ってるんだから仕方ないじゃないですか。そんなに嫌ならご近所に分けたらどうですか」
 岸辺露伴という人は、余程人付き合いが嫌いならしい。私の言葉に頷くのに、たっぷりとその日の勤務時間をかけた。私が内心ほくそ笑んで明日のきゅうりの献立を考えながら掃除を終えた時にようやく、のそのそと仕事部屋から顔を出して、
「今日は買い物をしてくる…きゅうりは向かえの家にでも押し付けるよ」
と渋々冷蔵庫を漁り始めたので、私はその萎んだ背中にひっそりと笑みを漏らしてしまった。

 騙されているなぁ、と思わないでもない。露伴先生は康一が言う通りの「変人」でその上、他人が嫌がることをして悔しがる姿を見て愉悦に浸るような、どうしようもない性格を持ち合わせているのだ。自分に正直と言えば聞こえばいいが、単なるワガママ人間でもあった。
さん!バケツを持ってきてくれ! 早く!」
 庭から聞こえる声にうんざりした顔で振り向くものの、心ではしょうもない子供の遊びに付き合っているようで、少しだけわくわくしている。もしかすると、一番どうしようもないのは私なのかもしれなかった。
「バケツって……まさかミミズを入れるんですか?!」
「他に何があるんだ。早くしてくれ!小さいのでいい!」
 掘った穴に腕を突っ込みながら、もう片方の手を必死に振って私を呼ぶ姿は本当に少年のようだ。頬についた黒土に、にやっと笑いそうになるのを抑えて、私はシンクの下からバケツを取り出してテラスへと急いだ。


 病気だ。康一の顔を見るたびにそう思う。康一を見るにつけ露伴先生を思い浮かべてしまって、パブロフの犬のような条件反射に自分でも呆れ返る。
 スーパーに寄って夕飯の買い物をした帰り道、ばったりと帰宅途中の康一と出くわした。
「……げっ!」
「げっ、とは何よ、げっ、とは」
 これが康一の条件反射になりつつあるのだろう。
 露伴先生の家事代行バイトを引き受けてから、すっかり私を避けるようになった康一とは、何だかんだ近所なので顔を合わせる。それでも出来るだけ私の追求から逃れようとするのだから、本心から露伴先生と私の間に立ちたくないと思っているのだろう。
 特に部活にも入らず帰宅部生活をエンジョイしているらしい康一は、そのお陰で私と頻繁に出会ってしまっている。どんなに友人とつるんでいようと夜遊びはせず、必ず夕飯までには帰る優等生っぷりが、私に愚痴の機会を与えてくれているというわけなのだ。
「や、やぁ~久しぶりだね……」
「何で逃げ腰になるのよ」
 笑いを零しながら、私は黙って康一の先を歩いた。恐らく一歩後ろでは、露伴先生のことを尋ねるべきかどうか迷っているのだろう。いっちょ前に自分が引きあわせた責任を感じているところが、康一の好かれるところであって、損な性格だった。
「あのね、康一……」
 私の手にぶら下げた買い物袋からは、大きな大根とネギが飛び出している。揺らすつもりはなくても、袋は歩くだけで前後に大きく揺れた。
 露伴先生が可愛くて仕方ない──そう言ったら康一はどんな顔をするだろうか。冷や汗を流しながら「い……今なんて…?」と聞き返す姿が想像できる。今まで文句ばかり言っていた私の口からそんな言葉が出たら、十中八九面白い反応をしてくれることだろう。
 言いたくてたまらなかった。でも康一と露伴先生は情報を共有し合っているようで、要らないことまで筒抜けになっている。今までも何度か話してみようという気になったけれど、露伴先生に伝わってしまう可能性があるなら我慢しようと、うずうずした気持ちを抱えて帰路につく毎日だった。
 康一とは特に朝によく顔を合わせる。寝ぼけ眼でポストへ新聞を取りに行く私を、呆れたように横目で見ながら通り過ぎるあの顔にさえ、露伴先生のことを話したくてニヤァ…と笑ってしまうのだから、バイトを始めてから露伴先生のことでこってり絞っていたのもあって、康一がますます寄り付かなくなるのは当たり前のことだった。
「な、何?」
 私の詰問か愚痴が始まるのかと、康一はギクッとしたようだった。前に伸びる影で、肩が縮んだのがわかる。その様子に私は少しだけ反省をした。
 康一に話しかけたものの、何も話題を考えていなかった。ゆらゆら揺れる袋の影を目で追っていると、ぼんやりと露伴先生のことを思い出す。
「きゅうりってカメムシの臭いなんかしないよね?」
「……ハイ?」
 康一が首を傾げた。
「きゅうりが嫌いだって人がいてさぁ」
「や、やめてよ~、ぼく昨日知り合いからきゅうりを大量に貰ったばっかりなんだから」
 そう言ってホッとしたように笑う康一に私も頷きながら笑った。そうだ。そうそう。こういう反応。私のここ最近の日常には、こういう和やかさが足りなかったのだ。
 思って息をついた時、不意に、露伴先生の渋い顔が浮かんだ。嫌な想像と一緒に。もしかして。カメムシ、食べたのだろうか。
 緩ませていた頬が、ヒクっと引きつった。まっさか~!と思ったけど、露伴先生ならやりかねない。康一の話を聞けば聞くほど、露伴先生にあり得ないなんてことはない、とさえ思えてくる。
 そしてもし露伴先生が、あの向こう見ずな好奇心でトラウマになっていたというのなら、とんでもなく滑稽で、とんでもなく情けない話だ。
「…………さん……?」
 いつの間にか顔を背けて、肩を震わせて笑っていた私に、康一の怪訝な声がそっとかけられた。いつか完全に避けられるのも、時間の問題かもしれない。
 でも笑ってしまわなければ、収まるどころかどんどん増長していくこの愛おしさを、一体どこへ向ければいいというのだろうか。


 こんな状態の私が勉強に集中できたかというと、答えるまでもない。夕食も終え、入浴も済ませ、後は寝るまでの時間が残るのみとなってから、当の私といえば妙に浮き足立って何も手に付かない。パラパラ漫画を捲るようにテキストを弄ぶだけになっていた。
 そうなれば、もう時間なんてあって無いようなものだ。資格試験用にと意気込んで新しく買ったマーカーもシャープペンシルも放り投げて、しっとりとした日本の夏の夜に繰り出している。勉学に励むものには、気分転換という便利な味方がついているので、特に罪悪感もないまま時間を浪費することが出来るのだ。
 ぼんやりとした街灯に導かれるまま、私はふらふらと住宅街を抜けてOWSONへ立ち寄った。外壁の青白い蛍光灯で虫が跳ねる夜特有の音を過ぎれば、眩しすぎる店内の光に迎えられる。そのまま雑誌コーナーに向かい、夜勤でまったりしている店員さんを尻目に、料理雑誌をパラパラと捲った。

 ひと通り流し読んで満足した後だった。なんとなく新発売のいかにも不味そうなペットボトルを手に取って、小銭入れを開きながらレジへ歩く。俯いていた視界の隅に、同じようにレジに歩く人影がある。無意識に顔を上げた。
「あ」
 目の前の偶然に声を上げてしまった。
「……あっ」
 ワンテンポ遅れて返って来たのは、この二ヶ月で誰よりも聞き慣れた雇い主の間抜けな声だ。
 露伴先生は私の声に一瞬見開いた瞼を半分まで下ろすと、「なんだ君か」という風に興味を失くした様子でレジに並んだ。
「こんばんは、露伴先生」
 先生の後ろに並びながら、にこにことその背中に挨拶をする。露伴先生はそれに「ああ」と返したっきりレジを打つ店員を眺めて、世間話に花を咲かせるつもりもないらしい。
 仕方がなく私は自分から話しかけることにした。
「取材の帰りですか?」
 肩から下げているスケッチブック型のカバンと一眼レフカメラに目を遣りながら、出来るだけ呑気に尋ねる。
 詮索されることが嫌いな岸辺露伴への質問は、最新の注意を払わなければいけない。特にこういった疲れの溜まっている夜には、気分屋の機嫌がどっちに働いているかわからないのだ。
 一人の客が会計を終えて列から外れた。片足に重心を乗せてだらりと立っていた露伴先生が、一歩前に進む。
「まあ、そんなところだ」
 露伴先生は手に持ったホットコーヒーをレジに置きながら、私を振り向きもせずに答えた。機嫌はまずまずのようだ。
「あと、肉まんもひとつ」
 先生はレジの横を指差した。店員さんは消毒をした後、ケースの取っ手を引いてホカホカの肉まんを紙に包んでいる。
「わぁ、私もいつもそれを頼むんですよ!夏に肉まんを置いてるなんて珍しいですよね」
 横から覗き込んで笑うと、露伴先生が財布の小銭を探りながら肩越しに私を振り返って、呆れたようにじとりと見つめた。そうしてから小銭をレジの上に置くと、
「ぼくの一挙一動を観察する暇があったら、次のお客のためにお金でも用意していた方がためになるんじゃないか?」
と私の手のペットボトルと後列に目を向けるので、緩めていた口元を引き締めるしかなくなってしまった。
 あまりの憎たらしさに、話すはずだった和やかな言葉を噛み潰して呑み込んでいると、露伴先生は袋を片手に「それじゃァ」などと気取って去って行ってしまう。
 コンビニの入り口の音楽が侘しげに鳴って、漫画家先生の背中を夜道に見送ると、私は地団駄を踏みたい気持ちでいっぱいになった。
 悔しくて仕方がなかったので、バーコードを読み取っている店員さんに「ピザまん下さい!」と露伴先生とは別のものを注文してみたけれど、それが一層負けたように思えて悔しさは収まらなかった。

 会計を済ませるなり、OWSONを飛び出して歩道を走る。露伴先生と私の家までの道のりは、途中まで一緒だった。先生がコンビニを出てから数分も経っていない。すぐに追いついて、思いっきり話しかけてやる。今までの仕返しに、嫌々世間話に付きあわせてやる。
 そう思って、露伴先生の迷惑そうな顔を思い浮かべながら住宅街への一本道を走ったのに、追いつくはずの背中はどこにも見当たらなかった。
 小走りに辺りを見回してから、ガードレールに寄りかかるようにして立ち止まる。
「あっれぇ……別の道行っちゃったのかな」
 すぐ側には公園があった。小さいがひと通りの遊具があり、常緑樹で覆われて花壇も整備された綺麗な公園だ。ガードパイプを抜けた入口の奥には、背もたれ付きの木製の長椅子が設置されている。
 そこに人影があった。公園の薄暗い街灯が、その人のシルエットを暗がりに浮かび上がらせている。露伴先生だ。

 じゃりじゃりと砂を踏みしめて、長椅子へと一直線に歩み寄った。私の影に気づくと、袋を漁っていた露伴先生は顔を上げて、とても嫌そうに顔を顰めた。少しだけ、私の悔しさが解消される。
「……君はしつこいな」
「恥をかかせた露伴先生が悪いんですよ」
「あれくらい、恥とは言わないぜ」
 私が遠慮なしに隣へ腰を下ろすと、意外にも露伴先生は場所を譲るように体を椅子の端へ寄せた。立ち上がって帰る様子もなく、私に言葉を返しながら缶コーヒーのプルタブを捻っている。
 本気で迷惑がっているようではなかった。単にいつもの、人をおちょくるのが好きな病気のだけだったらしい。
「それはそうとさん、君はこんな時間に何をやってるんだ?」
「気分転換です」
 魔法の言葉を呟きながら、私もビニール袋に手を入れて、買ったばかりのペットボトルを取り出した。
「何だいそれは」
 流行に敏感な露伴先生は、見慣れないものとみるとすぐに物珍しそうに尋ねてくる。案の定食いついた先生に、私は口角をつり上げてキャップをひねった。
「炭酸飲料です。きゅうり味の」
 そう言って覗きこんだ先生の顔と言ったら、傑作だった。苦虫を潰すよりもずっとひどい、軽蔑混じりの表情だ。
「あんなものを買う人間はいないと思っていたが、好奇心は猫をも殺すって言葉を知らないようだな…」
「それを先生が言いますか」
 一度面白そうだと思ったが最後、自分が痛い目にあうまでとことん追求しようとする人が、何を言うのか。
 これ見よがしにペットボトルを煽ると、露伴先生の眉間の皺が一層深くなっていった。先生が言うほど、顔を顰めたくなる味ではなかった。
「飲めなくはない……かな……?」
さん、君の味覚を疑うよ……そうだ、君の料理は前々から少しぼくには合わないと思ってたんだ」
 確かに最初は残すこともあったけれど、最近では満足層にぺろりと平らげてしまうくせに、よくもまあ抜け抜けとそんなことが言えたものだ。
 ちょっと呆れながら、缶コーヒー片手にぼやいている露伴先生を見た。特に話題も考えていなかったのだけど、先生の顔を見た途端、ふと気になったことが口をついて出た。
「さんなんていりませんよ」
唐 突に切り替わった話題に、露伴先生は眉を上げた。
「……何だって?」
でいいですよ」
 何を言ってるんだこいつ、と言いたげな目が数回瞬きをする。私は今になって居心地が悪くなった。
「ぼくは君を雇っている立場だからそう呼んでいるんだ。君に指図される覚えはない」
 露伴先生はそう言ってコーヒーを大きく煽る。
 私自身、どうしてこんなことを言ったのか分からない。露伴先生の言い分も最もだし、私の方が年上なので、さん付けは自然で何も不思議のない呼び方のはずだった。それが、どうしてか不意に気になってしまっただけだった。
「そうですね、すみませんでした」
 照れくさくなって、はにかみながらもう一度袋に手を入れる。走った時に思いっきり振ったせいで、ペットボトルと一緒に入れたピザまんは、潰れて平たく伸びてしまっていた。

 何を考えているのか、露伴先生は夜道を眺めてぼんやりしている。露伴先生。呼びかけると、「ん?」と気の抜けた返事が戻ってくる。
「肉まんとピザまん、半分こにしませんか?」
「……まるで女子高生だな」
 言いながらも缶コーヒーを置いて肉まんを取り出す露伴先生の機嫌は、私が思うよりずっといいのかもしれない。
「ちゃんと半分にしろよ」
 差し出して言う露伴先生に、私はにやけそうになった。はい、と頷いてビニール袋を敷いた膝の上に乗せる。まずは潰れて、ピザそのものになりかけているピザまんを割りにかかった。
 私の横では露伴先生が、空になった袋をたたみながら何やらぶつぶつと呟いている。耳を傾ければ本当にどうでもいい内容だった。
「ぼくは“半分こ”と言いながら、どちらかが少なくてどちらかが多いような分け方をする奴が大嫌いなんだ。本人は“半分”だと思い込んでいる所がますます嫌いだ。どう見ても均等なんかじゃないのに、もし“それは半分じゃない”と言ったら、まるでぼくが小さいやつみたいに思われるじゃないか。不条理だと思わないか?正しいことを言ったのに、非難の目で見られるなんて」
「分かりました、分かりましたって!」
 私は吹き出しそうになるのを耐えながら、どうにか先生の目に適うよう慎重に半分に割った。“まるで小さいやつ”なんかじゃない。“まるで子供”のようなのだ。
 露伴先生の疑問や憤りというのは、成長する過程で誰もが諦めたり譲ったり納得しようとする現実に、向きあいきれていないところがある。だからいつまでも子供のようで、興味にあふれた少年なのだ。
「はい、分けましたよ」
 もう露伴先生に文句を言わせないように、私は先生の手に肉まんとピザまんを渡すなり、比べる隙を与えずどちらも一口大に千切って口に入れた。
 露伴先生も私の意図が分かったのか、「何て嫌なやつなんだ…」と呟きながら、肉まんを頬張った。

 暫く無言だった。食事をしている時は、あまり話をする方ではない。露伴先生もいつも新聞や雑誌を開いて食事をしているので、きっと私と同じなのだろう。
 もぐもぐとゆっくり咀嚼する。住宅街に面した公園は、しんとして夜の静けさに溶けている。風も吹かないのに、何故か涼やかな初夏の夜だった。新興住宅が増えS市のベッドタウンになった杜王町で、蛙の声が聞こえなくなってきたのはいつからだろうか。
 車通りもなく、私の膝の上に乗せたビニールが、身じろぎをするたびにガサリと小さく音を立てるくらいで、後は丁度いい空気に包み込まれている。
「気持ちいいですね」
「ああ、ぼくも杜王町の夜は好きだ」
 肉まんについていた薄いシートを丸めた露伴先生に、私はビニール袋を開いて差し出した。私もゴミを入れて、長椅子の脇へ置く。
 視線を感じて、隣へ顔を向けた。露伴先生がじっと私を見ていた。珍しい様子にどきりとして、「何ですか?」と尋ねると、露伴先生は静かに私の頬を指した。
「食べカスがついているぞ」
「へっ」
 慌てて先生の指先を追って手を当てるけれど、取れた気配はない。
「そこじゃない」
「えっ、どこですか? ここ?」
「そうじゃない」
「取れました?」
「まったく……」
 長椅子に手をついて、すっと露伴先生が身を乗り出した。ぐんと、距離が近くなる。露伴先生が視界いっぱいに近づいたお陰で、目の前から街灯が消えてしまった。暗くなる。露伴先生との間に出来た、灯りのない夜の空間が心細い。
 露伴先生の手が伸びた。ギチリ、と音がするくらい私の体は鉄のようになっている。
 待って、と思った。待って。自分で取れます。最悪取れなくても全然構わないんです。言いたい言葉は、不意に侵入した先生の存在に身を強張らせたせいで、口が固まって出てこない。
 頬に指先が触れた。冷たい手だった。それが、一瞬の感触ですぐに遠のいていく。
「落ち着きない食べ方をするからだ」
 指についた食べカスをピン、と弾いて露伴先生は呆れたように言った。

 助かった。真っ先にそう思った。睨まれたわけでも怒られたわけでもないのに、露伴先生が離れた途端、ほっとしてしまった。緊張からか締め付けられるようだった胸が、一気に呼吸をはじめる。忙しない動きだ。
「あ……ありがとうございます」
 どうしたんだろう。耳が詰まったように他の音が聞こえない。自分の声なのに、フィルターをあてたみたいにどこか遠くに聞こえる。
 露伴先生はまた残りのコーヒーを口に含んで、缶を両手で弄んでいた。ちらりとその横顔を盗み見る。掘りが深いために、露伴先生の俯き加減の顔は憂いを帯びたように見える。20歳にしては老けているのにまだあどけなさが残る顔を、街灯の淡い光が撫でるように照らしていた。
 あれっ?
 不思議な感覚がこみ上げてきた。手は無意識に、胸を握りしめていた。思ってもみなかった感情が、ぽつりと頭に浮かんでいる。
 格好いい──鮮明に浮かべて文字の羅列をなぞった途端、自分で驚いてしまった。格好いい?露伴先生が?あの岸辺露伴が?可愛いのではなく…?
「何ジロジロ見てるんだよ」
「へっ? あ、いえ、そのヘアバンド格好いいなぁ……って!」
「お世辞を言うんじゃあないよ」
 露伴先生は歯を出して怪訝な顔つきをしている。無愛想なくせに、くるくるとよく表情の変わる人だった。

 好きだなぁ。
 ぽつりと思って、私はいよいよ慌てた。今、私は何て思っただろうか。好き。そんなことを思わなかっただろうか。まさか、そんな筈は。何かの間違いだ。だって露伴先生にはこれっぽっちも格好いいところなんてありはしない。さっきのだって、きっと勘違いなのだ。
 ドッドッドッ、と体中を何かが走り回る音がする。私は狼狽えた。さっきまで全然気にしていなかった露伴先生の存在が膨張して、椅子の端まで圧迫しているような感覚に襲われる。逃げたいという思いがせり上がってきた。今すぐここから逃げ去りたかった。私の感情からも、露伴先生からも。
「お、もう10時になるのか……さん」
「は……ハイッ!」
 私は自分の名前に飛び上がってしまった。でも、これはチャンスだった。時間の話題はチャンスだと、すぐさま口を開く。知らずに大声を上げていた。
「な、なんだよいきなり大声を出して」
「帰ります! 眠くなってきたので帰ります…!」
「……君、大丈夫か」
「露伴先生には言われたくないです!」
 もう自分でも何を言っているか分からなかった。嫌な予感にざわついて、頭が意味もない言葉をかき混ぜながらぐるぐると回る。とにかくこの場から立ち去りたかった。走って走って、音の追いつかない場所まで遠ざかりたかったのだ。
 急にガタガタと荷物を持って立ち上がる私に、露伴先生は呆気にとられていた。
「ま、また明日お伺いします!」
「お、おい!」
 私はそう言ってお辞儀するなり、露伴先生の顔もろくに見ずに公園の入口まで走った。明日のことも、考える余裕はなかった。
 こういうのには予兆がある。いつだって目印がついているのだ。予感やきっかけは、自分でも把握できているはずなのだ。そして間違ってもそれは、露伴先生には感じるはずのないものだった。これだって、夜風に当たればすぐに冷める、そんな熱なのだ。そうに決っている。
 ガードレールにぶつかりそうになりながら、私は家までの道を一心不乱に走った。どんなに足を動かしても、ドッドッドッという音は、まだ私を追いかけてくる。

 私は懸命に走った。それでも普段の運動不足がたたって、家のすぐ近くで息が切れてゆっくりと立ち止まった。体が燃えるように熱かった。戸惑いで、頭がうまく回らない。
 あの時私はなんて思ったか。走れば忘れると思ったのに、その感情は振りきれずにしっかりと私のもとに付いてきてしまっていた。好き。鮮明に浮かべられる。好き。そう思った自分の心が。そんな、好きだなんて。
 頬に手を当てた。露伴先生の冷たい指先の感触が、まだ頬をくすぐっている。悲しくなんかないのに、それだけで胸がきゅっと締めつけられた。
 ばか。私の大ばかだ。よりにもよって、あんな人に惚れてしまうなんて。“さんはいらないです”だなんて。いつから。一体いつからなんだろう。
「……っ」
 ああそうだ、惚れてしまった。惚れてしまったのだ。いつの間にか愛しさが心に張り付いてしまっていた。私の気づかないところで、少しずつ成長してしまっていた。
 可愛さに気づいてしまった時。格好いいと思ってしまった時。多分、たった、それだけで。

 息はいつまでも整えることが出来なかった。胸の高鳴りが、どうしても鎮められなかったのだ。すぐに冷める熱だ。そう、言い聞かせ続けても。



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12/11/23 短編