夏の影には乙女が宿る


 私の頭は一体どうなってしまったんだろうか。露伴先生。考えることといえばそればっかりだ。
 寝ても覚めてもなんて言うがまさにその通りで、毎週決まりの三日間の休みであるにもかかわらず、夢の中でも岸辺邸で家政婦の仕事の続きをしているし、朝起きて母親の小言を聞きながら朝食の味噌汁を啜っている間も、いつの間にか露伴先生の昼食のことを考えている。
 そればかりではなく、今日は何をしているだろうかとか、昼食時以外にも顔を見る時間はあるだろうかとか、ちゃんと以前と同じように自然に振る舞えるだろうかとか、とにもかくにも頭の中は露伴先生で埋め尽くされるばかりだ。
 今まで無造作に結ぶだけで、どうでも良かった髪型のほつれも気になってくるし、露伴先生は気にも留めていないと分かっていても、こんなぼさぼさの髪を晒していたのかと思うと、思い返して恥ずかしくなり挽回したいという気持ちまでこみ上げてくる。
「ああ~、もうっ! もうっ!何やってんの私……!」
 鏡の前で必死にブラッシングしている自分と目が合って、ふっと我に返った時の羞恥心といったらない。色狂いなんて言葉で責めたくなって、それも岸辺露伴のせいだと思うと、ますます自分の頭がおかしいような気がして顔を覆いたくなるのだ。
「さいあく……」
 そう、最悪だ。完全に振り回されている。それも、岸辺露伴に直接的にではなく、私が自分で勝手に踊り狂っているのだ。そこが最も悲しいところだった。誰を責めるわけにもいかなければ、話すことも容易くない。
 ブラシを握ったまま床に手をついて、ため息を吐き出した。力のない、弱々しい息だ。瞬間、これが噂の桃色吐息かしら、と思った私の春めいた思考にげんなりした。その癖また、露伴先生との先日の事を思い出して頬を赤らめているのだから、百面相にも一層磨きがかかる。

 ついているぞ──
 そう言って私へ体を寄せた露伴先生からは、微かな香木と、本の匂いがしたような気がした。いつも向かっている原稿と、仕事部屋に所狭しと置いてある本も全て、インクの香りが染み付いている。それが露伴先生であるかのように。それが私にはとても新鮮だった。
 岸辺邸の戸口をくぐる度に吸い込む空気と、それはおんなじ物だったのだけれど、外で不意に嗅ぐにはいきなりすぎたのだ。多分その違和感が、私の胸を刺激してしまったのだろう。
 露伴先生の指先が頬に触れる直前、頬の神経だけが張り詰めていた。そこだけ研ぎ澄まされたように鋭敏になっていて、触れてもいないのに先生の熱を感じるような気がした。先生が近づく間だけ、息を止めてしまった。心臓さえ、止まっていたかもしれない。
 じっと私の頬を見つめながら、薄明かりの中、段々距離を縮ませてくる露伴先生の目を思い出した途端、カッと胸が熱くなって、私はいよいよ床に這いつくばってしまった。
「ひぃー、勘弁してよぉ……!」
 挙げ句の果てには、「さん」なんて声まで浮かんで来る。
「やだぁ、もうっ!」
 口を歪めたり、かと思えばにやけてみたりと、そうしてのたうちまわったがふざけてる場合ではなく、こんな調子で何にも手がつかないので、私の状態はかなり深刻な域に達していた。

 そんな周りが見えていないテンションで、一人の世界に浸ってきゃーきゃー言いながら、朝刊を取りに出た私と遭遇してしまった時の、康一の心境が分かるだろうか。毎度の不機嫌顔ではないことに安心しても、朝から楽しそうに独り言を言っている人間には、出来ることなら関わりたくないには違いない。
 しかし私は康一の姿を見るなり、このふた月で鍛えた条件反射で、登校中の幼馴染みを捕まえることに成功した。
 家の門の前を通りすぎようとした小さな背に、
「康一!」
 と上機嫌に呼びかければ、見つかってしまったことを一日分の不幸として悔いるような顔で、「おはよう」と康一は振り向いた。への字に口角を下げた口が、呼び止められた不服さを表している。
「何無視しようとしてんのよ~!」
「じゃあ聞くけど……何でそんなに上機嫌なのさ」
「私が機嫌いいとそんなにおかしい?」
 おかしい、と康一は間髪入れずに答えた。そうか、気をつけなければいけない。露伴先生に悟られるのだけは避けたいからだ。だってこれは、なんというか、まだよく分からない恋なのだ。どうしたいという願望もない。ただただ、露伴先生が気になって仕方ない、そんな幼稚な恋だ。
 いつもなら一言二言返すはずの私が、「そっか」などと言いながら、ただにこにこと頷いているので、康一は今度こそ本当に不気味に思ったようだった。早く立ち去りたい。そういう思いを滲ませた目に気づいていながらも、私はやはり、自分の欲求に正直に行動するので精一杯だった。
 恋をすると盲目になるというけれど、それには周りが見えなくなるという意味も大いに込められているのだろう。私はにっこりを通り越して、ニタニタに変わりそうな頬を必死で制御しながら、康一に、
「露伴先生のことなんだけど……」
と声を発した。こんなあからさまな態度で聞いてバレないだろうか、という懸念と、自分があれから初めて他人に対して口にした、“露伴先生”という響きにこみ上げてくる熱と、この二つの留めたい意思と沸き起こる喜びで、顔の筋肉には途轍もない負担がかかっている。笑顔を押しとどめる上からの力と、それがなければうっかりにやけている下からの力が、頬の中間部で火花を散らしている。
 そんな私の自己中心的なせめぎあいを知る由もない康一は、私の口から出た“露伴先生”の“露”の字の音で既に、サッと身を引いていた。
「待って待って、もう勘弁してよ……! の顔を見る度に露伴先生を思い出すようになっちゃったじゃないか」
 私とおんなじだと、妙な感動を覚えて、私は手を合わせた。
 友人だというくせに、「頼むから、朝から先生の話はやめてくれよ」と言い放った康一は、まだ笑顔を張り付けている私に念を押すように、人差し指を突きつける。
「二人の問題は二人だけで解決してよね」
「こ、今度は違うの」
 私は柄にもなく、幼馴染みに対して焦ってしまった。確かに今までは、康一を見かければ、それしか言葉がないみたいに「露伴先生」と言っては、ボコボコのけちょんけちょんにした愚痴でうっぷんを晴らしていたが、今度ばかりは違うのだ。どうしてか、そんなボコボコのメッタンメッタンのけちょんけちょんにしていた彼を、好きになってしまったのだ。
 康一は、もう何があっても私の話を聞く気はないらしく、バスの時間を気にしてからか、時計を見ながら塀にそって歩き出した。
 私は咄嗟に康一の背中を追いかけて、「いいから聞いて!」と腕を掴んでいた。なんて俊敏な動きと行動力なんだろうと、自分でも驚いたほどだ。その必死さに折れたのか、康一は塀から乗り出した私を振り返った。
「もー、いい加減にしてよね。バスに遅れちゃうじゃないか」
 私は一度頭の中を整理しようと思った。うっかり余計なことまで話し始めたら、次から康一は現役高校生の運動能力をフルに使って、私からダッシュで逃げていくだろう。それこそ自転車に乗っている時なんか、止めようもない。流石に体を張ってまで引き止めるのは、私だって出来ない。
 ぐっと唾を呑み込んで、頭を巡らす。あれでもないこれでもないと余計なことを全部弾いていけば、一つの、一番重要な事項が脳にぽつりと浮かんできた。
「ね、ねぇ……露伴先生って」
 腕時計を覗いていた康一が、私に視線を上げる。声に出そうと思ったのに、いざ言おうとすると、蒸留酒でも煽ったみたいに私の頭は熱くなって、口を中途半端に開いたまま、喉を震わせることが出来なかった。夏のしっとりとした空気が、吸っては吐き出される。それだけだ。
「……な、なんでもない」
 言ってから私は掴んでいた康一の手を離して、誤魔化すように「行ってらっしゃい!」と手を振った。残ったのは怪訝そうな康一の顔だった。
「一体何なのさ、そこまで言われると気になるじゃないか」
「忘れた」
 私はしれっと言ってのけると、今更向き直った康一へ先程のお返しに、
「いい? なんにも露伴先生に言っちゃ駄目よ? 嬲り殺すからね?!」
と人差し指を向けた。
 念を押すのに“嬲り殺す”って言葉を選ぶ幼馴染みがどこの世界にいるんだよ、と康一は言う。私もそう思う。けれどまっさきに浮かんだのがそれだったのだから、仕方ない。私の平和な頭で考えうる限り、最上級の脅し文句だったに違いない。
 康一はそんな私の補足を呆れた様子で流すと、「あんまり喧嘩しないでよ!」と言い残して、駆け足で駅へ向かっていった。その元々小さい背が、更に小さくなっていくのを見届けてから、私はぼんやりと新聞受けに手を伸ばした。


 露伴先生って、恋人いる…?──
 あやうく康一にそんなことを聞きそうになって、慌てて口を閉ざしてしまった。こんなことを聞いた日には、どんな鈍感な人間だって、私の自覚したてのほやほやな好意に気づいてしまうだろう。
 出来立て、ではないのだろう。多分、いつからか好きになっていた。その証拠に、改めて露伴先生を見て、愛しさが込み上げてきたからだ。
「おっ、今日のスープはなかなかだな」
「そ、そうですかぁ?」
 スプーンから口を離してにんまりとした露伴先生に、私は照れながら間延びした声を出す。言ってからハッとして、思わず咳払いをした。“いつも通り”と、あれほど自分に言い聞かせて岸辺邸までやってきたというのに、私ときたら先生の声を聞いた途端に、まるっきり忘れてしまっているではないか。
 料理をしている最中も、普段は歌わない鼻歌まで披露してしまったし、食器を用意するときなんかは、食器棚へ向かうのにステップまで踏みかけた。露伴先生が早めに現れていなければ、確実に床を軽快に蹴っていただろう。考えるだけでも恐ろしいことだ。

 夕飯の作り置きをまとめながら、ちらっと露伴先生を盗み見た。先生はテーブルの上に旅行雑誌を開いて、北欧あたりの伝統行事のコラムを読みながら、私が作ったコンソメ風味のトマトスープを黙々と口に入れている。
 週末に先生が使うだろうと思っていたトマトが、すっかり冷蔵庫の奥に押しやられ、潰れかけていたのを救出したのだ。他にも、買ったはいいが忘れ去られていたのだろう、賞味期限の近い魚介類を使ったリゾットと、これまた危うくなっていたアボガドとチーズにエビを混ぜたサラダ、出し巻き卵を添えてテーブルに並べると、露伴先生はほんの少し嬉しそうに椅子へ座った。
 可愛い、と思う。悪質な悪戯をする以外、感情をあまり隠さない人だ。それが私には嬉しくてたまらないし、今日も何とかここへ来て良かったと、幸福感さえ覚えた。そこに今では、胸をくすぐる甘酸っぱさが混じって、改めて愛しさが溢れてくるのだ。
 そして明日からの副菜のために浅漬を作りながら、材料を準備するふりをして何度も露伴先生の様子を窺ってしまう。
 先生は片手で雑誌の見開き部分をテーブルに押さえつけながら、リゾットをスプーンで掬って、零さないように前のめりの体勢で、大きく口を開けて食らいついている。
 厚い唇でスプーンを挟んで引き抜くと、室内の自然光で表面を光らせていた黄金色のリゾットは、露伴先生の口の中にすっぽりと収まってしまった。リゾットを頬張って少し膨らんだ頬が、咀嚼する動きで上下に揺れる。露伴先生の目は、その間も雑誌に向けられたままだ。
 そういえば露伴先生が食べているところを、意識して見たことはなかったかもしれない。この光景が新鮮なものに思えた。私は物珍しいものを見たみたいにうっとりとして、視線を外せなくなっていた。
「ん?」
と露伴先生が声を漏らす。スプーンを持ったままの腕を僅かに上げて、お皿の辺りを見回している。よそ見をしながら食べていたために、リゾットをスプーンから零してしまったのだった。
 私は一部始終を見ていたから、ボロっと滑り落ちたのがお皿の上に逆戻りしたのを知っているけれど、雑誌を読んでいた露伴先生は分からなかったようで、どこに落ちたのかと、きょろきょろと服の上や足の間を探している。それが私には、妙におかしかった。
 声を立てずに笑っていたはずだったが、口に手を当てた仕草で、露伴先生は気づいてしまったようだ。人の失敗を笑う意地悪さが、露伴先生の自尊心を傷つけたらしい。顔を緩ませている私に、テーブルの下を覗き込んでいた頭を上げて、露伴先生は眉を寄せた。
「一体何なんだ、この前からジロジロと」
 この前、というのはきっと先週の公園でのことを言っているのだろう。見ていたのがバレたことよりも、私の心臓はそっちの方に反応して跳ね上がった。
 先生も覚えていた──と思って不意に頬がぽっと染まった気がした。覚えていたも何も、つい数日前なのだから忘れる方が不自然なのだけど、露伴先生の口から聞くと、本当に会っていたのだと確認させられるようでどきりとした。
 夢じゃなかった。夜の穏やかな住宅街の公園で、先生と並んで座ったことも、肉まんを半分こにしたことも、私の食べかすを取ってくれたことも、夢ではなかったのだと実感する。たった三日間で何度も何度も繰り返し思い返したせいで、私の中では擦り切れたビデオテープみたいに現実味をなくしていて、細部を想像で脚色しているような気がしていたからだ。
「料理の出来がちょっと気になったので……」
 言った先からにやけそうになるのを、私は口をぎゅっとすぼめることで何とか耐えた。
 先生は私の返答に納得したように頷いて、さっきみたいに褒めるのかと思いきや、「あえて言うならリゾットが少ししょっぱいな」と言って、落としたリゾットの所在は諦めたようで、お皿に向き直ると、残ったスープに口をつけた。

 先生が昼食を取っている間に、一人暮らしには無駄に広い浴室とトイレの掃除に取り掛かり、残った時間を塵取りとモップがけで過ごした。そうすればいつも帰宅時間に丁度いい頃に、片付けられるのだ。
 玄関口に活けられた花がしおれかけていたので、花瓶の水を取り替えようと持ち上げると、書斎へ続く廊下から露伴先生がじっと私を見ていた。今来たという様子ではない。暫く前から見られていたようだった。
 ドキッとした。でも悲しいことに、岸辺露伴という男はそういう気持ちに浸らせてくれる人ではない。こういうことには前例があったので、また良からぬことを考えているのではないかと、思わず私は身構えた。
 今日は掃除用具以外は何も物は移動していないし、康一も最近は露伴先生に会っていないという。なんだろうか。なんの用だろうか。期待のような不安のような、綯い交ぜにした気持ちがぐるぐると胸の周りを巡って、心拍数を上げていく。
 露伴先生はそんな私の気など知らず、目が合うと猫背のままズボンのポケットに手を突っ込んで、
「君は、今日は随分機嫌がいいな。何かあったのか?」
と何気なく尋ねて来た。
「はい?」
 突然のことだったので、目を丸くしながら言葉に詰まって聞き返すと、
「ずっと鼻歌を歌っていただろ?」
と言う。
 気づかなかった。仕事中だというのに、また無意識に歌ってしまっていたらしい。やってしまった、と思いながら答えに困っている私を、露伴先生は首を傾げながら見ている。
 頭に浮かんできたのは、露伴先生がいるから──なんて馬鹿正直な言葉だ。私は先生の前だというのに顔を赤くしてしまった。そんなことは、到底言えるわけがない。
 私が花瓶を抱いたままもじもじと言い訳を探していると、露伴先生が「熱いのか?」と言った。
「えっ? いえ……あ、はい、少し……?」
「君、顔が真っ赤だぞ」
 じわっと、手に汗が滲んだ。花瓶が滑り落ちないよう、強く抱き締める。岸辺露伴の花瓶なんかを落としてしまったら、一生タダで働いたって返せないだろう。一生ここで、露伴先生の世話をしたとしても。
「も、もう7月ですから……! 動いたし、熱くなってしまって」
 笑って体を揺らすけれど、自分でも分かるほど大袈裟だったように思う。それでも急に慌てふためいた私を訝しく思うこともなく、露伴先生は「そうか?もう少ししたらリビングには冷房を入れるよ」と言った。
「ありがとうございます」
 そう返しても私には、もうすぐ来る快適な環境を喜ぶ余裕もなくなっていた。出来るだけ先生に顔が見えないように、不自然に目を背けて歩いている。
 露伴先生は今日に限って何故か、私によく話しかけてくる。それが嬉しくてたまらないのに、困惑する気持ちも大きかった。上手く話せているか。そんなことばかりを考えているせいだ。
 本当は、何か頼みたい用事があったのかもしれない。だから私の仕事が終わるのを、戸口に立って待っていてくれたのかもしれない。それなのに一杯一杯だった私は、それを聞くこともなく、急ぎ足で先生の前を通り過ぎてしまった。
 私の背中にかかる「その花瓶は落とさないでくれよ」という声も私の耳には、霞んではっきりとは聞こえてこなかったのだ。

 恋というのは、こんなに大変なものだっただろうか。自分の妄想に振り回されて、正しい判断が出来ない。いつも何かの衝動に突き動かされているようだ。たった一日だ。自分の想いを自覚して、露伴先生と会って一日目で、こんなに変わってしまっている。
 花瓶からそっと花を抜いて、古い水をシンクへ捨てていると、数時間でやらかした失態の数々に声を出してため息を付きたくなる。でも、また露伴先生が聞いていたらいけないと、それを飲み込んで、花瓶の中に入っていた葉っぱをシンクから拾い集めてゴミ箱へ捨て、蛇口を捻って花瓶へ水を注ぐ。
 もしこの花瓶を割ったら、露伴先生は何と言うだろうか、と思った。やはり嫌味を込めて、ずっと花瓶の話題をネチネチと出し続けるのだろう。それでも、私に弁償なんてさせるだろうか。何が何でも返せと、そんなことを言う人だろうか。「一生働いて返します」だなんて言葉は、きっと言う機会がないだろう。
 分かってても、私は自分の空想に夢を見た。露伴先生の前で永久就職なんて思考を巡らせて、あまりの乙女っぷりに動揺してしまった。しかし心の片隅で、そんなことがあればいいと一瞬でも思ってしまって、それが無性に恥ずかしかった。

 水を入れなおした花瓶に、しおれかけた花を差し入れる。この花は、私がいる間に枯れてしまうだろう。露伴先生は、次は何の花を活けるのだろうか。気分屋だから、暫くはこの花瓶は骨董品のように玄関に飾られるだけになるかもしれない。私は、次の花を見ることもなく、水を替えることもなくなるかもしれない。
 今日、仕事をしている間に思ったのは、露伴先生への浮かれた気持ちだけではない。私が康一に紹介されてここへ来てから、もうふた月が過ぎている。契約は三ヶ月だった。つまりあと二週間しかない、ということだ。
 普段だったら、恋をしても絶対に追いかけようとなんかしないだろう。でも、私は反射的に思っていた。露伴先生を見ている内に、どうしてか繋がりを絶ってはいけないという強い思いが、こみ上げてきたのだ。
 思えばこのふた月は、酷いことばかりだった。泥棒扱いされたり、料理が口にあわないだけで貶されたり、自分から雇ったくせに、テリトリーを荒らされたと言わんばかりに、細かいことまで注文をつけてくる。痴呆手前の老人よりもたちが悪い。
 それでも露伴先生は私を解雇しようとしなかったし、その内に慣れない注文にあたふたしている私をからかっているだけなのだと、気づくようになった。憤りもしたけれど、決して嫌いではなかった。そこまで嫌悪感も湧いては来なかった。それは、露伴先生が子供のように楽しんでいたからだろう。そこに、悪意などなかったからだ。
 二週間後に訪れるだろう、露伴先生のいない昼食を、私はどうしても考えたくなかった。もしかしたら、私は私が思うより深く、露伴先生に惹かれてしまっていたのかもしれない。

 ぼーっとしながら花瓶を玄関口の棚に飾っていると、何かが頭に触れて振り返る。ぎょっとした。突然露伴先生が背後に現れて、私はあまりの至近距離に、つい「わっ」と大声を上げてしまった。
「お、おいおい、そんなに大声を出すなよ……通報されたら困るじゃないか」
「す、すみません、びっくりして」
 露伴先生の冗談にほっと息をつきながら謝ると、先生は掲げていた右手をそのまま開いて、「ほら」と私へ向けた。そこには大きな埃が摘まれていた。それを取ろうとしてくれていたらしい。先週のことがフラッシュバックして、ほんのりと頬が染まった。
「それとこれだ」
と、先生は茶封筒に入った日当を私へ渡して、お手製らしい勤務表へサインを求めた。
 私は受け取ってサインをしつつ、表の下を眺めた。そこに書かれている勤務予定の日付は、きっかり二週間後で終わってしまっている。
 ペンと紙を返しながら、「ありがとうございます」と私は言った。鼻歌を歌ったり、大声を出したり、あれだけ元気の良かった喉が急に縮んでしまっていた。か細い声にならないよう、私は精一杯努めた。
「また明日もよろしくお願いします」
 この言葉も、あと何回言えるのだろう。いや、分かっている。今日を入れて、あと7回だけだ。また明日。そう言える日よりも、言えなくなる日を考えると、三ヶ月がどれだけ短かったのかを思い知らされる。出来ることなら、もっと言いたかった。「また明日」じゃなくたっていい。「また」と言える関係であればそれでいい。
「うん、それじゃあ、お疲れさん」
 露伴先生はそう言うとすぐに背を向けて、仕事部屋の方へと歩いて行く。いつもよりそっけなかった。それが、二週間後の姿のような気がして、一層寂しさと焦りが私の背を這い上がってきた。
 岸辺邸の少し重い戸口を閉めて、庭を横切る。角を曲がれば塀ですぐに先生の家は見えなくなる。そこまで歩いてから、私は家までただひたすら走った。


 げんなり。そんな顔を見るのは本日二度目だ。下校時間を見計らって、康一の家の近くで待ち構えていた私に、康一はあからさまに面倒くさそうな顔をした。突っ込むべきところなのだけれど、でも、私はそれに構っていられる心境ではなかった。
 康一の姿を見るなり急いで歩み寄って、今度は最初から腕を掴んでしまう。思いつめた顔をしていたのかもしれない。康一は「いい加減に」と言いかけた口を閉じて、心配そうに眉を寄せた。
「どうしたの?
「こ、康一……」
 露伴先生の家から帰って来て、まだ一時間しか経っていない。その間に私は居ても立ってもいられなくなっていた。康一の名前を呼んだ途端に、堰を切ったように言葉が次々と口から飛び出してくる。
「ろ、露伴先生のよく行くお店ってどこなのかな……?」
「好きなものってなんなの?」
「旅行以外の趣味は?」
 露伴先生のことを知ったつもりで、普通に付き合いがあったなら一番最初に知るだろうことを、私は何も知らない。本当に、何もだ。
 接点を持とうと思って、一番最初に頭に浮かんだのはメールアドレスだった。新しいものに飛びつく露伴先生のように、携帯は持っていないけれど、私だって幸いPCはある。「何かあったら」と言って交換すれば、少なくともアドレス帳越しに繋がっていられるだろう。ナンパ臭い手法だけど、確かに繋がりは持てる。
 でも、露伴先生が私にメールをしてくるなんてあり得るだろうか?アドレス帳に“岸辺露伴”の名前を入れたとしても、眺めるだけで私だって、多分、先生にメールすることなんてないだろう。何より、「何か無ければ」連絡なんか出来ない。その程度の距離なのだ。露伴先生と私なんて。このまま三ヶ月を過ごしたとしても、なんにもない。なんにも知りもしない。
 康一は私の意図を測りかねているようで、口を開けたまま首を傾げている。それでも気迫だけは感じているらしく、私が話すたびにじりじりと体を反らして行っていた。それを追いかけて、私も近づいていく。傍から見れば、二人で同じ速度で移動しているだけだ。
「だからいっつも言ってるけど、そういうのは本人に……」
「お願い康一、」
「あのさァ……」
「あと二週間しかないの……」
 最後の言葉に、思うところがあったらしい。康一は、はっとした後に息を飲み込んで、私を信じられないものでも見るように凝視した。
「も、もしかして……」
 康一の意味を含んだ視線に、私の頬はみるみる内に赤らんでいった。下から押し上げられるように、急に顔の熱が上昇する。隠したいのに、勝手に頬に血が集まっていく。
 違う、と言うべきだった口は、開いたり閉じたりと繰り返すだけで声にならない。まるで餌を求める金魚のようだ。その様子が肯定だと、いくら鈍感な康一でも感づいてしまったのだろう。むしろ、気づかない方がおかしいのだ。
「ええーウッソぉー……」
 私は覚悟を決めた。顔を赤らめたまま睨むようにして、康一の腕を力いっぱい握り締める。

 みんな、いつでも出会いはあると思っている。友人だろうと、恋人だろうと、いつでも出来るものなのだと思っている。だからいつ逃したって、次があるから大丈夫なのだと思っているのだ。わたしだってそれは例外じゃなかった。でも、本当にそうなのだろうか。こんな出会いが、またあるっていうのだろうか。岸辺露伴のような人との出会いが、残る数十年間で。
 多分これは、大事な恋なのだ。何となくでも、恋に憧れてしている恋なんかでもない。心から惚れかけているのだ。あの、露伴先生に。それに気づいていて、怖気づいて何もしないまま、一生に一度の出会いを逃すなんて、きっと後悔する。だってあんな人には、もう二度と会うことなんて出来ない。あんな変人に、人生で何人にも出会ってたまるものか。
「だからお願い……!」
 私は直感したのだ。これが一つしかない恋だと。だったら惜しむ前に、本気で追いかけてみるしかないじゃないか。



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12/12/20 短編