町には魔物が潜む


 期末テストも無事に終わり、7月の半ば、ぼくらの夢と期待と堕落の夏休みが間近に迫った日のことだった。
 答案用紙を前に回して返却すれば、あとは先生の言葉なんか、誰の耳にも入っていない。すべての生徒の心は開け放った窓から、夏の彼方へ飛んでいってしまっている。
 この一週間で、温度計の平均値はぐんぐんと上がっていった。そのせいで机に座っているのも億劫になるほどだ。夏の暑さだけでなく、テストに普段使わない頭をフル回転させた生徒たちの熱がこもって、教室を蒸すような暑さにさせている。最近では蝉の鳴き声まで聞こえ始めて、体感温度を上げる手伝いをしているのだから、大人しく教室にいるやつなんて、とっくにエネルギー切れを起こして死んでいる人間くらいだろう。
 ぼくは号令が終わると早々に教室を逃げ出して、自販機で飲み物を買おうと廊下を走っていった。それを呼び止めたのは、同じく熱気地獄から抜け出してきた仗助君だ。
「おい、康一ッ!」
 ぼくは階段の中間辺りで、階上から駆けてくる大きな影を見上げた。仗助君はぼくの姿を見て、走って追いかけてきたようだ。軽い足取りで段差を降りつつ、
「ジュース買いに行くんなら一緒行こうぜ」
と、すぐに追いついたぼくの背中を叩いた。
 ぼくたちは、踊り場から階段を同時に降り始める。話題を探す間もなく、ぼくは「調子はどう?」とか「いい天気ですね」くらい言い古されているお決まりのフレーズを発した。
「テストどうだった?」
 それに仗助君は「本気か?」と言いたげに眉を上げて、手を振った。
「あーっ、やめだやめ! テストって言葉を聞くと、おふくろと暑苦しい教室を思い出しちまう。折角テスト終わったんだからよ~~、もっと楽しい話しようぜ」
「楽しい話? う~ん、そうだなぁ……」
 数学の公式やら歴史の年表で凝り固まった頭は、まだ手に入れたばかりの自由に期待が膨らむばかりで、開放感を具体化出来る物事を思い浮かべられずにいた。唸りながら生徒でごった返す廊下を、ぶつからないよう身をかわして歩く。
 ぼくがこれからの夏休みに不安を覚え始めて、真剣になって考え込んでいると、前を歩いていたために程よく壁になっていた仗助君が、突然「あっ」と言ってぼくを振り返った。勢いが良かったので、ぼくは踏みとどまれずに仗助君のお腹に鼻っ柱を突っ込んでしまった。
 仗助君は「すまん」と言いながらも、話を続ける。
「そういやこの前、俺すげーモン見ちまったよ」
「すごいもの?」
 頷きつつ、仗助君は空いている自販機を探して視線を彷徨わせた。
 ぼくが頭を捻ってる間に、いつの間にか目的地へたどり着いていたようだ。ただ、狭い校内でみんな考えることは似通っているらしく、数台の自販機にたくさんの男女の行列が出来ている。その後方に並んで落ち着くと、仗助君は大ニュースを匂わせるわりに、普通のトーンで口を開いた。
「なんと、あの岸辺露伴が公園デートしてたんだぜ~~あの露伴がさァーーーー。驚きだろ?」
 その口調は、昼食のおかずが何かを話題にしているような話し方だ。だからぼくもそれにつられてにこやかに笑いかけたのだ。けれど、内容はそんなに日常的なものじゃなかった。それに気づいて、ぼくの頬が急に笑顔にブレーキをかけ、ギシリと軋んだ。
 仗助君は気にする様子もなく、最後まで話し終えることだけしか今は頭にないみたいに、淡々と話し続けている。
「あいつにはなるべく近づかねーようにしてたけど、あんまりにも信じられねー事態だったからよぉ、通り過ぎてから戻って思わず二度見しちまったよ」
「そ……」
 ぼくは声を出そうとしたのだけれど、雑踏の笑い声に押しとどめられ、続きを言うことが出来なかった。
「それもだ」
 そう言って、仗助君はそこで初めてニヤリと、いつものお得意の意味深な笑みを浮かべた。
「キスまでしてたぜ、あいつ」
「え……」
 ぼくは目を丸めて仗助君を凝視した。動いた行列を一歩一歩追いながら、肯定するように、彼は一つ頷く。
「えぇええぇ~~~ッ?!」
 喧騒な廊下に溢れる大勢の内の数人が、その声に反応してぼくと仗助君を見たけれど、すぐに関心をなくした。
 露伴先生に限って──と思った。でも、思えばあの漫画家らしからぬスタイリッシュな容姿と、エラの張った男らしい輪郭の中にある、どこか影を帯びたように見える表情が、多少女性に人気のあることは知っている。でもそれと、あの変な性格と付き合えるかは別だ。
「ま、まさかぁ~」
「いーや、あれは露伴だったね、確実に」
 茶化すぼくに対して、仗助君はきっぱりと言い切った。
 脳裏に浮かんだのは、ぼくの恋人だった。もしかしたら露伴先生と同じくらい、いやそれ以上過激な内面を持った人だ。その由花子さんにも彼氏がいるのだから、ぼくのような物好きが露伴先生にも、いておかしくないじゃないか。
 また、列が前に進む。女生徒が数人でやに長い時間をかけて選んでいるせいで、中々辿り着かない。ぼく達の隣の自販機に同じ頃に並んだ生徒は、とっくに自分の目的の物を買い終えてどこかへ行ってしまっている。
「いやッ! でも俺は見るつもりじゃあなかったんだぜぇ~~~? だってよォ、町中でゴリラが犬の散歩してたら見ちまうだろ? 誰だって。そういう反射的なものでよー」
「それとは違う気がするんだけど……」
 仗助君は焦ることもなく、のんびりと順番を待っている。こういう意外におっとりとしたところが、女の子にモテる理由の一つなのかもしれない。そして露伴先生のことも、あくまで彼にとっては世間話とおんなじもののようだった。でも、ぼくにとっては少し違う。
 仗助君に合わせてのんびりと待つぼくの脳裏には、もう一人の物好きと言える、幼馴染みの顔が浮かんでくる。思い出すのは、数日前のことだ。


 に露伴先生の想いを聞かされた時は、正直飛び上がるほど驚いた。だって、まさかじゃないか。ぼくで憂さを晴らすくらいに嫌っていた露伴先生を、が好きになるなんて、誰が思うだろうか。
 少なくともぼくは、天地がひっくり返ってもそんなことはないだろうと思っていたし、そもそも可能性を考えもしなかった。契約が終わる三ヶ月の間の辛抱だと、思って疑わなかったのだ。
「な、なんで露伴先生なの……?!」
「なんでって……」
 驚きのあまり、目一杯の力で掴まれた腕の痛みも忘れて、ぼくがをまんじりと見つめ返すと、今までのことを考えれば至極当然とも言えるぼくの質問に、は勢いをなくして口ごもった。
「そ、そんなの考えてもみなかった……」
 そうして答えを待って出たのは、この言葉だ。狐につままれたような気分だった。はぽかんとするぼくの前で、ぼくに話しているのか自分に語りかけているのかわからない様子で、もぞもぞと言葉をつなげていく。
「さ、最初は最悪だったんだけど、見てるとなんだか可愛いところもあって」
「かわいいって……あの……」
 ぎょっとした。
「可愛い~~~?!」
「ほ、ほら! すぐムキになるところとか、子供っぽいじゃない……!」
「ああ……うん……」
 これまでのイメージを180度転換する、とてもポジティブな考え方だ。きっと今のの変換機能は、受験面接なんかで役に立つに違いないし、そのミラクル級の変換能力をもってすれば、コーネリアスもジェームズ・ボンドにだってなり得るだろう。
「そういえば、」
 まだ思考の追いつかないぼくを更に置いてけぼりにして、の口はまたスタートラインを踏み出す。「露伴先生って」という弱まった声に耳を傾けながら、ぼくの頭はぼくの知っている岸辺露伴の像を再確認するように、彼の姿を思い浮かべていた。
「その……顔も、好みじゃなかったけど、よく見ると……その、ちょっと、か……格好いい気もする……っていう、か……ね?」
 この言葉を聞いて、ぼくは目の前の幼馴染みはもうダメんじゃないかと思った。取り返しのつかないところまで突き進んでいってしまったんじゃないかって。「ね?」と言われても、ぼくの首は錆び付いてピクリとも動かない。
 でもの方は、別段同意を求めているわけでもないようだった。だって彼女の口はゆるゆるとではあったけれど、ぼくの相槌なしでも、休む間もなく動いているのだから。
「背は高いし……」
「いい匂いもするし……」
「清潔だし……」
「行動力もあって……」
「言葉はあれだけど、どこか芯があるっていうか……」
 聞けば聞くほどべた褒めだ。あの岸辺露伴をだ。こちらの鳥肌が立つほど褒めちぎっている。今まで散らかしてきた悪態の数々にそれを投げて、浄化しているかのようだ。
 困り果てて立ち尽くすばかりのぼくに、はまったく気づいている様子もない。一人突っ走っていたの背中はいよいよ遠ざかって、ぼくの目の前から見えなくなっている。放っておいたら止まることなく、地球の裏側まで行ってしまうだろう。ぼくの思考が、これっぽっちも追いつけないところまで。
 それに。ぽつりと呟いて、途切れることのなかった声が止まり、ぼくは意識を引き戻された。目の前の顔が不意に俯く。逡巡するように口が動いた。
「や、優しいところもあるし……」
 言った途端にボッと赤らんだ顔への衝撃を、ぼくは忘れもしない。それは紛れもなく熱に浮かされた、恋する乙女の顔だったのだ。

 露伴先生は一体、に何をしたっていうのだろうか。
 の話から、露伴先生は頻繁ににヘブンズ・ドアーを使って、からかいのネタにしては暇を潰しているようだと分かっていたので、多少は心配していたのだ。でも、ふた月経ってもから聞く愚痴は、それ以上のことはないので、ぼくの方もすっかり露伴先生のいたずらに気を許してしまっていた。
 もし今度のことで、度の過ぎたいたずらが関係あるなら、責任の一端にはぼくもある。そもそもの始まりは、生物で赤点をとったお陰で、補修の代わりに出されたレポートの資料にと、露伴先生の家に本を借りに行ったことからだったからだ。
 経験に家政婦を雇ってみたいと零した先生に、植物の本をめくりながら何の気なしに、家政婦をやっていた幼馴染がいる、と言ってしまったのだ。信用できる人間を頼みたいと言っていたから、ついぽろりと口に出してしまった。
「君の幼馴染み? ……ああ、そういえば前に読んだ時に、そんな記述があった気がするな」
「今、勉強しながら仕事を探しているみたいだし、興味があるなら話してみましょうか?」
 多分、本に意識を半分取られていて、深く考えることが出来ていなかったのだろう。判断力の削がれていたぼくから出た言葉に、露伴先生は意外にも「会ってから決めよう」と言って、即頷いた。それからは、トントン拍子だった。が露伴先生の本性に気づくまではだ。
 それが今じゃあ、ベタ惚れだというのだから、一時の気の迷いであったとしてもとても信じられないことだった。ぼくが心配してしまうのも無理はないだろう。
 でもの恋心が本当だったとしても、可哀想だけど、露伴先生に恋人がいるんじゃあ早めに諦めたほうがいいかもしれない。多分は知らないし、惚れて間もない内に教えてしまった方が、傷も浅くて済むだろう。それこそ、彼女の思考が地球の裏側まで行ってしまわないうちに。
「俺は今日はコーラの気分だなァ」
仗助君のそんな声を聞きながら、後で先生に何気なく確認してみよう、と心に決めて、ぼくはようやくたどり着いた自販機のボタンに手を伸ばした。


 ぼくは自分の行動力を賞賛したい。その日の学校帰りに早速、ぼくは帰宅途中の足をそのまま岸辺邸へと向けていた。
「先生の来週のカラー原稿を見に来ちゃいました」
と言えば、露伴先生は嬉しそうにぼくを中へ招いた。ぼくもカラー原稿の話は嘘ではなかったので、イキイキとして仕事部屋について行った。これが漫画家との知り合いの役得だ。
 は休みの日だった。狙ってきたわけじゃあないけど、お陰で鉢合わせする心配もなくて済んだ。思えば来週で、の岸辺邸での家事代行の契約は切れる。露伴先生も十分すぎるほど家政婦を雇う日常を体験しただろうから、きっと文句もないだろう。
 問いただしたいことは山ほどあったけど、露伴先生の前では、敢えての話は出さなかった。今日は、彼女とは全く別の用事だと思わせたかったからだ。

 岸辺邸の中は、学校の教室にもう二度と行きたくなくなるほど、風通しが良くて夏とは思えないくらいに居心地がいい。裏庭から聞こえる蝉の声すら、風鈴のように涼やかに思えてしまう。
「恋人だって?」
 その快適な部屋で、よだれを垂らさんばかりに原稿を眺めてうっとりした後で、露伴先生の淹れてきた紅茶を飲みながら、ぼくは興奮で忘れかけていた話題をようやく持ちだした。それに対して、自分もカップを持った露伴先生は、椅子の肘掛けに凭れながら、ぼくの質問を繰り返した。
「いるかどうかは別として、それを何で君が気にするんだい?」
「あの、その、ホラ、先生有名だから、色々と大変なこともあるんじゃないかって……!」
 しどろもどろに用意していた理由を告げるぼくに、露伴先生は吹き出した。そうしてからケラケラと笑っていたかと思うと、次には腹を抱えて爆笑している。
「康一君は、そんな面倒なもの、ぼくが持つと思ってるのかい?」
 息も絶え絶えな声に、いいえ、とは言えなかった。だって突拍子のないことばかりするのが得意な人だから、この人に限っては“あり得ない”なんて言葉は一切使えないのだ。
「でも、じょう……」
 仗助君と言いそうになって、慌てて口をつぐんだ。それから唇を軽く舐めて、「ぼくの同級生が」と言い直す。
「この前公園で、露伴先生が女性といて、その……キスしてたって」
 笑いを滲ませていたはずの露伴先生の目つきが途端に鋭くなったので、ぼくは慌てて「偶然見ちゃったらしいんです…!」と付け足した。とてもじゃないが、露伴先生の天敵とも言える仗助君が、それも“犬の散歩をしているゴリラ”を見かけたのと同じレベルの好奇心で出歯亀をしていた、だなんてことは、口が裂けても言えたものではない。
 露伴先生は少し考え込む素振りをして、「それ、本当にぼくだったのか?」と言いながら顎に手を添えていたが、暫く考えていると、思い当たったように軽く声を上げた。
「ああ、なるほどな」
「や、やっぱりいるんですか?彼女」
 どうしてかがっくりと来たぼくに露伴先生は、仕事が終わって整然とした机の上にカップを置くと、ギシリと軋ませながら椅子に座り直して、ぼくへ向き直った。
「康一君、あんな仗助のようなくそったれの言うことは、あまり鵜呑みにしない方がいいぜ」
 先生の突き刺すような視線にか、真相を言い当てた言葉にか、ぼくの心臓がドキリと跳ねた。ぼくの同級生で露伴先生の顔をはっきりと知っていて、遠目でも分かる人間なんて、限られている。伏せても先生には分かってしまったようだった。
 バツの悪そうに頭をかくと、「まあ、いいけどな」と露伴先生はくるりと椅子を回して、机を漁り始めた。

 結果は分かってしまったのだ。仗助君の勘違いで、露伴先生には恋人がいない。それさえ知れれば、もうぼくの目的は全部達成してしまったのだが、来たばかりでしかもこの話題の後に帰るなんて勇気はぼくにはない。
 机の引き出しを開け閉めしている先生の背中に、どうにも嫌な予感がして帰ると言いたかったのだけど、そこで帰ればまるで詮索するためだけに来たみたいだったので、話題を探しながら露伴先生の背中を何気なく眺めていた。まったくぼくは幼馴染思いだ。これっぽっちもそのお返しが来た試しなんてないのに、ここまで付き合っているのだから。
「ところで、折角来たんだから、付き合って欲しいことがあるんだ」
「はあ……」
 そらきた、とぼくは思った。露伴先生に今日は情報を貰いっぱなしだから、頼みごとは出来ることなら聞いてあげたい気持ちもある。でも先生の場合それは等価交換では済まないのだ。いつもいつも、押しの強さと厭味ったらしい引きに負けて付き合う内容は、迷惑の十倍交換になってしまっている。
 露伴先生は机の一番下の引き出しから革製のバックを取り出すと、ジッパーを開けて一眼レフカメラを取り出した。去年の吉良吉影の騒動の後、100万以上もするデジタルカメラを買ったと言っていたが、どうやら今ではもう慣れたフィルムカメラに戻してしまったらしい。
 黒光りする重たそうなそれを持ち、露伴先生は「突っ込んだことを聞くけど」と注釈を置いてぼくを振り向いた。
「君はプッツン……いや、由花子とは上手く行っているのかい?」
「え、ええまあ……」
 露伴先生が口を開けば開くほど、普段みんなをなんて呼んでいるのかが、どんどん明るみになって行くのだけれど、本人は少しも悪びれはない。
「彼女はまだ君にベタ惚れなんだろ?」
「そ、そう言われると、答えるの困っちゃうけど……ハイ、多分」
 なんだか逆の立場になってきているぞ、とぼくは感じた。段々に、さっきとは違う意味で居心地が悪くなってくる。こういう話題には慣れていない。「それがどうしたんです?」とカップを弄んで、もじもじしながら尋ねると、レンズに手を添えてカメラを構えた露伴先生が、ぼくに向かってシャッターを切った。
「ほら、この前三部が完結したじゃないか、ピンクダークの」
「ええ……はい」
「四部では少し恋愛要素を入れてくれって、編集部の方から言われてね」
 話が見えてきた気がするぞ。今度は本気で嫌な予感だ。「それで?」とぼくが窺うように聞き返すと、露伴先生は待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべて、
「君と由花子のちぐはぐ感を題材にしたいんだ。写真数枚と取材の許可をくれないか」
と言った。
 ああ……やっぱり……──
 ぼくは予想が当たってしまった悲しさを嘆いた。露伴先生に対する嫌な勘だけは、外れたことがないからだ。
「恋をしている顔は、中々撮れるものじゃあないからな」
 露伴先生はそう言った挙句、
「不気味じゃあないか。ああいうキレたやつが、君みたいな誠実な男に恋をするなんて」
ととんでもなく失礼な続け方をした。
 それならば、露伴先生とにだって言えることだ。ぼくからすれば、神経質な露伴先生とおっとりしたの二人はとてもちぐはぐで、いくらから話を聞いてもすぐには恋に繋がらない。
 変換機能を持った風に言えば、歯に衣を着せない不器用で正直なところが露伴先生のいいところなのかもしれないけれど、がぼくには理解できない露伴先生の魅力を言えるのなら、ぼくにだって露伴先生が理解できない由花子さんのいいところを見ているのだ。
 流石にこればかりにはカチンときた。

「そんなのに頼めばいいのに」
 気づいた時にはぽつりと漏らしてしまっていた。しまった、とぼくは青ざめながら露伴先生を見る。その顔に、パシャリとまたシャッターが切られた。ぼくの驚いた顔を撮ったらしい。
「い、いや……なんというか、つまり、これは……」
 ぼくがしどろもどろになっていると、露伴先生はレンズを取り外しながら「知ってるよ」と言った。
「……へ?」
 今、何て言った? 知ってる? 露伴先生が何を? まさか、の想いを?
「でも彼女には凄みがないだろ?」
 開いた口が塞がらなかった。凄みのある恋する女の子の顔なんて、普通恋愛要素で使うことはない。でも、ピンクダークならばっちり合ってしまうんだろう。それにぼくと由花子さんを題材にしたいというのは分かった。でも、驚いたのはそれではない。
 一体全体どこまで行っちゃってるんだこの二人は、と一瞬疑いかけたのだ。しかしぼくに詰め寄ってきた先日のの様子では、彼女の方はさっぱり理解していないようだったので、露伴先生のいつものスタンドの悪用だとすぐに気づく。
 由花子さんのこともあって、ぼくはカッとなってしまった。
「も、もう先生! いつも言ってるけど、一応ぼくの幼馴染なんだから、変なことにスタンドを使わないで下さいよ! 先生を信頼して紹介したんですよ!?」
「そう目くじらを立てるなよ。分かってる、康一君には迷惑はかけない」
「そういうんじゃあなくて……!」
第一、ヘブンズ・ドアーを使ってをからかうせいで、には露伴先生にぼくが情報を流していると思われて、もう大分被害を被っているのだから、今更迷惑がどうのというのも遅すぎる。そして今は、そういう問題ではない。
「見てしまったんだからしょうがないじゃないか。ぼくの記憶は消せないんだから」
 反省の色は皆無で、しれっと言ってのけた露伴先生は机に寄りかかりながら、バックから今度は重そうなレンズを取り出してカメラに取り付けている。ぼくはそれをじっとりと見つめた。
 そもそも、この人はのことが好きなのだろうか?これは、とても重要な疑問だ。
「それで露伴先生は……その、のことが…好きなんですか?」
 今日はのことなんて尋ねるどころか、話題を出すことも避けようとしていたのに、いつの間にか話は核心に来てしまっている。この流れに乗って、聞いてみるしかなかった。露伴先生の手元で、カメラのレンズがカチリと嵌る。
「康一君は、のことが好きなのか?」
「はい……?」
 唐突な質問だった。てっきり明確な答えが来るのだと思っていたのに、質問に質問で返されたため、ぼくは少し怯んでしまった。しかし、仲を疑われたのだと気づいて真っ青になる。
「そんなわけッ!」
「じゃあいいじゃないか。余計な詮索は無用だ」
「そ、それじゃあ先生だって、ぼくと由花子さんの詮索はやめてくださいよ……!」
「それとこれとは話が別だ。これは取材なんだから」
 怒涛のように繰り広げられる自分勝手に、ぼくはまたカチンときてしまった。今までに文句を言われていた鬱憤もあったのだろう。があれだけ怒っていた気持ちに、この時初めて同感してしまった。こんなことを毎日されていたのでは、だって怒りたくもなるだろう。
「他人の人生を覗き見るなんて、本当はそんなことだって我慢ならないのに!」
 そう言ってぼくは、露伴先生を精一杯の怒りを込めて睨みつけた。
 今まで薄っすらと笑みを浮かべていた露伴先生は、ぼくの視線に次第に口を閉ざす。それでも睨んでいると耐え切れなくなったのか、余裕だった顔を斜め下へふいと俯けてしまった。何かを堪えるように、眉間に皺が寄っていく。
「仕方ないじゃあないか……ッもう見てしまったんだから……!」
 さっきと同様のことを言って、露伴先生は目を瞑ってしまった。故意ではなかった、と言いたいらしい。
「はじめから見なきゃ良かったじゃあないですか。何で見たんです?」
 ぼくが尋ねると、瞼を閉じたままの露伴先生の眉間の皺は、ますます深くなっていった。
「……これ以上の詮索は、いくら君でも御免だぞ」
 言ってから、薄っすらと目を開けた露伴先生の顔を見て、ぼくは分かってしまった。鈍感なぼくにどうして分かるかって?分かるさ。だって、それは、とまったく同じだったからだ。数日前にぼくの家の前で待ち構えていたと、おんなじ顔をしていたからだ。分かりたくなくたって、目を塞がない限り直感してしまうだろう。
 ぼくはそれに少しだけ安堵した。さっきまでの怒りが嘘のように引けていく。露伴先生の後ろの窓の外で、モンシロチョウがヒラヒラと飛んでいるのが見えた。
「取材はお断りしますよ」
「……何?」
 ただしほっとしても、これだけははっきりと言っておかなければならなかった。由花子さんとぼくを撮ったって、所詮切り取られたひとつのシーンでしかない。数百万のどんなに高いカメラを買ったって、その写真に感情だけはついてこないのだ。
「申し訳ないですが、別の人を探してください」
 身近な被写体がいるじゃないですか、という気持ちを込めて言うと、露伴先生はついに言葉に詰まってしまった。先生の顔に薄っすらと滲んでいる汗は、絶対に、暑さのせいではない。
 その珍しい姿を見てぼくは思う。

 との契約は来週で終わりだ。十分すぎるほど家政婦ライフを満喫した露伴先生は、きっと文句もないだろう。そう思っていた。でも違う。そうじゃない。あの偏屈な露伴先生から、文句の出ないほうがおかしかったのだ。どうして今までぼくは、それに気が付かなかったんだろうか。
 直接本人に聞けばいいじゃないか──
 この数日間で何度となく思った言葉だけは、ひっそりと心にしまっておくことにした。誰もがみんな、由花子さんのようにはいかないのかもしれない。回りくどいやり方でしか、近づくことが出来ないのだ。そう、強く共感したからだった。



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12/12/23 短編