唖も雄弁に


 バレンタインといえば、やはり日本男子である以上、意識してしまうものらしい。
 2月に入れば、
「俺去年一個だった」
「俺も姉ちゃんのおすそわけ」
「母さんだよ母さん」
という不毛な自虐話に花を咲かせる男子達が、当然のように教室内に溢れかえる。たとえ家族からであったとしても、
「二個貰った」
などと周りより一個多めの戦利品を言おうものなら、タコ殴りに合うのがお決まりのオチらしい。最早使い古されて誰もウケもしない、定番コントのようだ。ただただ年間行事として、義務的になぞっているのだろう。それも付き合いと思えば楽しくないこともない。
 しかし世の中には、その不毛かつ日常的な会話に一生交じることの出来ない男もいる。
 そういうのは、いつか白髪や後退する頭髪に悩み始め青年時代を回顧した時に、同世代と共感し盛り上がる輪の中に入り込めない哀れな人種だ。それが小学校からの腐れ縁で結ばれた私の幼馴染みの東方仗助であり、一歩歩く度に周りの男達から女運を少しずつ吸い取って身に纏っているような、モテない男の仇みたいなやつだった。
 仗助と親しい不良の虹村億泰は、恐らくその被害を一番に被っていて、今や男の一生分のモテ期は仗助に吸い尽くされて砂漠と化していることだろう。

「借りてたビデオを返す」と言うなり、朝から逃げ回っていた生徒指導教員に見つかって、職員室へ連れて行かれた仗助を待つ間、私はなんと声をかければいいか迷っていた。椅子の背もたれを前に、こちらへ向かってだらしなく寄りかかった億泰は、その暗澹たる顔や敗戦直後の浮浪者のようだったからだ。生徒のいない閑散とした教室と、傾いた日によって出来た影がまた、男の壮絶な心境を助長している。
「バレンタインってなんだよマジで……聞いてねーよそんなイベントよぉ……聞いてたら産まれる前にショーン・コネリー似にしてきたってのによぉ~~~……」
「私は佐田啓二派だけど」
 言えば、億泰は数秒の間私の顔をぼんやりと見つめた後、わっと机にうつ伏せて泣いた。大袈裟ではない。何故この世にはドリフ派がいないのだと冗談まがいなことを言いながら、本気で泣いているのだ。
「な、泣かないでよみっともない」
 女性関連のこととなると途端に弱気になるのが虹村億泰という男らしく、まるで一昔前の不良漫画から飛び出してきたような性格だと、私はいつも思う。
 去年の夏の修学旅行の時なんて、インスタントカップルに憧れてひと月も前からイメージアップを図っていたというのに、結局自由行動の女子を振り切ろうとしていた仗助に無理やり引きずられて、むさ苦しい男二人で逃避行をする羽目になり、女子から声がかかることは一度もないままS市内へ戻ってきた。あの時の億泰の落胆っぷりもこの比ではなかった。ひと夏の恋を謳歌しようと目論んでいたのが、地中から抜け出す前に抜け殻となってしまったのだ。
 入学1年以上が経った修学旅行でさえそうなのだから、一度目のバレンタインなど言うまでもなく惨敗だった。義理チョコなどというものが貰えるのは、女子生徒の輪の中に自然に入り込める極々一部の男だけだ、というのが一般的な男子生徒の見解であるようで、億泰は勿論そんなタイプではない。母親を早くに亡くしてからは、障害を抱える父親とふたり暮らしで、家庭はずっと男所帯だという。
 そんな男が、高校生活二度目のバレンタインを前にして、男子生徒の自虐的な世間話に混じれるはずもない。億泰は2月に入ってすでに、来たる14日に敗北のトラウマを抱えているようだった。
「ごめんって……」
 尚も泣き続ける同級生に私は苦笑した。さっきは反射的に返してしまったが、選ぶ言葉を間違えたと思いながら、「ドリフもいいよ、ドリフも沢山チョコ貰ってるよ」と億泰にそっと声をかけた。また、泣き声が一層大きくなる。
「チクショー! それじゃあ俺は一体何派なんだよぉーーーっ」
 私は口をつぐんだ。思ってもない慰めは言うものじゃない。男の傷口に塩を塗ってしまっただけだったようだ。
 それにしても、面倒な男がいたものだ。
「まだやってんのかよ」
 億泰を放って、気分を変えようと椅子から腰を上げた私に、教室の入り口から声がかかった。仗助が呆れた顔でだらだらと億泰の元へ歩いてくる。「ウルセー」と億泰が嘆いた。
「おめーにこの気持ちが……気持ちが……ッ!」
 呆気にとられていた仗助は、仕方なさそうに億泰の肩をたたいた。
「おめーはさァ、いつもゼロな代わりに、貰えたら本物だってわかるじゃねーか。その一個を見つけられるってのはよ、そいつはスゲーことだと思うぜ、俺は」
「その本物が貰えねーから泣いてんだよ俺はよぉおーー、仗助!」
 流石の口から生まれた男仗助でも、この面倒臭さには怯んだようだ。僅かに困惑しながら一度私を見て、億泰の肩を力強く抱いた。
「今年はなんだ……ホラ、二年目だろ?! そろそろ義理でも来ると思うんだ、お前のクラスの女子もよぉ、なんつっても二年の付き合いだからなァ!?」
 仗助が顔を上げて、私に目配せをする。顎でクイクイと億泰を指しては、私にも同意しろと促してくる。
「なァーー?!」
「そうそう、一個くらいは貰えるんじゃないかなァ~~……?」
 ピタリと泣き声が止み、鼻をすする音が億泰の腕の間から漏れる。上目遣いにゆるゆると頭をもたげた億泰の額には、ハの字に垂れ下がった眉がぶら下がっている。その顔に、
「ホントかなァ……」
と呟かれて否定できる人間がいるのなら見てみたい。
 私と仗助は首振り人形のごとく、もげそうなほどに頭を縦に振って、億泰へ引き攣らせた笑いを見せるのに必死になった。
 貸したビデオ一本のためだけに、年明けの課題提出に次ぐ気遣いをしたせいか、なんとなく白々しさを感じつつも、その時の会話は私の頭にとどまって迂回していたのだった。


 正直に言えば、この学校の全女子生徒の平均と同じように、私も億泰にはあまりいい印象を持っていない。というのも男に関わると、必ずといっていいほど災難に巻き込まれるからだ。
 クラスも違えば一緒に遊ぶなどということも勿論無いので、億泰が普段何をしているのかを私は知るよしもない。しかし見た目通り、順当に教師に目を付けられているのは確かなようで、高校一年生の初夏、期末テストも近い7月のある放課後に、私は仗助を通して数度しか話したことのなかった虹村億泰に、まんまと逃亡の片棒を担がされることになったのだ。
 ばったり出くわしたのは商店街を通って帰宅する途中だった。億泰は私の顔を見るなり息を切らせたまま、
「よぉ~~~! 待たせちまったか?」
などと言って、ぎょっとする私をお構いなしに駆け寄り、あろうことか待ち合わせでもしていた素振りで隣に並んで歩きはじめたのだ。驚く私が「何のこと?」と尋ねる前に、億泰が走ってきた方向から見知った生徒指導担当の教師が来て、厳しい声で私達を引き止めた時には、嫌な汗を掻いた。直感的に巻き込まれたと感じたからだ。
「億泰、お前さっきパチンコ屋に入ろうとしてただろ。いつもなのか?」
「まさか、知り合いを見かけて覗きこんだだけッスよ!」
「嘘を言うな、昨日の夜もこの辺りでお前を見かけたぞ」
「それは、俺バカだから、その……こいつに勉強教えて貰ってるんスよ、最近」
にか」
 億泰は私の顔を覚えていても、脳内人物名簿のラベルには“仗助の幼馴染み”としかインプットしていなかったらしい。舌を縺れさせながら、私の名前をなんとか誤魔化して、そこで初めて私に気づき疑わしそうな目を向ける教師に、億泰は大きく頷いた。
「そう! さ……に!」
 本人の意志に関係なく繰り広げられる攻防に、私は唖然として佇んでいた。否定をしようという気持ちは初めからなかったが、私の顔を見れば状況についていけていないことは一目瞭然だろう。
「だよなぁ、!」
と、億泰は私を振り返った。いつもは目つきだけで人を殺せそうな薄目の三白眼を、この時ばかりはまん丸く見開いて、男なりに精一杯の愛想笑いを浮かべていた。
、本当なのか?」
 教師が訝しげに私へ顔を向ける。別々の怖さを持った二人に見つめられながら、私は空気ごと唾を飲み込んで喉に詰まらせた。
 息苦しさにもたついて頷いた時には、
「と、図書館に行くところだったんですゥ」
と、どこから出たのかわからないよそ向きの声で、私は億泰を庇ってしまっていた。いくら巻き込まれたといっても、同級生を売る度胸もない。
 ヘラヘラと笑いながら、私達二人は教師を見送る体勢に入った。教師は納得したように見えたのだ。息をついて、これで帰ることが出来る、と思いきや、
「私も少し調べ物があってな」
という思いもよらない一言によって、私と億泰は飛び上がった。半ば強制的に図書館までのルートが決定してしまったのだ。茶番に乗ってしまった手前、今更嘘なんて言えるわけもなく、大して知りもしない幼馴染みの厳つい友人と泣く泣く勉強会のふりをしなくてはならなくなった。
 疑い続ける教師を納得させるために、期末テストまでの数日は仗助も加えて、行く予定もなかった図書館へ億泰と通いつめることになり、真っ直ぐ帰宅したかった私はたいへんな被害に遭ったのだ。
 思えばこの時からすでに、私が同じような災難に見舞われる未来は完成されていたのだろう。

 億泰にはそれ以来何故か妙に好かれて、時折話しかけてくるようになった。
「オイ、匿ってくれ! おめーの言うことならセンコーも信じるからよ!」
「あっ、何勝手に押し出してるの……!」
「頼む! 後で何か奢るからよ」
 厄介な時に私を見つければ、ついぞこんな調子だ。女子は苦手だと言うくせに、私を教師の盾にすることに一度も躊躇うところを見たことがない。
 仗助の幼馴染みと聞いて安心しきったのか、それとも億泰の思う女子像とは違っていたのかは知らないが、私は億泰に対して馴れ馴れしさを感じつつも、こうして否応なしの状況が重なるにつれて、受け入れるようになっていった。いや、受け入れざるを得なかったと言った方がいいのかもしれない。
 私にとって虹村億泰はつくづく、迷惑な男だった。


 部活へ向かう友人と別れ、くつろいでから教室を出て昇降口へ行こうとしたところで、不穏なものを見かけた。
 またか──と思って、私は階段を降りかけた足を止めた。億泰だった。
 第一級の不良が踊り場で黄昏れながら、背中を丸めて膝の上に頬杖をつき、ため息を零している。その空気と言ったら、アンニュイを通り越して人でも殺してきたかのようにどんよりと暗く落ち込んでいて、通りづらいといったらない。
 下校時刻だというのに、この区画だけ人通りがないことに、私は妙に納得してしまった。私でさえあの雰囲気を見ていると、別の階段を使おうか、という気持ちになってくる。この日は待ちに待った2月14日だ。億泰のどん底状態の原因は分かっていた。というよりも、それしかない。
 一分おきに零していそうな大きなため息をまた耳にして、私は覚悟を決めて肩にかけていたカバンを抱え直し、やむなく段差に一歩足を下ろした。
 階段を中ほどまで行くと、ようやく人の気配に気づいた億泰が、うなだれていた頭をゆるりと持ち上げた。その様相といえば、げっそりという表現が似合う。
「チョコレート貰えなかったくらいでそこまで……」
 苦笑いを浮かべながら、なるべく明るい声で言えば、億泰は何も言わずに再び静かに俯いた。背後まで歩み寄っても黙りこくっている。「チョコレートくらい」というのが、気に障ったのかもしれなかった。
 少し気まずい気持ちになりながら、しっかりと教科書を詰め込んだカバンを肩から下ろして、私は億泰の座る段差の端へ腰掛ける。
「俺ってよ」
 ぽつりと、億泰が言った。
「……変か?」
「そんなこと……」
 と言いかけると、それを遮るように、「正直に言ってくれよ」と億泰が重ねた。もう殆どの生徒は部活へ行ったのか、もしくは帰ったのか、階下を通り過ぎる足音はしない。私は居心地が悪いような気がして、膝に置いたカバンを両腕に抱いた。
 変、と私は言った。億泰はそれに少しだけ息を吐いて、「やっぱそうか」と笑った。残念そうに聞こえた。
 この男にとって、恋はそんなに大事なのだろうか、と思った。泣いたり、こうして一人落ち込むほどに、恋は惹かれるものを持っていただろうか。
「……夢なんだよ、くだらねーかもしれねーけどよぉ」
 私の疑問を読み取ったように、億泰が呟いた。僅かに、照れを含んだ声色が廊下に響いた。
 そういえば、と不意に、私は億泰について思い出すことがあった。億泰は複雑な家庭を持っていると、どこかで小耳に挟んだことがあるような気がしたのだ。一人で父親の面倒を見ているのは私も知っていたから、人は見かけによらないなぁと感心をしたこともあったのだけれど、もしかしたら億泰が話さないだけで、それ以上に相当な苦労をしてきたのかもしれない。
 億泰は落ち着かない様子で、膝を抱えてゆらゆらと体を揺らしている。
「なんか、フツーだろ? 女の子と付き合うってのはよぉ……フツーに生きていけてるって感じがすんのよ、俺は」
 私は改めて、段差の端に座る億泰をまんじりと見つめた。大きな体を丸めて座る男の横顔は、私が思うよりそこまで悪人面ではなかったかもしれないと感じた。
「髪型、変えてみたら?」
「女子のためにか?」
 そう言った億泰に頷く。億泰は悩むようにして顔を顰めた。
「それじゃあありのままじゃねーっつーか……俺じゃあねぇだろ?」
「……誰かが困ってたら……助けてあげる、とか」
 イメージアップの意味を込めて提案すると、億泰は目を合わせていた私へ静かに首を振りながら、また俯いた。
 踊り場の天井に近い高い窓から、西日と一緒に運動部の掛け声が届く。ホイッスルが何度か響くのを上の空で聞いた。
「俺、おめーを尊敬してるぜ」
 億泰の声が束の間の沈黙を破った。私は急な褒め言葉にどきりとして隣を振り返った。億泰は階段に下ろした足の間で手遊びをしている。
「仲良くもねーのに助けてくれただろ、俺みたいなやつのことをよォーー、それも嫌な顔したって一度だって見捨てたりしなかった」
 それは、私にそんな度胸がなかっただけだ。単に性根が弱虫なだけなのだ。それなのに、億泰はそれを優しいと言う。尊敬していると言いきる。
「俺はおめーみたいに上手く出来ねぇんだよ」
 俺は気が利かねーからな、と億泰が目を伏せて零した。

 億泰といると、時々心が温かくなることがある。
 億泰は、本当に面倒くさい男だ。本人が自覚する通り、あまり気が利く方でもない。だから教師に目をつけられたり、私を盾に使ったりすることに迷いがない。そんなところは、私は好ましくは思ってはいない。
 それでもあの見た目で遠巻きにされても、仗助にさえ馬鹿にされても、不思議といやらしいところがないのだ。億泰は誰にどう思われるとか気にして行動を決めるような、そんな器用なことは出来ない性格だから、思ったことをそのまま口にするし、変に取り繕うことがない。今だって、こんなに簡単に感謝して、人を褒めてしまう。純粋に、裏もなく、本心からだ。
 億泰にも億泰なりに、悩みやコンプレックスがあるのだと私は思った。私にとってはどうでもいいことでも、億泰にはちっぽけではないのかもしれない。彼の中の何かが変わるような、なにか重要な意味を持っているのかもしれない。

 私はカバンから包みを取り出して、うなだれる億泰へ差し出した。横目にぼんやりと眺めていた億泰が、次第に不思議そうに体を持ち上げる。
「チョコレート」
 私が呟いてから、何秒も間があった。
「エッ……?」
 零れ落ちそうなほど丸い目をしたあほ面が、私の手の上のものを凝視している。ポップな柄の布で包んだ中には、一口で呆気なく終わるようなチョコレートケーキが切ってあり、それを入れた透明な袋は、どんなに振り回しても落とさないようにピンクのリボンできつく結んである。
 億泰は口をぱくぱくとさせて、何故か身を引いた。
「そ……そりゃ、手作りか……?」
「友達の分のおすそわけだけど」
 泣いたら面白いなぁ、と私は思った。これは決して気まぐれなんかじゃない。仗助と一緒にこの面倒な不良を慰めた日から、渡してあげようとは思っていた。
 想い人もいないというのに、チョコレートが貰えなかったというだけで一年前のバレンタインを引きずって、わんわんと号泣してしまうような男に、たとえ義理だとしても手作りをあげたとしたらどんなリアクションが来るのか、私は少し楽しみに思っていたのだ。
 私の期待を一心に背負った億泰は、言葉にならない声を上げながら、慌てふためいたように勢い良く立ち上がった。
~~~~~ッ!」
という、さぞや感動しきった声が続いて涙を零すのだろうかと思ったのだが、その前に男の巨体が傾いて、あっという間もなく階段を転げ落ちていった。
 ビタンッ! とまな板に魚を叩きつけたような音が最後に響く。
「おっ…………億泰?!!」
 予想だにもしない展開にあんまりにもびっくりして、私は思わず階段に張り付いてしまった。転がり落ちた床で、億泰が痛々しく呻いている。私は焦って階段を飛び降りるようにして、億泰へ駆け寄った。
「だ、大丈夫?!」
 最上段から落ちたのだ。骨でも折れただろうと心配したのに、体を支えて起き上がった億泰はすっくと立ち上がって、異常を確認するように何度か飛び跳ねた。
「おー、なんともないぜ」
 そう言って何でもないふうに真顔で振り返った億泰を見て、私はまた仰天してしまった。
 強く鼻を打ち付けたのだろう。億泰の鼻から血がどっと流れ出ている。私は突然の鮮血に口に手を当てながら、あわあわとその事実を伝えた。
「鼻血……! 出てる!」
「…………」
 億泰は何も言わなかった。ただ、見栄を張って引き締めていたのだろう顔を歪めて、真赤にさせた。

 壁に寄りかかって座った億泰は、鼻を抑えたまま上を向いて、天井にヒビでも入れるつもりなのだろうかというほどに、眉間に皺を寄せて睨みつけている。相変わらず外からは、賑わう運動部の掛け声がしきりに聞こえてくる。
 その顔の前でティッシュを取り出して千切ってから、私はそれを丸めて億泰の鼻に詰めてやった。億泰へティッシュをやると、格好をつけて嫌がり、鼻に当てるだけにするので、詰めるというより、無理やり突っ込んだようなものだ。
「やめろ、んなことしなくてイイっつってんだろ……ッ!」
「はいはい」
 階段を落ちた時、折角格好をつけていたのが突き通せなくて、余程情けなく思ったのだろう。億泰の顔は真っ赤だ。
 くだらない意地を張って、これじゃあ本当に怪我もないのかも分からない。
「興奮すると、鼻血止まらないよ」
「ウルセー」と億泰が舌打ちをした。私が赤い顔を見て笑いそうになっているのに、気づいたらしい。
「お……俺はシャイなんだよチクショー……悪ィかよ」
 そう言って鼻に詰めたティッシュをそのままに、赤ら顔を隠すように腕で顔面を覆った億泰に、私は笑いをこらえるのに必死だった。悪くない。悪いわけがない。
「見るなよ、こっち見んじゃねーぞ」
「はいはい」
 見るものか、と思った。絶対に見るものか。思いながら呆れ声を取り繕う。何故なら、結果を知ってしまっているからだ。もし、振り返ったら。精一杯恥辱に耐えている億泰を見てしまったら。
「ぜってーこっち見んな……」
 億泰から、弱々しい声が漏れる。
「チョコも、取り消すのはナシだぜ……くれたものは取り返さないのがジョーシキだからな……」
「はいはい」
 そうしたらきっと私は、愛おしさを隠せなくなる。
 胸に迫るそんな予感が間違いなく現実となることを、私は知っているからだ。億泰に巻き込まれたこの2年間で、しっかりと。



Happy Valentine's Day!
theme of 100(2)/028/おかし
13/02/14 短編