02



 その夜は、すぐに訪れた。
 男は女性を連れこむことが少なくなっていたので、顔を合わせることは極端に少なくなっていった。いつかはこの妙な差出人が私であることを男に話さなければならない日が来るだろうと思ってはいたけれど、会わなければ会わないほどに、機会は失われて行く。
「じいさんかと思ったが、まさかあんただったとはな」
 いつもの時間に作り置きを持って男のドアの前に立つと、廊下の奥から声がした。男の低い声が反響し、革靴を鳴らしながら、その中を男がゆっくりと歩み寄ってくる。
「……その白さ」
 覚悟をして、私の前に立ち止まった男を見上げた。
「ちゃんと食べてるのかと思って」
「余計なことはすんじゃねぇよ」
 男は間髪を入れずに言った。しかしいつも部屋で見る、不機嫌そうな顔つきはしていなかった。それに少しだけほっとする。
「決まった場所で食ってる。こりゃただの……寝不足だ」
「そうですか」
 目の下の隈は、確かに男があまり寝ていないだろうことを示していた。夜遊びをしている様子はなく、本当に寝れていないのだろう。
「いつもこんなお節介をして回ってんのか」
 どこか皮肉ったような言い方で男が私の手元へ視線を送った。居心地が悪くなって、私は男から目を逸らした。違いますよ。拗ねたような響きが、口から漏れた。
「隣の部屋で死なれたら、気味が悪いですから」
 私の言葉に、男はハッと短い笑いを零した。それ以上は何も追求するつもりはないらしく、ガチャガチャと鍵を回して部屋に入ると、アバッキオは「もう余計なことはするな」とだけ念を押して、戸を閉めた。私は何日も通い詰めたドアが閉まるのを見つめながら、一人分には多すぎる作り置きを抱えて、廊下で立ち尽くす。
 短かった。私は思った。後悔が入り混じった喪失感が、足元から胸を冷やして行った。
 コソコソと隠れて差し入れをしていたのは、住人に噂をされたくなかったからだと、自分自身に言い訳をしていた。しかし、私が見つかりたくなかったのはアバッキオにだったのだ。男が言い放った「余計なこと」に助けられていたのは、私だった。胸をきりきりと締め上げる冷たい痛みは、傷ついているのだということを私に知らせていた。
 思いもよらない場面で、自分自身のことを思い知らされる。人ふたりがやっとすれ違えるような狭い廊下で、私は私が何を失ったのかを考えながら、せいぜい立ち尽くすしかなかった。

 私のお節介は、男に何か影響を与えていたのだろうか。それを私は知る由もない。男は差し入れがなくなっても、女性を連れ込むことはなくなっていった。
 喘ぎ声のしない物音は、心地よかった。人の些細な生活音には、安心する響きがある。音だけで人を感じるのは、木々の枝を飛び回る小鳥の気配を探すのとよく似ていて、私は嫌いではなかった。男の悪癖がなくなって、本当に良かったと安堵をした。これでバールの店主に嘘をつかなくても済むようになる。
 そうは思っても、やはり物足りなさが胸を占めた。「余計なこと」が頭を何度も巡り、男の冷めた顔が幾たびも浮かんで意気消沈をした。そうやって気を沈ませていたのが原因なのだろう。近頃流行っていると聞いてはいたけれど、いつの間にか風邪をもらってしまったらしい。
 情けないにもほどがあった。数年ぶりに引く風邪は、私の体の中で猛威をふるっている。熱で思考はままならないし、鼻が詰まって息はできないし、頭は痛む。病院では具合が悪化するのではないかというほど長時間待たされ、帰りのバスは砂利道でも通っているのかというくらいに揺れに揺れる。部屋に戻って一刻も早くベッドに横になりたい気分だった。疲れ切って意識が朦朧としている。
 鞄から鍵を取り出そうとするのでも、指先がもたついて上手く掴めなかった。いざ入ろうとするも鍵を落として、立ち眩んでしまう。小さなことで気力が削がれていく。中腰にドアに額を押し付けて、冷たい感触に体調を整えていると、後ろから声がかかった。
「オイ、どうかしたのか」
 隣人の声に違いなかった。鍵を取り出すのに夢中になって、足音に気づかなかったらしい。
「いえ、ちょっと、立ち眩みがして」
 答えながら遅れて振り向くと、アバッキオは眉を寄せて難しい顔で私を見下ろしていた。見上げるのも苦しいので、男の足元に視線を落とす。あれ以来会っていなかったので、「先日はすみませんでした」と一言謝るけれど、男は「そんなこたいい」と私の言葉を一蹴した。
「具合が悪いのか?」
と、男が尋ねた。私は軽く笑って、手を振る。
 大したことでは、と言いながら鍵を拾おうとするが、目の前が揺らいで体がふらつくので、ドアにしがみつくことになる。
 大きな革靴が、私の視界へ歩を進めた。覆うような影がドアにかかる。アバッキオの手が鍵を掴もうとした私の指を避けて、拾い上げた。一瞬触れた指先の感触が、じんと私の手を伝っていった。
 アバッキオは拾った鍵を回して抜くと、私の鞄へ無造作に押し込む。
「これでいいだろ」
 ありがとうございます。そう言った自分の声を、どこか遠くで聞いているような気がした。男はそのまま自分の部屋の前へ行き、同じように鍵を回して中へ入っていった。

 夢だろうか、と思ったけれど、それを打ち消すように、翌朝のドアノブにはビニール袋がぶら下げてあった。スーパーで買ったのだろう、ミネラルウォーターや軽食が中に入っている。私が寝込んでいるのを知っていてこんなやり方をするのは、アバッキオしかいなかった。
 こんなことをして、何の得にもならない。どちらかというと、人付き合いを避けたい男にとって面倒なことしか起こらないだろう。それなのにどうしてこんなことをするのだろうか。私と一体、何が違うというのだろうか。
 一週間もしないうちに風邪はすっかり治っていたけれど、男にまったく他意はないらしく、あれから一度も顔を合わせていない。私は自分自身の行為が、急に恥ずかしく思えるようになった。

 それなりに、苦労をしてきた方だと思う。特に南部が抱える慢性的な経済難のせいで、このアパートに住む人間は殆どがそうだ。学生の頃はいつもお金がなかったし、母と離婚をしてから沈みがちになった父の収入を補うために、必死に働いて自分の学費を稼いだ。その時期に通っていたのが、アバッキオと出会ったあのバールだった。
 貧困にあっても心は貧しくなるなと言う人もいるけれど、生活に精一杯で余裕を失っていくと、自然と感情が風化するものだ。昨日の天気どころか、人に言われるまで今日が晴れていることにすら気づかなくなる。やがてその話をしてくれる人ですら、消えていくのが貧しさなのだ。金の回りが縁の回りで、ひとたび生活が苦しくなると、人と会う機会も少なくなり、やがて狭い家庭だけがたった一つの社会になっていく。当時の私の日常は、まさしく無味乾燥と言っていいものだった。
 バールの店主がお代を受け取らずに、私の手にチョコレートを乗せた時、不意に感じたエスプレッソの香りを、私は数年経った今でも思い出すことができた。ワックスでよく磨かれて光る、木製のカウンターに染み付いたコーヒー豆の匂い。バールのドアをくぐった時から漂っていたはずのそれを、私は目が覚めたように嗅いだ。感情がゆっくりと起き上がってくるのを感じた。私は心を家に置いたまま、体だけを働かせていたのだと、店主の心意気に触れてようやく気づいたのだ。
 その頃から、いい人になりたい、と思うようになった。そう思われたくて仕方がなかった。この社会に生きているのだという実感が欲しかったのだ。自分の中に良心を見つけると、枯れた心が水を浴びたように急に明るさを思い出す。
 そんな気持ちがあったからバールの店主からの頼み事にも頷いたし、大家との仲介も最後まで付き合った。住人と会えば必ず立ち話をし、相手の好みの話を聞く。隣人を盛大に振った女性たちの落し物を部屋まで届け、道端で老人が困り果てていれば声をかけようかという気になる。アバッキオにチェーナの差し入れをしたのも、最初は自分をいい人間だと思いたかったからだった。
 でもアバッキオは、きっと違う。こんな荒れた生活をしているのだ。人にどう思われようが関係ないのだろう。ならば男の善行はすべて、アバッキオに身についたものということにならないだろうか。面倒そうな顔をしながらも、通りすがりの老人を見捨てられなかったのも、口うるさい隣人の私を見舞いに来たのも、男にとっては面倒で避けたいことでも、男の心がそうはさせないのかもしれない。
 男は私より自堕落だけれど、私よりもずっと純粋だった。私のように自分のためではなく、人のために心を動かしている。
 アバッキオの言うことは正しかった。私のやることは男の優しさとは違う。余計なお節介なのだ。


 あれから随分と時間は経ってしまったけれど、せめてお礼を言いに行くべきだと思った。自分から行かなければ、男とはいつすれ違うかはわからない。
 ノックをして「 です……隣の」と声をかけてから、しんとした廊下の静寂を聞く。珍しく静かな夜だった。鈍い靴音が近づくと、ドアが開いた。
「……何だ」
 口を開いた男の声は、叫び回ったあとのように掠れきっていた。どこからもらったのか、完全に風邪を引いてしまったらしい。瞼は重たげに落ち、顔はいつもより赤く見える。熱もあるのかもしれなかった。
 病院に行ったのかを聞くと、「風邪くらいじゃ行かねーよ」とやけに自信を持って言うので呆れ返る。
 部屋の中は殺風景だが、相変わらず荒れている。服は脱ぎ散らかされたままで、酒瓶はそこらに転がっているし、煙草の吸い殻は灰皿にそのままだ。掃除もいつしているのかわからない。物が少ないのでがらんとして見えるが、埃っぽい上に酒と煙草の匂いが充満していた。これじゃ病気にだってなるだろう。
「不規則な生活を続けているからですよ」
「うるせぇ、な……てめーは」
 肩口に顔を押し付けて咳をする様子は苦しそうだった。喉を使うと痛むのだろう。熱よりもそちらの方が辛いに違いない。
「少し手伝いますから、入って」
 嫌そうに声を上げる男の腕を押して、無理やり部屋の中へ入る。さっきまで寝ていたのだろう。捲り上がったベッドへ男を促し、暗い部屋では何もできないので照明のスイッチを押すが、電球が切れているらしい。仕方なく暗がりを泳ぐように歩いて、ベッドサイドから遠く離れた場所に投げ捨てられるように置いてあるランプを持ち出して、ようやく明かりをつける。
 普段なら「さっさと帰れ」と言うだろう男は、喉の痛みが諦めを促したのか、ベッドに座って息を整えたまま、ただ私の動向を睨みつけながら追っている。たとえ熱があろうと、男の眼光には迫力がある。それでも怖がってはいられなかった。
 余計なお節介だ。男はそう言いたいのだろう。常日頃から悩まされてきた隣人なのだ。人を寄せ付けまいと考えそうなことはちゃんと理解できている。こんな時にでも湧き上がる、いい人になりたいという私の下心にだって、罪悪感は感じている。でも男を放っておいたら、この埃っぽい不衛生な部屋で、何にも口にせずにずっと寝転んだまま日を過ごすことも、想像できるのだ。知っていて、放っておくべきなのだろうか。誰が見舞いに来ることもない、捨てられるばかりのこの男を。
 失礼します、と声をかけて首筋へ手を当てると、アバッキオは鬱陶しそうにすぐに振り払った。ものすごく熱い。じっとりとした汗が手のひらを濡らしていた。
「すごい汗ですよ……」
「放っておけよ」
 掠れたガサガサの音を絞り出してアバッキオは私の腕を押し返すが、その手すら熱かった。汗が出ているからすぐに熱は下がるだろうけれど、この部屋の様子だと、水分はとっていなそうだ、と思っていたところだった。大きく息を吐いた男に、驚いた。息の中に、酒の臭いが混じっている。よくよく見ると、男の足元にはワインの空き瓶が転がっている。ベッドの上でわざわざコップに注いでいるとは思えない。ラッパ飲みをして、ベッドへ凭れる男の姿が目に浮かぶようだった。
 流石にびっくりして、「このお酒、全部飲んだんですか?!」と声を上げてしまう。男はだるそうに「ああ」と答えた。この様子だと、まだまだ飲んでしまいそうな予感さえする。発汗している時に、水分すら取らず、アルコールばかり摂取する病人が「放っておけ」とまた繰り返す。
 強い意志が固まった。男に任せていてはだめだ、と思った。何が風邪くらいだ。このままいくと、この男はその風邪に殺されるだろう。
「着替え、どこにあります?」
 熱か酔いのせいか、俯いてまどろみに入りかけていた男は、音にならない息のような声で「あ?」と私へ目を向けた。
「必要なものは、全部用意していきます」
 息を吸い込んで、自分の手を握りしめる。もうどうにでもなれ、と思った。男に恨まれようが、ますます気まずくなろうがどうでもいい。乗りかかった船だった。この不気味な男はまったく自分の世話をする気がないのだから、見つけてしまった私が最後までやるべきだ。悪化して倒れられでもしたら、もっと後味が悪い。全部、自分のためだ。
 いいですか、と念を押すように私は言った。
「何も言わないでください……そうすれば、早く出て行きますから」
 私の言葉にムッとした顔で何か言い返そうとした男は、しかし喉の痛みに面倒になったのか、「勝手にしろ」と言ったきり掛け布団の上にそのまま横になった。熱があるというのに、治す気が欠片もない。
 重い男の体の下からようようの思いで引っ張り出し、上に掛けると、男はまた嫌そうに手を振り払う。それに呆れながら、着替えやタオルを探す。窓を開けて空気の入れ替えをし、転がった酒瓶や空き缶を集め、灰皿を綺麗にして、床に落ちていた煙草の箱とともに出来るだけベッドから遠くの棚に置く。
 あれだけの熱があって喉を痛めているのだから、息が苦しいだろう。アバッキオは壁へ向かって横になったまま、肩をひたすらに上下させるだけで、もう何も言わなかった。
 数十分ほどかかってしまったが、部屋は見違えるように綺麗になった。少なくとも、夜中に目が覚めて水を飲みに歩いても、何かにつまづいて転ぶようなことはない。さっきまで酒瓶で覆われていたベッドサイドのテーブルの上に、着替えとタオル、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを乗せて、男の背中へ声をかけた。
「大丈夫ですか」と言うと、男は意外にもあっさりと「ああ」と返事をした。
「タオルと水、ここに置いておきますね」
「ああ」
「ちゃんと着替えてくださいよ」
「ああ」
「あとで何か食べられそうなもの、買ってきますから」
 掠れた喉で、アバッキオがくつくつと笑う気配がした。顔を向けると、早く出て行けと手を降っている。
 妙な感覚が胸を走った。背中がむず痒いような、首筋を撫でられるような、じれったい感触が体を駆ける。居ても立っても居られない気持ちになって、私は逃げ出すようにアバッキオの部屋を出た。
 再び戻った時には、ドアノブにリコラキャンディーと野菜を煮込んだミネストローネをぶら下げた。ドアを控えめにノックして、
「置いておきますね」
と声をかける。自分の部屋に帰って暫くすると、隣の部屋のドアが開く音がして、私はまた胸を走る妙な感覚と戦わなければならなかった。

 あれからこそばゆさを抱えて随分と考えたけれど、結局翌朝もう一度様子を見に行くことにした。水も着替えも食事も用意したものの、男のやることはいまいち信用ならない。
 朝の廊下にノックを三回響かせて名前を告げる。昨日と同じように、鳥の声に耳を澄ませながら待っていると、中から足音が近づいて、鍵の開く音がした。ノブが捻られ、男に具合を聞こうと顔を上げた瞬間だった。
 ドアの隙間から、ぬっと腕が伸びる。左腕を掴まれると、抵抗する間もなく部屋の中に引き込まれた。
 何が起きたのかわからなかった。視界が暗い。そして熱かった。心臓が激しい音を立てている。目の前からも、同じ鼓動がする。抱きしめられているのだと、私は男の胸の音を聞いて理解した。男の素肌はほんのりと熱を持っていた。まだ熱が下がりきっていないのだ。頭の隅にぼんやりと浮かぶ。驚きで竦んで、声が出なかった。背後で、カチャリと扉が静かに閉まる音がした。
 肩を抑えていた手が背中を辿る感覚に息を呑んだ。決していやらしい動きではなかった。熱い手は逃すまいとするように腰へ添えると、ぎゅっと強く私の体を引き寄せた。微熱を持った体温が、触れ合った部分から体に浸透していく。熱い。突然のことで、体が強張ったまま動かなかった。息を吸って吐くのさえ、精一杯だった。
 アバッキオは薄暗がりの中で、どこかこわごわと私の手を取った。冷てぇな。掠れた呟きが、私の頭上に吹きかけられて、髪をそっと揺らした。こそばゆさに、思わず身震いをする。
「あ、の……」
 見上げられなかった。どんな顔をすればいいのか、見当もつかない。この腕を抜け出さなければならないのに、どうしてかそれが出来ない。今私は、襲われているのではないだろうか。そう思うのに、部屋へ引きずり込んだ時とは打って変わったやわらかな指先に、感情が削がれていく。
 脈拍が鼓膜をかき鳴らして、思考を何度も中断させた。考えなければならないのに、男の匂いに包まれて、頭がぼんやりと霞んでいった。抵抗するように目を薄く閉じると、瞼の裏に薄っすらと女性たちの姿が浮かび上がる。これまで何度も入れ替わった彼女たちの、怒った顔も、悲しげな顔も、嘲笑も、泣き声も、怒鳴り声も、去っていく足音も。散らかった部屋に一人取り残される、アバッキオの姿。諦めたような、悲しげな瞳。断片的なそれらが、とりとめなく胸に迫ってくる。
 アバッキオ。消え入りそうな声で、囁くように名前を呼ぶと、私の息が胸に吹きかかったのか、アバッキオが僅かに身じろぎをして、何だと言った。
「困ります……」
 小さな声を絞り出す。喉がぎゅっと詰まって、それ以上の言葉が出てこない。
「……困るのか?」
 アバッキオが静かに呟いた。腕の中は熱い。アバッキオの胸にひたりとくっついた頬は、きっと燃えるような色をしているに違いなかった。それなのに、握られた手は緊張からか、凍えるほどに冷たい。
 胸を押し返そうとするのだけれど、手に力は入らなかった。アバッキオの腹部に力なく片手を寄せたまま、堪えきれずに目を瞑る。アバッキオのじっと見つめる気配がした。
「震えてんのか?」
 囁きが、また頭の上に降りた。そのひっそりとした音のこそばゆさに、耐えられない疼きがじんわりと上りつめる。
「怖いんです」
 私は目を閉じたまま呟いた。アバッキオが、何を考えてこんなことをするのか、わからなかった。わからないことが怖い。それなのに、この人の腕は熱くて、思いの外優しかった。それが少しだけ嬉しいことへ、困惑してしまう。
 怖いんです。どれだけ唇を噛みしめても、浮かんでくる言葉はひとつしかなかった。ずっと目を背けてきたことだった。
「あなたを好きになったら、どうなってしまうのか……」
 怖い。泣きそうになりながら私がそう零すと、アバッキオは捕えていた手で私の冷たい指を開いて、自分の指先を絡ませた。そうして、少しだけ力が込められる。大きな手が指の間に入り込むと、これまで感じもしなかった安堵感が心の隙間から潜り込み、じんわりと熱を帯びた。
「どうもなりゃしねぇよ」
 低い音の震えが、私の体に静かに落ちた。
「お前は多分、お前のままだ」
 どこか悲しげな声色で、けれどやんわりと、アバッキオはそう言った。

 何故そう言ったのだろうか。その言葉に、どんな意味が込められているのだろうか。私を引き寄せたままアバッキオはそれ以上を語らなかった。
 胸にぽつりと小さな疑問が落ちて、波紋のように円を描いて広がっていった。怖いと思った。この人が怖い。私はこの人のことを何も知らない。不気味で、自堕落な人。それなのに、この腕から逃れられないでいる。そんな自分が、怖い。
 アバッキオの腕の中で俯いたままでいる私の顎へ、熱い手が触れた。はじめから、いやらしさは欠片もなかった。少し乱雑な指先で上を向かされる。顎に手を添えたまま、アバッキオが静かに私を見下ろしている。痛いほどに、胸の鼓動が早まった。
 暗い眉の下に、切ない色がさざめいていた。思わず、眉を下げる。どうしてそんな目をしているのか、わからない。どうして振られるようなことばかりするのか。どうして優しさを隠そうとするのか──胸に何度も落ちてくる、雫のような疑問の数々の、答えを知りたいと思っている。アバッキオのことを、知りたいと思っている。それが、怖くてたまらない。
「いいのか」
 掠れたような小さな声で、アバッキオが囁いた。
「しちまうぞ」
 キス。男の口がその単語をなぞった時、私は戸惑いながらも、強い感情に突き動かされるように、アバッキオの手の上にある顔を微かに頷かせた。心がざわめく。後悔が胸の裏側を叩く。引き戻さなければならないような気がしてくる。それなのに、抵抗ができない。暗澹とした男の顔を見ると、同時にこれまでの男のあたたかさもまた、思い出してしまう。胸が妙なざわめきに包まれて、逃げたくないと思ってしまう。
 ぎゅっと目を瞑る。震える声で、私は「してください」と呟いた。
 僅かの沈黙が落ちて、アバッキオが身を屈める気配がした。息を殺しながら、暗闇の中に男の音を探す。
 私の前髪を優しく撫で上げると、アバッキオはゆっくりと顔を寄せた。唇が触れて、すぐに離れる。
 瞼を上げると、すぐそばで男の目が、じっと私を見つめていた。何かを窺うように、じっと。心臓が跳ね上がって声も出せずに息を呑んでいると、それからまたすぐに、唇が寄せられる。やわらかな感触だった。薄い皮膚が全身と同じように熱を持っている。それが私の唇の上を食むように蠢いて、ささやかなリップ音を立てた。鼻息が掠めて、慌てて目を瞑る。
 息を殺している私を、アバッキオは音も立てずに軽く笑った。薄目を開けて見返すと、細められた瞳が穏やかに緩められていた。
「困るんじゃあ、なかったのか」
 数センチの距離から、息を吹きかけられる。私は眉を下げた。だって。胸で呟いた言葉には、続きはなかった。気まずさから、顔をうつ伏せる。緊張か、自分の心がわからない恐怖からなのか、手がまだ微かに震えてしまう。
 深いため息が吐き出されて、「悪い」と呟くと、アバッキオは普段からは想像できないほどの気遣わしさで、体を離した。腕に抱かれている間は戸惑いと躊躇いがひしめいていたのに、いざアバッキオの体温が離れるとなると、そちらの方が不安でたまらなくなった。衝動的に、縋るような目で見上げてしまう。アバッキオの息を飲む気配がした。
「……横になる」
 男は少し、ばつが悪そうに言った。背を向けて、まっすぐにベッドへ歩いていく。その背中を追いかけるように、私はとっさに口を開いた。
「しばらく、そばにいます」
 どうせにべもなく断られるのだろうと思いながらも、言わずにはいられなかった。様子を見に来たのだから当然のことだ、と自分に言いきかせながら。今更言い訳をしたって何の意味も持たないのに、ここにいる理由をつけたかった。
「構わねぇよ」
 私の複雑な心境と裏腹に、男の背中は静かにそう言った。ごちゃごちゃと考えていた頭の中は、それだけでしんと静まりかえった。男の放ったたった一言に、心が揺れ動くのを感じた。
 ようやく、本当にようやく、この人を理解するための綻びを、見つけたような気がしたのだ。ベッドに向かったアバッキオの背を追い、椅子を脇に置く。アバッキオは私に背を向けるように緩慢にベッドに横になると、呼吸を整えるように息を吐いて、あとは何も言わなかった。椅子の組みが甘いのか、私が腰を下ろすと不安定にガタついた。
「ひとつだけ……聞いてもいいですか」
 無言の背中は、規則的に上下するだけだ。まだ熱もあるし、喉が痛んで苦しいのだろう。否定することのないアバッキオの背に、私は体を向けた。
 部屋に忘れられた女性の荷物をアバッキオがどうしているのか、考えたことがある。入れ替わり立ち替わりに来る女性の落し物たちを、男はどう処分しているのだろうか。女性に叩かれて赤くなった頬を気にもせず、薄暗い部屋で煙草をくゆらせる男の怠惰な姿を見た時、ふと情事の遺品の行方を想像したい気持ちに駆られたのだ。金目の物は売り、それ以外は捨てているのだろうか。それとも別の女性に渡しているのだろうか。考えを巡らせてみたけれど、思考はいつも膨らむことはなく同じ可能性を掲げるだけだった。私の乏しい想像力では、その程度しか思い浮かばなかったからだ。けれどそう遠からずといったところだろうと思った。連れ込んだ女性を一度も追いかけることもなく、次には新たな顔を連れてくるような男なのだ。執着や情なんていうものはないのだろう。
 しかし実際には、もっと気味の悪いことが起きていた。勤務先の近くでプランツォを済ませた帰り、私はたまたま、男が昨夜連れ込んでいた女性に紙袋を渡し、頬を打たれているのを見かけたのだ。躊躇いのない、力強いスウィングだった。女性の細い手が男の頬を叩く瞬間に、思わず目を瞑ってしまったほどだ。男は慣れているのか、叩かれるのを予想していたように、微動だにもせず女性の罵倒を受け取っていた。もし女性が物を落とすたびにそんなことを繰り返しているのだとしたら、馬鹿としか言いようがなかった。よりを戻すための下心じゃなくやっているのが、余計に気味が悪い。その時は、そう思っていた。
 でも、そうじゃなかったのだ。
「どうしていつも、わざと振られるようなことを……?」
 私がひっそりと問いかけると、大きく上下していたアバッキオの肩が、息を詰めたように急に大人しくなった。
「幻滅されたいんですか……?」
「……うるせぇよ」
「理想と違うって、失望されたいんですか……?」
「黙ってろ」
「……私」
「てめーにゃ関係ねぇだろうが!」
 布団を捲りあげて勢いよく起き上がると、アバッキオは荒々しく私の肩を掴んだ。激昂しているような、苦渋に捕らわれたような、どちらともつかない感情の波が激しく私へ向けられている。私の言葉が正しかったことを、男の剣幕が答えていた。逃げそうになる体をぐっと抑える。
「私……」
 舌が上手く動かない。たどたどしく、何度も同じ音をなぞってしまう。
「私、あなたが好きです」
 震えた声で言った。怒った男を前にして、顔からもきっと、血の気が引いている。それなのに、胸だけが熱を持っている。
 なんでこんな人を好きになってしまったのだろうか。もっと世の中にいはいい人がいて、もっとお人好しがいて、毎日笑って挨拶を返してくれるような人が沢山いる。それなのによりにもよって、どうしてこの人を好きになってしまったのだろうか。弱さで身を滅ぼしてしまいそうなこの男を、どうして。
「……困りましたか?」
 アバッキオは肩を掴んでいた手を離すと、ため息をつきながら立てた片膝に腕を乗せ、そのまま力尽きたように額を当てた。
「俺はおめーがわからねぇよ」
 さっきまでの勢いをしぼませて、アバッキオが言った。
「怖いならさっさと出ていきゃあいい……俺に構うんじゃあねぇよ」
 部屋に引き込んで無理矢理に襲ったのは、あなたじゃないですか──とでも、言うべきだったのかもしれない。でも、私は逃げなかった。逃げたいと思わなかった。私も私がわからないし、アバッキオのこともわからない。だけど、ここから出て行きたくないのだ。いくら振り払われたって動きたくない。たとえ震えてしまっても、アバッキオが少しでも望んでいる限り、図々しいふりをして居座っていたい。
 ちょっとだけ、見えてきた気がするのだ。それが多分、正しい男との付き合い方なのだと。

 ふと眩しさがちらついて、目を細める。アバッキオの銀髪が細やかな光を反射していた。半分だけ開けられたカーテンから、日が差し込んでいる。部屋の埃が金粉のように舞って、明暗を落としている。
「今日は、晴れてたんですね」
 寝起きのようなつぶやきが漏れた。起きてから大分経つというのに、私は窓の外をこれっぽっちも気にしてはいなかった。アバッキオも同様だったのだろう。急に話題を変えた私に訝しげに眉を寄せたあと、「そうみたいだな」とぼんやりとした返事をした。その声に、胸の内側が浮き立つような気配がした。
「昨日は晴れてましたっけ?」
「……さあな」
 一昨日も、一昨々日の天気も、それどころか最後に雨がいつ頃降ったのかを、私たちは覚えていなかった。忘れたのではなく、知らなかったのだ。
 初めてバールでコーヒーの匂いを知った時と同じような感覚が、私の頭を巡った。ベッドで片膝を立て、弱々しい息を繰り返す男もきっと、バールの匂いを知らないのだろう。そう思うと、今までどんなに払拭しようとしてもできなかった男に対する怖いという気持ちは、不思議なくらい簡単に消えていった。
 あたたかな日差しだった。あの窓を開けた時に吹き込む風の爽やかな心地を、男は最近感じたことがあるのだろうか。もしあの頃の私と同じなら、忘れてしまっているに違いない。煙草の新しい箱を開けて包み紙を捲った瞬間に広がる香りも、ワインをグラスに注ぐ時の小気味いい音も、見逃したまま過ごしているのだろう。
 心の隅から近づいてくる感情を、なんと表現すればいいのだろうか。ずっと得体が知れないと訝しく思えていた男のことを、私は今もって何も知りはしない。それでも、おんなじだ。ちっとも似ていなくて、どこかおんなじだ。私たちはきっと人間になりたくて、仕方がないのだ。
「私、あなたが好きです」
 アバッキオは私を見たあと、ゆるりと窓へ目を向けた。男の曇った目に、澄んだ空から落ちる日が、窓を通して淡く光った。

 男と長く付き合えたのなら、いつの日か聞いてみたい。その時には、今日の窓の光を、アバッキオは覚えているだろうか。



|終
title of 100/054/おとなりさん
19/03/31 短編