暗い監獄だった。
 足音がよく響くため、看守と父親、そしてもう一人の青年の後ろを、無意識に忍び足でついて歩いた。息が詰まりそうだった。通路から空気が抜けて、薄くなっているような感覚にとらわれる。
 幾つもの格子を通り過ぎて看守部屋を抜けると、今度はコンクリートに囲まれた通路へ案内される。そこは日中でも陰っているからか、薄暗く少し肌寒い。そう思うのは、私が緊張しているからかもしれなかった。前を歩く三人の足には、一寸の迷いもない。
 更に奥まった場所にたどり着くと、全員がゆっくりと立ち止まった。三人の背中越しから、私は一つだけ広い牢屋があるのを見た。誰もいないように見えた。
「今年で幾つになったのかね?」
 突然、男の声が響き渡った。首筋を舐められるような悪寒が、ぶるりと体を震わせた。通路を反響する、声の振動のせいかもしれなかった。
 看守は男を監視するでもなく、「面会時間は10分だ」と私の前に立っていた青年に耳打ちをしてから、すぐに背を向けて、来たばかりの通路の入口へ戻っていった。
 響く足音に重ねて、苦しげな深い息が牢屋の中から聞こえた。
「17ですが、もう少しで18に」
 看守を見送った後、父が簡潔に答えると、男は少し満足そうに笑った。鼻に詰まったような声だった。
「ブチャラティ」
「はい」
と言って、青年が牢屋の前に進み出た。流れるような黒髪を顎まで切り揃えた、白スーツの青年だ。
 いつの間にいたのか、牢屋の隅には太りきった巨体の男が、壁に埋まるようにしてもたれ掛かっている。青年の姿を認めると、
さんの一人娘だ。お前と同い年のようだ……懇意にするんだぞ、いいかね?」
と、やはり苦しげに言った。
 青年が髪を揺らして私を振り向く。私は恐怖で上がりそうな息を押し殺すので必死だったが、青年は違っていた。嵐の海のようでいて、光をなびかせた深い青が、前髪の下に沈んでいた。



鍵待ち夜話

01


 という苗字を好きだと思っていたのは、5歳の頃までだ。田舎町に住んでいて、他の誰も持たない、自分にしかない響きが好きだった。
 でもそれが私にとって喜ばしいことではないと気づいた時、父のことも知ってしまった。と言えば私の住む界隈では知らないものがないというほど、不穏な噂の代名詞だったのだ。
 父はギャングだった。小さな犯罪組織の幹部で、私の小さい頃には既に、アンダーボスに最も近い男と言われていたらしい。そのせいか、学校で私を邪険にする子供はいなかったけれど、私がひとたび輪から背を向ければ、途端に背中にひそひそと嫌な笑い声がかかった。鼻を摘んであからさまに避けられることさえあった。最初はそれを、母のいない家庭のせいなのだと思っていた。
 しかし私のお気に入りだった苗字の響きからは、すぐにイタリア系ではないということがわかる。思春期に入る前には、漢字というものを教えられた。父の性格のように、複雑な文字だった。あまり好きだとは思えなかった。
 クォーターだった自分の肌の色は、比較しても大して変わりはしないというのに、成長するにつれ私にはやはりどこか違っているように見え、少しでもその不安を消すために必死で肌を焼き、ソフィア・ローレンのような魅力的な小麦色に近づけようとした。この国で生まれたのに、僅かに癖の違う顔立ちも、部外者の証のように思えた。
 その頃から次第に父の持つ“”という苗字から連想されるすべてのものが、私には重たくのしかかり、蜘蛛の糸のように心にへばりついてしまっていた。
 いや、とっくに糸から逃れる道なんて、私には用意されていなかったのかもしれない。父がアンダーボスになった時、ついに私の描いていた平穏は夢と変わっていた。
 “”という、その苗字ひとつだけで。


 ごめんください、とかかった声に、ガクを剥いていたアーティチョークをまな板に置いて、エプロンで手を拭きながら私は戸口へ急いだ。
 気持ちのいい日和だった。透明な空から降りてくる緩やかな風が肌を撫でれば、ついうとうととしてソファーに体を丸めてしまいたくなる。
 そんな午後の日差しの中を泳いで玄関に向かうと、風が通るように開け放したドアの外では、アロルドというパッショーネの伝令役が手持ち無沙汰に立っていた。週に三日ほど、忙しい時は殆ど毎日顔を出す。本職もここいら辺を担当する、郵便配達員だ。
 4年前に勤めだしてから頻繁に構成員の間の連絡を受け持っているのに、勤勉な性格だからか、一度も関連性を疑われたことがないのだという。
 茶髪を短く切った細面で長身の青年は、私が見てもギャングらしくない穏やかな顔をしていて、ボスでさえアロルドか前に立てば、善良な市民だと騙されてしまうかもしれないと思ったこともある。
 私の姿を認めるなり「ボナセーラ」とかけられた声に、網戸を開けて私も「ボナセーラ」と返した。
「支度中でしたか。今日は何を?」
 普通の書簡と組織の手紙を差し出しながら、アロルドは私のエプロン姿に人懐っこく尋ねた。鼻をスンスンと鳴らして、冗談っぽく台所の方へ顔を泳がせている。
 私はその様子に笑って、「アーティチョークのフリットにしようかと思って」と、エプロンのポケットに紛れ込んでいた、厚みのあるガクを摘んで掲げた。
「もうそんな時期かぁ」
 アロルドは感慨を込めて言うと、「式はいつ挙げるんです? あと少しでしょう?」と目尻に皺を寄せて私へ笑いかけた。
「ブチャラティなら頭から爪先まで、君のためにオーダーメイドのものを揃えそうだ」
 そう言って興奮気味に話す目の前の彼は、来たる日のために既に祝福の言葉を用意している様子だった。
「気が早いわ、まだまだ先の話よ」
 笑顔で答えるけれど私の胸は、春のうららかな日差しを受けても、凍りついたように冷たい風が吹き抜けていった気がした。

 ブチャラティとは、父の組織を傘下においたネアポリスの組織、パッショーネの構成員だ。齢19にしてチームを任され、港を仕切る幹部のポルポの後任とさえ囁かれている。
 名前を知ったのは、父が私をポルポの元へ連れて行った後のことだった。父のいる組織が吸収された2年前のことだ。
「ブローノ」
 刑務所を出るなり、機械的な調子で青年が言った。落ち着いたテノールは誰に言っていたのか分からず、私は初めてかけられた彼の言葉を逃してしまった。
 私がおずおずと青年を見上げると、立ち止まった青年は、私がポルポにすっかり怯えていたのを感じ取ったのか、努めて穏やかな物腰で私へ向き直った。
「俺の名前だ。ブローノ・ブチャラティという。どちらも気に入っているから、好きに呼んで構わない」
 ポルポに“懇意にしろ”と言われたのを、青年は忠実に守ろうとしていたのだろう。
 優しげな声色だったが、ブチャラティの放つ雰囲気は、少し苛立っているように思えた。つまらなそうだ、とも思った。その様子で、とてもじゃないけれど私には、“ブローノ”と気軽に呼ぼうなどという気にはなれなかった。
 たとえ同い年だったとしても、彼の顔つきは組織によって洗練されていて、到底同世代のようなぼんやりしたお坊ちゃん顔ではなかったし、どれだけ付きあおうと、これから先も学友のようには接しては行けないだろう。私は即座に、そう感じ取ったのだった。
 一つの小さな組織のアンダーボスから変わり、パッショーネの幹部を約束された父の表情は、この青年と仲良くすることを私へ強要していた。祖父から受け継いだのだろう。眠るような重たい東洋系の眼が、視線でマリオネットを動かすように注がれる。
「それじゃあ、ブチャラティと……」
 私は青年をそう呼ぶことに決めた。私が決めたのだと、思い込んだ。
 ブチャラティは私の名前を聞かなかった。父から聞いていたのだろうけれど、あるいは聞く必要がないと思ったのかもしれない。彼はこの2年間、人に紹介する時以外一度も、私の名を呼んだことはない。
 その時既に私は、か細い声を出しながら、彼が気に入らないのは私なのではないかと薄々感じていたのだった。

「それじゃあ帰って来たら、こいつを君のフィアンセによろしく頼むよ」
 アロルドは僅かに呆然としていた私の目を覚ますように腕を軽く叩くと、戸口の低い階段を降り、開けっ放しだった門を抜けて振り返った。
「それと、差し入れはいつでも大歓迎だ!」
と、私の持つアーティチョークを指さして笑った後、一度空を見上げてから日差しの暑さに目を細め、路地の陰の中へ逃げこむように走り去っていった。
 私は呆れて笑いを零すしかなかった。年上だというのに、誠実だがどこか落ち着きがなく、嵐のような配達員だった。ブチャラティとは大違いだと思った。あの人は、無邪気に笑ったりなんてしない。
 笑わないわけじゃないのだ。ただ一緒に暮らすことになっても、私の前でも自己を抑えたような、薄っすらとした笑みを浮かべているだけだった。誰に対してでもそうだった。
 歳相応の顔なんて、私は見たことがない。誰もが見たことのある顔でしか、私はブチャラティという人を知らない。フィアンセと、誰もがそう呼ぶというのに。


 婚約を受けたのは、出会ってすぐだ。私の意思でも、勿論ブチャラティの意思でもない。パッショーネと父の組織の意向だ。
 父はアンダーボスではあったが、ボスはもう何年も刑務所に入っていたために、実質的に組織を動かしていたのは私の父だった。
 小さい組織とはいえ、そこら辺のゴロツキとは違う。曲がりなりにも構成員を持って機能している団体なのだ。パッショーネの傘下に入るためには、内部抗争を防ぐ、確実な証が必要になった。年頃だった私がその証に選ばれるのは、火を見るよりも明らかだった。
 ブチャラティはその時には既にパッショーネの有力な株で、偏屈で猜疑心の塊のようなポルポにさえ気に入られている、若手のトップだった。若すぎる、とは誰も口にしなかった。黙々と組織に尽くすブチャラティの実力が、構成員の口を黙らせていたのだ。パッショーネの誰もがいずれ幹部にはブチャラティがなるかもしれないと考え、組織に最も身を捧げていく男だと疑わなかった。
 ブチャラティは、父の組織への忠誠の証を受け取るのに十分な存在だった。適任と判断されたために、組織を結ぶ重要な役割を任された。二つの組織が最も信頼する人材を差し出すことで、和睦は成立したのだ。
 私は“”の苗字を持っていたがために、組織の人質として、ブチャラティと結婚しなければならなくなった。私のことを少しも好いていない、“の娘”としか認識していない男の元へ。
 父親がギャングだったというだけで、汚れた仕事とは無縁に生きてきた私には、この人生はあまりにも過酷だった。
 私たちは恋人でもなく、パートナーでもない。和睦の使者であり、血の奴隷だった。

 いずれブチャラティという青年と結婚しなければならないと知った時、私は部屋に篭って年甲斐もなく大声でわんわんと泣いた。
 もう少しで卒業だというのに、学校にも行く気にはなれなかった。父はそんな私を自由にしていた。婚約から逃げなければ、何でも好きにさせておこうとでも思ったのかもしれない。
 青年を思い出すたびに、あの刑務所の冷たいコンクリートの床とじめじめとこもった空気が体を覆い尽くすように纏わり付き、身動きが取れないよう、私の心までをも絡め取った。幹部の男の苦しげな吐息と声が、頭を痛いほどに反響した。
 嫌だった。知らない青年と結婚するのは嫌だった。どんな人間かも分からない。何をして来たのかも、どんな生き方をして来たかも、何の料理が好きで、どんな歌をよく聴くのかさえもだ。
 私の好きなペンネグラタンは彼の好みではないかもしれないし、毎日聴いている歌手も彼には耳障りかもしれない。趣味も癖も合わないことを、不快に思って邪険にされるかもしれない。
 それに私はまだ18だ。あんまりにも早すぎる。恋愛だってしたいし、何年も婚約して互いを理解してから結婚したい。
 ただでさえこの国は結婚に厳しいのだ。普通だって、離婚したいと言ったからといって簡単には別れられないというのに、彼と私の結婚はカトリック教会ではなく、もっと残酷な十字架を背負ったパッショーネの鐘の音で結ばれる。籍を入れてしまえば、どんなに苦しい日々が続こうと、死ぬまで離れることはできなくなるだろう。
 結婚は、私の人生の唯一の救いだった。別にドラマチックじゃなくたって良かった。自然な出会いに惹かれ合い、互いに一生を委ねられる人と歩んで行けば、組織から離れていけると思っていた。
 夢だったのだ。他の何を捨てても叶えたい、現実的で切実な、唯一の夢だったのだ。

 初めて好きな人が出来た日のことを忘れもしない。ばっちりと綺麗な小麦に焼いていた私の肌はこの国のどこを歩いても恥ずかしくなく、東洋の交じる顔立ちさえも隠せる。その頃の私は少しだけ、自分への自信を取り戻していた。
 試験の出来が芳しくなく、補修を受けることになったのがきっかけだった。彼とは別のクラスだったので、名前も顔も知らなかった。
 列を一つ空けた私の後方に座っていて、私が人数を確認するために教室を見回していると目が合い、嬉しそうに笑って片手を上げた。笑顔が素敵だったので、私は照れくさくなってはにかんだように思う。
 次の日の補修に出ると、彼は私を見つけるなり表情を緩ませて近づいて、「だろ?」と言った。私が驚いて聞き返すと、「昨日先生が呼んでた」とやはり無邪気な笑顔を浮かべて、自然に私の隣へ腰を下ろした。決して美形ではなかったが、白い歯が綺麗だと思った。
「黒髪と肌がとても綺麗だ」
と言われた時、私の胸に沈殿していた不安が一気に蒸発していった感覚は、今でも思い出せる。私は代わりに彼の笑顔と歯を褒めた。
 話せば話すほど胸が燃えるように熱くなって、好きになるのは時間の問題だった。幸運だったのは、彼も私を好いてくれたことだった。

 付き合いだした時にはすでに“”について彼は知っていただろうけれど、父親のことは決して私からは口に出さなかったし、父にも彼のことを話したくはなかったので、父がいるうちには家には一度も呼んだことがなかった。
 彼を組織と繋がらせるのだけは絶対に嫌だったからだ。私が話題を避けていることを感じて、彼も気を遣っていた。
 友人たちはデートとなれば互いの家に相手を呼んでは、家族と一緒に語らいながら食事をとっていた。私も勿論家に招待はしたが、父のいない時間帯ばかりを選んだので、時間を気にしながら二人っきりの簡素な食事になった。どこかあたたかさの欠けたデートになった。
 そんな状態で私ばかりが彼の家に何度も行けるはずがない。私は彼の誘いを断るようになった。凡そ一般的な付き合い方とは、私たちは明らかに違っていたのだ。
 付き合いだして半年も経った頃、先に音を上げたのは彼だった。
「君のことは好きだ」
と彼は言った。
「でもこのまま付き合うのは不自然だ……僕と君だけで生きているわけじゃない」
 確かにもっともだと思った。家族を隠して、互いに目を背けるために気を使っていては、一緒にいても落ち着ける暇なんてない。ずっとそうして付き合っていくわけにも行かない。
「友達でいよう。その方がいい」
 彼の言葉に私は頷いた。あんなに好きだと思っていたのに、意外にも私の首はすんなりと縦に頷けてしまった。たった半年の間で、恋心が萎んでしまうほどに疲れきっていたのだ。
 彼は私が受け入れると、ほっとしたような顔を隠さなかった。皮肉にもそこには、私が胸を焦がすほどに惚れた笑顔が僅かに滲んでいた。彼もまた私と同じように、この関係に疲弊していたのだった。
 絶望感はなかった。失意だけが私の体を弛緩させていた。
 “きっと”でも“多分”でもない。“絶対”に、私は一生、望むような恋愛はできそうにない。彼との付き合いは、私の眼前にその事実をはっきりと突きつけた。
 夢だった。別にドラマチックじゃなくたっていい。自然な出会いに惹かれ合い、互いに一生を委ねられる人と歩んで、組織から離れて行きたかった。それだけだったのに、やはりそれは夢でしかなかった。
 それを私の心の奥深くにまで刻み込んだのは、父でも彼でもなく、ブチャラティだった。

 刑務所を出た後にブチャラティが私に見せた冷たい雰囲気は、私に暗い現実を突きつけるには最も効果的だった。手を血に染めてきても平然と食卓のフォークを取れる男と、どうやって愛して行けばいいのか私には分からなかった。
 ブチャラティとは、父のような血のつながりもない。青年は赤の他人だ。出世のために私という荷物を背負わされたようなものだ。理由もなく、無条件で愛してくれなどしない。私が夢に描いたような愛を持った人は、彼の中にいない。
 それが、私をひどく苦しませた。


 また戸口の方から門の開く音が聞こえて、私は椅子に座ったまま包丁を置いて振り返った。
 狭い路地に面した玄関には、植木鉢が置ける程度の三角の間があり、門から数歩のところに、カーブを描いた数段の階段が戸口まで伸びている。
 それをコツコツと上る大きな間隔の靴音で、私は来訪者が誰であるか分かった。
「いるか?」
 朝から外は晴れ渡っている。いつもの白いスーツを身に纏ったブチャラティが、小さなテーブルを前に私が座る台所へ顔を覗かせた。彼が台所へ足を踏み入れると、全身から太陽の匂いがふわりと漂ってきた。
 私はその香りにわずかに心地よさを感じながら、「おかえりなさい」と彼を迎え入れた。
「何か忘れ物でも?」
 彼は滅多にシエスタを取らない。帰宅には中途半端な時間だ。コーヒーを淹れようとテーブルに手をついて私が立ち上がろうとすると、ブチャラティがそれを制した。
「いや、近くに用があったから立ち寄っただけだ。それより、昼を食べに戻れなくてすまなかった」
 途中のバールで済ませてしまったという気遣いの言葉に、社交辞令だと分かっていても私はつい言葉に詰まった。
「いいんですよ、またチェーナに食べればいいんですから」
 彼は私の声に頷きながら、朝からコーヒーポットに入れっぱなしのものをコップに注いで飲んでいる。冷め切って時間の経ったコーヒーなんて、苦いだけで美味しいものじゃない。
「そんな……淹れなおしますよ」
 私が慌ててシンクへ向かうと、「いいんだ」とブチャラティが引き止めた。
「今日は暑い。これくらいが丁度いいのさ」
 私は帰って来て初めて、彼の顔をしっかりと見つめた。彼の頬には薄っすらと汗が浮かんでいた。台所の窓から差す透明な光に照らされた部分は、褐色の肌がテラテラと光っている。室内は薄暗かったので気が付かなかった。
 春といえど、陰を探して歩きたくなる日だ。ブチャラティはこの暑さの中を、余程歩いたのかもしれないと思った。今彼の黒髪を触れば、きっと夏の海辺の岩のような熱をはらんでいるだろう。
 私は昼に取り込んだばかりのタオルを冷水に浸して、絞ったものをブチャラティに手渡すと、「グラッツェ」と漏らしながら彼は引き寄せられるようにタオルへ顔を押し付けた。彼の口からタオルに埋もれるようにして、深い溜息が漏れた。

 パッショーネによって組織の人質として婚約させられた後、ブチャラティと同棲を余儀なくされたのは去年の秋頃なので、実家から引っ越して半年を過ぎたことになる。付き合いからすればもう二年になるというのに、私は未だにどうしても慣れることができない。出会いと、今も尚背後にある組織の意図を鑑みれば、仕方のないことだった。
「アーティチョークか?」
 タオルから顔を上げたブチャラティが、仄かにすっきりとした面持ちでテーブルの上に目を遣って、私へ尋ねた。それだけでどぎまぎとして身構えてしまう自分に、私は辟易とした。
「確か昨日は、牛骨が足りなくてスープが出来ないと言ってなかったか?」
「朝に買ってきたんです。まだ煮込んでいるからスープは明日になるけど、今日はフリットにしようと思って」
 私がスープ鍋の蓋を開けて身振り手振りで伝えると、ブチャラティは「それは楽しみだ」と口元を緩めた。
「チェーナには戻る。今度こそ一緒に食べよう」
 タオルを私へ預けながら、ブチャラティが私に目を合わせて言う。どきりと心臓が跳ねて、私はついに声を出せずに頷くだけに終わった。体が強張り、息を押し殺してしまう。
 電話の横に置いていたアロルドから受け取った手紙を渡すと、ブチャラティはまた「グラッツェ」と一言返して、日照りの中を軽快に階段を降りていった。
 門が閉まり、靴音が遠ざかる。通行人の自転車の車輪が家の前をカラカラと通り過ぎると、港の方から聞こえる鉄筋を運ぶ音以外、柔らかな窓辺と私だけが残された。
 私は耳で彼が去ったのを確認する。数秒してから、思わずしゃがみこんでようやく大きく息を吐きだした。腕の中に顔を埋めると、熱がせり上がってきて、耳まで真っ赤に染まるのがわかった。胸がうずうずと痺れたように震える。
 いけない──と思った。それだけじゃ足りず、頭をゆるゆると振って声を漏らす。
「……こんなの、いけないってば……」
 囁いても、熱の篭った息で膝が濡れるばかりだった。いくら口に出して言い聞かせても、心だけは思うようにいかなかった。


 初めて出会ってから私の高校卒業を挟んだ半年の間に、ブチャラティは毎週末の夜、我家の食卓に招待された。
 大抵は父と私の二人きりの食卓だ。小さい頃は構成員のおじさん達とテーブルを囲んだりもしたのだが、私が組織に関わることを嫌がるようになってから、チェーナに呼ぶことだけはしなくなった。だから父は、私以外と晩餐で話が出来る週末を、密かな楽しみにしていたようだった。
 私の母は産後の肥立ちが悪く、私を産んですぐに病にかかり死んでしまったのだと聞いている。それからというもの、父は後添えも恋人すら持つこともなく、家政婦を雇ったり時にその手で料理を作っては幼い私に食事をとらせた。
 私が台所に立つようになってからはその頻度も減ったものの、ブチャラティが来る日は、父は何の用事をおしてでも自分で夕食を作ろうとしていた。私はいつもそれを手伝っていたので、週末は親子二人で並んで料理を作れる貴重な時間になった。
 父がどんな人間であれ、一人でここまで私を育てた親であることに変わりない。親子らしいことが出来たのは、私にとってはこそばゆくもあり、嬉しいことだった。それだけはパッショーネと、ブチャラティのお陰だと思った。
「ブローノ、ムール貝は好きか?」
「ええ、海のものは全て」
 父はブチャラティを“ブローノ”と呼んだ。酒が入れば、「お前の親父さんに会いたかった」としきりに言っては顔を火照らせ、絡み酒を披露した。
 私は微笑を浮かべて相手をするブチャラティが、組織の命令に従って仕方なく付き合っているとしか思えなかったので、いつ父によって溜まった鬱憤が私に向けられるかと冷や冷やしていたのだが、反対に子供が娘一人だった父の方は、パッショーネの命令とはいえ、ブチャラティを息子のように思いたかったのだろう。その証拠に、チェーナの間の父は、ただの一人娘の父親のように見えた。
 ある時、
「こいつは一度も母親の味を食べたことがない」
と作りたてのリゾットを前に、父が私を指してブチャラティへ言った。
「それなのにこいつが作るのは、俺の料理より母親の味に似ている。不思議だろ? 料理の腕が遺伝するってのは聞いたことがあるか?」
 そう言って笑う父の料理は舌鼓を打つ程ではなかったけれど、食べたあとでどこか満足感をもたらした。アンダーボスたる話術と愛情が、そうさせるのかもしれなかった。

 父は私を愛していた。子供に注ぐ愛は本物だった。私の不幸というのは、父は根っからのギャングだったというだけだ。しかし悲しいことに、それは最大の不幸だった。
 子供を組織のために働かせることを、父は何の不思議とも思っていない。漁師の息子が漁師になり、漁師の娘は漁師に嫁ぐように、ギャングもそうして生計を立てる家業なのだと思っている。そのための行為なら、罪悪感というものは微塵も浮かぶことはない。
 お陰で私は、父の元では生きていけたが、父がいる限り、社会的には胸を張って生きてはいけない。私から組織を遠ざけようとすればするほど、友人たちのような普通の恋愛もできはしない。

 それでも変わったことはある。
 数ヶ月が経ったチェーナの後、玄関に見送りに出た私がドアを閉めたのを確認すると、6月の夜の肌に馴染む涼しさの中で、ブチャラティがおもむろに尋ねた。
「君は俺と結婚したいか?」
 突然の質問に、私はどう答えていいか戸惑った。目の前の彼の意図していることが分からなかったからだ。
「あ、あの……」
 玄関から漏れる淡い照明を受けて、闇にぼんやりと浮き上がるようにして佇んでいたブチャラティは、逡巡する私に、「正直に言っていい」と付け加えた。そうして、あの底の見えない目から、じっと視線を注がれる。
 私は喘ぐように声を漏らした。
「わ、わたし、私は……したくない……です」
 お腹の前で手を弄りながら、落ち着かなく泳がせていた目をちらりとブチャラティへ向けると、彼は暗がりの中、綺麗な黒髪を揺らして頷いた。私の言葉を自分の胸へ染みこませるように、ゆっくりと。
「君が望むなら、そうしよう」
 ブチャラティは囁くように、それでいてはっきりとした意志ある口調で私に告げた。
「君には未来がある」
 カーテンが揺れて、窓から父がこちらを覗きこむような気配がする。密会の終わりの合図だ。
 ブチャラティが動いたのは突然だった。窓に気を取られていた私の肩を、両手で掴んで勢い良く引き寄せた。白いスーツが体にひたりと迫り、屈みこんだ彼の顔が私の頬へ寄せられる。チュッと音を立てながら両頬へエアーキスをして、肩から滑らせた手でブチャラティは私の両手を握った。
 父はまだ窓際に立っている。ブチャラティは惜しむような素振りを見せた後、またキスをするふりをして、私の耳元へ口を寄せた。
「難しいかもしれないが、俺を信じるんだ」
 低い声が、鼓膜を揺らした。耳にかかった息がくすぐったい。
 ブチャラティはゆるりと私から体を離すと、静かに私を見つめ、戸口に背を向けて暗がりの中を帰っていった。ライラックに似た香りが、薄暗がりの中で鮮明に残った。
 彼が私に触れたのは、それが初めてだった。


「こんなこと、いけないのに……」
 真っ赤になった耳を両手で抑えて、台所の隅で縮んだまま、私は息を潜めた。エプロンのポケットに紛れ込んでいたアーティチョークのガクが、屈みこんだ私の体の間で折れる感触がする。
 思えばその時に既に、愚かな私はたった一言で、青年に恋をしてしまっていたのだ。呆気無くて、簡単だった。青年の言葉には真実めいたものが見えて気がして、意図していることが何であれ、信じてもいいとさえ思えた。しかし組織に身構えていた私には、自分の感情なんて気にする余裕もなかった。なにせ、私の人生がかかっていたのだから。
 高校を卒業して、父の了承を得ることなく私は転勤の多い会社を選んで入社した。それを知っても何も言われなかったので、認められたのだろうとどこかで安堵していた。
 “俺を信じるんだ”という、ブチャラティの言葉も思い出された。彼は忙しいのか、夏を過ぎてからぱったりと姿を見せなくなったので、すべてが上手く行きかけているのだと、あとは時間の問題だと、ブチャラティの顔を思い出すたびにこみ上げる不思議な感覚を抱えながらも、私はそう思い込んでいたのだ。
 しかし翌春になって同棲の話を持ちだされ、社内でも唐突に事務へ転属させられると、ぬか喜びに過ぎなかったことを私は深く思い知った。

 それでもまだその時には、私の中に熱意と希望はあったのだ。けれど想いを自覚した今となってはもう、組織から逃げる意思さえ薄弱なものとなってしまった。
 組織にはいたくない。関わりたくもない。けれど、ブチャラティに惹かれて仕方ないのだ。彼を振りきれると思っても、オーダーメイドの白いスーツ姿を見ると、淡々としていて穏やかな声を聞くと、焦がれてしまうのだ。胸が夕焼けのように熱くなって、また声を聞きたいと思ってしまう。
 どうしたらいいのか分からなかった。自分の未来が決められないのは、初めてのことだった。物心ついたときから今までずっと、組織から離れることを強く願っていたので、それが曖昧なものになってしまえば、迷うのは当然のことだった。

 ブチャラティは一体、私のことをどう受け止めているのか分からない。しかし彼にとって結婚というのは、厄介事であるような気がしてならなかった。
 強制であるとはいえ婚約をしたというのに、ブチャラティは二年前のあれ以来、手さえ一度も触れてこない。一緒に住んでいても、友人や家族にするような挨拶のキスすらない。
 まるで他人以上に他人だ。フィアンセどころか、彼にとっては友人ですらない。

 椅子に戻って、私はチェーナの支度を再開した。市場で買いすぎたアーティチョークを無心に剥いていると、ついつい考え込みすぎてしまう。
 いつか、はっきりしなければならない。でもそれは今じゃなくたっていいじゃないか。今一番大事なのは、チェーナのことだ。疲れきったブチャラティが食べる料理なのだ。食べたことのない母の味くらい、完璧にしたい。

 この時私は、いつものように悪い予感を見て見ぬふりをした。周りで何度も囁かれている噂がある。
 ブチャラティには女がいる──という話だ。
 私は首を振って、出来るだけ精一杯頭から振り払った。



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13/05/31 短編