03


 父と一緒の晩餐から離れ、二人きりでの生活をするようになっても、ブチャラティは私のお気に入りの曲を煩そうにはしなかった。時折彼がかけるジャズも私は好きだった。私の好きなペンネグラタンも気に入らないとは言わず、ぺろりと平らげてくれた。恐怖に似た不安を抱いていた私は、あまりにも想像と違った彼に、少し拍子抜けをした。
 一年後に結婚をするという前提で組織から同棲を促され、引越しをした日、荷物が重なる部屋の真ん中で顔を合わせた私は、崖を前にしたように怯えた顔をしていたことだろう。
 ブチャラティが言ったのは、一言だけだった。
「俺と暮らすのは苦労するだろうが、約束は守ろう」
 半年も一緒にいて、苦労なんて一回だってしたことがない。アロルド以外の構成員を私へは紹介はしなかったし、仕事を持ち込むこともなかった。彼はずっと約束を守り続けている。苦労をしているのは、ブチャラティの方だ。
 今まで父に翻弄されていた私には、はっきりと告げて仕事へ戻って行った彼のその背中が、とても頼もしく思えた。
 一瞬、私は自分でも知らずに戸口へ向かうブチャラティへ手を伸ばしていた。反射的だった。何のために掲げた腕だったのか分からず、私は自分の手をしげしげと眺めながら荷解きを始めたのだった。
 どうしてそんなことをしたのか、今なら分かる。それがどんなにいけないことかも。

 僅かに湿り気を帯びた風が、そよそよと吹いていた。
 ブチャラティはいつも通り、チェーナの前には帰宅をした。仕事があればその後で出かけていく。会合のある日は事前に告げてから出て行くため、私が食事の準備に困ったことはない。
「時間通りだな。遅れなくてよかった」
 テーブルに食器を並べる私へ、スーツの首元を緩めながらブチャラティが言った。
 私が「おかえりなさい」と呟くと、頷いて部屋の奥へ消えていく。シャワーを浴びるのだろう。脱衣所のドアを開く音がした。
 体が、勝手に動いていた。目の前に半開きのドアがある。脱衣所だった。
「あの……」
 私が声をかけると、中から「何だ?」と返事が来る。
 ブチャラティはこちらに背を向けて、私がきっちりとアイロンをかけて用意しておいた着替えを前に、スーツのボタンを外している。
 いつの間にか、私は手のひらにノブを握っていた。開くと、立て付けの悪いドアが奇妙な音を立てた。
「どうした?」
 振り向こうとした彼の横顔が残像となって、私の目に残る。ブチャラティが言葉の途中で息を呑む気配がした。
 鼻先に、ブチャラティの背中がある。私の両手が、脱ぎかけの彼のスーツの端を掴んでいた。トクトクと心臓が足踏みを始める。ブチャラティはもう、「どうした?」と、聞いてくれない。息を殺したように、黙ったままだ。耐えようのない沈黙がよぎる。
「あ、あの……」
 私は、蚊の鳴くような、本当に小さな声を何とか絞り出した。顔に血が上って、日照りに晒したように熱くなっている。耳鳴りが思考を遮るみたいに、高く高く伸びている。目眩がして、数センチのところにあるブチャラティの背中が、ゆらゆらと揺れる。
 二年前、夜の別れに嗅いだライラックに似た香りが鼻を掠めると、私はもう何も考えられなくなってしまった。額に、ぬくもりが触れる。ブチャラティがぴくりと肩を震わせて、身を強張らせた。
 真っ赤な顔を寄せて、ぎゅっと目を瞑った。
 少しだけ──
「少しだけ……このまま……」
 頭の中には何もなかった。熱と、耳鳴りと、ライラックと、そして背中のあたたかさが、私の呼吸を満たした。

 私は脱衣所を飛び出して自室へ逃げ込んだ。ベッドに潜り込むと、どうしようもなく涙が出た。泣いたのは、組織から人質に出されたと知って以来だった。
 はしたないことをしたと思った。とてもいやらしい人間だと思った。律儀なブチャラティが、どうか追ってこないことを何よりも願った。
 枕に顔を押し付けて、頭から被ったシーツごと耳を塞ぐ。不意に、幼少時代の光景が頭を満たした。トラウマだった。
 “”の苗字が嫌だった。人間関係のどこまでもついて歩いた。私がどんな人間だろうと、鉛筆も服も靴も血肉でさえも、まっとうではない組織の金で育ったのだという目が、少なからずあった。移民系というのも、あまり快くは思われない。それでいて鼻を高くしているのだと、父へ対する不満が私へも降りかかってやり切れない気持ちになった。
 内心ではそうして差別しているのに、父親がギャングだからと仲のいいフリをしておべっかを使い、陰口をたたく仲間も多かった。変わらず接してくれる友人がいても、胸に深い傷が残った。
 何度だって不安は頭をもたげた。ブチャラティも、そうなのかもしれない。陰湿で姑息なことはしない人でも、とても快くは思っていないはずだ。あの人に疎まれていると思うと、誰に笑われるより悲しかった。
 しかし優しい人だからこそ、内心を隠して私に付き合ってくれているんじゃないだろうか。そうじゃなければ、移民のくせに大きな顔をしている“”の女なんて、相手にするだろうか。

 諦めよう。諦めなければならない。もうはしたないことはしない。迷ったりはしない。彼を困らせたりはしない。
 どんな人生だろうと、プライドだけは失ってはならないのだ。それをなくしてしまったら、どこにいようがおんなじだ。私は組織よりもずっと嫌いな自分自身を抱えて生きて行くことになる。
 自分を嫌いになってしまったら、お終いだ。
「……っ」
 私は声を必死で殺した。涙は止めどもなく流れて、いつまでたっても私を枕に張り付かせた。
 夜が明けてブチャラティが家を出るまで、私は部屋から出ることが出来なかった。


 身支度を整えて会社に休みの電話を入れてから、乱れきったベッドを無心に直した。瞼が腫れたみたいに重たくて、見れるような顔になってはいないだろうと思った。いっそ晴れてくれればいいのに、天気も薄っすらと暗い曇り空だった。
 椅子に腰掛けて、タオルに包んだ氷水を当てて午前を過ごす。そうして呆然と窓からの風を感じていると、泣き疲れた倦怠感で眠ってしまいそうになった。ずり落ちる氷を持ち上げては直しと繰り返している内に、舟を漕いでいたらしい。
 ドンドン、と扉を叩く音でハッとして、飛び上がるように椅子を立った。窓から、アロルドが覗きこんで手を振っている。時計を見れば、プランツォの時間はとっくに過ぎている。
 人に会いたくなかったのだけれど、迷ってももう在宅と知られてしまっているので、私は仕方なく戸口を開けた。
 案の定、私の顔を見たアロルドはギョッとしたようだった。口をあんぐりと開けて我に返ると、
「喧嘩でもしたんですか?」
と、普段からは想像もつかないほど遠慮がちに尋ねてくる。私は自分の弱さと恥を露呈するのが情けなくて、曖昧に笑って返した。
 居心地の悪い空気が流れた。アロルドは意外にも慰め下手らしい。かける言葉を探しているのか、落ち着きなく肩から下げたカバンを弄っては咳払いをして、意味もなく喉の調子を整えている。
「あっ、そうそう、手紙を」
 変わらず、殆どがブチャラティ宛だ。私宛の手紙といえば、月に一度の友人との文通くらいで、父からでさえも届いたことはない。
 会おうと思えば会える距離なのだから必要もないのだけれど、パッショーネの目を気遣ってか、父は全てブチャラティを通して伝言をする。パッショーネからの信頼を得るまで、今まで以上に、親子らしいと思えていた部分でさえも遠くなる。
 私は自分が思うよりも一人なのかもしれないと思った。組織を離れれば、もっとそうなるのかもしれない。たった一人の父親さえも、親ではなくなってしまうのかもしれない。組織と縁を切るとは、そういうことだ。
「ごめんなさい……」
 手紙の宛名を確認しながら私が零すと、アロルドは一緒に手元を眺めていた顔をこちらへ向けた。
「あなたのお母さんが育てたズッキーニ……失敗しちゃったの」
 カターニャのあるシチリアは遠い。飛行機に乗って、バスに乗って、もしくは列車を乗り継いで、時間をかけてようやく辿り着く。その距離を、アロルドの母親は息子を思って荷物を送ったのだ。会えない代わりに、息子の健康のために、採れたてのズッキーニを。
「あまり美味しく出来なかった」
 そう言った私に、アロルドはまるで最高のジョークを聞いたみたいに声を上げてゲラゲラと笑った。
「それで謝るなら、俺は毎日神に懺悔しなきゃならない」
 安心するような、元気な笑顔だった。友人と変わりなかった昔の彼が湛えていた笑顔と、やはりとても似ていた。きっとアロルドが組織と関わらず、正しく生きていくよりも何よりも、彼の母はこのためにズッキーニを送ったのだろう。
「それより」というアロルドの声に、私はうつむきがちだった顔を少し上げた。
「俺はさっきから気になることがあって、どうにも落ち着かない」
「……何のこと?」
 眉を寄せると、アロルドは私の顔に、すっと人差し指を近づけた。
「君の目元に付いているまつ毛だ。こういうの駄目なんだ。一度目につくと、もうずっと気になって仕事も手につかなくなる……取ってもいいですか?」
 腫れた目の重みを、こすって誤魔化していたせいかもしれない。それに、必死な彼が可笑しかった。これがアロルドなりの慰め方らしい。普通じゃなかなか気づかない。
「それじゃあお願いします」
 私の声に、アロルドは任せろと言わんばかりの笑みを浮かべたキメ顔で、私の目元へ指を寄せた。

 門を誰かが引いて入ってくる。目を瞑っていても分かる、大きめの歩幅。革靴の音。
「アロルド?」
 ブチャラティの静かな呼び声に、ふっと私は目を開けた。無事に取り終えたまつ毛を払ったアロルドが、後ろを振り返って、「あっ」と何故か恐縮をした。
 足音と声は聞こえるけれど、アロルドが陰になって、ブチャラティの姿が見えない。
「手紙をいつも悪いな」
「いえ、俺もいつも差し入れを貰ってばかりで……」
 ブチャラティが段差の一段目に足をかけたお陰で、真っ白なスーツが目に入る。でも、それ以上は見たくなかった。どんな顔をして会えばいいか分からない。
「結婚したくない」と言った相手に勝手にしがみついて、勝手に部屋に篭って泣き、勝手に家事を放棄したのだ。ブチャラティは私の身勝手に振り回された挙句、理由もなく当たられたようなものだった。
 彼の想い人を裏切ってしまったことを考えると、私は自分の浅はかさが恥ずかしくて許せなくなって、ますます、アロルドの陰で縮んでいたくなった。
「今日は俺からチップを渡そう。途中のバールで何か食べるといい」
 ブチャラティは穏やかにそう言ってアロルドのすぐ側まで階段を上ると、彼の手をとってリラ紙幣を握らせた。
「ど、どうも」
 アロルドの声は強張っている。二人は知り合いというだけで、配達以外の接点もない。何よりアロルドは組織に配達員として雇われているだけで、内部事情には疎い。ブチャラティに恐縮するような関係ではないのだ。
 何か、胸騒ぎがした。ブチャラティは少し道を譲ってから、もたついているアロルドへ向かって不思議そうに尋ねた。
「それで何か他に、用があるのかな?」


 ブチャラティの様子が違う──と思って私は咄嗟にアロルドを引き止めようとした。昨日のことがあったので、二人きりになりたくなかったのだ。
 しかしアロルドは振り返りもせずに、門の脇に立てかけていた自転車を引いて、急ぎ足で路地を曲がっていってしまった。
 階段から律儀に見送っていたブチャラティは、彼の背が角に消えると戸口へ向き直った。私は思わず後ずさりしてしまった。腫れた顔を見られるのは嫌だったし、何か得体の知れない不安が漂っていて、少しブチャラティと距離を置きたかった。
 ブチャラティは私の様子にも黙ったまま残りの段差を上って、ドアに手をかけながら、私がしっかり中に入るまで静かに待った。ほっとした。私はエスコートをするブチャラティに、普段通りだと気を抜いた。
 思ったのも束の間だった。
 部屋に戻ろうとした私の手を、ブチャラティが即座に掴んだ。ビクッと体が跳ねる。驚いて振り返ろうとすると、そのまま性急に壁際に押し寄せられた。部屋の隅に置いたソファーが腰にぶつかって、バランスを崩した私はそこへ倒れこんでしまった。起き上がる力さえ、ブチャラティの両腕に抑え付けられる。
 急なことに思考が追いつかなかった。
「ブチャラティ……ッ!」
と叫ぼうとした声は、呻くどころか息をする間もなく、押し付けられたブチャラティの唇に吸い込まれた。胸が痛いほどに跳ね上がる。首筋の脈が鼓膜まで叩くように鳴り響いて、ソファーに埋もれる私にのしかかるブチャラティは、抵抗する私を無理矢理に押し込める。
 私の口は、ブチャラティの舌で簡単にこじ開けられた。まさかそんなことをするなんて、思いもしなかったのだ。
「ふぅ……ッ! ンン……ッ!」
 差し込まれた舌が、歯列をなぞってから、探るように暴れまわる。
 酷くされても、恋焦がれた人なのだ。私の抵抗はきっと、抑え込めてしまうくらい意味のないものだったに違いない。私は、湧き上がりそうになる快感に飲まれそうになる体を、留めるので必死だった。背中を這いずる恐怖が、どうにか理性を保たせた。
 これ以上は落ちたくなかった。これ以上自分を嫌いにはなりたくなかった。
 彼が私の舌を探していたのだと気づいた頃には、すっかり息が上がって、もがく力さえ出なくなっていた。
 私の力が弱々しくなっていくと、ブチャラティはようやく口を離して伸びた銀糸を拭って、あとは荒い呼吸を繰り返した。

 恐怖と快感が、交互に心に押し寄せてくる。
「ゥ……ウ……」
 片腕で顔を覆って意味のない呻き声を漏らす私を、暫くブチャラティはうつろに見つめていた。どちらも何も話さなかった。
 しかし息が整ってくると、ソファーの中で縮こまる私に正気に返ったように目を見開いて、半開きだった口を引き結んだ。
 さっと体を離して、それから立ち尽くしている。
「すまない……」
と囁くように呟いた。
「君に、手を出すつもりは……」
 この言葉を聞いた途端、私は思わず泣いてしまった。もう泣きたくないというのに、泣こうと思ってもいないのに、私の意思に逆らって、腫れた目からまたぽろぽろと涙が溢れ出てくる。
 両腕で顔を覆うと、鼻水がでるのも構わずに、私は子供のように顔を歪めて泣きじゃくった。声だけは押し殺そうとしたのだけれど、それでも「くぅう」と高く醜い唸りとなって喉から鼻を吹き抜けてくる。
 ブチャラティは私のことなど、少しも人としては見ていなかったのだ。他の多くと同じように、幹部の娘で、もしくは黄色の娼婦で、知らない誰かに対する欲を処理する、ちょうどいい存在でしかなかったのだ。
 惚れた女がいて、好きでもない上に面倒な女を婚約者に貰ってしまえば、そう思って扱うしかないだろう。組織に忠誠を誓わなければならない状況で、そう思う以外にどうやって私と過ごせばいい。

 本当は心の何処かで、いつか「好き」と言ったのなら、情が湧いてくれるのではないだろうかと思っていた。いやらしい自分から目を逸らしたくて、そんな感情をずっと見ないようにしてきた。でももう、そんなことを思うこともない。
 組織の道具としてしか見ていない男に「好き」なんて言ったら、それは私の弱みになる。ますますいいように使われるだけになる。今までのように、影で笑われるようになる。今度は妾や娼婦として嘲るように。
 それでも私の恋心は、私が思うよりしぶとくて敵わなかった。もし私の気持ちを吐露して気色悪がられてしまったらと、そんなことばかり浮かべてしまっている。
 私が泣きじゃくりながらソファーから身を起こすと、ブチャラティは胸元から使っていないハンカチを取り出して、私の涙を拭おうとした。
「触らないで下さい……!」
 涙声にも構わず叫んで、私は彼をすり抜けて窓の方へ身を寄せた。
 たとえ私をどう思っていようと、私が今組織でどんな扱いを受けていようと、この人だけは、こんな、乱暴なことをする人ではないと思っていた。
「もう私に……触らないで……」
 ブチャラティは髪を揺らして俯いた。横髪で、どんな顔をしているのかは分からなかった。
 彼のスーツのように真っ白なハンカチをソファーの上に置くと、戸口へ向かい、躊躇うように立ち止まって、
「……夜には、帰る」
と呟いて、静かに家を出て行った。


 幾日も、夜が過ぎたかのように思う。たった数時間前なのに、自室の暗がりにずっと蹲っていると、世界の果てまで来てしまったような気分になる。
 チェーナは作らなかった。作れなかったと言うのがいいのかもしれない。きっとブチャラティもどこかで食事をとって、食べに戻りには来ないだろう。もう二日も作っていないことになる。
 でも、それがなんだというのだろう。私は適当に食べたって構わないし、ブチャラティには作ってくれる人がいる。本当に食べたかった人の味が待っている。その人の家族が待っている。
 半年前まで毎晩、私の味を待ってくれていた父は、私を組織に貢献させることを当たり前だと思っている人だ。健康でありさえすれば、他の何事も些細なことだと思っている人だ。それが私の父だ。それでも、私の父だ。父もブチャラティを好いていた。息子になってくれればいいと思っていただろう。
 私は父の望むどちらにも貢献できそうにはない。組織にも忠実でなければ、ブチャラティと結婚することもない。生きている以外父にとって、何の取り柄があるのだろう。

 ブチャラティは日付が変わる夜更けに帰ってきたように思う。泣き尽くした私は、疲れ果てて自室のドアの横に無気力に寄りかかっていたので、ブチャラティが床を踏みしめて歩み寄ってくる振動を直に感じた。
 組織に与えられた仮住まいは立て付けが悪くて、ドアを閉めても隙間風が吹く。ちゃんと閉まらないから、近づけば隙間から互いの姿がはっきりと見えてしまう。
「……いるか?」
 わかっているのに、ブチャラティは私の所在を尋ねた。答えなかったせいなのか、彼が僅かに扉を開ける。ほんの狭い空間が開いて、ドアのすぐ側に寄りかかっていた私の目の前に、ブチャラティのスーツの足元が映る。
 夜も夜更けだった。電気はつけていないというのに、少し見上げると、ブチャラティの輪郭がはっきりと見える。今日は月夜なのだろう。
 ブチャラティは、彼を見上げながら壁に寄りかかっている私を隙間から認めると、私の目線に合わせるように片膝をついて座り込んだ。
 腕が一本通るくらいの、閉じかけた狭いドアの間から、互いの姿を見る。
「このまま、少し、聞いてくれ」
 ブチャラティが口を開いた。単語を区切って、言葉の音を頭に響かせるように呟いている。
 甘い香りが漂って、アルコールの匂いがしたような気がした。どこかで飲んできたのかもしれないと、私はぼんやりと思った。
「君との約束を、俺は忘れてはいない。何があっても、必ず守ろう……俺がした約束だからな……」
 ブチャラティは苦しそうに大きく息をついた。ごつりと、反対側の壁が鈍い音を立てた。むわっと、お酒の匂いが押し寄せる。
「君に……君に好きな男がいるというのなら、俺は引き止めはしない。忠誠は、他でだって代用できる……それに結婚前だ……俺がなんとか上に話をつけてやる。その間も君に何も強要はしない……手出しもしない」
 壁に頭を押し付けていたブチャラティは、やはり窮屈そうな呼吸を繰り返しながら、
「だが、ほとぼりが冷めるまで」
とくぐもった声を出した。
 ぬっと、ドアから腕が一本、私に向かって伸びてくる。怯えて引っ込めそうになったけれど、私の手を掴むでもなく、そっと包み込むように添えたブチャラティの手は、昼間のように乱暴ではなかった。
「もし、君が……良かったらだが……」
 ブチャラティが甘い息を吐きながら言った。
「手に、触れることだけは、許してくれ……」
 長い指が、こわごわと私の手の甲に触れる。遠慮がちなブチャラティの指が、戸惑うように震えている。
「こうして、少しの間、握るだけでいい。何もしたりはしない……触れるだけ」
 壁の縁に額を半分寄りかからせたまま、酔いに揺られているブチャラティが、ドアの隙間の至近距離から私を見つめて、「いいか?」 と苦しげに尋ねた。

 何度も、何度も反芻した。酔いのせいだと言いわけもした。また勘違いをしているのだと思おうともした。
 とても都合のいいことだけれど、それでもドア越しの声はたとえ何百回繰り返したとしても、私には告白にしか、愛の言葉にしか聞こえなかったのだ。
 どうして──頭からこぼれ落ちた言葉を、私はそのままなぞっていた。
「どうして、私の気持ちを……勝手に決めるんですか……」
 ぐちゃぐちゃになった胸に、ずっと押し込めていた感情がせり上がってくる。
「あ、あなたは、ちゃんと相手がいて……それなのに、一体……私を、どう思っているんですか……っ」
 ブチャラティは口を開きかけて迷うように閉じた。そうしてもう一度開く。
「俺に相手なんて……いるはずが……俺には」
と言葉を切って壁に頭を擦り付けると、重々しく首を振った。これ以上は言えないと、言いたげだった。代わりにひっそりと、「いつでもそんな噂がある」と告げる。
「君こそ、大事な人が……いるんだろう?」
 彼の言う大事な人、とは誰のことなのだろうか。父のことなのだとしたら、迷いつつも、私は頷いただろう。
 政略に道具として使う男だ。生まれた時からこの世界で生きてきて、それを当たり前だと思っている根っからのギャングなのだ。それでも、私の父親だった。いくら恨んだところで、笑いあった思い出がある以上、大事に決まっている。
 でもこの流れで、そんなはずはない。
「アロルドは」
 ブチャラティが言葉を切った。彼の手が、私の手をぎゅっと握りしめた。
「君の、昔の恋人に似ていると……」
 父はいつでも私のことを知っていた。ブチャラティが切なげな息を吐く。
「……俺は、つまらない人間だ」
 アロルドに悔いる、そのたった一言で、私は全てがわかってしまった。

 アロルドはパッショーネのただの伝令役で、これからもずっとその仕事だけを続けていくだろう。情報が漏れないよう、組織の内部には決して関わらない。理解のある、ただの郵便配達員だ。真面目な男なので、本業でも十二分に信頼されている。
 しかし、組織の中で最も組織から遠くても、パッショーネ側の人間だ。不十分であったとしても、私が恋をしてしまえば、人質になることに変わりない。
 ブチャラティは、それを待っていたのだろうか。アロルドに情が移ることを。こんなに震える触れる手を抑えながら、約束を守ろうとしていてくれていたのだろうか。本当に、そう思っていいのだろうか。今度こそ間違いでは、ないのだろうか。
「私は最初から、あなたが……」
 押し殺していたものが、私の胸から少しずつ溢れだした。もう堪えることが出来なかった。ここまで捕らえられて、引っ張りだされて、自分の感情に嘘なんてつけない。
「こうして、手を、握ってくれればいいと……」
 こんなにやさしい人と添い遂げられたら、どれだけ幸せかと思っていたのだ。
 本当は、わかっていた。人には、生まれ持ってしまった運命がある。自分を育てた組織から、一生切り離すことは出来ないのだと、本当はわかっていた。幼い頃からずっと、本当は知っていたのだ。それでも夢を見ていたかった。
 だからせめて結婚するならば、望まない形でも、いつかそうなればいいと。“組織の娘”ではなく、“”でもなく、一人の人間として“”と、呼ばれる日が来ればいいと、夢を見ていたのだ。フィアンセと決められた時から、ブチャラティがそんな人であることを、心のどこかで望んでいたのだ。
 ブチャラティはドアの向こう側で、声をつまらせたように押し黙った。
 ドアに遮られた私達の世界をつなぐのは、この腕だけだった。
 彼は酔いに世界を回しながら、親指をゆるゆると動かして、キスよりもあたたかい仕草で、私の手の甲を撫でている。

 彼について一つだけ、確信していることがある。
 ブチャラティは律義者だということだ。過去にどれだけの人を貶めてこようとも、一度結んだ約束だけは守る人だ。そんな人が、静かに私の手を握っている。苦しげに、何かを焦がれるような目をして。
 頼みがある、とブチャラティの掠れた静かな声が、隙間から私に囁かれた。
「あの時、どちらでもいいと言ったが……」
 薄暗がりの中。今の私たちには鍵が必要だった。隔てる扉を開けるための、ほんの小さな鍵でいい。そうじゃなければ、夜の闇に佇んだまま凍えてしまう。
「ブローノと、呼んでくれないか……
 私は、思わず泣いてしまいそうになるのを必死で耐えた。それでもこの人にはバレているかもしれないと思った。私の手は自分でも気づかないほど、震えていたかもしれない。
 ずるい人だった。名前を呼ばれてしまったら、私も絞り出さなければならない。組織を、この先の人生を覚悟してでも、目の前のドアを開けるために。
「嫌か?」
 微かに笑みをたたえたようなブチャラティの視線が私に寄せられて、私はふと、彼は私と同じように声を待っていてくれたのかもしれないと思った。私の願望にすぎなくてもいい。待ってくれていたら嬉しい。この人の側なら、私は道を誤ったりはしない。生きていく覚悟が出来る。
 私は彼へゆっくりと首を振った。そうして絞りだす。飛び出しそうな胸を抑えて、小さくてもいい。恋が始まる声を。鍵のような声を。

「好き」という、私の声を。



|終
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13/06/02 短編