ロマンスへ行かせて
「馬鹿は嫌いよ」
恋人だったナランチャへ、が最初にその言葉を使ったのはいつだったか。確かブチャラティ達のチームが揃う、いつものリストランテへ顔を出した時だ。
がエディコラで買ってきた新聞を、差し入れ代わりにしてテーブルに置けば、最低一日に一度は顔を出すチームの誰かが暇つぶしに読んでいた。それがその日手に取ったのは、珍しくナランチャだった。渋々、と言ったほうがいい。
他のメンバーはどこかでまっとうにアルバイトでもしているのか、もしくはギャングの仕事をしているのか、リストランテにはまだフーゴとナランチャしか集まっておらず、が置いた一部を開くなり、ルービックキューブをいじくり回しているナランチャに向かって、フーゴが言ったのが始まりだった。
「ナランチャ、君も偶には新聞を読んだらどうです」
「エェー? ……なんでだよ」
「ギャングだからですよ」
あー。気の抜けた声で、ナランチャは返事をした。ルービックキューブを持つ手元だけはガチャガチャと忙しない。
が来る前から既にやり始めていたようだが、無心に回しているだけで一向に色が揃う気配はなく、本当に解いているのか分からない。フーゴの話も、右から左へと流れていっているようだった。
は二人の会話を耳に入れながら空いた席に腰を下ろし、買ったばかりの新聞を読み始める。フーゴは紙面に落としていた視線を上げて、だらだらとルービックキューブで遊ぶナランチャへ話を続けた。
「今はブチャラティがいるからいいですが、彼もいつかは幹部になります。そうすれば今まで以上に組織へ貢献しなくちゃあならない。いいですか?回護料を集めていればいいってモンじゃあないんですよ?そんなのはした金にもならない。組織へ貢いでいるということにはならないんです。だからビジネスで儲けていかなければならない。どんな些細なことでも耳を傾けて、周りの動きに敏感になるべきなんです……そこんところ、分かってますか?」
んー。まったく耳に入っていない声だった。とくとくと語るフーゴの前で、背もたれに体を預けて反り返るようにして、ナランチャはルービックキューブを掲げたまま弄っている。
フーゴはそんなナランチャを見つめたまま、ぷっつりと黙ってしまった。いつの間にか開いていた新聞が閉じられていることに気づき、はフーゴが本気で話していたのだと知る。それだけに、嫌な予感がする。男の隠れた短気が爆発する前兆であるかのようだった。
「……俺さァ」
間延びした声で、ナランチャがようやくフーゴへ言葉を発した。
「算数とか学校で習うやつは覚えたいけどさァー、政治とかそういうのはさっぱり興味ねーんだよ」
言葉そのままの心底どうでもいい、といった風だった。それに恐ろしく優しい口調で、
「いいんですよ」
とフーゴが言う。
「格好をつけちゃあいけない……君の場合は興味が無いんじゃなくて、読めないだけでしょう。いいんです、つまらない見栄ははらなくったって」
そう言って笑ったフーゴは穏やかだったが、関係のないでも僅かに悔しさを覚えるほど、端々に挑発的な抑揚を含んだ喋り方をしていた。
流石ブチャラティに才能を買われているチームのブレーンだけはあるようだ。無関心の男さえコントロールするのは容易いらしい。
フーゴが笑った次の瞬間には、椅子を蹴倒してナランチャが立ち上がっていた。
「バカにしやがってェ~~~」
息を荒げるナランチャが掴みかからんばかりの険相で脇に立っていても、フーゴは落ち着き払っていた。澄ました顔でティーカップを傾けながら、これ見よがしに新聞を読み始めるくらいだ。
別に馬鹿にはしてませんよ、とフーゴは呟いた。
「読めるなら、その能力を使わないのは惜しいと思っただけです」
そうして、世の中には文字すら読めない人間だっているんですからね、と続ける。ナランチャの形相は怒りで引きつっていた。
新聞を開いてはいたが、はさっぱり内容が頭に入って来なかった。今にでも二人が喧嘩を始めてしまうのではないかと、気が気ではなかったからだ。がいる間に一度、フーゴとナランチャは血を見る口論をしたことがある。それがまた始まってしまうのではないかと、ははらはらしていた。
「頭いいからって見下しやがってよォーッ! 文字くらい読めるぜ」
テーブルの上の、シワひとつ無い刷りたてのように綺麗な新聞を掴みとって、ナランチャはガサガサと開いた。開く間も内側の紙が落ちないようにともたついていたため、それだけで読み慣れていないことは分かる。
「その記事、興味あるのでぼくにも読んで下さい」
フーゴの意地の悪い頼みに、紙面と睨めっこをしていたナランチャが「いいぜ~~」と、眉を寄せながら大きく口を開ける。読めていなかった。何を言っているのかさっぱり分からない。つっかえつっかえの朗読は、エンストを起こした車よりも酷く、聞いている人間を前のめりにさせる。
頭痛を抑えるような仕草で、フーゴが額へ軽く手を当てていた。呆れ果てているのか、溜息だけが鮮明に残る。
「全然わかりません」
そう。その時だ。フーゴの言葉に勢い失せてしょげ返るナランチャを見て、口を開かずにはいられなかった。新聞も満足に読めないナランチャに、は言ったのだった。
「馬鹿は嫌いよ」
貸し切りのリストランテが、しんと静まり返った。はこちらへ集まる二人の視線に居た堪れなくなったが、口に出した以上逃げるわけにはいかず、新聞を開いたままナランチャを見つめ返した。そのナランチャはあんぐりと口を開けて、絶句していた。
は何も、貶したかったわけではない。フーゴと同じくけしかけるように言えば、短気で単細胞なナランチャが、悔しがって勉強を始めるかもしれないと思って口にしたことだった。
「だァれがあんな女と付き合うかよ!」
その結果がこうだ。
ばん、とリストランテの木製の丸テーブルに両手を叩きつける音がして、は開いたドアを静かに閉めた。叫んでいたナランチャの前にはフーゴとミスタの姿が見え、どうやら今日は三人しか来ていないらしい。
入り口に背を向けているナランチャは、興奮しているせいもあってか、が来たことに気づいていない。
「ん?」
億劫そうに話を聞いていたミスタは、戸口に佇むの姿を見た途端、いたずらを思いついた子供のように目を弓なりに細めた。に一度目配せをしてから「そういやよォ」と、頬杖をつきながらミスタが言った。黙っていろと言っているようだ。
隣に座っているフーゴは無関心を決め込んで、静かに本を読んでいる。
「母親が早くに死んだ辛さは分かるって、お前言ってなかったっけ? 今までよォ、惚れてたんじゃなかったのか?」
「勝手に勘違いしてんじゃねーよ、あんな女クソ喰らえだ! ペッペッ!」
反対の手に摘んだフォークでケーキをつついていたミスタは、ナランチャの台詞を聞いた途端に、テーブルクロスに額を押し付けて肩を震わせた。
「おい、なんだよミスタ。俺面白いこと言ったかァ?」
不思議そうに首を傾げているナランチャを、フーゴは呑気なやつだと思ったようだ。肩を竦ませると本を閉じて、が佇むドアの方へ指を差した。
「ナランチャ、その別れたビチグソ女が後ろにいますけど」
「……えっ?」
ナランチャのまあるい目が、の元へ寄せられる。純粋で、無垢な目だ。しかし振り返った途端、「ゲッ!」と苦い顔をされたので、に気持ちのいい挨拶など出来るはずがなかった。
「……私もあんたみたいな馬鹿、願い下げよ」
そう言って、いつものように誰が読むともしれない新聞を数部、テーブルの上に置く。ミスタは人の災難が楽しくて仕方ないらしく、先程から口を曲げて笑いを耐えている。
「俺はビチグソまでは言ってねーぞ。それはフーゴだからな、こいつにも何か言えよ。なァおい」
はあれ以来、ナランチャに目の敵にされてしまっていた。元々仲がいいわけでもなく、生きるために仕方なく付き合っていたようなものだったので、男がを嫌うには「馬鹿」という言葉を使うだけで十分だったようだ。
それも嫌われたくて口にしたわけではないのだが、一度言ってしまったら後には引けなくなってしまい、また、言っている内にナランチャが本当の馬鹿に見えてきて、段々に嫌になってきたのは確かだった。
何せナランチャは常識を知らなすぎるのだ。もし高級なリストランテへ行って、普段と同じような粗暴な行儀で食べたら。それよりもメニューの意味すら分かっていなかったら。そう思うと、恥ずかしく思えて仕方なくなった。
そうなると、溜まっていた鬱憤を晴らすように反射的にナランチャへ当たるようになる。
「悔しかったら九九くらい言えるようになりなさいよ、馬鹿」
言うなりナランチャがぶるぶると震え出して、を怒りの形相で振り返った。言い過ぎたかもしれない、と思ったのはナランチャが咄嗟に腰に手を入れ、ナイフを取り出したからだった。
「てめェェエ……ギャングをコケにしたらどうなるかわかってんだろーなァァア?」
ナイフを弾きながら迫ってくるナランチャに、は少しばかり怯む。自分で挑発した手前、後退りしたくなくても、恐怖に正直な体はじりじりと足を後方へ下げていってしまう。
助けを求めようにもミスタはテーブルに突っ伏して笑い転げているし、フーゴはやはり本の世界へ半身を突っ込んでいた。を助けないことが、一応のケジメということらしい。
これだからギャングは嫌いだ──とは思った。つまらないプライドを守るために人を痛めつけることを厭わない。時に殺しさえもする。恐怖で支配をしようとする組織構造からして、古臭くて時代に取り残されているようだ。
の母は極々普通の女性だった。一般家庭で育ち、未成年で飲酒すらしたことがないほど、“違法”とは縁のない人間だった。元は日本の生まれで、学生の頃にイタリアへ留学してきたのがきっかけで父と知り合ったらしい。だからギャングなどというのは、母にとっては映画館のスクリーンの中にしかいない、ファンタジーのような存在だった。だから、気づけなかったのだろう。
「お前の父親が幹部だからってよ~~~舐めるのはよくない……よくないぜ」
父がギャングだった。の不幸といえば、ただそれだけだった。それも幹部だ。ギャングの家計ではなかったというので、父が幹部の座についているというのはとんだ出世頭だ。どれだけの人を騙して来れば、その地位を手にできるのだろうか。
少なくとも、母とは騙されていた。父が脱税で検挙されるまで、まっとうに生きる優しい銀行員だと、思い込んでいたのだ。母がそれを知らずに数年前に死んでしまったことは、果たして幸福だったのかには分からない。
背中が壁につく。後退するのもこれで終わりだった。あとはナイフを持って怒りに染まったナランチャが、を脅すかその凶器でちょこっと痛めつけるだけだ。
流石にそんな事はないと思ったが、少しでも傷がつくのは嫌だった。紙で指を切ってしまうのも、は嫌なのだ。それなのに、物を切り裂くためにあるようなナイフで肌を傷つけられるところを想像すると、ナランチャに限って危険はないと思っていても、目に宿った恐怖の色は隠せなかった。
「ナランチャ、仮釈放の時に話されたら、即殺されますよ」
「えっ……」
本に目を落としたまま、フーゴが言った。フーゴの言葉に怯んだせいで、ナランチャのナイフが下げられる。はすかさず、壁に張り付いていた体を離してナランチャから遠ざかった。ナランチャは、追いかけてくるようなことはしなかった。
「、お前が謝んなきゃ俺は許さねーかんな!」
言って、椅子を引っ張ってどっかりと座り直す。勢いのままナイフをテーブルに突き立てようとしたのを、フーゴがフォークの歯を噛ませることで止めた。
嫌よ、本当のことを言っただけだもの──
言おうとしたのに、の口は震えて声に出来なかった。形だけだとしても、こんな男と恋人だったなんて。そう思わずにはいられなかった。日が過ぎれば過ぎるほど、どんどんナランチャへ対しての熱が冷めていくのを感じた。
口を引き結ぶ。部屋を出て階段を登れば、を保護するために用意された部屋へ駆け込むことができる。でも、それだけはしたくなかった。さっきの脅しにが怖がっているのはもうバレているだろうけれど、そのために自室へ逃げたと思われるのは癪だった。
ミスタの隣へ腰を下ろして、自分の買ってきた新聞を手に取る。ナランチャがそれに鼻を鳴らして、から半身体を背けると、早速ミスタが笑いを滲ませた顔で椅子を引き、の耳元へ口を寄せる。
「なぁ本当はどうなんだ?実は惚れてんだろ?俺にだけ教えろよ」
ケケケ、と笑う男は余程色恋沙汰に飢えているのか、実に楽しそうだ。は無言で男を睨んで、新聞に集中しようと努めた。ナランチャはへ近づくミスタへ、「これは俺との問題だからな!余計なことしてんじゃねーぞ!」と身を乗り出している。
これでは別れたも同然だと、は思った。本当は付き合っていたかも、定かではなかったのだ。
父の刑期が決定して、昔弟分だったというブチャラティに保護されるようになってから、まるっきり仕事のなかったナランチャがの“観察者”となり、ナランチャをギャングではなくリストランテの従業員だと勘違いしていたが、気を許してしまっただけだった。
の過去を知ってやたらと気にかけるようになったナランチャを、他のメンバーがからかうようになって、いつの間にかどうやら付き合っているらしい、と思うようになった。思えば、ギャングの暇つぶしに流されていただけのようだ。
初めから恋と言えるほどの感情は抱いていなかったし、ナランチャへ感じていたのは友情や奇妙な親近感にも近かったので、すっかり愛想が尽きたには「別れた」と言われればそれでもよかった。
しかし、ナランチャはどうなのだろう。に惚れていたのだろうか。
違う、とには言い切れた。男は単に同情していただけのように思えるのだ。そこには初めから恋などなかった。ナランチャもと同じようにミスタやフーゴに流されて、まるで付き合っているのではないかと、錯覚させられていただけなのだ。
「付き合ってないわよ、初めから」
新聞に目を落としたまま、がそう言うと、「フラれたなァ~、ナランチャ」と何故か楽しそうにミスタが喉を鳴らした。
馬鹿は嫌いだ。その言葉に偽りはない。愚かさは恥だ。無知は恥ずかしいことだ。にとってそれらは、裸で街を歩いているようなものだった。
だから母もも父がギャングであることに気づかなかったし、父は家族を大事にしたが、無知ゆえにを一人残し、は一生をどこから手に入れたのかわからない、ギャングの血の税金で生きることになった。
出来れば父が、ブチャラティやフーゴのような慎重な男であれば良かったと思う。彼らは決して市民には手を出さなかっただろう。
「あーそうだよなァ! 俺なんかと付き合えるわけないよなぁ!」
なんてったって幹部の娘だもんなぁ、という声があとに続くような気がして、は目を閉じた。そうしなければ、涙が零れそうになったからだ。だって、なりたくてギャングの娘になったわけではなかった。
新聞をたたむつもりが、慌てたせいでぐしゃぐしゃになった。直すことなくテーブルの上に戻して、急いでリストランテを出た。椅子を立つ時に脛をぶつけたのがじんじんと痛む。それでもは路地を大股で歩いた。急がないといけなかった。彼らの目の届かないところまで行かないといけない。思ったが、五歩も歩かない内に、目元からぼろりと大粒の涙が落ちて視界が霞んだ。
涙があふれたのと一緒に、ナイフを持ったナランチャの鋭い目つきが思い出される。怖かった。今までどんなに優しくされていようと、怖いものは怖かった。あれがギャングなのだと、は思った。そしてこれから一生この世界で生きていかなければならないのだ。
そう思うと、無性に泣きたくてたまらなくなった。一番に近いと思っていたナランチャにさえ、突き放されたような気がした。散々馬鹿にして、愛想をつかした男を頼りに思うなんて都合のいいことだと、自分自身でも思ったが、にとっては馬鹿だろうが男の無知を恥ずかしいと思っていようが、この世界で頼れるのはナランチャしかいなかった。仕方がなかったのだ。
だから路地裏で背後から肩を掴まれた時、ナランチャの顔を思い浮かべてしまったのだろう。
強い力で後ろに引かれて、は咄嗟にスリだと思った。しかしバッグを離しても去っていく気配はないどころか、振り向く前に肉質のある大きな手で口を塞がられ、薄暗い脇道へ引きずり込まれて、思考が停止した。
覆われた口に、べとりと生暖かい感触がへばりつく。つんと鼻を突く、独特の臭いだ。は手から逃れようと暴れたが、腕を捻られてうめき声を漏らした。
視界に入ったのは鮮血だった。の口を塞ぐごつごつとした男の手が、真っ赤に染まっている。決してケチャップでもトマトソースでも、ペンキでもない。鉄っぽいその臭いは、明らかに血だった。
男は一言も喋らなかったが息は荒く、もがき続けるを押さえ込む力は追い詰められているようでもあった。叫び声を上げられない。声を出せないことは、恐怖で五感を麻痺させる。
は思い切って足を振り上げ、覆いかぶさるようにくっつく男の脛へ蹴りこんだ。男がくぐもった声を漏らしながら怯んだので、は首を振って口を覆う男の手から逃れた。恐怖で、喉が引きつる。舌がもつれて最初の一言が発音できない。
顔が自由になった拍子に、斜め後ろにあるゴミ箱が目に入った。ゴミ袋があふれた脇に、黒い影がある。そこから赤にまみれた、人の手のようなものが伸びている。それが何か認識した時、は目が覚めたように息を吸い込んでいた。
「助けて……ッ!!」
声を上げるのと同時に、再び男の手がの口に叩きつけられた。不意に手が自由になる。痛みに耐えながらも逃れようと振り上げると、目の前にナイフをかざされた。に見せるけるように、恐怖を植え付けるように、鋭い刃の部分を光らせて眼球へ寄せられる。
「俺は、ギャングだ……この意味、分かるか?」
男が初めて声を出した。思ったよりも高く上ずった声だったが、息を整えているのか、それとも恐怖に震えるが理解できるようにしているのか、男は一音一音、ゆっくりと発音した。警察には話すなと、言っているのだろう。言ったら、どうなるかと。ギャングに敵対する覚悟はあるのかと。
この男はギャングなどではない。ただのチンピラだと、は分かっていた。ナイフを掲げる腕には太い注射の痕がある。の知るギャングは少なくとも、麻薬は売っても麻薬に手を出すようなことはしないし、決して自分でギャングなどとは名乗ったりしない。
それでも男が逃してくれるというのなら、は懸命に頷いた。しかし頷いても、殺されるかもしれないと思った。男は現実が見えているのかも分からない。
ナランチャ──
ずっとそればかり浮かべている。路地に引きずられた時からずっと、一人の名前が頭から離れない。都合が良くてもいいと思った。この男に比べれば、ナランチャの脅しには殺意がなかった。多分、傷つけるつもりだって、これっぽっちもなかったに違いない。今なら分かる。今だからこそ、分かるのだ。
男が突然甲高い悲鳴を上げたので、は身を強張らせた。数回、背中に強い衝撃が走る。男の手がから離れた途端、反射的に元いた路地へ飛び出した。しかし、縁石に躓いて数歩のところで倒れこんでしまった。
男が追ってくる──恐怖が背後からの足を絡めとる。は冷や汗をかきながら、慌てて後ろを振り返った。
「アッ! やっぱり」
何がやっぱりだったのか、には分からない。だが、男がいたはずの細い横道からは、まるでが呼び寄せたように、ナランチャが立っていた。
どうやって倒したのだろうか。気を失っている男をまたいで駆け寄って来るナランチャへ聞くこともできたのに、は口を開けたまま、何も声を発することが出来なかった。男の手から移った血まみれの口元を拭うことすら忘れて、息を小刻みに吐き出すだけだ。動揺していた。ただでさえ上手く働いていなかった頭が混乱して、まともにナランチャの輪郭を捉えられずにいる。
「お前さァ、ケータイ忘れてっただろ? まずいと思うんだよなぁ、こういうのはさァ……ブチャラティにはを守れって言われてるし、今の俺の仕事、それだけなんだよ……って?」
何事も無く話しかけてくるナランチャに、少しは気を使えと罵れたらどれだけ良かっただろう。
「……っ」
地面に倒れ込んだまま、は動けなかった。助かったのだと安心した途端、ガタガタ体に震えが来て、力が入らなくなってしまっていた。地面についた片腕で体を支えているのもやっとだ。
「も、もしかして俺、怪我させちまったか…!?」
顔についている血に気づいたのか、ナランチャは慌てふためいての体を起こした。ぐっと、背中にナランチャの腕が当てられる。見た目よりも力強く、がっしりとした支えだった。
がナランチャの腕を借りながら、何とか体を起こすと、眉を下げた顔が窺うように覗きこんできた。
「俺、バカだからさ、ついやりすぎちまうんだ……ご、ごめんよ」
言いながらいつ洗ったのかも分からないようなハンカチで、ごしごしとの顔についた血をぬぐい取った。鉄臭さが薄らいでいく。
違う、とは思った。そういうのは馬鹿とは言わない。まともに文字も読めないし常識も知らないから、は馬鹿と言ったのだ。でもそういう計算の出来ない馬鹿だからこそ、損得では動かないのだろうか。忘れ物を届けに来た“ついで”に、命を張ってしまうようなことができてしまうのだろうか。
ごめんよ。ナランチャの声がの頭をめぐる。は小さく頭を振った。
「……怪我なんかしてない」
ふと、脳裏に一つの考えがよぎった。もしかしたらナランチャも、なりたくて無知になったのではないのかもしれないと思った。だから「馬鹿」と貶し続けたに、あんなにムキになったんじゃないだろうか。
ナランチャだって、本当は、学校にだって行きたかったのかもしれない。それができなくて、諦めてしまったのかもしれない。この世界から逃げられない、今ののように。
不意に、の顔を窺っていたナランチャが、困惑した声を出した。
「な、なんだよ……その顔……」
どういうことだろうか。思いながら、男を見つめ返す。「泣きたいのか?」とナランチャが言った。
は、言われて初めて気づいた。息が苦しかった。何故か。そんなことは、聞けるのならだって尋ねたかった。いつの間にかドキドキしている。自分が馬鹿と貶した男に。空気も読めない、こんな馬鹿に。それも、自分から振ったような男に。
「あ、あぁあ~~~! やっぱどっか怪我しちまったんだろ…?!」
「……ど、どこが泣きそうに見えるのよ」
言えば、ナランチャは馬鹿正直にの顔を凝視してくる。さっきまで恐怖して真っ青になっていたはずの頬に、血が集まっていくのが分かった。
泣いていたのは確かだった。男に襲われる前まで、絶望感とホームシックに駆られて涙を零してしまったのだから、事実には変わりない。でもそんなことをナランチャに悟られるのは嫌だった。悔しいからじゃない。今は、そうではない。
は急いで顔を伏せる。一体この顔をどこに隠せばいいのか、見当もつかない。
ナランチャといえば、折角見えないように下を向いているというのに、首を傾げながらそれを追いかけてまで覗き込もうとするので、はいよいよどうすればいいのか迷ってしまった。恥ずかしさで頭が沸騰しそうだった。いや、その時にはもうしていたのかもしれない。
よりにもよってが選んでいたのは、ナランチャの胸だった。
「ホント馬鹿」
言いながら顔を押し付けて、ナランチャが決して見えないように隠してしまう。
「ばか」
ひっついて離れないに、ナランチャはどうにも対応できないようだった。
着古した服は肌に馴染んで気持ちが良かった。ナランチャが身じろぎをするたびに擦れるのがこそばゆい。
「な、なぁ~~? 俺が嫌いじゃないのか? どっちなんだよマジで……なぁ」
支えていた手も空中で彷徨わせて、に触れることすら戸惑っている。の気持ちなど、まるっきり分かっていなかった。
なんでこんな馬鹿に──そう思っても、惚れてしまったものは、にはもうどうすることも出来ない。たとえナランチャのに抱く感情が、同情や仕事であったとしても、嫌われてないだけまだいい。そんな風に思ってしまっていることに、一番驚いているのは自分だ。
嗅ぎなれない、ナランチャの匂いがの鼻を掠める。つい数分前に脅されて怖がっていたとは思えないほど、不思議と恐怖は感じなかった。それどころか、収まらない胸の鼓動を意識するたびに、甘酸っぱい気持ちが加速していく。
黙ってて。は言いそうになった言葉を飲み込んだ。
そう言うよりも怖いふりをしている方が、ナランチャにしがみついていられるだろう。そうすれば余程の馬鹿でも、同情以上のものを感じてくれるかもしれない。
「ナランチャ……」
「何だよ」
とにかく勘違いしたことを一度だけ、謝っておこうと思った。それからまた抱きついても遅くはない。恥ずかしいだなんてことは言っていられないのだ。
「……あ、あのね」
それに、せめて今だけは惚れた男に縋りつくくらい、許してくれたっていいだろう。もう二度と、普通の人生には戻れないというのなら。
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12/12/05 短編
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