ノクターン


 ぱちん、ぱちん、と小さな音が聞こえる。万丈目が風呂上りにリビングへと足を向けると、そこには爪を切っているが居た。
 ぱちん、ぱちん。一本一本丁寧に、伸びた爪を切る。日常的な一コマ。けれど、万丈目はよくこの光景を見ている気がする。それは万丈目とがこれまで過ごした時間の長さを思えば当然の事かもしれない。しかし、それにしてもはこまめに爪を切っている、と万丈目は思う。
 普通年頃の女性というのは爪を伸ばしたがるものではないだろうか。テレビに出てくる女性は、ドラマの中やインタビュー問わず大抵長い爪にネイルをしているイメージがある。だがそれは万丈目の偏見なのかもしれない。
 思い返してみれば天上院明日香も綺麗な爪の形をしていた、と思う。ここアカデミアではおしゃれよりも実用性、なのかもしれない。長い爪は女性にとっては綺麗かもしれないが、カードを傷つけ易い。だから万丈目個人の意見としては、爪を無造作に伸ばしているよりも綺麗に切り揃えている女性の方が好ましい、と思う。

「万丈目君、次使う?」
「ああ、そうだな」

 こうしてが爪を切り、その次に万丈目が爪を切る。最近はこの流れが定着してきているような気がする。元々万丈目は幼い頃からの躾のせいかそういった細かい事には気を配るタイプなのだが、ノース校で暫く過ごしてからは大分無頓着になったような気がする。それでもあまり野性的になり過ぎないのは、こうしてが傍に居るからかもしれない。
 は爪を切り、やすりで軽く爪先を整えると「はい」と万丈目に爪切りを渡した。一度「私が切ってあげようか?」と言われたが、妙に気恥ずかしくて断ってしまった事がある。——まぁ、その話は今は別にいいだろう。
 爪切りを受け取り、万丈目も自身の爪を切る。ぱちん、ぱちん、と小気味いい音が響いた。万丈目は爪を切っているので何も言わず、で黙って万丈目を見ているので会話は無い。それを心地良いと思うことはあれど、反対に感じたことはなかった。
 が、ふと万丈目は先程の疑問をにぶつけてみる事にした。勿論何の他意もなく、ただ取り留めも生産性も無い会話でもしてみるか、と思っただけに過ぎなかった。

「そういや、お前はよく爪を切っているな」
「え?……そう、かな」
「ああ。俺は——……そういえば、お前の爪が伸びている所を見たのは1年の頃まで、じゃないか?」

 頭に浮かんだ言葉を口にしながら記憶を辿る。すると、自分が思っていたよりも大分長い間の爪が長く伸びている所を見ていないと気付いた。そんな些細な事を何故覚えているのか、といえば、例えば手を繋いだ時に彼女の爪が刺さるだとか、喧嘩の時に赤い引っかき傷が出来るだとか、そういうことが殆どなかったからだ。それはつまり彼女が意図的に気をつけていたのでない限り、当時の彼女の爪は短かった、ということになる。

(まあ、偶然だろうな)

 の返答を待たず万丈目はそう結論付け、足の爪の最後一本を切る。それから顔を上げてを見ると、の顔は真っ赤だった。

「——………?」

 思わず怪訝に万丈目が名を呼ぶ。するとはハッとした様子で慌てて表情を取り繕うと「何でもない!」と答えた。妙に声に力が篭っている。こういうときは大抵何かを隠そうとしているのだ。それ位、3年も一緒に過ごせば分かる。

「何か理由でも有るのか」
「べ、つに……そんなんじゃ、ないよ。うん。なんでもない」
「お前の“なんでもない”は“なんでもある”の間違いだろう」
「っ……そんな事ないもん!」
「ほら、また口調が幼くなってるぞ。お前が必死になる時の癖だ」

 二つほど彼女の分かりやすい癖を指摘すると、流石のも拗ねたようでふいと顔を背ける。ほんの少し虐めすぎただろうか、と思いながらもこういう分かりやすい反応は決して嫌いではなかった。これが以外なら放置でもして終了だが、どうしてだかが相手だと思うと可愛くて、愛しくて仕方が無い。
 ——それが恋なんだよ。そう以前吹雪が言っていた。万丈目の恋愛においての師匠であり、尊敬している人の一人だ。……というとは露骨に嫌そうな顔をするのだが、それはともかく、万丈目もそうだと思う。どんな些細な事でも、恋した相手なら全てが愛に変わる。

「ほら、どうした。別に馬鹿になんざしないんだ、言ってみろ」
「……やだ」

 万丈目としては出来る限り優しい対応をしてやったつもりなのだが、にはきっぱりと断られてしまった。普通はこういう所で甘えてくるものじゃないのか!とは思うものの、定石通りに動くような女ならば万丈目の恋人は務まらないだろう。いくら万丈目が考えても、きっと永遠に彼女の思考全てを理解する日はこないだろうな、とさえ思う。けれどそれは決して悪いことではなく、——謎があるからこそ愛しさが増すものだ。
 が、それは一度おいておいて。万丈目は心が広い訳ではない。それはに対しても同じだ。こうも己の優しさを無碍にされれば多少はムッとするし、意地でも聞き出したくなるのが人の性だろう。

「言え」
「やだ」
「いいからさっさと言わんか!」
「だから、やだってば。万丈目君の分からず屋」
「頑固なお前には言われたくないわっ」
「何よそれ!私より絶対万丈目君の方が頑固でしょ!」
「なんだと!?」
「何よ!」

 ……こうして、この日は結局半ば喧嘩別れの状態では自室に帰ってしまった。とは言え次の日にはお互い馬鹿げた喧嘩だと思い、いつの間にか仲直りをし——最終的にこの話題はすっかり忘れてしまっていたのだけれど。





 アカデミアを卒業して数年。にプロポーズも終え、結納も経て後は正式に式を挙げるだけ——となっていたのだが。

「万丈目君、今日空いてるかい?」

 仕事を終え、その日は珍しく夕刻には帰宅できそうだ……と思っていると、不意に吹雪に誘われた。何だろう、とは思うものの昔からの恩師である彼の誘いを無碍に断るのは気が引け、に帰りが遅くなる旨を連絡してから万丈目は吹雪さんに連れられるまま外へ出た。
 そして連れて来られた場所は——何やら最近評判になっている、天然温泉もあるという高級スパだった。何でも吹雪さんは週に1度は此処に通い美を保っているらしい。他にもエステやら何やら色々通っているとも聞いた。

「……で、師匠。こんな場所まで来て、何かあるんですか?」
「ん?いやぁ、たまには可愛い弟子とゆっくり過ごそうかと思ってね。それにちゃんとおめでとう、って言えてなかったし」
「そんな、別に構いませんよ。それに師匠は天上院君と一緒に、アイツを連れ出す協力をしてくれたんですから……感謝してもしきれません」

 そんな会話を繰り広げながら二人で風呂場へと足を踏み入れる。暫くの間仕事の疲れも忘れ、気付けばすっかり時間が経ってしまっていた。万丈目が代金を支払おうとすると、既に吹雪が支払った後だった。男相手でもスマートな振る舞いに万丈目は感動を覚える。

「すみません、師匠」
「僕が誘ったんだからいいの。……それにしても、万丈目君の背中って綺麗だよね」
「………はい?」

 思わぬ台詞に、一瞬万丈目も怪訝さが隠せなかった。若干引く様子を見て取ると、吹雪は慌てながらも笑って言葉を付け足す。

「いや、変な意味じゃないよ。ただ——昔から、君の背中には傷跡一つないからさ。てっきりちゃんとは一線越えてないのかなー……なんて勘ぐってた時期もあったんだけどね」

 そう言われて万丈目は初めて気が付いた。背中の傷。吹雪の背にも良く見れば僅かに残る赤い線は、己には無いものだ。最中に何度も万丈目の背を掻くの姿と感覚は思い出せるのに、そこに痛みはいつだって無かった。
 滑る指。必死にしがみ付いて、もがいて。けれども万丈目の背には一つも傷は、ない。それはつまり、行為自体が夢——なんて馬鹿げた事はなく、要するに。

「ホント、万丈目君は愛されてるよねぇ」
「……すみません、師匠。今日は帰ります」
「うん、また——今度は式で逢おう」
「はい!」

 慌ててタクシーをチャーターし、自宅へと向かう。どうしても、確かめたくなったのだ。彼女がいつも、爪を切る意味を。
 もし万丈目が考えた通りだったなら、何と言えばいいだろう。馬鹿みたいだ、と思う。そんな気遣い、二人の間には不要なのに。他にも様々な考えが浮かんでは、胸の中に嵩を増す。けれど結局はどの思考も行き着く先は、愛しさで。

「……馬鹿、だな」

 そんな些細なことを気にするも。そしてその些細なことを盛大に喜んでしまっている自分も。
 恋は人を愚かにする。——確かにそうなのかもしれない。けれど、例え愚かだとしても——昔にはなかった幸せが、今確かに目の前にあるのなら。それでも構わない、と万丈目は思った。
 もう少しで家に着く。帰ったら何と言おう。そう考えると、僅かな時間が待ち遠しくて仕方が無かった。







<了>



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Thunder Lightning.-http://www.geocities.jp/rain_orange_honey/-ちろる様