今日は朝からいつもと違った。


ザボン売りまで



朝に弱い私が、目覚ましがけたたましい音を立てる前に目を覚ました。二度寝もできないような時間だったので、仕方がなく支度を整える。
時間が来てもアラームを数十分放置したまま布団を被り続ける私には、久しぶりの早起きで、自分でも思わず首をかしげてしまった。
そしてまた驚くことに、面倒ながらも昼夜D・ホイール調整にいそしむ男たちへ朝食を作るために、眠気眼で階段を下りて行けば、いつもはD・ホイールごと姿を消しているマーカーだらけの顔が、笑顔で私に手を上げていた。
すでにD・ホイールをいじり始めている遊星が、「おはよう」と頭を持ち上げるのにこくり、と頷いてガレージに降り立つ。
遊星の背後には、薄汚れた布がかけられたクロウのD・ホイール、ブラックバードが、早朝の陽光を浴びて漆黒のボディを光らせている。
「あれ、仕事は?」
頭をかきながらそれを眺めていると、「おはよう!」という眠気知らずの明るい声と共に、
「今日は休みだ休み!」
クロウは顔の前で片手を振りながらそう言って、肩をすくめた。
「このクロウ様の体を休ませようという天の思し召しだな、これは」
などとため息をついているところを見ると、配達業が芳しくないようだ。
もし今この場にジャックがいたならば、「天というのは随分と気前がいいものなのだなぁ。今月に入ってもう3回目になるぞ」と年中自主休業の身を棚に上げて、遊星が作った椅子で足を組みながら、安いコーヒーでも啜っていたことだろう。
(…いなくてよかった)
まったくジャックと来たら、何の役にも立たないくせに、還暦を過ぎた老人みたいに早起きで口ばかりが動く。朝には一番ついていけない人物なのだ。これで私の朝食にケチをつけようものなら、卵が焼けた熱いフライパンで、そのよく回る口に焼印を押してやるところだ。
どうせ今も老人よろしく、早朝の散策にでも出かけているのだろう。朝の弱い私にはまったく理解できないことこの上ない。
そんなことを考えながら、必要最低限しか入っていない小型の冷蔵庫を開けた。覗いてみると、中は予想以上にガラガラで、奥の方に未開封のハムが僅かに残るばかりとなっていた。
「あちゃー…」
これは買い出しに行くまで、ゾラさんに助けを呼ぶしかない。
台所を借りるついでに、レタスを数枚もらってパンに挟むだけで済ませよう。そう決めてから二人を振り返った。
遊星はいつものことながら、毎朝ジャックが座っている椅子に、今日は背もたれを前にしてクロウが座っている。どこか新鮮な気分になった。

「昨日は忙しかったからなぁ。信用が出てきたと言えば出てきたんだけどよ」
「焦る必要はない。俺もこのところようやく仕事が入ってくるようになったばかりだ」
「お!そうか、よかったじゃねぇか!」
楽しげに話す二人に近づいて、とりあえずとコーヒーを淹れる。
「二人とも、今日は私買い物に行ってくるね」
朝も簡単なものになるけど。と言うと、カップを受け取った遊星がひとつ頷く。
「ああ、すまないな」
「なんだ、何も残ってねぇのか?」
「残念ながら、ハムとパンしか残ってなくて」
うっかりしてたー、と嘆く私を背に、クロウは席を立って冷蔵庫を開けた。うへぇ、本当に何も入ってねぇな。呟いてパタリとしめる。
「食費、あとどれくらいあったっけ?」
「…あまり使えはしないな」
「えっ?!」
「はっ?!今月はまだまだあるぜ?!」
「だが…」
クロウと私が思わず声をあげると、茶封筒に収めておいた今月の食費を見て、遊星が首を振った。

特に贅沢もせず、野菜のくずから魚の粗まで使って資金に注いでいたのだ。普通に生活するより少し多めに見積もった封筒の中身が足りないはずがない。
明らかに原因は、この中でも無駄遣い王の名を欲しいがままにする男、ジャック・アトラス以外の何者でもない。
「ジャックのやろう…!!」
温度的にも収納的にも涼しげな冷蔵庫を前に、拳を握り締めたクロウが身を震わせる。
「もうあいつは絶対ぇこのガレージへは入らせねぇ!!」
「少なくとも朝食昼食は抜きよ抜き!」
そろって拳を振り上げるクロウと私を見て、遊星が悲しげに眼を伏せた。
「俺にもっと仕事が入れば…」
『遊星はまったく悪くない!』

見事にシンクロしているクロウとの意見を総合すれば、『それもこれもすべてジャックのせいだ!』で見事に治まった。帰ってきたときには鬼柳直伝の満足パンチの一発でも喰らわせてやる。そう心に決めて、いざゾラさんへ頭を下げるべく、居間へと急いだ。


人で賑わう繁華街を、両手に荷物を抱えてゆったり歩く。正午を過ぎたばかりの通りは外食目的の人でごった返している。けれど私は、そんな波に逆らって歩きつつも、誰にぶつかられることもなく悠長に歩を進めていた。
ふあ〜ぁあ。欠伸をする声が聞こえて後ろを振り返ると、クロウがブラックバードを押しながら、大きく口を開けている。
「ついてこなくても大丈夫だったのに」
目元を擦るクロウに、立ち止まって苦笑する。
「そうはいかねぇよ」
そう言ってまたハンドルを握りなおすと、勝手に避ける人波を拓いて、私の横へと並んだ。通行の邪魔ではあるが、それほど狭い道でもないので大丈夫だろう。左右を確認したあと、クロウへ目を向けると、待っていたのか「だってよ、」と話を続けた。
「あれだけ何にもねぇと、買う量も多くなるだろ」
「うーん、そうだね、今回はちょっと大変かもしれない」
「だろ?」
やっぱついてきてよかったぜ、としたり顔で笑う。
確かにいつもこれほどまで材料がなくなったことはなかった。折角休みのクロウには悪いが、荷物持ちとしては、クロウもブラックバードも両方いてくれて助かったかもしれない。
そう考えて、荷物を持ちなおし、クロウに目を向ける。
「ありがとう」
「ったりめーだ」
素直に礼を言うと、ストレートな言葉に弱いようで、クロウは頑なに正面を向いたまま、照れたように頷いた。そんな反応をされると、こちらまで照れてしまう。
「…ジャックの野郎、結局帰ってこなかったな」
照れを隠すためか、それとも単に気になっていただけか、ブラックバードに結んだ荷物の山を押さえてクロウが言う。

結局あのあとジャックは朝食どころか昼になっても帰ってこなかった。、朝食までは「清々するぜ」などと思っていたものだが、昼を過ぎるとなると今朝の怒りなど大して残っていなかったものだから、どうしたものかと多少心配していたのだ。
仕方なく三人でカップラーメンをつついたものの、ジャックは高確率で何かに巻き込まれる性質を持っているために、ご飯を食べた気もしなかった。
「散策じゃなかったのかな」
どうやらジャックは遊星にもクロウにも告げず、気がつけばふらりとガレージを出て行っていたらしい。
「まさかあのジャックがご飯も食べずにふらつくなんて」
信じられない!と天に向かって叫ぶと、
「まぁ、大丈夫だろ。あいつは飯を食う場所だけは見つけるの早いからな」
暗にカーリーのことを言っているのだろう。飯よりもまたセキュリティに追われたりしてないかが心配だと、クロウは不機嫌そうに吐き捨てた。
なんだかんだで、やはりジャックのことが頭から離れないらしい。まったく罪な男だ。少なくとも、この場二人の半日の思考を、我が物にしているのだから。
「ジャック…」
呟けば、
「何だ、貴様らか」
叩けば鳴る太鼓のように、すぐ横から返事がした。

「何やってんだ…てめぇ」
「見れば分るだろう。仕事だ」
荷物の間からジャックに冷たい視線を送るクロウに、どや顔で胸を張る男、ジャック・アトラスは、ついさっきまで私たちの思考を陣取っていた人間とは思えない、傲慢な態度で目の前に現れた。
「仕事ぉ?」
信じきれずにじろじろと頭のてっぺんから爪先まで見ると、確かにいつものダサい白コートの上に、業務用らしきピンクのエプロンを被っている。
「凄いじゃないジャック!これで何日目?」
「初めてに決まっているだろう」
感極まって声を上げたが、返ってきたジャックの答えに、ああ今日で終わりかと、クロウと目を合わせた。だけど、ジャックがニートではなくフリーターだったという事実が判明しただけでも、少しは楽になれる。
それに、上手くいけば時給くらいは頂けそうだ。
「で、何の仕事をしてんだ?」
「試食販売だ」
「へー、接客業か、こういうのはお前向きだな」
感心するクロウに、どうだ、お前たちも食べていけと、目の前に柑橘系の甘酸っぱい香りが差し出される。
「グレープフルーツ?」
「いや、ザボンという果物だ」
「ざぼん…?食ったことねぇな」
ジャックの後ろには、西瓜ほどもあるんじゃないかという大きなオレンジ色が、きれいに並べられていた。
まぁ食べてみろ、美味いぞ。そうジャックに勧められて、厚い皮にくっついている透明な実にかぶり付く。グレープフルーツとは違う、もっと甘みのある果汁が口中に広がった。
「わぁ、美味しい…!」
「そうだろう」
「ああ、みかんとも違うんだな…って」
こんなに大きいから、ゾラさんにもあげられるな。と考えながら咀嚼していると、クロウが突然指を差した。それを追ってジャックを見ると、なんとジャックまでザボンを食べているではないか。
さぁ、遠慮せずもう一つ食え。そう言って差し出す反対の手では、己の口にザボンの実を含ませている。
「何やってんだお前はぁ!」
「なんでジャックまで食べてるの!」
慌ててジャックを止めようと腕を掴むが全くびくともしない。その間にもひょいひょいと試食用のザボンは皮を残して消えていく。
「馬鹿なことを言うな。売る側の俺が食べずに、どうやって美味しいと証明できるのだ」
言ってることがわからないでもないが、そんなにばくばく食べていたら信用も何もない。「まぁそうだけどよ」と言うクロウもあきれ顔だ。だが驚くことに、ジャックの後ろにあるザボンは、昼時にも関わらず残り一段となっていて、店頭に少なめに並べられていたとしても、かなり売れたのだということが見て取れた。
見直したい気持ちと、どうやって売ったのかという不安がせめぎ合う中、クロウが私の名を呼んだ。
、ジャックが折角働いてんだ、ひとつ買って行こうぜ」
「はっはっは、流石はクロウだ!美味しさはこのジャック・アトラスが保証するぞ!」
「ああ、帰ったら遊星にも食わせるさ」
買い物に出て一時間とちょっと。ブラックバードも重量オーバーで、手元の買い物リストも打ち消し線だらけ。あとは帰るだけだ。
「ザボン下さい。」
これ以上ない笑顔のジャックに指を差し出す。その数は二本だ。
「よくぞ言った。それでこそだ!」
余程嬉しかったのか、高ぶったジャックは残りの試食をすべて私の手に乗せ、ザボンがふたつ入った袋をクロウに押しつけた。
「支払は俺に任せろ!」
ジャックにはすまないが、それだけは任せられない。

両腕には軽いビニール袋をぶら下げ、両手には溢れんばかりのザボンを抱え、クロウと共に雑踏から外れた道を歩く。こんなに気前よく貰ったはいいが、ジャックは怒られはしないかとか、朝昼抜いてあんなにザボンばかり食べてお腹を壊さないかとか、そんなことを考えていると、手のひらから零れ落ちそうになる。
そんな私の話を黙って聞いていたクロウが、いいずらそうに、あのよ、と口を開いた。
「お前さ…」
「ん?」
やけに歯切れの悪い言い方に、クロウらしくないと感じながらも、先を促す。ちらりと私を一瞥する目がすぐに逸らされた。
どうしたの。もう一度問うが、クロウは固く口を引き結んでいる。
「…いや、」
少しの間があった。
「その、なんだ…ジャックの心配もいいが、足元見てねぇと転ぶぞ」
「うん、頑張ってる」
そんなに危なっかしかったのだろうか。大丈夫だと言うものの、ちょっときつい。そんな私の様子を見たからか、クロウが通りに面した小さな広場へ私を引っ張った。
「その様子だと、遊星のとこまでは持たなそうだな」
「うん、ちょっと温くなってきちゃったし」
両手のザボンを持ち上げて渋い顔をすると、クロウが弾けたように笑った。
「じゃあここで食ってった方がいいな」
まだ二つもあることだしよ。そう言って、ブラックバードを止めると、私をベンチに座らせて自分もザボンを降ろした。
「結構重いのな」
あのクロウが、肩が凝ったと言って首を回すから、ためしにザボンを持ち上げてみると、中々重い。よくブラックバードを引いてこれを持てたものだ。
「お疲れ様。帰りは私が持つよ」
クロウにジャックから貰ったザボンを分けると、「じゃあ一個な」と気を遣った返事をして、大口を開けてザボンを頬張った。

思えば、今日はいつもと違うことが多すぎたのだ。
目覚ましより早く起きたらガレージにはクロウがいて、その代りにジャックがいなくて、その上いつまで経っても帰ってこない。そのおかげで私は無駄にジャックの心配をするし、普段買い出しにはついてこないクロウが手伝うと言い出して、そしてその先であのジャックがバイトをしていた。
いくらなんでもいつもとは違いすぎる。だから、もしかすると、帰ったら遊星の髪が真っ赤に染まっていたりしていることもあるかもしれないのだ。もしそうなっていても、今日に限っては、別段驚きはしないだろう。
けれど。

ザボンを食べる私の手が止まった。試食のザボンが予想以上に大きくて、食べる度に口から零れてしまうのだ。隣のクロウはそんな私に合わせてか、ゆっくりと実を食んでいる。
「おい、お前零しすぎだぞ」
「わかってるよー」
頬張った途端、また口から果汁が零れ落ちる。西瓜を食べた時みたいに、手も服もべとべとだ。
またクロウに言われるなぁ、と思いながら、ザボンで濡れた口元を拭おうとすると、その腕を掴まれる。手首に回された指を伝って視線を上げれば、クロウが無言でこちらを見つめていた。その顔は、何かを言いかけたさっきと同じ目をしていた。

「クロウ…?」
聞こうとしたのだ。けれどその名前を呼ぶ前に、クロウが私の唇をさらっていった。
口元を伝っていた果汁を掬うように唇で肌を撫で、そのまま潤う私の唇を遠慮がちに食む。
抵抗はしなかった。その代りに、胸がどくどくと鼓動を早めた。体中の血液が酸素を欲して忙しなく走り回っているというのに、私の体はぴくりとも動かなかった。
一度口を食むと、クロウが少し唇を離した。そしてもう一度、やさしく触れるだけの口づけをする。また柔らかく唇を食む。私は一体どんな顔をしていたのだろうか。クロウの唇がゆっくりと離れて、最後に親指で弧をなぞられる。クロウは無表情のまま、ぼんやりと私を見つめている。
「嫌じゃ、ねぇ…みたいだな、」
いつもみたいな明るい声じゃなかった。掠れて今にも消えそうな低い呟きが、私の鼓膜を震わせた。深いキスをしたわけでもないのに、息も紡げないほどに心臓が高鳴ってやまない。私は思わず泣きそうになった。
「嫌じゃ…ない、よ」
繰り返すように紡ぐと、クロウもまた無表情でそれでいて不安そうな表情を崩して、「そ、か…」と息を吐きだした。その顔が今にも泣きそうに見えたのに、呟かれた声があまりにも優しく、安堵が含まれていたことに、私の胸は一層締めつけられた。
掴んでいた手首を離される。力が入らなかった。
まるで夢だ。目の前がかすんでぼやけていて、心臓の鼓動ばかりが世界を支配する。その中でぽつりと、唇のぬくもりが私を包んでいる。まるで夢だ。

突然、ブラックバードが唸りを上げた。視線を向けると、ヘルメットを被ったクロウがそれに跨っていた。
「くろ、」
「…っこいつを置いてから戻ってくる」
エンジンが唸る。
「ザボン食って待ってろよ!」
そう言ったまま、一度も目を合わさずにクロウはブラックバードと共に走り去ってしまった。残ったのは、ベンチに座る私と大きな二つのザボンだけだ。ゆるりと足元を見る。
私が落としてしまった食べかけのザボンが、地面にしずくを滴らせている。これが、最後のひとつだった。

今日はいつもと違う。朝からそんな予感はしていた。だから、ちょっとやそっとのことでは驚かないと思っていたのだ。ならばこの胸の高鳴りはどうしてだろうか。
不意に喉の渇きを覚えた。さっきあんなにザボンを食べたのに、唾も全く出てこない。

嫌なんかじゃなかった。
「むしろ、」
出てくる言葉を飲み込んで、私はクロウの言いつけを守ろうかと考えた。
丁度喉も渇いている。何かやらかしていなければ、ジャックもまだあの通りでザボン売りをしていることだろう。
クロウの肩を苦しめた二つのザボンを抱えて、ジャックから試食を貰いに行こうか。そしてまたこのベンチに座って、二人でザボンを食べるのも悪くないかもしれない。

去り際に見えた、ヘルメットの下の真っ赤に染まったクロウの耳を思い出して、今日はまだまだ何かが起こるかもしれないと、私は一人鼓動を高鳴らせた。



(ほのぼの100題 2/008/くだもの)
10/01/13 短編