今日と言う日に予兆があったとするならば、俺が朝から微塵も警戒心を抱かなかったことだろうか。


海風とともに待つ



それはいきなり眼前に広がった。
最近はうす曇りばかりで気が滅入っていたところだったから、トタンで囲った簡易な戸口を潜って、遮るもののない周辺に寂れた灰色の瓦礫の上からくっきりとした青海が見えた時、ここは本当にサテライトだろうかと目を疑ってしまった。まるで天から地までが海のような、冴え渡る青に弾んだ声を漏らすと、心までもが躍り始める。
流れ込む淡水で潮の匂いが少ないネオ・ドミノシティ近辺は、溢れんばかりの光を浴びて、人を建物を吹き抜ける風までもが煌いている。
「おーいガキども!起きた起きた!」
いつもならば寝てる奴らは年長に任せて出かけるのだが、今日ばかりはと自分の張り切った感情を押し付けるように、叩き起こしてから住処を出た。
朝からいい気分だ。今日は絶対いいことがあるに違いないと、日の光で温められた潮風を嗅ぎながら、俺は意気揚々とアジトへ走った。疑いようもなかったのだ。
単純だと?そんなこた分かってる。でも今日の天気で一喜一憂する他に、日々変わらず荒廃したサテライトで楽しみなんかどうやって見つけろというのだ。
だから俺は思う。幸せに色があるなら、多分それは空の色だ。

だが俺の幻想は脆く崩れ去った。話の流れからして予想通りと思っただろうが、ったりめーだ、そういう風に話してんだ。とにかく俺の小さな、袋菓子の残りカスよりも小さな幻想は、アジトの二階の扉を開けた途端、儚くも温かな海風に乗って、シティの方へと散っていった。

「おいどうした鬼柳、発情期はまだだぞ」
ドアを開けて広がったのは、たった数分前の青空の感動とは比べるにもおぞましい光景だ。
もぞりと穴熊のように薄汚れた衣服をさすって、鬼柳が上半身を持ち上げる。まだ日は斜め四十五度。寝ていても別段呆れはしない。だが、その眠気眼をさする男の隣には、我らがチーム・サティスファクションの紅一点、が体を丸めてすやすやと安らかな寝息を立てていたのだ。
「鬼柳てめぇに近寄んなっつってんだろーがァァァアア!!」
「ぐふっ」
鬼柳はリーダーだ。そして俺はそのチームメイトで。だがそれがどうした。リーダーがチームメイトに絶対権威を持ってるわけでもないように、俺だってリーダーに異議申し立てしてはいけない決まりなんてない。ただそれが拳で語るという手段を取っただけだ。
寝起きの鬼柳は避ける素振りも見せず、見事に俺のストレートを鳩尾に喰らって冷たいコンクリートの隅に倒れこんだ。安心しろ、友情パンチだ。力は五分に抑えておいた。
そんなダサい決め台詞を言う余裕もなく、俺は慌てて丸まったままのに駆け寄る。もしかしたら、鬼柳に放送禁止用語の連発でもされて、傷心のまま身を固くしているのかもしれない。想像するだけで心が凍てつくようだ。
やわらかなの体を支えて、俺は体面など気にせずがたがたと揺すった。しかしは目覚めない。いよいよ俺は本気で青くなってしまった。まさか。もしや。桃色の光景が浮かんでは消える。
「大丈夫なのか無事なのか何もされてねぇのか返事をしてくれ頼むぅぅぅううぅ!!」
「生きてるっつーの」
腹を押さえて四つ這いの鬼柳は、奇人でも見るかのように俺を見て目を細めている。誰のせいでこんなに心配してると思ってんだ。そう言って負けじと忌々しげに睨んでやる。すると、
「まぁ、俺だな」
とりあえず落ち着けクロウと、どうにか自覚はあるらしい鬼柳は、どの口がほざくのか、いつもの垢ぬけた笑顔で近寄ると、俺の肩を軽く叩いた。正直気が立っていて触られるのも嫌だったが、振りほどけばその衝撃で、がコンクリートとこんにちはをしかねないと、腕に抱き寄せる力を込めるに留めた。
その様子に鬼柳が満足そうに頷く。
「勘違いするな、俺はお前が思うような変なことはしちゃいねぇよ」
ただな。そう言って、鬼柳は俺が揺さぶった振動で落ちた毛布を、の体に被せてやる。傍にしゃがみ込んで、立てた片膝に腕を乗せたまま、鬼柳の切れ長の目がに向かって緩やかに弧を描いた。
「こうして見てたら、何だかすげぇ柔らかそ」
「てめぇぇええぇ!やっぱ不純な動機じゃねぇかァア!!」
サテライトのレッドゾーン。それはデュエルギャングでも何でもねぇ。人の彼女に簡単に手を出すような男、鬼柳京介。俺にとってはこいつがその頂点に君臨することは確かなのだ。

けれど俺の心配ごとの種は、ただ鬼柳を見守っていれば、簡単に潰えるようなものではない。

使いすぎて角が折れたり破れ目が目立つトランプを弄って、遊星がデュエルディスクの調節をし終わるのを待つ。シャッフルするだけのことに何度もカードを床に落としている。
部屋中を駆け回る楽しげな声。それはこの部屋ではなく、霞がかって少し離れた場所からこちらに届く。鬼柳との声だ。今朝に食べたかぼちゃの種を、植えたらでっかい実がそこら中に生るかもしれないと、盛んにはしゃいでいたと思ったら、ついさっき埋めてみようと駆け足に飛び出していったのだ。
「ふん、呑気なものだ」
ジャックが外で鍬を振り降ろす二人を見遣って、鼻を鳴らす。はんだ付けをする遊星の手が止まって、同じように階下を眺めた。
「…生るといいな」
俺の気も知ってか知らずか、の楽しげな笑い声は軽快にサテライトを跳ねる。
その声が耳を震わせるたび、俺の手元からはトランプの束が零れては拾って。零れては拾って。落ち着かずにその動作を繰り返していたら、傍でそれを見守っていたジャックが遂に苛立たしげに声を荒げた。
「そんなに気になるんなら貴様も一緒に行ったらどうだ!」
忙しなくて落ち着いていられんわと言って俺を睨みつける。分かっているのだが、心がざわめく。まるで体中を得体の知れぬ何物かが這いまわっているようだ。
拾い上げたトランプを握りつぶさんばかりに俺は叫んだ。
「ガキじゃあるまいし、ずっとあいつといるわけだっていかねぇだろ!」
つまるところ、そうなのだ。俺はと付き合っていようが、あいつの行動を制限する権利はない。鬼柳が俺たちを自由にできないように、俺たちが鬼柳に人生を預けられないように、俺はに何の強制力も持っていない。だからが望めば、誰と遊ぼうが、誰と笑い合おうが、誰と寝ようが、勝手、なのだ。

「あ、」
突然の遊星の声。いつも抑揚のない友人の声にしては、その発音ひとつに様々な感情が読み取れた。それも呆れとか、不安とか、そういうマイナス要素だ。背筋を嫌な汗が流れる。
慌てて立ち上がって、休憩にと手を休めていたらしい遊星の視線を辿ると、そこには俺たちの知る通り、鬼柳との姿。
「こら、てめっ、鬼柳ゥゥウウ!!」
俺の叫び声に、あ、やべ。とわざわざ大声で洩らす鬼柳。問題はそいつが、耕した地面の上に倒れこんで、に乗っかっているということだ。
「違うぞクロウ!これは事故だからな!」
「そんな都合のいい事故がそう頻繁に起きてたまるかよ!」
言いながら俺は走った。これ以上はをあいつの近くには置いておけない。保護者権限発動といったところだ。
しきりに事故だ事故だと叫ぶ鬼柳の顔は少しもすまなそうではない。むしろ遠くから見ても嬉しそうに頬を緩ませていて、「だから初めからついて行っていれば良かったものを」などと、走る俺の背に投げかけられたジャックの言葉に、ぐうの音も出なかった。
何より俺を焦らせたのは、鬼柳が立ち上がった後も、ジャケットが汚れるのも忘れて横たわったままの、真っ赤なの顔だった。

逃げた。逃げたのだろうか。俺は鬼柳に駆け寄って文句を言うだけ言って、それで気づけば、を放ったままアジトに背を向けて歩き始ていめた。とにかく混乱していた。何が、と問われても、それすら答えられないくらい、頭の中がぐちゃぐちゃだった。ただ俺はあいつを避けようとしていたことは認めざるを得ない。俺はどうやってもあいつの顔を見れなかった。目を、合わせられなかった。引力みたいに避けられない力が、あいつから引き離すように俺の体を支配していた。
だから背を向けた俺に、がどんな顔をしているかなんて、考えてる余裕もなかった。ただ、落ち着かねぇと。そればかりを繰り返し言い聞かせていた。
今朝、あまりにも綺麗だと感動した海と空が目の前に広がっているというのに、地面のいびつな砂利ばかりがやけに目につく。
あいつを放ってまで歩いて、俺はどこへ向かうというのだろう。


今にも崩れ去りそうな堤防に、波が押し寄せる。遠くから眺めればあんなに穏やかに見える水面は、俺の眼下で狂ったようにその身を叩きつけている。思わず身を震わせた。己の身を投影したかのようだと、感じるほどにそれは激しかった。
爪先から頭のてっぺんまで、こんなにドス黒いものが流れたのは初めてだ。鬼柳の行動にではない。
あいつのに対する行為は、認めたくはないが最早日常茶飯事で、で昔から男兄弟ばかりのようなマーサハウスで成長してきたものだから、今や鬼柳のセクハラをスキンシップだとでも解釈するような、仏のような包容力を持つ女になっている。悪くいえば鈍感とでも言うのだろうか。
だからいつもは鬼柳のちょっかいに、異性の反応を見せることなんてなかった。なかったというのに。
「何かの、間違いだろ」
嫌な予感ばかりが過ぎる。
は、海からの風が吹いて気持ちがいいと、俺の誘いを断って、わざわざ好んでアジトの二階を寝床にしている。だから、夜にが何をしているかなんて俺は知る由もない。
ただ仄かに漏れるランプの明かりが、いつ消えるのだろうかと、時折身を案じて見上げるだけだ。
温暖な季節といえど、夜風は肌に寒い。それをあんな吹きっ晒しの二階で毛布だけに包まって、は寒くはないのだろうか。もしかしたら今朝のように、いつもは鬼柳が傍にいて、その冷えた柔らかな体を、毛布ごとそっと包み込んでいるのかもしれない。
今までにそんなことを考えなかったと言えば嘘になる。けれど鬼柳と接する時の、ただ楽しいと思うほかに何の感情もないの笑顔を見る度に、そっと一人安堵してはまだ大丈夫だと、自分を宥めすかしていたのだ。
もしかしたら、もしかすると。そう考えればきりが無いことなんて分かっていた。そんなに心配なら鎖で縛ってでも連れて歩けばいいと、ジャックの言いたい気持ちも分かる。けれどそれは、ただのの恋人でしかない俺には、やろうと思っても到底出来ないことなのだ。いや、俺でなかろうと、世界中で以外には、そんなことはできやしない。
それでもどうしても、鬼柳と笑い合う姿を見ると、この腕の中にずっと収めて、どこか遠く目のつかないところへ連れて行ってしまいたいと、心の裏側から仄暗い闇が押し寄せてくるのだ。
「くそっ…!」
俺はどうかしちまってる。掻き毟りたくなる胸の内では、のほんのりと赤らんだ顔が浮かんでは消えて、むちゃくちゃしようにもできない。
鬼柳のことだって、いつものように殴り飛ばしてやりたかったというのに。
「…くそ、」
のあんな顔を見たあとじゃ、とても殴れそうにはなかった。

頬をさらりと撫でるのは、が好きだと言ったサテライトの海風だ。湿っぽい空気は、俺には似合わない。眼下の波は狂おしいほどに押し寄せてくるが、ここの海風は、いつだってからりと吹き抜けていく。
この風を好きだというのなら、俺も潔く会いに行くのがいいのだろう。今まで守ってきたの夜を、壊しに行くのもいいのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えながら、仲間ですら滅多に顔を覗かせないアジトの近辺で、日が暮れるのを静かに待った。


サテライトは顔を変える。昼と夜では、まったく違う表情を見せるのだ。雲ひとつない空。けれどここは、シティからの光で星がよく見えない。もっとずっと奥のエリアに行けば、僅かな街灯も照らない空に、満面の星が輝いている。
ギャング闘争の帰りに、一度だけとその星空を見上げたことを思い出す。あいつは目が眩みそうだ言って、これじゃあ眠れそうにないと、少しも不便に思ってない顔で穏やかに笑っていた。星空が嫌いなわけがない。は綺麗なものが好きだ。
昼の晴れ間がずっと続いていたのは幸いだった。いくらシティの光が届くと言っても、晴れていなければ足元は闇に溶けて霞んで見える。すっかり隠すものを失った月が、今夜ばかりはと燦々と身に光を宿している。
のいる二階までは、足音は立てられない。階下に眠る遊星とジャックなら起こしても構わないが、鬼柳にだけは感づかれたくはなかった。それが夜這いまがいの行為と知れるならば、尚更だ。
やけに勘のいい住人たちのために、硬いブーツは来る前に脱ぎ捨てた。裸足の指先が、冷たいコンクリートと吹きつける夜風に感覚を失いそうになる。小さい頃からその辺は鍛えていたつもりだが、流石に荒れたサテライトの砂利は、皮膚には痛い。
それでも息を潜めて二階までの階段を踏みしめた。いつもは夜更かしをするは、珍しく寝ているようで、ランプの灯しはすでに消えている。
もし踏み入れた先に以外の影があったら。そう思うと踏み出す足が躊躇われる。と一緒に俺ではない誰かがいるのが怖いのではない。俺がそいつを追い返す権利をまだ確固として持っているのか、それが分らないのが怖いのだ。少しでもその権利に揺らぎがあるのなら、俺はかじかんで固まった足を無理やり動かして、ガキ共の待つ住処へ尻尾を巻くしかない。

ドアの前に立った時、自分自身の鼓動の音に愕然とした。まるで鼓膜を破りそうだ。どんなに息をひそめて抜き足を使っても、これでは聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、心臓は大きな音を立てて血を送り出していた。
部屋の中の気配を伺うが、まったくわからない。ここに立っていても、見つかるのを待つばかりだ。俺は込み上げる不安を押し切って、ドアノブを静かに回した。

「…クロウ?」
流石に壊れかけたノブが軋む音には気づいたのか、浅い眠りから起き上がって、は俺の名を口にする。月明かりは入口まで届いていないようで、の寝ぼけ眼では、ここにいる人物が誰なのか特定できないようだった。
それなのに俺の名を一等先に口にしたことを、単純だろうがなんだろうが、俺は嬉しく思った。アジトとガキ共の住処を別にしてから今の今まで、俺はこうしてに会いに来たことはない。だからこそ、心の中に俺という存在がいたことに、すっかり心が躍りあがってしまった。
しかし、はもう一度名前を口にする。
「…鬼柳?」
俺とは違う名前だ。
途端に心が冷えていくのがわかった。じわりじわりと、体の芯から搾り取るように、黒い闇が少しずつ全身に広がっていく。俺は、不安だったのではないだろうか。が離れていくことが。変わっていくことが。
「俺は…誰だよ」
「え、」
冷めきった俺の低い声と反して、月明かりに浮かぶは間の抜けた声を出した。俺は指先が冷たいのも、足の裏が小石に擦れて痛いのも忘れて、一歩ずつ足を踏み出す。
は阿呆みたいにぽかりと口を開けたまま、闇から浮きだした俺の姿を呆然と捉えている。
俺じゃなかったら、確かにここに来るのは鬼柳の確率が高い。けれど、その名前は聞きたくなかった。この場所で、この時間に、お前に口にして欲しくなかったのだ。
これは、そうか。嫉妬か。

毛布を掛けて座り込んだままのを、掴みかかるようにして押し倒す。もう止められなかった。
「俺が誰かって聞いてんだよ!」
が答える前に、噛みつくようにキスをした。いや、キスではない。本当に、喰らいついたのだ。
「…んっ、むぅ…!」
絡めとれるものはすべて絡めとった。息も、唾液も、舌も、押さえつけた両手が苦しげにもがこうが、俺は口を離さなかった。このまま全て俺のものになってしまえばいいと、そんなことを思いながら、全身を持ってを掻き抱くように、やわらかな唇に喰らいついた。
自慢じゃないが、俺は今までを大切に扱ってきたつもりだ。キスも、抱擁も、触れることさえも壊れものを扱うように、そっと接してきた。それを今こんな形で、鬼柳に嫉妬する醜い自分をさらけ出してこいつを乱暴に扱うことになるなんて、情けないにもほどがある。だが俺は、もう止められなかった。
今まで我慢してきたものが、積み上げてきた堤防から一斉に氾濫してきて、俺のちっぽけな両手じゃそこに入った亀裂なんて抑えられそうになかった。の、鬼柳と呼ぶ声が、赤らんだ顔と交互に点滅して、消えてくれそうにない。少し上ずって緊張して震えるの喉。
「ふ…ぅ、んっ」
闇夜に揺れる白い肌と、まなじりに浮かんだきらめきを見て、自分の物とは思えない、底の見えない深い支配欲が、一心に俺に熱をもたらした。は、俺の下で切なげに眉を寄せている。床に縫いつけたそいつの両手に、ぐっと力が入った。
は、強い。何といってもマーサハウスで俺たちと共に、兄弟のように生き抜いてきた女なのだ。何も考えてなさそうな阿呆みたいな顔をしていても、サテライトでの生き方をちゃんと知っている。
つまるところ、は何のためらいもなく、俺の股間を蹴り上げた。それも精一杯、渾身の力を込めて、だ。
「ぐ、お…ぉ!」
あまりの痛みには声も出ないものなのだと、俺はこの時、人生で初めてそれを知った。


冷たい床で微動だにも出来ずにいる俺に、は一言投げかける。ばかやろう、と。
「ばかやろう、クロウの、ばかやろう」
ばかやろう。何度もつぶやくその声が、徐々に涙に満ちてくる。俺まで泣きそうになった。何てことをしちまったんだと。後悔してももう遅いぞと。いつだって冷静になる瞬間は、熱が引いていく音が聞こえる。さぁっ、と背筋から青くなっていった。
辛うじて床から上半身を支えて持ち上げた俺に、頭からばさりと毛深いものが覆いかぶさる。の毛布だ。幾日も洗っていないそれは、お世辞にもいい匂いではなかったし、肌触りもごわごわして毛布にしては固すぎる。
その毛布ごと、は俺を抱きしめた。
「来るのが…遅いよ」
頭に鈍い感触。恐らくの顎だろう。毛布越しの暖かな体温が、じわりと俺の心に沁み渡る。暗い影が、少しずつ蒸発していった。
「私、こう見えてもロマンチストなの」
いきなり、文脈もなしにが言う。
「このアジトはこの辺りじゃ一番高い場所にあるし、月明かりもきれいで、海が光るのは星みたいだし」
そう言って、口をつぐむ。は俺を抱きしめる手を弛めた。毛布が静かに床に吸い込まれていく。
月光を浴びて光るの瞳が、僅かに潤んでいる。漆黒の瞳にそれが輝くたび、星のようだと場違いにも感嘆しそうになった。
クロウ。が俺を呼ぶ。
「迎えに来てくれると思ったの…!」
なのにいつまで経っても来ないんだもの。言うなり顔を歪めて捲くし立てる。
「クロウなら無理矢理にでも連れ出すと思って、誘いも断っちゃったじゃない!」
リーダーにだってからかわれるし、このばかやろう。ばかやろう!ついには大声をあげてぼろぼろと泣き出してしまった。堰きとめられなかったまなじりから、次々と星屑が零れ落ちて、硬すぎる毛布を濡らしていく。
「どっちがだよ」
先刻とは対照的な仕草でを優しく抱きしめて、俺は緩く息を吐きだした。やっぱ、俺の方か。
ガッポリと空いた二階の壁からは、煌々と照るシティのネオンが目に眩しい。けれど、闇夜に浮かぶ明るい街の下には、光を受けて星のように輝く漆黒の海が揺らめいている。
毛布ごとを抱きしめる俺の体を、澄み切った海風が通り抜けていく。がこの場所を好きだと言ったわけが、分かった気がした。

で?俺は言う。が測りかねたように首をかしげた。
「鬼柳に何されたんだ」
まさかあんなことやこんなことまで。なんて勝手に心配してきた嫌な妄想を口に出すと、は真っ赤な顔でそれを遮った。
「ち、違うよ!ただ…クロウはいつになったら…よ、夜這いにくんだろうな、とか」
「はぁ?!」
あと。大声を出した俺をこっそりと盗み見するように伺って、言いづらそうに口をもごつかせる。俺が先を促すように言えとばかりの眼力でを睨むと、数度言い淀んだあと、意を決したように小さく口を開いた。
「…来なかったら…俺が、その」
一緒に寝てやるって。身をよじらせて、そう言い放つ。それはもう、俺が弾けるには十分すぎた。
「鬼柳ゥゥゥゥウウウ!!」
夜も夜更けだぁ?そんなの知ったこっちゃない。ガキ共が起きようが、ジャックに喚かれようが、あの間男に彼女が惑わされたことに比べれば、何だって大したことではないのだ。
腕の中のを開放して、俺は勢いよく立ちあがる。勿論今頃幸せそうに寝こけているセクハラ野郎を一発殴りに行くつもりだ。そうでもしなければ、俺の気が治まらない。この俺をいいように弄んだ落とし前が、一発ならば安いものだろう。
しかし、走り出そうとする俺の腕を、はがっしり掴んで引きとめた。

そ、その。またもや言い淀んで、俺を見上げるが、目が合った途端は逸らす。その、ね。縋るように腕を掴んだまま、羞恥に顔を伏せた。
「もういっかい、して…?」
なにが、とは言わなかった。聞かなくても分かる。鈍感な人間にあれだけ馬鹿と言われた俺でも、この言葉の意味を察せないほど、馬鹿ではない。けれど、それを知っていて聞き返す野暮ではある。
「何がだ?」
は拗ねたように俺の胸を叩いて、ぴったりと額を寄せた。どうしても言いたくないらしい。
「ったく、しょうがねぇな」
仕方がないから折れてやろうと噛みつくようにしたキスは、思いのほか俺の望みだったみたいだ。赤らんだの幸せそうな顔を見て、俺は目をひっそりと細める。
空は幸せ色をした快晴で、吹き抜ける風は、の好きな、からりとしたサテライトの海の匂いがした。



(ほのぼの100題 2/085/もういちど)
10/02/10 短編