サテライトだろうとシティだろうと、このネオ・ドミノシティに住む人々は、失うことの悲しさを誰だって知っている。ただその想いが強いか否か、それだけなのだ。


Seaborn Delivery



私が一番好きなものは何か。
今の私はそう聞かれたら、迷わずソファだと答えるだろう。ソファなら何でもいいわけではない。私の住むこのボロアパートの匂いがぎっしりしみ込んだ、私のソファだけが、私の世界に唯一存在する、お気に入りのソファなのだ。
薄暗い朝の光を浴びても、昼の射すような光の中でも、このアパートには白すぎる蛍光灯が闇夜に照っていても、私のソファだけは、変わらず部屋に似合わない大きな体を据えたまま、窓に向って日を送り続けている。どんなに何かが変わっても、このソファだけは、ずっと私を受け入れてきた。
たとえば寂しい夜、ビデオを見たり、つまらない深夜番組に負けて笑ってしまったり、このソファに埋もれて私は一夜を明かす。楽しい時、友人を座らせて談笑したり、福引が当たったのが嬉しくて飛び込んだり、どんな時でも、誰であっても、優しく受け止めるこのソファを、私は昔から気に入っていた。
前までは、こんなに好きだと思ったことはない。あって当たり前で、無ければ無いで別のものとうまく共存していくのだろうと思っていた。
けれど私は今、このソファが一番好きだった。

「ちわー、ブラックバードデリバリーです」
間の抜けた声とチャイムに、伏せていた瞼を開けた。ソファに預けていた体をゆっくり起こすが、背もたれが私の体を離すまいと、静かに吸い込んでいく。
中途半端に開けられたカーテンの隙間から、暖かい日だまりが観葉植物のすべらかな葉を撫でては光っている。

私は留守の時にはカーテンは開けない。よく宅急便を利用する私が、何かで手が離せないときにすぐに行ってしまわないように、そうメモを書いて、戸口に貼っていたのだった。だから、ここに来る宅配便は大抵それを承知している。
もう随分前に書いたものだから、たいそう黄ばんで字も読めないだろうが、たった今チャイムを鳴らしたブラックバードデリバリーは、そのことを知っている。

二度目のチャイムが鳴らされた。カーテンを閉めておけばよかったと、ふいに思う。出るのが嫌なわけではないのだ。日も高いのに起きたばかりとか、仕事疲れから風呂にも入っていないとか、そういった理由からでもない。ソファに深く身を委ねている私は、久しぶりの休みだというのに、いつも通り早朝に目を覚ますなりカーテンを開け、フレンチトーストに少し甘めのイチゴジャムを乗せ、思い切って買ってみた高めの牛乳で喉を潤し、どこに出かける予定もないのにきっちり余所行きの服を着て、身だしなみまで完璧に整えていた。
けれど、私は居留守を使いたかった。今にでもカーテンを閉めて、私はいませんと大声を張り上げてでも、このソファに身を沈めていたかった。
要は、面倒くさかったのだ。人に会うこと、それ自体に、今の私は酷く疲れ果てていた。

私の意に反して、三度目のチャイムが鳴る。以前カーテンが開いていて出なかったら、寝ているかもしれないから叩き起こせと頼んだことがあったから、今チャイムを鳴りしている宅配員は律儀にもその言いつけを守るつもりのようだ。ということは、私が出るまでは、近所迷惑な甲高い音は暫く鳴り続けるだろう。
間も開けずに四、五と続くチャイム。隣の部屋から壁を叩く音がした。
そろそろ出た方が、いいのだろう。

「何だ、やっぱりいるんじゃねぇか」
アパートのぼろ臭いドアを開けるなり、ブラックバードデリバリーの配達員クロウは、呆れ顔で声を上げた。そして私のとても寝起きとは見えない格好を見て、起きてたのかと目を丸くする。
あれほど今は人と付き合いたくないと思っても、悲しい性か、私は反射的に顔を綻ばせてしまった。
「本当に押し続けるか、試してみたくなって」
「性格悪ィな、そういうのを営業妨害って言うんだぜ」
おちゃらけた私の物言いに、クロウは荷物を抱えたまま顔を顰めて、伝票の乗った小さめの箱を手渡した。
「何これ?」
頼んだ覚えもない小包は持ってみると案外重い。私の問いにクロウは、さあと答えると、
「俺も今は委託配達で、差出人までは把握できてねぇんだ」
お前の知り合いからじゃねぇのか、と指をさされたそこには、確かに数年来の私の知り合いの名があった。
何だろうと思いながらサインをしていると、クロウが僅かに身をよじらせて、私の家の中を覗きこんだ。胸が、ざわめく。
なぁ。ぽつりとクロウは言った。
「あいつ、どうしたんだ?」
ぞくりと背筋を冷たい感覚が突き上げていった。不思議だった。私の胸はきりきりと悲しみで千切れんばかりに締めつけられて、ひどく痛いというのに、口元にはにこりとやわらかな笑みが零れてくる。恐ろしいほど、自然に言葉が喉を通って出た。
一週間前にね。まるで井戸端会議みたいな軽い口調。私の唇は軽快に跳ねる。
「死んだよ」
クロウの表情が凍りついた。私とは対照的な顔だ。はい、と返した伝票とペンを受け取るクロウが、すまなそうに「悪い」と呟く。
だから、会いたくなかったのだ。絶対にクロウならば気づくと、それが分かっていたから。私は、人の感情を、雰囲気を、一気に塗り替えてしまう、この言い知れぬ湿った空気が嫌いだった。
クロウはまだもの言いたげに口元を淀ませている。どうしてとか、何でとか聞かれる前に、私はクロウの背中を叩いてやった。
「さ、忙しいんでしょ?仕事頑張った頑張った!」
この場合の自然な態度は、一緒に物悲しそうな空気を味わうことだ。それが嫌だ。嫌だからこそ、努めて不自然な反応を返した。
半ば追い返すようにして、ドアを閉める。クロウの重いブーツが、暫く扉の前を戸惑うように行き来すると、静かに遠ざかっていった。アパートの階段を踏みしめる響きが止むまで、私はドアに背を向けたまま、人の立ち去る時の悲しげな音色に耳を傾けていた。


私の愛犬が死んだ。とても賢い、気の利いた犬だった。
そんなに大きくならないはずなのに、何をどうしてそんなに育ったのか、同じ犬種と並ぶとふた回りも大きかった。太っていたわけではなく、体自体が大きかった。
家に来たのは私が物心つく前だ。ペットショップからあぶれて、施設送りになりそうだったところを、私の親が貰い受けて来たのだという。だから、名前より先にの名字が付いた。その頃はシティではペットブームで、至る所で小型犬やら中型犬のショップが開かれていて、犬種同士の掛け合わせで生まれつき体の弱い子が多かった。それなのに、私の犬はよく育った。足腰も丈夫で内臓疾患もなくて、朝起きるのがやたら早い、元気な犬だった。

私たちは小さい頃から一緒に育った。いや、育ったというよりも、私が育ててもらったと言ってもいいくらいだ。それくらい、私の犬は頭が良かった。
頭がいいと言っても、テレビでよくやるような動物芸が出来るというわけではない。ただもの凄く、犬とは思えないほど気が利くのだ。
たとえば、ある時は母親のようであった。私が朝に弱いことを承知していて、いつもぴったり同じ時間に、私の顔を少し濡れた鼻先でつんつんつつく。けれどその時間が決まって目覚ましの鳴る数分前なので、愛犬の顔を押して私は頭から布団を被ってしまう。それでも布団の脇に前足を掛けたまま、起きろとばかりにしつこく突いてくるものだから、結局不機嫌な顔をして目を覚ますしかなかった。
風邪を引いて熱を出した時などには、自分の昼飯をわざわざ、私の枕元に押し込む。おやつを貰えばそれを持って、また顔の横に放る。そして人間のような表情をして、私の布団へそっと忍びこむのだ。生きているものは温かい。湯たんぽのようなその安らぎに、私はいつしか寒気も忘れて、うとうとと眠りこけてしまう。そうしているうちに、目が覚めると、枕の横に大量のドックフードをまき散らして、私は熱から覚めるのだった。

いつだって一緒だった。帰れば一等先にただいまというのが、私の愛犬だった。それは実家であっても、このぼろアパートであっても、たとえ場所が変わろうと、いつも澄んだ犬らしくない目で私を迎え入れてくれると思っていた。だから、先のことは考えたことがない。
私は、自分が酷い思い違いをしていたということを、最近知ったのだ。時間は、変わらないものを、場所さえも、変えてゆくものなのだと。

D・ホイールのエンジン音が消えると、ようやくドアから立ちあがることができた。
泣きたいわけではない。この一週間で、体中の水分が供給できる限り、涙に費やした。泣こうとしたって、今はあまり出てくれないだろう。
ただ、クロウの声を聞いた時、胸が詰まった。
クロウは、私の愛犬を好いていた。クロウだけではない。余程の犬嫌いでない限り、ここに訪れる人のほとんどが、私の犬を可愛いと誉めたてた。人懐っこくて甘え上手な性格が、恐らく人の心を掴みやすかったのだろう。いつもは大人しいくせに、人が来るとやけに甘えたがる犬だった。
そして、その中でも愛犬の一番のお気に入りが、ブラックバードデリバリーのクロウだった。犬は耳も嗅覚も優れているから、クロウのD・ホイールがアパートの数百メートル先でエンジンを唸らせていても、そわそわと尻尾を振って、ドアの前でスタンバイをしていた。クロウだってそう頻繁に来る用もないから、ただ通り過ぎるだけの時もある。そう言う時の愛犬の悲しげな表情が、私は可笑しくってたまらなかった。本当に、人間と同じ顔をしているのだ。

クロウの声が戸を叩くまで、私はクロウが来たことに気付けなかった。いつもなら真先に愛犬が扉の前に駆け寄って行って、鳴るかもわからないチャイムの音をそわそわと待ち侘びているから、私も印鑑と財布を用意して待っていることができた。けれど、今日は違う。チャイムが鳴るその時まで、私はソファでぼんやりと空想を駆け巡っていた。
それが、愛犬はもういないと教えられているようで、クロウの顔を見ただけで、私の心は押し潰されそうになった。

私のお気に入りのソファに座って、日がなぼんやりと過ごしていると、知らず知らずに愛犬の記憶ばかりが頭を占めていく。まだ記憶ではなく、日常であってほしかったと、そう願いながら、願うこと自体が夢であればいい。私はソファに身を沈めて、そんなことを考えていた。
ただの犬とは、違うのだ。私にとって愛犬は、親でも兄弟でも家族でもあった。
それが、死んでしまった。
一週間という日をかけても、私の心は治まってくれない。当り前だ。愛犬は、私の一部だったのだから。

手の中の小包に目を落とす。宛先の横には割れもののシールがべたべたと貼られている。そう何枚も貼らなくても分かるというのに、変なところ几帳面で心配性な彼女の性格に笑ってしまう。そのせいで開けづらくなっている包装を、仕方なくびりびりと破いて中のものを取り出す。
私の目を彩ったのは、カラフルな三色の水玉が映える、小さなレインコートだった。そうしてもうひとつ、包みを重くしている原因の荷物。中くらいの瓶が二つ。どれも私が友人に頼んだものだった。
すっかり忘れていたけれど、でも、こんな時に届かなくても。思うが、愛犬が死んだことは、クロウ以外のだれにも伝えていないのだから、仕方がない。

レインコートは、雨の苦手な愛犬のために知人が着せてあげなさいと以前に言っていたので、気に入った柄を頼んでおいたものだ。犬に服を着せるとあまりよくないと聞いていたから、私は乗り気ではなかったのだが、歳のせいで段々に弱ってくる愛犬を気にして、私はとうとう友人の勧めに従うことにしたのだ。それも使うこともなく終わってしまった。
もうひとつの瓶も、結局は同じことだ。流行りもとうに過ぎたメッセージボトルをやってみようと友人と盛り上がったのはいいが、今の私の心境では、手紙にとてもまともなことは書けそうにもないし、偶然海の彼方で手紙が誰かの手に渡ったとしても、それくらいの運があるならもう少し愛犬に生きていて欲しかったと、思ってしまうだろう。

ため息をついて、小包ごとテーブルの上に置く。部屋にこもりっきりのせいか、気分も暗くなっていく。ソファにまた逆戻りをして、目の前のテーブルをぼんやりと眺めた。
一人暮らし用にと、自立したときに選んで買った木造りの小さな四角いテーブルは、大して物も乗らないくせにやけに値が張って、仕方なく中古で同じものを買ったのだけれど、それでも一人の私には少し大きすぎた。今まではゴムボールやら餌入れやらが散乱としていて、カップの置く場所にも困るほどだったのだけれど、ソファから伸びた足の先には、雑誌の他に置くもののないテーブルの上に、私の冷めきったカップがひとつ陣取っている。
寂しい。ただひたすら寂しい。私だけが取り残されたようだ。

世間というものは冷たい。犬は犬であって人間ではない。ひとつの命が失われても、それは路傍の草花と同じ命として扱われる。犬一匹が死んだくらいで、それがどうした。犬を弔う時間など、このシティではありもしないのだ。
人の死と同じなのは、世界はまったく同じように回り続けることだけだ。私の心にひとつの空隙を残して、時間はどんどん加速していく。
それでも私はいつも通り、働いていかなければならない。


時間の流れるのは早い。意識せず過ごしてきたからかと思っていたが、案外数えてみたところで大して差はないらしい。愛犬が死んでから、二週間目のことだった。
、久しぶりに会わない?」
荷物の話をしたいと、友人から電話があってすぐ誘われた。
「え、今から?」
私は思わず聞き返してしまった。いつも突拍子のない友人だとは思っていたが、外はお世辞にもいい天気とは言い難い。傘をさしている人間こそ見えないものの、時折ぽつりぽつりと窓に水滴の掛かるのを、複雑な面持ちで見つめた。
「…いい、けど」
どこで?と聞く前に、せっかちな彼女は「それじゃ、いつものカフェテラスで!」と言ったきり、急いでいるのかクラクションを鳴らす音を最後に、通信は途絶えた。

傘を差して、友人に言われたとおり、送られてきたメッセージボトルを手にカフェテラスへ歩く。あれからすっかり空模様は悪くなり、私がアパートを出る頃には、梅雨の終わりの雨がさめざめと降り注いでいた。風もなく、雨足もそれほど強くなかったので、約束の時間まではとゆっくりと歩くことにした。
しかし、
「…あれ?」
カフェテラスに着いたのはいいが、友人はまだ着いていないらしい。こんな雨の中人を呼び出しておいて、自分は社長出勤とは恐れ入る。すっかり雨を吸い取ったスニーカーを眺めながら、テラスの隅で友人を待ち惚けていると、見覚えのあり過ぎる顔が私に駆け寄ってくる。
「よう、!」
ブラックバードデリバリーの、クロウだ。配達はもう終わったのか、すっかり空になったD・ホイールを止めて、私の肩を叩く。なんとなく、顔を合わせづらい。けれど、そう思っているのは私だけかもしれなかった。
「お前、今暇なら付き合ってくんねぇか?」
唐突に言うところを見ると、急ぎのようだ。けれど、申し訳ないことに、私はクロウの誘いに乗ってやることはできない。
「いや、私今友人と待ち合わせてるのよ」
だからごめん、とすまなそうに頭を下げる私に、クロウは誰だ?などと聞くものだから、戸惑いつつも、カーリーという名を告げると、ああ、大丈夫だと言って私の手を取る。
「え、ちょっとクロウ…!」
「すぐ終わるから、ちょっとくらい待たせとけ!」
事もなげに言いのけると、クロウは抵抗する私の手を引いたっきり、D・ホイールも放置して、雨の中を突っ走って行く。
「何?なんなのクロウ!」
呼びかけてもクロウは決して振り返らない。私が分るのは、後ろから時折見える顔が、楽しそうだということだけだ。

どれくらい走ったのだろう。私の足が棒になっているのを考えると、最低五分は走り続けただろう。そう感じるだけかもしれない。とにかく足が重い。
何がすぐに終わる、だ。帰りのことを考えると気が重くなる。全身ずぶ濡れなのだ。友人にだって会いに行けないだろう。
そう言った不満を漏らすと、歩みを止めたクロウは、悪びれもなく謝る。まったく気持ちがこもっていない。
「でも、吹き飛んだだろ?」
何のことかと問う前に、クロウのはにかむような笑いに、胸がざわめく。すっかり顔に張り付いてしまった髪の毛を掻き上げようともせず、私はその朗らかなクロウの笑みに既視感を覚えた。
「ボトル、借りていいか?」
こくりと頷く。クロウの世界に飲み込まれたように、従うばかりの身は、不思議と抵抗したいなどとは思わない。それよりも、これから何が起こるのか、そういった期待で少しだけ胸の高鳴りを感じていた。

また、クロウは私の手を引いて歩く。もう走ってもいないし、逃げもしないというのに、律儀なのか疑い深いのか、クロウは冷たい手で私を更にどこかへ導いていく。小雨の中に、波の打つ音が聞こえた。
海岸だ。

さっき渡したボトルに、クロウは何かを詰め込む。そして私の手を離すなり、波打ち際まで駆けて行って、勢いよくボトルを放り投げた。
「そらっ!」
「あーーー!」
言葉も出ない。本当に、あー、だ。雨の中、傘も差さずに無理矢理に連れて来られて、その上友人にもらったボトルを無断で投げ捨てるとは、非常識にもほどがある。
あまりにも自然にそれを成し遂げたクロウの行動に、私は声を漏らすしかできなかった。ましてや止めるなんて無理に等しい。
思いっきり投げたのだろうに、雨で増水した海は、うねりにうねって瓶を何度も反転させるが、中々遠くへ流れてくれそうにはない。いずれこちらに戻ってきてしまうだろう。
「あーあ、戻ってきちゃうよ」
可笑しくなって、笑いながら声を零す私に、クロウが相変わらず朗らかな笑いを浮かべてボトルを指差す。
「それでいいんだよ」
何がいいのだろう。せっかく思いを綴っても、戻ってきてしまっては意味がないじゃないか。言おうとしたら、振り向いたクロウが急に真面目な顔をしたから、私は口を閉じてしまった。
クロウは口を開く。ゆっくり。ゆっくり。言い聞かせるみたいに、言葉をかみしめていく。
「俺はお前に届けば、それでいい」
クロウの真摯な目が、私を射抜いて離さない。身動き一つ、取れなくなった。

どうしてクロウだけに愛犬の死を話したのか、考えたりはしなかった。でも何となく、クロウのはにかむ笑いを見ていると、真剣な瞳を見ていると、思い出す。クロウはどこか、愛犬と似た瞳をしているのだ。
いつもは馬鹿みたいに餌を欲しがるくせに、私が落ち込んだり、体調を崩したりすると、聡明で何もかも見抜くような目をして、身を案じるように見つめてくる。
、残されたなんて思うなよ」
頷くしかない。抵抗のできないクロウという波にのまれたまま、私は静かに雨の中に佇む、優しげな瞳に吸い込まれていった。
「それで、つまりだな…その、俺は」
私は返事もしなければ、遮りもしなかった。じっと、安心するクロウの瞳に言葉を待っている。
必死に言葉を紡ごうとするクロウの顔が、だんだん真っ赤に染まっていく。雨が降り注いでもう肌は冷え切っているだろうに、遠目に見ても、顔だけが赤々と色づいていた。決心したように拳が握り締められるのを、私は見た。
ついにクロウが動き出した。私に向かって突進してくるように走ってくる。

そして、通り抜けていった。
「詳しくはボトルを見てからにしてくれ!!」
そう叫んだっきり、ずぶ濡れの女性一人を置き去りに逃げ去っていく男の姿を呆然と眺める。傍から見ても、きっと今の私は間抜けな顔をしているに違いない。拍子抜けだ。
結局何がしたかったのだろう。思う私の心は、無意識に鼓動を速めている。
大きな音を轟かせて打ち寄せる波は、ボトルをどこへ流してしまったのかと探してみれば、クロウが言ったとおり、大きすぎる波のうねりに、既に波打ち際にその透明な体を揺らしていた。
手にとって、高鳴る胸を抑えてボトルを開ける。出したばかりでからりと乾いた紙が、私の濡れた手に触れてしわくちゃになる。紙を開く瞬間によみがえる、言い淀むクロウの真っ赤な顔。そしてその温かな瞳。手が震えているのは、きっと寒いからだ。

びくりと、肩が震えた。緊張で身が凍る。
「…あー、
振り返れば、先程走り去っていったはずのクロウが私の肩を掴んで、ばつの悪そうに手紙を開こうとする私の手を制している。期待ともとれる私の心臓の鼓動を掻き消すように、クロウは大きな声で叫んだ。
「やっぱ帰ってから伝える!」
だからさっさと帰るぞ、と。そうして来た時と同じように私の手を引いて走り出す。
「え、帰るって、私約束が!」
有無を言わさない足取りを止めるように声をあげる。きっと連絡もせず、現れもしない私に、カーリーは心配でもしているだろう。けれど、振りかえったクロウの言葉は私の想像をはるかに超えていた。
「そいつ、俺の知り合いなんだ」
「…え?」
困惑を隠せない私に、クロウは一度立ち止まって、すまなそうに頬を掻いた。ちと、協力してもらった。呟くが、目を合わせようとしない。そして口を開けたまま声も出ない私の手をもう一度握ると、来た道を戻り始める。後ろから時折見える顔は、やはり嬉しそうだ。
最初から最後まで強引だが、今は悪い気はしなかった。寂しさが、不思議と消えていたからかもしれない。

家に帰ったら、クロウはどうするつもりなのだろう。玄関先で、言いかけた言葉を紡いでくれるのだろうか。
けれど、ここまで強引に自分勝手やってくれたのだ。今度は私がやりたいことをやらせてもらおう。クロウが前を向いたっきり振り向かないのをいいことに、私は企み顔でほくそ笑む。
まずは嫌がっても無理やりにでも部屋の中へ招き入れよう。それで雨で濡れた体を、からっからに乾いたタオルで拭いて、それから温かなココアでも淹れようか。そうして、あのぼろアパートの一室を陣取るソファに座って、クロウの話を聞いてあげるのだ。楽しいときも、悲しいときも一緒に過ごしてきたあのソファで、愛犬と似た瞳をたたえる彼の声を聞いてあげようじゃないか。一人で使うには大きすぎたテーブルが、今日は埋まるのだと思うと、嬉しくて仕方がない。
——残されたなんて思うなよ
そう告げた背中が、私の時間を取り戻してくれている。走って、走って、完全に息の上がった私を、それでも時間に追い付けと走らせる。置いてけぼりだったこの二週間が、嘘のように回り始めた。
私は、クロウとは反対側の手に握ったボトルを見て、仕方なしにしまった中身を思い出す。

それは愛犬に似た目をした、優しさに満ちた人の、精一杯の愛の言葉だった。



(ほのぼの100題 2/086/ペット)
10/03/05 短編