ゆるやかな合図



前を歩くクロウの肩が怒っている。私の歩幅なんか気にせず、ずんずんと大股で地面を踏みならしている。それはもう本当に、大きな歩幅で。
私を振りかえることなんて一度もない。ジャックと喧嘩をしたときなんかとは比じゃないくらいの怒りようだ。
クロウ。小走りに駆けて呼んでみたけれど、聞こえているのかもわからない。きっと頭が沸騰して、それどころじゃないのだろう。

発端は、ほんの数分前のことだった。何度思い出しても、私からすれば大したことじゃないのだけれど。

クロウとD・ホイールなしで外を出歩くのは久しぶりのことだった。何も考えずに、繁華街の方へ足が向く。慣れない速度だからか、いつもより数倍、景色がゆったりと流れていく。そんなゆるやかな速度に、クロウも私もサテライト時代の昔を思い出して、話に花を咲かせていた。
クロウや私のこと、遊星やジャック、マーサや子供たちのこと。どれも口元を緩ませるものばかりだ。懐かしさの余り往来ということも忘れて立ち止まり、つい二人で大笑いしてしまった時。
「ふふっ」
小さな笑い声。クロウも私も涙目になりながら、相好崩したままの顔で声の元を辿る。すっと視線を上げた先で、エプロン姿のおばさんが口元に手を当てて私たちを見つめていた。
気づいて周りを見渡せば、私たちは道の真ん中で笑いながら往生している。頬が少し熱くなる。慌ててクロウの背を押して端っこに身を除けた。
「っと、悪ぃ」
謝るクロウにおばさんの声が続く。
「仲がいいのね、羨ましいわ」
淡い黄色の生地に、細やかな黄色の花が流線を描いて散りばめられている。口の端をくぼませて柔らかく笑みを浮かべる、おばさんの印象そのものだった。
見たところ、立ち止まっていたのが甘味屋の前だったようだ。白の八重咲きの花を生けた花瓶を手に、入店を勧める素振りもなく、ただ可笑しそうに私たちに笑いかけている。
きっと騒がしいところはずっと見られていたのだろう。ちょっと気恥ずかしくなって、「いいえ、もう喧嘩ばっかりで」などと、クロウにして見れば小憎たらしいことを言って照れ隠しをする。クロウは面白くなさそうな表情を作っているけれど、仲がいいと言われて照れているのは分かっていた。
でも、そこからがいけない。おばさんには、なんの悪意もなかったのだ。きっと口に栓をする前に、ぽろりと零れてきてしまったに違いない。
「ご兄妹でしょう?笑い顔がそっくり」

それからだ。クロウの機嫌がマイナス値に入りそうなくらい悪いのは。

確かに、付き合っていて兄妹と見られるのは何とも言えない気分だろうけど、そこまで怒ることだろうか。似た者夫婦とあるくらいだから、付き合っていて似てくるのは、きっとそれだけ互いに過ごす時間が長かったからだ。だから私にとっては喜ぶことはあれど、機嫌を損ねるなんてことない。
それに出掛けようと誘ってきたのはクロウの方なのに、あれから一向に振り向く気配もなければ、速度を緩める様子もない。昔と違って働いている今は、こんなにのんびりできる時間なんて中々取れないのに。

突然、地面に足が吸いついたように、ぴたりとクロウの歩みが止まった。小走りについて歩いていた私は止まりきれずに、勢いあまってクロウの背中に鼻柱をぶつけてしまう。それも丁度、肩甲骨にばっちりと、だ。
「鼻が、鼻がつぶれる!」
叫ぶ私に、いつもならば「お前の鼻はゼリーでできてんのか」などと軽口を叩いてきそううなところを、口を開くどころか、微動だにもしない。どうしたのだろう。

鼻を押さえながらクロウを見れば、じっと一点を見つめている。目線を追う。ぱちり。交差する視線。瞬きをすれば交わる視線も瞬きをする。定休日の薄暗いショウウィンドウに映る、私自身だ。
ウィンドウ越しにクロウに視線を向ける。目が合わない。ひたすら真顔のまま、自分と私を交互に見ては、何か考えるように眉を顰めている。
暗闇の中のクロウが、唇をそっと開いて止まる。数秒、私はクロウが喉を震わせるのを待った。
「付いて来い」
落ち着いた声色。クロウは楽しい時は楽しそうに、悔しい時は悔しがり、怒る時は鼓膜が千切れんばかりに怒る。普段抑揚の激しい彼が何の感情も表わさずにしゃべる時は、何か考えのある時だ。
クロウが我ままを言うことなんてそうそうない。多少はつまらなくも思うけど、今日だけは大人しく付き合ってみることにした。


「え?」
付き合ってみるとは言ったけれど。初っ端からクロウが何をしたいのか分らない。言われるままに背中を追いかけて、たどり着いたのは何てことない、ただの靴屋だ。
「だから、これとこれ、どっちが好みだ?」
入るなり私を椅子に座らせたと思えば、自分一人で店内をぐるぐると周回し、こうして尋ねて来ては箱を山積みにしていく。それも、サンダルばかりだ。何でサンダル?とは思ったものの、真剣に選んでいるクロウの顔を見ていると、聞くのも憚られてしまう。それによくはわからないが、クロウは私にこの中から好きなものをプレゼントしてくれるみたいだ。私のものを選ぶのに、あんなに必死になる姿も見たことはなかった。嬉しさも手伝って、これはすごく、新鮮だ。
でもそんなことよりも、やっぱり今は不安の方が大きい。だってどう考えても浮いているのだ。私を囲んでいるのは今にも崩れそうな箱の山。それがクロウが意気揚々と戻ってくるたびに、少しずつ増えていくのだ。私だけ、明らかに異質だった。
これ以上この山が増えようものなら、店員さんに諌められてしまうかもしれない。
「こっち、かな…?」
そんな不安を抱えたまま差し出されたサンダルの片方を選ぶと、そうか。そう呟いて、クロウはまた店内を物色しに行こうとする。
「ま、待ってクロウ!」
慌てて力強く腕を掴む。
「もう十分だよ」
なるべく感謝の気持ちが伝わるように、やわらかなトーンで断ると、
「そうか?」
ひとつ首をかしげて、クロウはようやく徘徊をやめてくれるらしい。

さっきから、棚の奥からちらちらと送られる店員さんの視線が痛い。クロウの気持ちは嬉しいけど、ちょっと居心地が悪い。早目に選んで退散してしまうのがいいだろう。
私の目がクロウセレクトのサンダルの上を適当に流れていく。それがわかったのか、私の前に立ったままのクロウが言った。
、真面目に選んでくれよ?」
「う゛…うん」
クロウは変なところで目ざとい。くぎを刺されてしまった。


いつも履いているブーツは、店の箱に丁寧に入れてもらった。今では私の手にぶら下がって、愉快気に揺れている。代わりにぺたり、ぺたりと、クロウの選んでくれたサンダルが、私の足の裏と地面に交互に吸いついていった。
あまり気にしたことはなかったけど、クロウは案外センスがいいのかもしれない。今まで私にくれた贈り物は、全部私の趣味に合ったものばかりだ。ついと、目線を足元に下げる。
落ち着いた白の皮と、サイドを飾る編み込み、細々と切り取られた花の模様がシンプルに足を彩る。クロウの手で選ばれ、買ってもらったばかりのサンダルを見ていると、温かな春風が吹いたみたいな気持ちになる。足がふわふわと浮くようだ。似合っている、だろうか。
気にするよりも先に、クロウの満足そうな声が、私の心を撫でた。
「やっぱ似合ってんな」
じわりと滲むような笑みを零して、クロウは笑った。
熱いものが体中を込み上げてくる。その言葉ごと抱きしめても、落ち着きようのないざわめきと一緒に。胸の奥から、私も言葉がにじみ出てくる。
「ありがとう」
ブーツから履き換えたからだろうか。違和感を感じる。いつもより、呼吸が苦しい。私を見下ろすクロウは、楽しそうに笑っているのに。
頭に手を乗せられる。軽く撫でて、クロウがおもむろにヘッドバンドを外した。そのまま私の頭から首に一直線に下される。使い古された柔らかい生地が、私の肌を滑っていく。
「よし、これで完成な!」
首に掛かる見慣れた灰色。少し大きめのそれは、マフラーみたいに私の顎を包み込んでいる。いつもは隣から漂う嗅ぎ慣れたクロウの香りが近く感じて、私はもうなんて言えばいいのか分らなくなった。喉を覆う温かみに、じんわりとした疼きが込み上げてくる。
私がはっきりと言葉にできるのは、もう聞かずとも、クロウの機嫌が治ってしまったということだけだ。

「ありがとな」
「え?」
もうすっかりいつもの調子で、クロウが頬を掻いている。
ただ飯食いに行こうと思ってたんだけどよ。呟くように告げると、言いづらそうに口を尖らせた。
「兄妹に見られるのだけは、ごめんだ」
そう言ったクロウの顔は、熱をもっている。私が見つめれば見つめるほど赤く染まっていく。
だから。その視線を遮るように、クロウは私の頭にまた手を乗せた。
「予定は変更だ」
恋人らしいことすっぞ。ふんと勢い良く鼻を鳴らしたのはいいが、きっと顔は見せられないに違いない。クロウは、いつまでたっても私の頭から手を離さない。
ふと、また違和感。ぐりぐりと押し付けられるままに、足元を見る。あ。口から洩れそうになった。さっき全身に広がっていった温かみが、色を取り戻したように疼きを与える。お腹の底から、小刻みな笑いが込み上がってきた。
気づいてしまった。この位置に、この高さに、私はクロウの我ままの真意に、気づいてしまった。

履き換えたブーツを浮かべながら、そっと笑いを零す。
——ご兄妹でしょう?
言われた言葉にあんなに過剰に反応したのは、きっと私たちが似ているからではない。それよりもっと単純で、可愛らしい。
いつもと違うクロウの目線。目を合わせるために、私は少し顎を上げなきゃならない。おばさんの勘違いは、それが原因だと思ったのだろうか。

「それじゃあ、どこに行くか」
頭から離れた右手は、私の頬の笑みに気づいて誤魔化すようにつつく。言ってしまおうか。思いっきりからかえば、きっとクロウの慌てる姿が見れるだろう。
そんな私の右手から、ブーツの入った袋が優しく抜き取られる。そしてまるで当然のように包み込まれた。
「とりあえずご飯にしようよ」
「そういやこの近くに美味い店があるって聞いたな」
この賑やかな往来で手を繋いでいれば、十分恋人に見えることだろう。誰だって疑いはしない。きっとあのおばさんだって。
つながれた手を追って、ぺたりぺたりとサンダルが跳ねる。耳を打つのは明るい春の足音だ。
「そうだな…
見上げたクロウの顔は、いつもよりずっと高い位置にある。首にかかる僅かの負担が愛おしい。こんな喜びがあるとは思わなかった。
「今日は色々まわってみっか」
大きな頷きともに、ゆるやかに、私の口はほころんだ。



(ほのぼの100題 2/024/背比べ)
10/05/16 短々編
10/05/20 修正