気づけばこんなにも簡単なこと。

咲笑う泡沫



「えっ、クロウが?」
近くの施設に頼まれていた手伝いを終えて、空腹の体を抱えてマーサハウスのリビングに辿り着くと、狭い窓際の空間に大量のダンボール箱が散乱していた。驚いて中を覗いてみると、服やらカードやらが種類分けされてぎっしり詰まっている。
「そう、あの子連絡も寄越さずいきなり来るもんだから、びっくりしちゃったわよ」
「クロウが…」
ダンボールの山を見つめたまま、呆然と薄っぺらい布の手提げを椅子の上に置く。クロウが帰ってきた。クロウが。
腕に触れた体温を追えば、マーサがとん、と軽く押して、突っ立ったままの私を椅子へ座らせた。
「お腹すいたでしょう?今軽く温めてくるからね」
うん。と頷く。自分でも驚くほど感情の読み取れない声だった。ダンボールはずっと視界の中心でゆらゆらしている。揺れる白く清潔なカーテンの影を映しながら、私を捉えたままだ。
「クロウ…」
ぽつりと呟いて、無性に泣きたくなった。

クロウがプロとなるためにこの街を出ていっから、もう何年になるのだろう。初めの内は今日か明日かと指折り数えて待っていたものだが、早くも1年を過ぎたあたりで馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。というのも、これっぽっちも帰ってくる素振りを見せないからだ。
連絡だって一度か二度しか寄越さず、マーサも私も子供たちでさえその無精っぷりに愚痴を零したほどだ。偶に送られてくる土産には、簡単な手紙が入っているだけで、状況なんて全く分かりはしない。子供たちはどうか。元気にしているのか。文頭に必ず入るその文にクロウらしさを覚えるが、同時に一抹の寂しさも感じざるを得なかった。

鼻をツンと刺激するケチャップの匂いに、ゆっくりと顔を上げる。マーサはフォークと麦茶を側に置いて、自分も向かえの席に腰を下ろした。そして、私がぼんやりと見つめていたダンボールを見やって、懐かしそうに皺を寄せる。
「クロウならちょっと前に、子供たち連れて遊びにいっちゃったよ」
「…そっか」
部屋の隅に出来た小山から目を外して、湯気の立ったスパゲッティを銀のフォークでちょんちょんとつつく。
「大丈夫、すぐ戻ってくるよ」
私の心を見透かすようにマーサは微笑んだ。その表情に少しだけ安心して、ハムを軽く刺す。
「何か、言ってた?」
苦笑した、息が空気と擦れる音。落ち着かなくなって、行儀悪くハムだけをぐさぐさと何段にもフォークで刺した。ハムのミルフィーユみたいなことになっているのを見届けて、マーサの方をちらりと窺う。
「どうせ帰ってきたから話すでしょうに」
返事は出てこなかった。胸がつっかえたように、飲み込みが悪かったけれど、それから無言でもくもくと皿を空にした。
カーテンをさらう風が、チラチラとダンボールに影を泳がせる。ダンボールの中は、カードと洋服と靴と、相変わらず子供たちのものばかりだ。


何故マーサハウスに残ったのかと聞かれると、言葉につまるものがある。出て行くきっかけは何度だってあったのだ。14の時、一等仲の良かったクロウたちが自立するのに、付いて行こうかとも思わなかったわけではない。でもふと、そういう思いに駆られるたびに思い出すのが、決まってマーサの顔なのだ。
普段やんちゃな子どもたちの間で動き回っていて、疲れなんておくびにも出さないマーサの、寝静まって誰もいないリビングに一人佇んでいるその背中に、どうしようもない寂しさを見つけてしまったからかもしれなかった。月明かりに照らされた肩が弱々しく見えて、最後まで声を掛けることはできなかった。出ていこうかと思うたびに、その情景が急に目の前に浮かんできて、ぐるぐる体を巡ってピクリとも動けなくなるのだ。

——あんた本当にこれでいいのかい?
何度かそう聞かれたが、そのたびに首を振ったのは私自身だ。クロウと近くにいる機会だって沢山あったけれど、マーサハウスにずっと残っていくと決めたのは、他ならない私自身だった。
寂しくないと言えば嘘になる。同年代が全員旅立って、大きくなった年下を見送って、時々帰ってきたその姿に、私一人だけ変わらないまま取り残されたような感覚だけは、どうしても消すことが出来ない。でも出来ることなら後悔だけはしたくなかった。残ると言った時の、マーサのほんの少しだけ隠しきれない喜びを示したその顔は、確かに私の中で生きていた。

食器を片付けて部屋に荷物を置く。子供たちが遊びに出て、廊下には余生を送る老人の穏やかな話し声が聞こえるのみだ。ひっそりとした狭い廊下を少しだけ振り返る。昔のように慌ただしく横切る影はひとつもない。
以前からいた子供たちはすっかり大きくなって、前のように一部屋にぎゅうぎゅうと詰めることは出来なくなっていた。学校を卒業するまでと市からも許可が出たが、既に施設を出て働いたり、援助を受けて寮制の学校へ行っている子もいる。小さい子供たちがひしめいていたあの頃より、ずっとガランとした施設内だった。
「少し歩いて来る」
階段を降りてリビングへ顔を出すと、のんびり午後の一時を過ごしていたマーサが、新聞から顔を上げた。
「クロウなら公園の方に行ったよ」
「いいって」
何も言っていないのに、マーサは私がクロウを探しに行くのだと決めつけている。自ら飛び出すほどに会いたがっていると思われるのは、ちょっと癪だった。
「食後の散歩」
投げるように言って玄関に向かえば、あらそうなの、とどうでもよさそうな返答。
「お風呂の時間もあるから、早く帰って来るように言うんだよ」
更に追ってくる声にドアを開けたまま振り返る。見送るのは通り過ぎる車椅子の影のみ。ため息を深々とひとつついて、無言で閉めた。

一度だけ、本気で出ていこうとしたことがある。鳴り止まない子供の泣き声、中々静寂の訪れない施設、偏屈な老人と、痴呆の気配に戸惑う日々。毎日毎日相談と仲裁ばかりで、嫌になってしまったことがある。同年代と疲れるまで好き勝手遊んで、衣食住のことだけ考えてそのままぐっすりと寝たいと思った。自立したクロウたちが自由に見えて、とても羨ましく感じたのだ。私もあの時出ていけばやりたいことができ、自分の時間だって途方にくれるほど手に入ったはずだと、そんな後悔をしては頭を振って、誤魔化すように過ごしてきたのだが、WRGPに出るとクロウが言ったあの日、不意に「どうしよう」と言いようのない不安と後悔が突き上げてきた。
——ようやくサテライト出身の俺達でも、やりたいことが出来る世の中になったんだぜ!
そう言って小さな子供のようにはしゃぐクロウに、手を叩いてでも喜ぶべきだというのに、どうにも上手く笑えなかった。
——それとな、ガキ共のこと、預かってくれてありがとな!
——ううん、クロウこそ、今までお疲れ様
バーカ、とクロウは言った。
——これからだよ!
幼いながら子供たちを育ててきた手が、私の頭にふわりと乗せられる。出て行く背を見送った情景が、懐かしく頭をかすめる。ずっとあの時あの背中を追いかけていたら、と想像してはひっそり胸にしまってきたが、その背はとうに追いつかないところにいるのだと思った。私だけ時が止まったままなのだと、その時になってようやく気づいたのだった。

だからだろう。出ていきたいとポロリと零してしまったのは。マーサのお使いも放り出してふらふら歩くことが多くなって、仕事もせずに部屋でぼーっとしていたり、何をするという気にもなれなかった。それを見かねたマーサが心配して声をかけてきたというのに、今まで溜めてきた感情が溢れ出して、出て行くと言ってしまったのだ。
——もうこんな生活嫌だ!私だって好きなことがしたい!
普段のマーサは温厚で優しくて、来るものも去るものも拒まず、人が決めた道へ踏み出すのを手伝ってくれる。私たちにとっては、そんなマリア様みたいな存在だ。でも、私が自分勝手な感情をさらけ出して叫んだ時の、マーサの顔。傷ついたような、怒ったような表情に一瞬たじろいだ。
——あんたのやりたい事ってのは、なんなんだい
言葉が出なかった。自分の気持ちも表せない状況が嫌でたまらなくて、振り払うようにマーサハウスを飛び出した。もう帰ってやるもんかなんて思いながら、心のどこかでどうせすぐに戻ってしまうのだということも分かっていた。
マーサとあんな大喧嘩をしたのはそれが最初で、きっと最後だ。

区画をのんびり回って、商店街まで足を伸ばしてから帰ってくると、マーサハウスの前で騒ぐ子供たちの群れが見えた。まだ夕暮れにはたっぷり時間があるが、もう帰って来てしまったらしい。
「だぁあー!そのまま入るな!泥落としてから!泥!」
塀越しに聞こえる焦ったような声に、自然歩くスピードが増す。心が無意識にはやった。敷地に飛び込んで、ひょっこり飛び出た頭を捉える。
「クロウ…!」
「んあ?」
振り返ったクロウの顔は泥だらけで、顔つきは暫く見ない間にすっかり精悍になっていたけれども、少しだけ幼くてやんちゃばかりして歩いたサテライト時代を思い出した。
しかしそれにしても酷い有様だ。施設中の子供たちが一人として例外なく、全身真っ黒の濡れ鼠になって帰ってきたのだから、驚かないほうがおかしい。泥を払わないと中に入れないと言われたせいで、必死に全身叩いている子供たちの中に入って、何故か背中にまでこびり付いた泥を軽くほろって落としてやる。何が楽しいのか、子供たちは泥払いでさえ愉快そうに走り回っている。苦笑を漏らしながら辺りを見回すが、一番はしゃいでいるように見える男はどう見ても子供ではない。思わず声を上げた。
「どこでどう遊んだらこのシティでそこまで泥だらけになれるのよ!」
「公園だよ公園!仕方ねーだろ、昨日の雨が残ってたんだから!」
子供たちの泥を払いながら、年長年少様々な頭を間に挟んで、叫びあう。
「誰がこれ毎日洗うと思ってんの!」
「ガキは泥だらけになって遊ぶのが一番いいんだよ!」
「あんたたち!喧嘩してないでさっさと子供たちをお風呂に入れるんだよ!」
戸口から般若の険相のマーサに怒鳴られ、同時に肩をすくめる。
「私は着替えを用意するから、頼んだよ」
はーい、という私の声に重なって、同じくへーい、という気の抜けたクロウの返事。やはり幾つになってもマーサの前では子供に過ぎないのかもしれなかった。

まるで芋洗いだ。泥色のお湯が排水口にどんどん吸い込まれていく。こすればこするだけ面白いように肌が白くなって、皮を向いたじゃがいもみたいにぴかぴかになったら、ぽーんと湯船に放り込む。風呂場は子供たちを一斉に入れるとあって元々大きめに作ってあったが、今日はそれでも窮屈で身動きがとれない。年少を洗う間も、ひっきりなしに笑い声やら甲高い叫び声やらで浴室は世界の終りみたいな音で溢れかえっている。
、石鹸とってくれ!」
「え?なに?!」
「石鹸!とってくれ!」
「はいはい…って何石鹸で髪洗おうとしてんのよ!」
「何言ってんだ!俺がこんくらいの時は…」
「クロウいつか禿げるよ!はい、シャンプー!」
「なっ!今の言葉忘れねぇからな!」
もうクロウの言葉も聞いちゃいられない。浴室は戦場だ。どうしたらこんなに全身くまなく汚れるのか全く分からない。足の先から頭のてっぺんまで、今からパーティにでも行くんじゃないかというくらい綺麗に洗った。年少の入浴が終わり、女の子が終わり、男の子が終わり、隣の老人用の風呂場ではすっかり大きくなった少年達がわいわい騒ぎながら水を掛け合う音が聞こえる。全員入り終えた頃には、私もクロウも壁に浴槽に凭れかかって、ぐったりと座り込んでしまった。

脱衣所はすっかりがらんとして、さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。あまりの喧騒だったので、今でも僅かに耳鳴りがした。無邪気の名残が耳を駆けまわる。
全身ずぶ濡れで、捲ったシャツもズボンも肌に張り付いていい心地ではない。クロウも顔をしかめて、乾くわけもないのにシャツのお腹を掴んでぱたぱたと仰いでいた。ふと、手元に目が行く。
「それ、いつまで持ってるの?」
「それ?あっ」
手に握りしめたままのタオルと石鹸を見て、クロウがもー動けねぇと愚痴をこぼした。と思ったら私を指さして、ワンテンポ遅れて吹き出す。
「……え?」
クロウの指に従ってぎゅーっと遥か下方に視線を送れば、床に力なく投げ出された私の手には、しっかりとシャワーが握り締められている。
「あー…」
力無い声が漏れた。
「お前昔から抜けてたからなぁ…神経ちゃんと通ってんのか?」
「今同じ事してたよね?!」
「何のことだ?」
言って身を乗り出せば、既にクロウの手にはタオルも石鹸も握られていない。そういえば馬鹿みたいな顔をして、策を立てるのは昔っから得意だったのだということにはっと気づいた。
「こ、このトリックスター!」
「お褒めの言葉ありがとう」
悪口にもならない呼び名をつい口走れば、わざわざ立ち上がって片腕をL字にし、貴族ポーズでお辞儀なんぞをする。その余裕に悔しくなって、座ったまま近くにあった蛇口を思いっきり捻って、シャワーをクロウの方向へ向けてやった。
「うわっ!卑怯だぞ!」
「あっごめんクロウ、抜けてるからドジしちゃった」
「根に持つ女はモテねーぞ!」
「あれ、どうやって止めるんだっけ?」
「すまねぇって!落ち着け!」
静かになったはずの浴室が急に騒がしくなる。広く設計されたとはいえ、それでもやはり狭い浴室をドタバタと駆けまわる様は、とても20をとうに過ぎた大人の姿とは思えない。
滑って転ぶといけないと、シャワーの水圧から逃げながらクロウが拾い上げた石鹸を見て、そうだと、良からぬことが思い浮かんだ。今まで我慢してきたのだ。ずっと連絡も寄越さずに、私ばっかりが心配をして、顔を見せるのを何年も待っていたのだ。それはドミノシティを出ていってからのことではない。マーサハウスを出ていってから、ずっとのことだ。だからこれくらいの悪戯をしたって、可愛い報復で済まされるだろう。
そう思った私は、クロウに向かって口を開いた。
「クロウ、ちょっとこっちに来て」
「断る」
シャワーを止めて手招きすれば、首を振って即答。子供たちを洗いはしたが、クロウにはまだところどころ泥が付いている。
「俺もそろそろシャワー浴びねぇとマーサに怒られるな」
濡れそぼった自分の体を見下ろしながら、クロウがそう呟くのに、私は石鹸を泡立ててにっこりと笑って近づいた。
「私が洗ってあげるよ」
「はぁあ?!」
そのままぐわし、と頭を鷲掴む。
「ちょ、やめろ!!」
「はいはい、暴れちゃだめだよ」
「俺はガキじゃねぇ!」
どうしてか、手が止まらなかった。冗談のつもりで頭を洗うふりをして、それで避けられたらそのまま笑って浴室を譲ろうと思っていた。けれど、私の手はごしごしとクロウの頭を泡立てている。御世辞にも優しいとは言えない手つきだ。まるで親の敵のように汚れを落とそうと手は動いている。
「痛い!痛いって!禿げる!本当に禿げる!」
「これだけあるんだから、少しくらい禿げても」
「そんなわけあるか!」
抵抗していたくせに頭がすっかり泡だらけになると、クロウは浴槽に足を入れて縁に腰を下ろし、大人しく私の手を受け入れた。水と泡ですっかり柔らかくなった髪をかき分け、頭の形をなぞる。頭皮を揉んで、ツボを押して、私もいつの間にか柔らかくマッサージするみたいに洗っていた。指先がこめかみの辺りをなぞると、クロウが気持よさそうに呻いた。
「もういいぜ」
「うん」
シャワーの蛇口を捻って温度を調節したお湯を、俯いたクロウの頭にさっとかける。少しずつ泡が取れて、日に焼けた首筋が顔をのぞかせた。落ちたお湯は泡だらけの浴槽に流れていく。髪に通していた手を離すと、クロウが水気を取るように頭を振って、髪を掻き上げた。
「お前上手いなぁ、ガキ共が喜ぶはずだ」
洗う前とは正反対に、すっきりした顔で振り返ったクロウに、どきりと胸が鳴った。
クロウ。ぽつりと呟く。気持いいのはそうだろう。手を離すのが名残惜しくなって、ゆっくり丁寧に髪を洗ったのだ。こんなことを、子供たち全員にしているわけではない。
クロウは聞こえていたのか、湯船に立ったまま振り返って、どうしたと私の顔を伺った。

クロウはいつまでここにいるのだろう。どうせ数日経てばまたこの街から出ていって、数年は帰って来ないのだろう。ろくに来ない連絡を待って、心配をしたまま日々を送って、人の気も知らずにきっと、今日みたいになんでもない風に突然ひょっこり顔を出すのだ。まるで会いたいと思っていたのは私だけみたいで、悔しくてたまらなかった。
だからつまらないことで不安になって、あの時出ていけばよかったなんて、いつまでも思い続けるはめになるのだ。クロウと一緒に行けばよかったなんて。付いていけば途方にくれるほど自由な時間があって、衣食住のことだけ考えて疲れるまで遊べて、毎日クロウと一緒にいられた、なんて。
きっかけはいつだってクロウだった。クロウと一緒にいたくて、それが昔から一番の望みだったのかもしれない。こんなこと、大人になってまで思うようなことじゃない。それでも憧れて憧れて、捨てきれない望みがずっと胸につかえていた。

べしょりと、私の顔に泡がかかる。
「うわっ!」
「何ぼーっとしてんだ?」
クロウが両手で泡を包んで弄びながら、にやりと私を見つめている。幼少期を思い出させる、幼い悪戯っ子の顔つきだった。私も浴槽に屈んで泡を掬いとると、クロウの顔に投げつけた。
「何すんのよ!」
「やってから言うなよな!」
言いながらクロウも私も泡を投げつけては言い合いを繰り返す。もう泡を投げているのかお湯をかけているのか、殆どわからない。お湯が少なくなる頃にはクロウも私も泥の代わりに全身泡だらけで、どちらともなく笑いながら息を切らして浴槽に腰掛けていた。
「昔も、よく遊星や、ジャックたちとこうして水遊びしたな」
なんか、懐かしいぜ。背中合わせの体勢からクロウを覗き込めば、懐かしそうに目を細めて私を振り向く。何故だか胸が締め付けられた。あの不安と焦燥感が、じわじわお腹の下からせき上がってくる。
「…クロウはいつ発つの」
「さぁ…」
3、4日くらいかな。考えこむようにぼんやり呟く声が、どこか遠くに聞こえた。3、4日。何年も待ち望んだにしては、短すぎる時間だった。不意に耳元に声がかかる。
「お前はどうすんだ?」
いつの間に俯いていたのだろう。自分の泡だらけの手を弄びながら考える。ぐるぐると疑問と不安が胸に渦巻いた。
——どうするんだ?
私はどうしたいのだろう。
——これで本当にいいのかい?
これでよかったはずなのだ。でも、だったら。どうしてこんなに迷っているのだろう。
「ずっとここにいるのか?」
マーサの顔が浮かんだ。なのに、今までずっと頑なに頷き続けてきた言葉に、肯定も否定も出来なかった。

「出ちまえよ」
背後で、じゃぶんとお湯が大きく揺れる音が響いた。クロウが立ち上がって私の腕をつかむ。腕を辿るように、ゆっくりと見上げた。クロウの、泡だらけの顔。
「俺もお前と一緒にいたい」
真っ白になった。泡みたいに真っ白になって、溶けてなくなるんじゃないかと思った。クロウは人の気も知らないで、どこにでも一人で突っ走っていってしまうような人間で、私の気持ちなんてこれっぽっちも理解できるはずがない。それなのに、“俺も”だなんて。
小さい頃から連絡も寄越さないで、シティに住むようになって折角会えると思えば滅多に顔も出さないし、出ていけば子供たちのことばかりで、顔を出せば出したで人をからかうだけからかってすぐに去っていってしまうのだ。そんな適当で追いかけるばかりの男の言葉に、心から悔しいと思った。悔しくて、悔しくて、じわりと何かが滲む。どんどんどんどん胸が熱くなって、それで心が急に軽くなった。クロウの一言に、何年も抱えていた胸のつかえが、すっと消えた気がした。
私は首を横に振った。一緒にいたいと言ったくせに、クロウは満面の笑みを返す。
「やっぱだな!」
ぼろっと涙が零れた。悩んでいたことも、せせこましい小さな自分も、何もかもが全部どうでもよくなった。いや、認められた気がしたのだ。ちょっと感極まっただけだと思っていたのに、目頭が熱くなったと思うとすぐに涙が浮かんで、それと一緒にせき止めていたものがぽろぽろとこぼれ落ちた。
クロウも流石に少しだけびっくりしたようだった。泡だらけの腕がそっと抱きとめる。浴槽に腰掛けた体が、濡れそぼったクロウの衣服にダイブした。べちゃべちゃと顔に当たる生地は温かいどころか気持ち悪いはずなのに、涙はせき切ったように勢いを増して、どんどん溢れてくる。
「マーサは大丈夫だ。お前が心配するほど柔じゃねぇだろ?」
「うん…」
クロウはうんうんと、何度も頷く私の前髪をすくって撫でる。
「お前が気にしすぎなんだよ」
と言って笑う声がすると、ぎゅっと力強く抱きしめられた。どうやったら涙を止められるのだろう。目を瞑って押し付ける。クロウが泡だらけの私の前髪を掻き上げた。
「辛くなったらいつでも来んだぞ」
一年中ふらふらしているような男のもとへ、どうして行けというのだろう。思ったがクロウはからかっても、嘘はつかないということを知っていた。
耳元に落とされた言葉と、額を温める柔らかな感触。ずっと望んできた優しさに、涙を止めるすべを、私は知らない。
「クロウ兄ちゃんがー!」
姉ちゃんにー!!」
「ちゅーし…」
「だぁあああお前らぁああああああ!!!」
騒がしかった浴室を気にしたのだろう。覗き込んだ子供たちが、一斉に駆け出していく。それに続いて、浴槽を飛び上がるようにしてクロウが戸口へ走った。施設中を逃げまわる足音が天井へ移動する。全員が出ていった戸口は、開け放たれたままだ。去り際に見えた、私の真っ赤になった鼻と同じ色をしたクロウの耳を思い出して、やっぱり私は涙を零した。

泡を落として部屋に戻り、着替えを済ませて、そしてようやくわかったことがある。マーサは少しだって縛り付けはしない。ただあたたかく笑って、抱きしめて、それで送り出すだけなのだ。
マーサを理由に歩き出さなかったのは私自身だ。施設に残って何人もの成長を見届けて行くマーサは、どんな気持ちで子供たちの背を見送っていたのだろう。寂しくはないのだろうか。一人でこのまま年老いていくのだろうか。そう思って誰に頼まれるでもなく留まると決めたのは私だ。だから私を縛り付けていたのは、決断してからの日々が無駄になるのではないかと、クロウについて行きたいという気持ちから頑なに目を背けて、素直になれなかった私自身だったのだ。
「しょうがないねぇ」
「やったー!!」
階下から聞こえる歓声。部屋を出て階段から階下を見下ろすと、リビングでクロウと子供たちが嬉しそうに笑っている。騒ぎにつられて部屋から出てきた老人たちが、軽快に飛び上がる子供たちに、何だか分からなそうに、「よかったねぇ」と声を漏らす。
階段を下りながら、「どうしたの?」と尋ねれば、「クロウ兄ちゃんと一緒に、遊星のガレージに泊まっていいって言うんだ!」と興奮を隠しきれない様子の子供たち。マーサにありがとう!と言ったと思うと、競うように次々に玄関へ滑りこんでいく。
その姿を見守るマーサの顔は、やはり私にはどこか寂しげに見えたけれど、もうそれを足枷のように感じたりはしなかった。
子供の小さな手で開かれたドアから、とっぷりと太陽に浸かったような、真っ赤な空が広がる。外から入り込む空気と景色が、体に沁み込んでいった。

「よっし、それじゃあお前らいいか…」
通りに出たクロウが手を上げて合図を送る。よーい。興奮した面持ちで、子供たちが息を吸い込んだ。
「走れーー!」
クロウの一声に、方々散り散りだった子供たちが一斉に走り出す。あっという間に風を巻き込んで、手加減なしに一直線に飛び出したクロウを、必死に追いかけていく。洗ったばかりだというのに、この様子だとまたすぐに埃まみれになってしまうに違いない。
そんな事を考えながら戸口で苦笑いしていたと思ったのに、気づけば私も後を追っていた。散々無茶なんて嫌いだと言っていた足は、その通り木偶方より役に立たない。それでも私は走った。子供たちの中に混じって、同じ背中を必死に追いかけていた。
玄関口に立つ呆れたマーサの顔が思い浮かぶ。明日何食わぬ顔をして帰れば、私を一人にして、などと冗談めいた小言を言われるに違いなかった。たとえそう言われたとしても今は、その言葉に一寸の苛立ちも感じない。
さて、マーサに後で何と言おうか——考えながらも私は、足が重たくなっても、息が吸い込めなくなっても、決して足を止めることはなかった。
こうしてクロウの背を追いかけている内は、不思議といつもより心が軽くなったように感じたのだ。サテライトで抱えた後悔と羨望が、風の中に溶けこんでいくような気がした。
クロウは息も絶え絶えに付いてくる私を見て、満足そうに笑みを零す。目が合ってとくりと胸が鳴った。誤魔化すように足を踏ん張る。
「待て—!クロウ兄ちゃん!」
「早くしねぇと先に着いちまうぞ!」
息切れの中、振り返るクロウの笑い顔を見て不意に思う。追いかけている。そう思っているのは私たちだけなのかもしれない。
もしかしたら子供たちも私も、引力のような力で、クロウの包み込まれるような優しさに、吸い寄せられているのかもしれなかった。



(ほのぼの100題/015/泥んこ)
11/07/20 短編