慣れた笑顔に惹きつけられる。何気ない動作に意識させられる。その背中を目で追いたくなる。 子供の頃からの腐れ縁が、急に変わってしまった。熱が浸透するように、ゆっくり、じわじわと。心が溶け出していく。それでも私は口にしない。絶対に、思い通りにはならないのだ。


指先の子どもたち



雪が積もっていた。昨夜から朝方にかけて、シティでは例年稀に見るほどの大雪が降った。一面を白く染めた雪を踏みしめれば、ぎゅっぎゅと固い感触がして、雪遊びをするには丁度良い固さのようだ。
待ち合わせの時間からはもう10分が過ぎていた。ガレージ近くの広い公園で遊具に寄りかかりながら、約束を取り付けてきた男を呆然と待つ。落ち着いた気持ちと、緊張する気持ちがまぜこぜになって、心臓は不規則に脈を作り出していた。
自分が踏み固めてきた足跡を目で辿ってみるが、その先に待ち人の姿はない。昼時の冬の公園は、世界から切り取られたようにしんと静まり返っていた。ほっと息をつく。ほっとしている。どこかおかしな気分になった。寒さで手もかじかむし、身は竦むというのに、姿が見えないことにほっとしていた。このままずっと待ち続けてもいい。その方が、ずっといい。白い息を吐き出しながらしゃがみ込んで、手持ち無沙汰に雪を丸めた。

クロウに会いたくないわけではない。ただ、会いづらいだけなのだ。緊張して、不意に胸が高鳴って、決して正気ではいられない。幼い頃からの付き合いで、何の遠慮もないようなあけすけな関係だったのに、突然こんな気持ちになるのが不可解でくすぐったくて、私は戸惑いを隠せなくなった。
会いたくないと思うくせにクロウの姿は思い浮かぶし、気にもとめなかった言葉を思い出して一喜一憂するし、何年も前の出来事であってもそれを今更弁解したいとさえ思ってしまう。
この感情は、知っている。その原因も知っている。

「よいしょ」
かき集めた雪を丸めていたら、手のひらにはいつの間にか大きな雪玉が出来上がっていた。もう一つ握って重ねる。しゃがんだ私の膝丈くらいの小さな雪だるまが、掘り出した地面の上にちょこんと完成した。
やったー、なんて拍手を送りながら一人で浮かれ上がっていると、頭に鈍い衝撃が走る。びっくりして顔を上げれば、背中にひんやりとした感覚が次々と入り込んでくる。
「つめたっ…冷たい!」
「ばーか、ぼーっとしてんなよ!」
クロウ!私は大声を上げた。背中が冷たいのと、心の準備ができていなかったのと、その両方で感情をコントロール出来ないまま、喉が大きく声帯を震わせてしまった。ざくざくと歩み寄るクロウは、仕事帰りなのかセキュリティの制服を着ていて、遅れてきたというのに悪びれた様子はない。それどころかその手元では、またもう一つ雪玉を丸めている。顔はにやけているのにいたずらが成功した子供のようにも見えて、胸がドキリと鳴った。
ゴクリと息を飲み込んで、調子を繕う。
「寒い中待たせておいて謝罪もなしに、雪を投げつけてくるってどういう神経してるんですかね!」
「これでも急いで来たんだよ」
「だからクロウはモテな」
べしゃっと、頭にまた雪玉が投げつけられる。今度は額の上に当たって、眉間から鼻筋へ、そして言葉の途中だった半開きの口を伝ってずるずると地面へ落ちていった。
「先手必勝!ってか?」
クロウは何が嬉しいのか、ぽかりと口を開けたまま顔に雪を貼り付けている私を見ながら、愉快そうに笑っている。
「……」
「なぁ、
「……」
「悪かったって」
「……」
「なぁ」
「……」
「…?」
「クロウ…」
会いたくない。会いたくないと思っていたくせに、こうして会えば会ったで嬉しくて仕方がない。久しぶりに飯を食べねぇか、と突然かかってきた電話越しに約束を取り付けられた前日は、体がふわふわして眠りにつけず、髪型や服装なんてつまらないものが気になって何度も確認してしまう。そうやって意識して、せっかく整えた服だというのに、髪だというのに、そんな気持ちもお構いなしに雪玉一つでびしょ濡れになる。台無しだ。けれど、それがどうしてか嬉しくて仕方がないのだ。自分自身が不可解で、毎日が辛くて、苦しくてたまらない瞬間の連続で、そして。不思議と幸せに溢れているのだ。

しゃがみ込んで雪を掬い、手のひらの上で丸めた。私はこの感情を知っていた。そしてそれを知る原因となった日のことも、ちゃんと覚えている。でも、それはあまりにも唐突すぎたし、タイミングが悪かった。情けなくて消し去りたいくらいの出来事だ。
「おい、さん?」
ぎゅっと雪を包み込んだ両手に力を入れる。上から覗き込んでくるクロウを見上げて、勢い良く立ち上がった。
「喰らえ!」
「ぬわっ!?」
クロウの顔面に至近距離から雪玉をぶち込む。投げるというより手のひらごと押し付けたという方が正しい。もどかしい自分の感情も、遅れてきた恨みも、服や髪を整えた努力の悔しさも、全部雪玉に含めてお返しした。
元はといえば、クロウが悪かったのだ。クロウがあんなことさえしなければ、厄介なことにはならなかった。そんな恨み言ひとつすら言えない状態が、もどかしさを溜めていくばかりだ。

ひと月前だろうか。それとももっと前だったか最近だったか、それから日が過ぎるのがあまりにも早くてよく覚えていない。確かなのは、クロウがセキュリティに入って、ガレージから引っ越す少し前の出来事だということだ。


それは、ガレージで寝こけている時だった。WRGPが終わってすぐのあの時は、まだチームメンバーの全員がよくガレージを出入りしていて、夕刻になっても賑やかな日が多かった。私もその楽しさのまま居座って、昔馴染みだからと安心して泊まってしまうこともしょっちゅうだった。
その日も例に漏れず、階段上のソファが心地よい眠りを誘うのについつい身を任せていたのだが、ぼやけた頭がシャッターの上がる微かな音を捉えて、誰かが帰ってきたのだと無意識に知らせた。砂利を踏む音に続いて、またシャッターの音が鳴ると、徐々にそれが配達帰りのクロウだということを思い出させる。意識の片隅でおかえりと呟いたのを覚えている。私はその時、まだ眠っていたのだ。現実と夢の間でまどろんでいた。
D・ホイールを停めたクロウが、自室へ続く階段をカンカンと上ってくる。ソファで眠る私の存在に気づいたのか、足音が近づいて私の前で止まった。声にならずも、おかえりと何度も呟いたが、クロウはただ黙っていた。
静寂が続いた。私にとっては心地良いと思えるくらいの静けさだった。ゆりかごに揺られるように曖昧な時間が流れ、クロウが自室へ行ったのか、それともまだそこにいるのかも分からなかった。そして再び訪れた眠りの波によって、クロウの存在を忘れかけた時、不意に空気が動いた。僅かな揺れだったが、私の意識が現実に引き戻されるには十分だった。
好きだ。掠れた、夜に消え入りそうな囁き声だった。
、好きだ」


結論から言うと、私は逃げてしまった。飛び起きて疾走したという意味ではない。クロウの言葉を、聞かなかったことにしたのだ。
私は寝ていたのだからクロウからすれば私が知らないということが当然なので、それだけでは私が逃げたということにはならない。けれど呆れたことに、私は動揺して不自然に寝返りを打ってしまったのだ。クロウの「好きだ」という言葉の後に、あろうことかリクライニングの肘掛けに盛大に肘をぶつけながら、寝返りを打ってしまったのだった。
背中にだらだらと滝のような冷や汗をかきながら、微塵もやましいことはないのに後ろめたい気持ちになって、どうかばれないでくれと身を固めて呼吸すら止めていたのだから、失態も山積みだ。変な所で勘のいいクロウでなくとも、これだけ不自然な行動を見れば、誰だって起きていて、尚且つ眠りの淵に消えるはずだった告白も聞いていたと気づくだろう。その証拠に、挙動不審な寝返りを打った瞬間、ひゅっと、クロウが息を飲み込む音が鮮明に聞こえた。
私は何をそんなに焦る必要があるのか、ばれないで、ばれないで、早く行ってと、狼が通りすぎるのを待つ草食動物のような気分で体を丸めていた。数秒の沈黙が落ちる。クロウが近づいて、私の肩に落ちかけた毛布を被せた。いつバレるかとドキドキしながら息を止めている様子を悟ったのか、そのままクロウは何も言わずに自室へ向かっていった。
遠ざかるブーツの音がドアの向こうに消えるのを聞いて、私は漸く息を吐き出したのだった。

その日は眠れずにいたかというとその通りで、朝方になって漸く眠りにつけたと思った時には、ガレージの住人たちの騒がしい起床に目を覚まさざるを得なかった。
年中着ている寝間着用の半袖にどこかのセールで買ったような安い薄手のトレーナーを羽織ったクロウが、ふらりと自室から現れる。目が合う。チャンスはその時だけだった。
「…おはようさん」
「お、おはよう…」
そのまま私の前を通りすぎて、ぼさぼさの頭を掻きながらカンカンと階段を降りていくクロウの背中に、ひとつ声をかけるだけだった。昨日のこと、と。一言。それだけできっと何かが変わっていたはずだ。
「…クロウ、」
「……ん?」
その背中は階段を降りきる前に、ぴくりと僅かに揺れて、静かに止まった。き。私の口は、横に真っ直ぐ開いた。き、
「……今日は寒いね」
「おう」
そうだな。クロウの声が、霞の向こうに聞こえる。あの日の朝逃したチャンスを、私は二度と忘れはしない。


クロウは、私が告白を聞いていたのを知っている。多分。いや、絶対だ。そして、数週間が経った今でも、知らないふりを通していることも。
ひどい事をしているのだろうか、私は。でも、今更言えやしない。あの日、眠ったふりをしていたけど、本当は起きていました、と。クロウの告白を聞いていました、と。どうして言えようか。
誰が悪いなんて、本当は言えることじゃないのだ。あれは偶然私が寝ていて、偶然クロウが帰ってきて、偶然告白してしまって、偶然、私が起きていただけなのだ。何も責めることは出来やしない。そう思ってみるけれど、あの時動揺して逃げてしまった自分自身を責めるし、発端となって自覚してみれば、甘い気持ちだけが積み重なっていくしで、外に吐き出せないものだからどんどん後悔と焦燥感が心に溜まっていく。
だというのに。

「イッテェだろボケ!」
そんな私とは正反対に、根源を作ったクロウといえばけろっとしたもので、毎日を楽しそうに謳歌しているというのだから、釈然としない気持ちが渦巻くのも仕方ないだろう。
「雪玉二つ分と背中に雪が入った分、締めて顔面シュートになります」
「なるか!」
男らしくも雪玉を顔で受け止めたクロウは、犬のごとく頭を振って振り払うと、すぐさま雪を握って私へ投げ返してきた。
「ちょっと!私一個しか当ててないでしょ!」
「釣りだ釣り!」
「釣りはいりません!もってけドロボー!」
二個投げつければ、まだまだ新調したばかりのセキュリティの制服にクリーンヒットする。えいえいと投げ続けると、待てといって動かないクロウに面白いように当たる。
これは戦争だ。雪合戦のことではない。クロウが先に折れるか、私が先に折れるか、その勝負なのだ。私がクロウの気持ちを知っていると分かっているなら、クロウだって、さっさと言ってしまえばいいのだ。それをこんなに経ってまでうやむやにしたままでいるなんて、これが小さい頃から知っているクロウだというなら、私は見損なったと言ってやろう。何が鉄砲玉だ。鉄砲玉なら鉄砲玉らしく当たるか逸れるか勝負してみればいいのだ。それを私がこんな、こんな…
「ばかやろー!」
「やめろって!制服汚れたら牛尾の旦那にどやされちまう!」
「じゃあ私のおしゃれ着はいいっていうの!」
「おめーのはどうせスーパーの安売りやワゴンで買ったのだろ!」
「違いますぅ!古着屋で買ったんですぅ!セキュリティ様のお高い給料とは違って食いつなぐのに精一杯なので!」
「威張れることか!それになぁ、使いっ走りがいきなり高給取れるか馬鹿!」
もうクロウも私ももみくちゃになって、なにがなんだかわからない。全身雪まみれで、一面新雪だった公園はクロウと私の足跡ですっかり固められている。どれくらいそうしていたのだろう。負けられない。そんなことを思いながらムキになっている内に、いつの間にか約束のことも忘れて、子供染みた雪合戦に没頭していた。


風が吹いてきた。散歩する人すら通らない静けさの漂う公園に、荒い息遣いが二つ落ちる。疲れ果てて倒れこんだ雪の上から、冬の薄い空が視界を覆った。寒さの中を大騒ぎしたせいか胃袋がぐるりと音を立てて、根こそぎ戦意を喪失させていく。かじかんだ素手は真っ赤になっていて、ほとんど感覚がなかった。
情けなく垂れてくる鼻水を啜って、落ち着けるようにはぁ、とひとつため息を付いた。少し離れた場所に同じく倒れ込んでいるクロウから、呻き声が漏れる。
「あーあ、濡れちまった」
制服のことをぼやきながら、諦めきっているのか起き上がる気配はない。うっすらと流れる雲を見ながら、
「乾かせばいいじゃない」
と言えば、クロウは小さく唸って、
「俺ンとこストーブがねーからなぁ」
と呟いた。聞けば小さなファンヒーターだけだという。
「ドライヤーは?」
「ねぇよ」
思わず起き上がって、大の字に転がっているクロウを振り返った。
「もしかして、髪は自然乾燥…?」
おー、そうだな。クロウはどうでもよさそうに返事をした。だって、そんな。体を支えていた手を摩って、クロウの方へ向き直った。
「風邪引くよ」
「引かねーよ」
昔から引いたことねーだろ。そう言って寝転んだまま窮屈そうに笑うのに、妙に納得して、思わず私は「ああ…」と漏らしてしまった。
「風邪、引かないもんね」
流石に何がとは言えなかったが、やたらと勘のいいクロウはニュアンスで感じ取ったのか、飛び跳ねるように起き上がりながら、
「ちげーからな!」
と振り返った体勢で叫んだ。必死な姿がなんとなくおかしく感じて、くすりと笑ってしまう。慌てて隠すように摩っていた両手に、はー、はー、と息を吐いて温めていると、クロウがおもむろに立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。
。そう呼ばれて、忘れていた緊張が、ほんの少しだけ戻ってくる。
「おめーこそ、風邪引くぞ」
「引かないよ」
クロウが近づく、シャクシャクという音を聞きながら、さっきと同じ問答を繰り返す。息を吐きかけた手は相変わらず真っ赤だけど、少しずつ感覚が戻ってきていた。はあーっ。思いっきり息をかけるのと、クロウが目の前に立ち止まるのは同時だった。
「風邪引くぞ」
クロウはもう一度言う。
「だから引かないって」
視界を遮られているのがなんだか落ち着かなくなって、そわそわする気持ちを紛らわせるためにまた両手を摩り合わせる。堂々巡りの問答に軽く笑うと、クロウはゆっくりと私の前にしゃがみ込んだ。そして、
「いいや、お前は引く方だ」
その言葉と共に、私の手はクロウの手にすっぽり収まってしまった。ドキリとした。急速に鼓動が高まる。緊張が、神経を伝って全身に広がっていく。
「おーおー、こんなに赤くなっちまって」
子供ではないというのに、クロウは子供にやるみたいに私の手を包む。何を思っているのだろう。どうしてこんなことをするのだろう。間延びした声からは何も感じられない。
言葉も出ない私をよそに、手には徐々に力が込められていく。大きな二つの手に雪玉を握るみたいに挟まれて、やわらかく包み込まれる。
「あったまんねーな」
そう零すクロウに、当たり前だと言ってやりたかった。温めもしなかったクロウの手と、摩って息を吐きかけていた私の手のどちらが温かいかなんて、分かりきっていることだ。せっかく必死であっためていたというのに、これじゃあクロウの手で台無しだ。
言ってやればいいのに、声が出てこない。体中を心臓の音だけが駆け巡って、開けば口から心臓が出てくるんじゃないかと、不吉なことを考えた。
むしろ。
「…むしろ、冷たいんだけど…」
「そーか」
思い切って消え入りそうな声を絞り出してみれば、クロウはまたどうでもよさそうに返事をして、少し考える素振りを見せた後、さっきの。と呟いた。
「え?」
「あったかそうだったな」
さっきの。首を傾げる。
「ほら、おめーの」
言われてクロウを見れば、目を合わせたまま包み込んだ手に顔を寄せて、息を吐きかけるように口を開けた。はーはーってやつ。息が微かに手にかかる。

顔どころか、全身が熱くなった。熱い血が、一瞬でぐるりと全身を一周する。私の気も知らず、クロウははーはーと息を両手に吐きかける。冷え切った肌に、じんわりと暖かい熱が染みとおる。くすぐったくて、むず痒くて、すぐにでも手を引いてしまいたい。でも包み込まれてしまっては、引くことも出来なかった。溶けてしまいたい。溶けてここから逃げ出してしまいたいと思った。
だから嫌なのだ。クロウに会うのは。自分自身が不可解で、毎日が辛くて、苦しくてたまらない瞬間の連続で、普通ではいられない。でも、負けられない。負けられないのだ。最初に好きだといったのはクロウの方で、私ではないのだ。
「なぁ、」
「……」
「なぁ、
「…なに」
クロウがにやりと笑った。
「気づいてんだろ?」
私の鼓動は、ついに弾け飛んだ。

急激に温められた指先から熱が漏れて、じわじわと体を侵食していく。熱い。くすぐったくて、むず痒くて、耐えられない。溶けてしまいたい。そうじゃない。もうすぐ、溶けてしまうのだ。指先の熱で、少しずつ、少しずつ。
なぁ、。手がぎゅっと握られる。クロウの顔はにやけているのに、やはりいたずらが成功した子供のような笑い顔に、心臓は相変わらず反応してしまう。はーっと、クロウは指先に熱を吐いて、忘れもしない、あの朝の言葉を呟いた。
「今日は寒いな」

負けられない。負けてやるものか。先に言った方が負けなのだ。負けてやるものか。だけど。だけど逃げられないというのならいっそ、この手の中で溶けてしまいたかった。



夏アンケート'11『両片思いで甘酸っぱい話』
(ほのぼの100題 2/046/雪だるま)
11/12/02 短編