幸せとはどこから来るのだろう。目の前に差し出された湯気の立つレンゲを眺めていると、ぽつりとそんな疑問が浮かんでくる。
私の膝の上では、クロウの腕がお椀とレンゲを乗せた小さなトレーを支え、受け取るのを今か今かと待っている。部屋にはガレージの住人の厚意でファンヒーターを運び込んで貰ったが、情け程度に室温を上げるだけで、冬の寒さには到底打ち勝てなかった。その証拠に、レンゲの上のお粥から出ていた湯気は、既に心細くなっている。
ゆったり顔を上げて、クロウを見た。屈み込んだ体勢の目と、視線がぶつかる。
「……ラーメンが食べたい」
「病人は大人しく粥でも食ってろ」
幸せとはどこにあるというのだろう。押し付けられるように手に無理やり握らされたレンゲと、真顔のクロウを交互に見て思う。幸せとは。

少なくとも、布団の上には転がっていないのは確かだ。


幸せなメジャヴを



ピピっと電子音が鳴って、熱のこもった体から体温計が抜かれた。
「38度3分、大分熱がありますね」
カルテを抱いた看護師さんの声を聞いて、病院のソファーに座っていた腰が少しだけ浮いた。
「えっ、熱?」
「ええ、かなり高いですよ。咳は出ますか?」
「いえ…特に」
「喉の痛みは?」
「ありません…けど、鼻が詰まっています」
わかりました。驚いたまま看護師さんを見つめていると、朗らかな笑みが浮かべられ、「時間がかかりますが、名前を呼ばれるまでお待ちください」とカルテを閉じて受付へと去っていった。
温かすぎるくらいの暖房と、昼過ぎのグルメ番組が室内を満たす。ぎゅうぎゅうにつめられた席に座る幾人かが、時折苦しそうに咳をして、見渡せば患者はマスク装備だらけである。
空気の薄い頭でようやく、風邪をこじらせたと気づいたのは、その時だった。

どうしてこんなことになったというのか、甚だ不思議でならない。確かに風邪が流行っているとは聞いていた。だからこそ手洗いうがいに防寒と気をつけていたはずなのだが、気づけばこうしてベッドの上に縛り付けられているのである。
人とは単純なもので、少なくとも噴水広場を走り回るほど元気であったのが、然るべき場所で風邪だと聞けば急に体も動かなくなり、昨日からすっかり病人の体をして寝込んでしまっているのだから、病とは本当に気の持ちようらしい。それでも普段ガレージの人間たちの世話を焼く姿など滅多にお目にかかれない分、しおらしく看病されるがままになっていたのだが、どうやら大した病原菌でもなかったのか、一日も経てば私を苦しめていた寒気も節々の痛みも完全に消え去り、今では空腹ばかりが痛みを生んでいる。
とにもかくにも、今の私は空腹だった。
「ほら、せっかく作ったんだぞ。さっさと食って寝ちまえ」
ずいっと出されたお椀を見つめる。無理やり持たされたレンゲをそのままに、クロウを見つめる。目が合う。
「クロウ…」
「ん?」
心配そうに眉を上げた顔を、更にじっと見つめる。
「ラーメンが食べたい」
「…俺の言うこと聞いてなかったのか?」
大袈裟に吐き出されたため息と共に、お椀も手に持たされる。熱々のお粥が入ったお椀は温かく、それを抱えていたクロウの手もまた温かい。それに急に安心感がこみ上げる。とりあえずこれだけでも食べてしまおうとレンゲで掬い取ると、溜まっていた湯気がきのこ雲のように盛り上がって、お椀の中で溢れた。

ラーメンだ。とにかくラーメンが食べたくて仕方がないのだ。それはクロウに責任がある。
数日前かもっと前か、今日より冷え込んだ日にクロウは、仕事が遅くなるからと遊星に知らせて一人で夕飯を済ませてきたことがある。それがラーメンだったらしいのだ。しかもただのラーメンではない。シティでは珍しい、屋台ラーメンだというのだ。
夜の空気に浮かび上がる湯気という湯気。外で食べているというのに、その麺もつゆも、風を受けて冷え切った体に染み込んでくるのだという。その様子をあまりにも愉快そうに話すものだから、浮かべた情景が頭から離れなくなって、体が弱った今になって、その羨望と欲望がむくむくと顔を出してきたのである。
「……ごちそうさま」
「ほれ、薬、体温計」
お粥をぺろりと平らげて、物足りなさを感じたまま空のお椀を差し出すと、それと交換に取り上げられたその手には薬と体温計が乗せられる。つまらない。物足りない。憮然とした顔で受け取る。
、入るぞ」
「おー、遊星」
苦味を耐えて薬を流し込んでいるところへ、遊星が顔を覗かせる。作業の休憩に、心配してレモネードを作ってくれたらしい。
「具合はどうだ?」
「心配いらねーよ。さっきからラーメンが食いたいって言ってやがる」
「そうか、それなら安心だな」
手渡されたカップを両手で包んで温まりながら、私の代わりに無茶苦茶に答えるクロウを恨めしげに睨んだ。そうだ、治りかけだ。治りかけなら少しくらい我侭を言ってもいいじゃないか。
昨日から寒いベッドで一人っきりの時間を過ごし、運んでくれる食事にも手をつけたり付けなかったり。何だかんだで忙しい人間ばかりだから、一日中側にいてくれとは言わないけれど、分かっていても寂しいと思うのが病気だ。食事が喉を通らなければ胃袋も寒々としてきて、それがまた人恋しさを募らせる。
「クロウ」
遊星の出ていったドアをぼんやり眺めながら、一番忙しい住人の名前を呼ぶ。一番忙しいくせに、こうして一番世話を焼いてくれるのに、つい甘えたくなった。
「ん?」
「ラーメンが食べたい、どうしても」
クロウがため息を付いた。だけど、語尾につけた「どうしても」が効いたのか、小さく「仕方ねぇなぁ」と呟く声が聞こえた。
「今作ってきてやっから。インスタントでいいだろ?」
安っぽい木の椅子から立ち上がって、食べ終えた食器をトレーに乗せるクロウを目で追った。いやだ。間を開けず口からこぼれ落ちる。クロウが動きを止めて私を振り返った。
「…は?」
「いやだ」
クロウはぽかんと私の顔を見つめている。暫く思考するように口をもごつかせた後、
「じゃあ何がいいってんだよ」
と私を見下ろした半身のまま、怒ったような困惑したような表情を浮かべて尋ねる。ここまで言って、自分の我儘に居心地が悪くなってくる。誤魔化すために顔を背けると、クロウからはますますいじけているように見える気がした。
「……屋台がいい」
「あのなぁ…!」
流石に言いたいことは分かるので、黙りこむしかない。でも、食べたいのだ。今食べなければその思いでまた熱に浮かされるだろうと確信的に思ってしまうくらい、食べたくて仕方がないのだ。

体温計が鳴った。呆れた顔をして黙り込んだクロウが「ほれ」と手を出す。それに脇に差し込んでいたのを手渡して、私はまた俯く。
「はぁ…」
プラスチックのケースに、体温計をしまう音が聞こえた。頭をボリボリと掻く音。息をつめる。

クロウの声に合わせて、ゆっくり顔を上げた。
「5分で用意しろよ?」
えっ。小さく声が漏れた。食器を乗せたトレーを抱えてドアへ向かう、クロウの背中を目で追いかける。
「さっさとしねーと置いてっちまうぞ!」
「クロウ!」
ばっと勢いよく重たい布団を蹴り上げた。あるもの全部かき集めて積み重ねられた毛布やらタオルケットやらが、私の体に引っかかってずるずると床に落ちていく。
ドアの隙間から、やはりクロウの呆れた笑い顔が目に入った。



の着ぶくれた姿は奇妙で、思わず笑いそうになった。夜更けに外に出るというのに、防寒には足りない格好をしていたので、嫌がるのを強引にセーターやらコートやらマフラーやらを身につけさせて行ったら、いつの間にか洋服でぶくぶくの人間が出来上がった。笑いがこみ上げる。
愉快な気持ちになりながら部屋を出ようとすると、女の嗜みなのか一瞬我に返って鏡を見ようとしたので、慌てて手を引いたままガレージに降りた。自分の姿を見れば、また着替えたいと言い出すのは目に見えていた。
ガレージへ降りると当たり前だが、こんな時間に出ていくのかと遊星が驚いて引きとめようとする。それに矢継ぎ早に事情を話してから戸口を出る。はその間ぼうっとしたまま、俺が動くまで背後で突っ立っていた。
「寒くねぇか?」
「大丈夫、寒くない」
体温計を見るかぎりでは、もう殆ど熱も無いようだったが、ずっと寝ていたのもあって体も頭もまだよく働いていないのだろう。だるさを残したの歩幅に合わせて、ゆったりと噴水広場を抜ける。
冬空の中に薄っすらと街灯が浮かんでいる。噴水から微かに聞こえる水音と俺との足音以外には家々からの声もなく、穏やかで静かな夜道だった。
「歩けっか?」
やはりはぼうっとしたまま頷いた。薄い雲の中を、月が出たり隠れたりするさまをぼんやり眺める。が咳をする音が夜空に響いた。
しかしなんつー我儘だ。まるで子供たちを世話していた頃と変わりがない。「ラーメンが食べたい」と言って聞かないの頑固な姿を思い返して、眉が下がる。
大分前から体がだるいと言っていたので、一度病院へ行ってみろとは勧めておいたが、大丈夫だといって聞かなかったのもだ。人のことを言えた義理ではないが、本当にガキ共と変わりゃしねぇ。
寝ていろといっても中々寝つかないし、熱に浮かされて見るからに苦しそうな顔をしているくせに、布団が重いだの寝心地が悪いだの、ラジオを持って来いだの、注文だけはいっちょ前にしてくるのだ。息が苦しいなら黙ってりゃいいのに、暇を縫って様子を見に来れば、ぽつりぽつりと話をしだす。挙句、今の状況だ。
面倒だと思っていることには変わりないのに、不思議と愉快な気分になった。子供達とは違う、は一人の自立した人間であるというのに、どうも嫌な気持ちはしない。気づかぬ内に、笑みが白い息に溶けていた。

「ねぇ、D・ホイールは?」
「こんな時間に出したら近所迷惑だろ?」
「あ、そっか」
厚着に厚着をしたは、隣をもさもさと動きづらそうに歩いている。マフラーに顔を埋めている所を見ると、防寒しきれなかった顔が寒いのだろう。
ぼんやり眺めていたのに気づいたのか、が目で俺を振り返る。
「なぁに?」
「おんぶしてやろうか?」
無意識だった。の動きがピタリと止まった。はっとして、俺の動きも止まる。目を合わせると何故か一瞬の沈黙が落ちた。
「…クロウ、もしかして子供扱いしてる?」
マフラーをもぞもぞさせながら、はじっとりと俺を見ている。妙な気分になって、
「歩きづらそうだったから心配してやったんだよ!」
と笑うと、は憮然とした面持ちで「クロウが着せたんでしょ!」と、窮屈そうに大股で歩き出した。
「また風邪引くよかいいだろ!」
その着ぶくれた可笑しな背中に叫ぶが、おかしいのは俺の方だった。不思議な感覚が体中を包み込んでいる。そればかりか、ゆらゆらと揺れている毛糸の手袋をしたの手をいつの間にか目で追っている。いつの間にか眺めているのだ。ぼんやりと、の様子を。
「どうしたの?」
「……いや」
出しかけた手を引っ込めた。いつものグローブに包まれた、自分の手を眺める。自分が何をしようとしていたのか考えが及ぶ前に、の声が俺を呼んだ。重ね着のしすぎで上がらない腕を、必死に振って手招きをしている。
その様子も滑稽で笑いを誘うが、そんな姿だというのに、込み上げてくる気持ちにたまらなくなる。は俺を笑いはしない。けれど俺は奇妙な俺自身を一番笑ってやりたくなった。

それは古臭い屋台だった。噴水広場からほど近い道を練り歩いているのは、見れば見るほど叩いた途端に崩れちまうんじゃないかと思うような、年代物の屋台だ。橋の下に暖簾を出しているのを見つけ、逸る思いで近寄る。暖簾だけは店の命とばかりに大事に手入れされていて、くぐり抜ける手触りが気持ち良かった。
「クロウ、早く早く!」
は椅子に足をぶつけながらも、上機嫌に座って俺に笑顔を向けた。つられてにやけそうになって、思わず渋い顔をする。いらっしゃいと俺を笑顔で見つめる親父に見透かされたような気がして、無理やり顰め面を作った。
「おやっさん、ラーメン二つ頼む」
「はいよ」
注文したばかりだというのに、はよほど焦がれていたのか、落ち着かない様子で親父を見たり屋台を見回したりと、黙っている暇がない。今日は冷えますねぇ、と朗らかに話しかける親父にですら、声を裏返さんばかりに張り切って返答している。
この屋台の話を聞いて、その為に出てきたのだということを話すと、親父は嬉しそうに笑ってチャーシューを二枚乗せた。
「やったねクロウ!」
歓声を上げると目が合う。熱が残っているのか、はたまた興奮しているのか、あるいは寒さのせいか、真っ赤な頬を窪ませて、は綻ぶよう笑った。何故か言いよどむ。どうしてか居心地が悪い。
「おう、やったな」
まったくよぉ。まったく。俺は眉を下げた。そう言って目を逸らしてしまえば緩む口元は隠せやしない。だが、今笑ってしまえば気持ちの悪い笑みになることは確かだった。

「お待ちどう!」
威勢よくどん、と置かれた器にがまた目を見開く。たっぷり注がれた汁が、屋台の薄暗い照明に照らされてつややかに輝いていた。みずみずしい麺と具がその中をゆったりと泳ぐ。何より、溢れかえる湯気で一瞬視界が白く染まり、次第に空気に溶けてようやく姿を現す黄金の汁と麺の姿と、鼻孔をくすぐる醤油の得も言われぬ匂いが食欲をそそる。唾液腺はとっくに刺激されていて、口内を潤してしまっている。
隣のは、粥を食べたことなど恐らくすっかり忘れているのだろう。真ん中で綺麗に割った割り箸を両手で挟みながら、涎でも垂らしそうな顔でそわそわと俺を伺っていた。
「うし、食べるか!」
「待ってました!」
いただきます!と声を張って、視線と笑顔は、待ちに待った真っ白い湯気の中に吸い込まれていった。

自分を世話焼きだとは思ったことはない。子供たちには最低限のことを教えてやらなければサテライトでは生きていけなかっただけで、それ以上のことを喧しく教えたこともなかったし、危険なことに手を出さなければ、後は黙って見守るだけに留めた。
遊びたいと言われれば一緒に遊んだりもしたが、四六時中子供たちと一緒にいたわけではない。出来ることは子供たちに任せていたら、自分自身の時間の方が余程多くなっていた。放任主義といえば聞こえはいいが、俺が細かいことまで面倒見ずとも、子供たちの方がずっとしっかり身の回りのことをこなしていた。だからこそ、世話を焼くことなど大して必要なかったのだ。
麺をすすりながら、ふと横目にを見る。
「おい、
「んー?」
口に入れたばかりのほうれん草を咀嚼するは、間抜けな声を出して俺に視線を向けた。その顔も同じく間抜けだ。温まって上気した顔から、つるりと鼻水が垂れている。まったくよぉ。笑いたくなった。まったくよぉ。どこまで世話が焼けるんだ。
「ほら、鼻水出てんぞ」
「え、うそ」
「さっきから麺と一緒に食べてたぞ」
「嘘つくなボケ」
「誰がボケだ鼻垂れ女!」
どこかで貰った広告入りのティッシュを渡すと、垂れる!垂れる!と言いながら慌てて受け取ったは、鼻にティッシュを押し当てながら俺を見て目を見開くと、大声を上げて笑った。
「クロウも出てるよ」
「まじか」
「ぶふっ、はいティッシュ」
「何笑ってんだおめーもだろ!」
そう言った俺の声も震える。もう我慢できはしない。妙な気持ちが突き上げる。頭までキン、と響いて鼓膜を揺さぶる。感情が爆発する。きっと今の俺は気味の悪い笑顔を浮かべていることだろう。どうしてか笑顔だけでは表しようのない、留まることの知らない感情だ。
器を持って口をつける。最後の一滴まで喉に流しこんで豪快に胃袋を温めると、外の風すら心地よく感じてくる。あー、幸せだ。腹を摩って零す。
「ごちそうさまです!」
幸せ!勢いよく器を置いてが叫ぶ。思わず体ごと振り返った。そうか、そうなのか。こそばゆくてくすぐったい。これは幸せなのか。鼻水の張り付いたを見て思う。案外俺は、世話焼きだったのだろうか。
ポケットから小銭を出しながら鼻をすすると、隣からも同じ音が鳴る。まったくよぉ。噛み締めるように笑うと、冬の空気が赤らんだ鼻を突き抜けた。



「おやっさん、また来るぜ」
そう言って二人分のお代を置いたクロウは、私を置いてさっさと暖簾をくぐり、屋台から離れた坂道で私を振り返った。
、のろのろしてっと置いてっちまうぞ」
「病人を置いていくな!ひとでなし!」
ずっと食べたくて仕方がなかった屋台ラーメンにありつけたというのに、その感傷に浸る暇など与えてはくれないらしい。些かむっとするが、願望が満たされた気持ちが強くてすぐにどうでも良くなった。
しかし今更だが、私が病気というのは嘘ではなかったと確信させられた。いつもなら駆け上がる坂道にも流石に疲れたようで、一歩一歩踏みしめるようにしか進めないのだ。膨れるほど着込んで、食べたばかりの体に鞭打たせるとは、クロウは病人というものを全く分かっていない。
息を切らせてようやくクロウの元までたどり着くと、呑気に「綺麗な月夜だなぁ」などと呟いている。息が苦しくて、それどころではなかった。
「おんぶしてやろうか?」
ぎろりとクロウを睨む。でも次の瞬間に息を飲んだ。
子供扱いするなと、からかい顔に一発言ってやろうと思ったというのに、私の目に入ったのは少しも馬鹿にする様子のない、クロウの穏やかな笑顔だった。
「……自分で歩けるよ」
「無理すんなよ」
「してないわボケ」
「…流行ってんのかそれ」
一瞬頷きかけたのを隠したくて無意味に貶すと、クロウは呆れたように歩き出した。もそもそと歩きづらい足を動かして、その後を追う。隣に追いつくと、クロウが「美味かったなぁ」と零す。
「美味しかったねぇ」
本当に美味しかった。食べたかったからというのもある。でもきっとそれだけではない。
着ぶくれた私の姿を見て、クロウは面白そうに笑う。ラーメンが食べたいと駄々をこねたのに、クロウは呆れたように笑う。鼻水を垂らしたのを見て、クロウはさも可笑しそうに笑う。
今日だけではない。気づいているだろうか、私がいつも甘えているのを。甘えっぱなしなのを、クロウは気づいているだろうか。それでいて、病床に何度も顔を見せに来てくれていたのだろうか。
、サテライトじゃ星が綺麗だったけどよ、ここじゃ月が綺麗だなぁ」
さっき見上げられなかった夜空を仰ぐ。薄っすらと流れる雲の間から、煌々と月あかりが差している。
「そうだねぇ」
マフラーから顔を外して、白い息の流れる先を辿る。繁華街からずっと離れた、しんと静まり返った街路は、冬の空気に包まれている。
手に、やんわりとした感触が重なった。クロウを見る。トレードマークのピアスを揺らしながら、正面を見据えて黙々と歩いている。
「……さみぃな」
「寒くないよ」
「……いや、寒いだろ?」
「寒くないけど」
耐え切れずにふっと笑いを零すと、クロウが真っ赤な顔をして私を振り返った。
「……!」
たまらず手をぎゅっと握り返す。白い息と一緒に、何かが溢れるのが分かった。

えっちらおっちら踏みしめる足音に乗せて、たった数時間が蘇る。二度目の夕飯。寝る前の夜食。静まっているのに温かな帰路。すべての情景が重なって、鮮やかに月夜に照らし出される。
いつもと同じ道。変わらない街並み。だというのに、それが初めて見る景色のように思える。不思議だ。とても不思議な感覚だ。病み上がりだからだろうか。冬だからだろうか。静けさに包まれた夜だからだろうか。
なんだか。呟くと、ぽかりと白い息が浮かぶ。
「いつもと違って見えるね」
と言うと、クロウが驚いたように振り返った。互いにひたりと、寒さで赤らんだ顔を突き合わせる。気恥ずかしくなって、ずずっと鼻をすすると、クロウは次第にじんわりと笑みを染みこませていった。
「…お前もか?」
幸せとはどこから来るのだろう。どこにあるというのだろう。包み込まれるように無理やり握られた手と、やたら上機嫌のクロウの笑顔を見ながら思う。幸せとは。

なんてことはない。ふとしたはずみで、気づくものなのだ。



企画「ブルータス、お前もか」提出
11/12/06 短編
11/12/20 修正