分つ雨



 万丈目には、不意に思い出す言葉がある。夢とも現実とも断定できない、曖昧な幼少の頃の記憶だ。
 友人に区切りはありません──
 声など、少しも覚えていなかった。頭の中で繰り返す内に、自分の声でいつの間にか記憶に染み付いていた。それどころか、そう言った人間の名前も、顔も、とうに忘れてしまっている。言葉だけが残る、虚ろな思い出だった。
 もうずっと存在すら頭から消え去っていたというのに、その日に限って唐突に万丈目の頭に浮かんできたのはその言葉だった。脈略もきっかけも思い当たらない。
 特に気にもせずに寝ぼけた頭を叩いて、残り少ないアカデミアでの生活を過ごそうと、寮を出たのは早朝のことだった。朝の薄い空気は寝起きの体には涼しかったが、日が昇りかけた空は透明で、気持ちのよい位晴れ晴れとしていた。勿論今日は日暮れまでこの調子なのだろうと、万丈目は疑いもしなかった。

 だがそれすら忘れていた放課後。突然の雨だった。
 雑談を終えて校舎を出た直後だった。肌が湿ったような感覚がして指先で額を撫でると、その手の甲にぽつりと水滴が流れる。はて、と思って手を下ろした瞬間に、甲を追って見えた地面にぱたぱたと黒い染みが出来ていく。それから万丈目が走りだすまでには、数秒もかからなかった。
 翔から半ば無理矢理に渡された紙袋を傘代わりにしようかと思ったものの、気づけば守るようにコートの内側に抱えていたのだから、ブルー寮の部屋に駆け込んだ時には全身まんべんなく濡れそぼっていた。身代わりとなるはずだった紙袋だけが綺麗なままなのだから、律儀な自分の性格が恨めしかった。
 空から地面に伸びる水滴を掻い潜るように走ってきたつもりだったが、避けられるはずもなければ、変な所に意識をやったせいで、万丈目の足元には随分と泥が跳ねている。濡れ損もいいところだった。
 面倒だな──無意識に顔をしかめながら適当に水滴を払って、万丈目はすっかり水分を吸い込んだコートから濡れないよう、紙袋をテーブルの上に放った。
 万一雑に扱って中身に何かあろうものなら、翔が詰め寄ってくることは容易に想像できた。意識していないというのに、責任感の強すぎる学友の声が、万丈目の水の滴る頭にするすると流れてくる。


「万丈目君」
 帰り支度をしていた背中に声をかけられた時に、少しだけぎくりとした。単なるいつもの放課後の雑談の合図だ。翔に対して別段やましいことがあるわけではない。しかし選択肢は無くとも、万丈目は返事をするかどうか逡巡した。例えるなら三年で積み重なった予感というものが、その声色から感じ取れたのだった。それもいい予感というのは数えるほどもない。
 面倒にならなければいいが──と思ったのは、卒業までの残りの数日をまた騒動を収めるために過ごすのは、少しばかり辟易したからだった。
「何だ?」
 内心構えるように振り返った万丈目の元へ、椅子を避けながら翔が歩み寄ってくる。その手に取っ手付きの紙袋が抱えられているのに気づいて、万丈目は知れずそれを目で追った。
 翔はそんな万丈目を目敏いと言いたげにじっとりと見てから立ち止まると、まだ一言も発していないというのに、
「言っとくけど、拒否権はないからね」
と責めるような口調で紙袋を押し付けてきたのだ。騒動では無さそうだが、どうやら万丈目好みの用件ではないと瞬時に悟った。訝しげにもなる。
「……一体なんだこれは」
「万丈目君が自主的にはしなそうなもの」
「はっきり言わんかはっきり!」
 翔は話したものかと迷う素振りを見せた後、急にふっと力を抜いた。
「アニキへの寄せ書きッス」
 ああ──と万丈目は妙に納得するのを感じた。翔の唐突な態度にも、嫌な予感にも、これで説明がつく。
「俺はいい」
「拒否権はないからね」
 予想していたのだろう翔は、間髪入れずに先刻の言葉を繰り返した。
「万丈目君が書いたら、次は明日香さんに渡してよ。もう剣山君とレイちゃんには書いて貰ったけど、万丈目君が書かなきゃ皆に回らないからね!」
 否定した万丈目に、翔はもう口を挟ませまいとしているようだった。何としてでも書かせたいらしい。
 万丈目が書かなければ明日香も困るとまで付け加えて、それでも拒否するならまだまだ手はあると、やけに力の込もった翔の目に、万丈目は呆れて言葉を失った。どうしても全員に書いて欲しくて、一番に否定しそうな万丈目にどうやって書かせるべきか、今日一日ずっと考えていたのかもしれなかった。
 随分と暇な奴だ──と零すはずだった万丈目の声は、どうしてか口へと届かずに胸の中に収まってしまった。
 ざわつく教室から見える廊下は、黄色がかった蛍光灯の明かりで薄ぼんやりとしている。どうにも乗り気になれないのは、そのせいかもしれないと万丈目は思った。


 つい数分前の光景を思い返しながら、部屋干し特有の匂いのするタオルで、無造作に頭を拭きつつ紙袋を開く。A4の用紙をクリアファイルに挟み、更にビニールで包んだ丁寧な仕事が、いかにも翔らしいと思えた。
 言っていた通り、既に翔と剣山、早乙女レイの寄せ書きが用紙には書かれている。寄せ書きというからには額にでも飾れそうな、専用の厚紙が出てくるものと想像していたが、予想に反して出てきたのは、授業で配られるようなただのコピー用紙にしか見えない。
 しかしその薄っぺらの紙を手に取ってみると、なるほどと納得せざるを得なかった。

 ここ最近の十代は、殊に人と関わることを避けているように思える。別れが近づく度、それを惜しむあまりの慣れ合いの空気は確かに万丈目も些か煩わしく思ったが、十代のそれは卒業のセンチメンタルから来るものとは程遠いように思えた。
 言うなれば、進路だ。十代が人を避ける理由は、自分達が誰一人例外なく頭を悩ませた進路にあると、万丈目には確信があった。それは万丈目だからこそ分かる。分かっているからこそ、口を出すなどという考えは浮かばなかった。
 あれは一年の時だ。万丈目がカバンひとつでアカデミアを飛び出したのは、もう二年も前の事になる。その時の万丈目の頭にあったのは、まさしく進路のことだった。デュエルにさんざ負けたことで、これまで築いてきた己の姿の全てを否定されたのだ。自分を見失ってしまっては、どこへ向かうべきか、何をするべきかなど、分かるはずもない。
 ボートを拝借して海に乗り出す時、万丈目は誰にも別れを告げようなどとは思いもしなかった。ただ必要なのは言葉ではなく、一人の時間だったのだ。それは進学や就職に悩み、己を見つめ返すことと、大して違いはない。
 そしてもし、万丈目と同じような挫折を味わった十代が、まだ答えを見つけられずに卒業とともにこの学園を去るというのなら、最後に顔を見せに来るだろうか。
 万丈目には分かっていた。根拠のない確信があった。何より、翔が用意したこのA4一枚の薄さは、それを裏付けている。
「なるほどな……」
 十代の服なり鞄なりに、こっそり忍び込ませるつもりなのかもしれないと分かり、殆どため息に近い声を出すと、翔の必死な表情が脳裏に浮かんだ。
 十代という男をよく分かってやがる。──
 しかし感心したところで、全く気乗りしないことには変わりはなかった。

 ジャージに着替えてコンロへ火をつけると、途端に部屋が暖かくなったような気がした。万丈目は水を入れた小さな薬缶を乗せて、沸騰するのをぼんやりと待った。手持ち無沙汰だった。
 壁に寄りかかりながら呆然としていると、自然と目が吸い寄せられるのは、投げ捨てるように置いたテーブルの上の用紙だ。寄せ書きなど、お湯が沸く前にサッと書いてしまえるようなものだ。いい暇つぶしにもなるだろうし、数分もかからないだろう。
 思ったところで眉を寄せた。馬鹿馬鹿しいとさえ思えた。今更言う言葉などあるはずもない。三年間全てを纏められる言葉など、どんな分厚い辞書を引っ掻き回してもあろうはずがない。
 だがそこで、不意に思考が止まった。先ほどまで忘れていた雨の音が、急に部屋を満たす。静寂よりはずっと心地の良い音だった。
 三年間を纏めるといった己の思考が、頭の中で停滞している。万丈目の中の何かが引っかかって、流れをせき止めていた。
 ならばこれからはどうなるというのだろうと、万丈目は思った。

 翔や明日香とは、偶然ばったりと出会うことも、今まで通りとは行かずとも、偶に連絡を取り合うことも想像出来た。しかし十代はどうだろうか。万丈目にはいくら頭を捻ったところで、この先十代とまた、今までのような気軽さで会う姿を思い描くことが出来なかった。
 それは十代の向かう先がどこにあるか、見えてこないからかもしれなかった。万丈目がアカデミアを去ったのと、十代がアカデミアを去るのでは大きな違いがある。万丈目には少なくとも一度は、アカデミアの地を踏む予定があった。その為に旅立ったようなものだ。だが、十代にはそれがないのだ。
 どこへ向かうのか、何をするべきか、十代自身が分からず探していることを、万丈目が見当を付けられるのなら苦労などしないだろう。それが、十代との未来を霞ませている原因のように思えた。

 思えば、万丈目にとって最初から十代に関して理解できることなど無いに等しかった。性格も、目指すものも、成績も、趣味も、デュエルすら万丈目とは掠りもしない。
 何も背負わないのも十代だった。家名を背負う万丈目とも、兄と比較される翔とも、父の影を負うエドとも、十代は違う。万丈目だけではなく、万丈目が共感する誰とも、十代という男は重なりはしなかった。
 友人に区切りはありません。──
 浮かぶのはやはり、記憶の片隅に居座って唐突に浮かんでくる、その言葉だった。


 その言葉を教えた人物に纏わる記憶で万丈目が一等先に思い出すのは、本家の執事だったということだ。
 幼い頃の万丈目は暇を持て余すと、洋館の庭先で芝生の上に座りながら、先代が洋館を建てた時から雇っている庭師が、オブジェの意味しか持たないような植木を丁寧に整えているのをよく見守っていた。
 飽きもせず、と思うのは今になってからだが、面白くて見ていたわけではなかった。それ以外することもなく、仕方がないから庭師の仕事を眺めていたのだ。
 小学校に入る前に専属の教師を雇うようになってから、兄達と遊ぶことは無くなっていた。万丈目より先に授業を受けていた兄達は、各々の課題で精一杯だったようだ。父親の選んだ進学校に通うようになってからは、弟を構う暇は元より、学友と遊ぶ方が余程重要だった。
 一足先に社会を堪能している兄を羨ましく思いながら、その時の万丈目の相手は、教科書しかなぞらない口を持った期限付きの教師と、兄達が使い古した飛行機や車のおもちゃ、そして無言で植木の手入れをして帰るだけの庭師ばかりだった。
 まだデュエルに出会っていなかったその頃の万丈目は、熱意を燃やして没頭できるものを持っていなかった。兄達は子供だというのに禁欲的で、やれニーチェだデカルトだと、背伸びをしたような本ばかりに齧り付いて頭を唸らせていた。厳格な父親の手前恥じていたのか、凡そ子供らしい遊びというものをせず、寧ろ意図的に避けているようにさえ思えた。
 置いていかれたような寂しさを抱くのは当然だったが、口に出すのは憚られた。兄曰く、男というのは弱味を見せず、弱音を吐かず、あらゆる弱さを悟られないものだと教えられたからかもしれなかった。その兄は、勿論父親から刷り込まれたのだろうが、だからといって遊べないことで拗ねて、情けないと思われるのは癪だった。

 そんなつまらない意地で孤独を満喫していた万丈目に歩み寄ったのが、その執事だった。いつの間にか屋敷で姿を見なくなっていたので、子供の万丈目から見た執事しか知ることは出来ない。
 中等部に入った頃、ふと思い出して兄に聞いてみたが、万丈目が小学校へ入学する前に実家に帰っていったらしい。道楽などどいうものを持っているのかも分からないような、真面目のすぎる男だったらしい。特に興味もなかったので、それ以上詮索はしなかった。
 とかくその執事は、余生を過ごす老人のように庭先で日を送っている万丈目を、哀れに思ったのかもしれない。もしかしたら父親に相手をするよう言われただけかもしれない。どちらにせよ、万丈目の味気ない空白の時間は暫く、その執事と遊ぶことによって埋められていたようだった。
 もっとも、今では断片的にも思い出すことが出来ない、殆ど妄想のような記憶しか万丈目には残っていない。
 だがそれでも断定できるのは、その執事が万丈目が遡れる限りの記憶の最古の“友人”であったということだ。少なくともその時の万丈目にとっては、執事もそういうふうに接していた。だからそれだけは、何をおいても確かなことだった。

 友人に区切りはありません──
 どんな時に言われた言葉だっただろうか。万丈目にはどんなに頭を叩こうが、これ以上のことはチリひとつ分も出てこない。意味さえも知る由もなかった。
 それもそのはずだ。万丈目は執事の声も、顔も、名前も、出身も、趣味すら何一つとして知りもしないのだ。何一つとして──

 ハッとした。目の前で薬缶が、甲高い音を立てて湯気を噴き出している。火を止めるのも忘れてテーブルを振り返った。
 もう一人、理解できない男がいた。何年過ごそうが一生理解に苦しむような男が、万丈目のすぐ近い人間にいた。性格も、目指すものも、成績も、趣味も、デュエルすら万丈目とは掠りもせず、何も背負わない飄々とした無責任な男だ。
 それでも万丈目は十代と繋がっていた。いくら憎らしいと思うことがあれど、三年を共にしたライバルであり、友人だった。
 いつも万丈目に立ちはだかり、好き勝手動きまわっては後先考えずに引っ掻き回していく。責任もなければ全くの自由で、人生を楽しみを追うためのものだと思っているような男だ。遊城十代はどんなに考えようと、万丈目とは真逆の人間だった。
 それでも、友人だったのだ。気づけばはっきりと、万丈目の苦節を知る一人の友人であった。何年経とうが、それは変わりもしない事実なのだろう。
 そんな正反対の二人を繋いでいたのは何だったか。もし聞かれたとしたら、答えは初めからそこにあったのかもしれない。たとえ何も知らなかろうが、ぼやけた記憶の男を“最古の友人”だと考えていたように、そこには明確な答えがあった。
 この時、今日に限って名前すら忘れてしまった執事の言葉が異様に思い出されたわけが、万丈目には分かった気がした。

 ペンを握り直した。別れの言葉など必要ないのだろう。過去を振り返る必要など、こればかりもなかった。どんな友人かなど、今更考えなくとも良かった。
 最初から、俺達にはこれしか無かったのだ。──
 思ってコンロの火を止め、真っ直ぐにテーブルへ向かった。椅子に座って間もなく筆を滑らせると、頭を悩ませていた時間が嘘のように、インクの中に言葉が溶け込んでいった。

 雨はいつの間にかサラサラと屋根を撫でている。筆を置いて窓を振り返ると、カーテンの隙間からぼんやりと校舎の明かりが見えた。もうすぐ、別れを告げる学び舎だ。
「どこへでも行きゃいいのさ、十代」
 それがいつもと変わらない男の姿だ。
 気取った自分の声が弱まった雨脚に混じるのを聴きながら、万丈目は背もたれに身を預けて目を瞑った。
 しとしとと、静かな雨音が伝う。

 どうやら、長く続く雨では無さそうだ。




12/10/21 万丈目と寄せ書き