新き年に



「殿、今年は如何致しましょう」
「まあ暫し考えよう」
甘酒の香りが狭い部屋を覆っていた。万丈目はその香を肺まで吸い込んで、そのまま相好を崩した。佐助も笑う。
「旦那ぁ考えようったって、そいつぁ余裕があってから言うもんで。旦那は考える立場じゃなく働く立場でしょう。道場はいつになったらできるんで」
なみなみと湯呑みに白濁とした酒を注ぎいれながら、佐助の言葉を鼻で笑い飛ばす。こいつは来たぞと、万丈目は即座に感じた。佐助の悪癖は三年前から承知済みである。
「確か旦那が江戸にいらしたのは・・あぁ、そうそう、この時期じゃねぇですかい。てぇそうな御長身で長屋をどしどし踏み鳴らして歩くもんだから、おいらぁてっきり悪鬼でも来ちまったんじゃねぇかと」
ひっく、と佐助がしゃくり始めた。甘酒を大量に流し込んだ体から、噎せ返るような熱気が頭まで上ってくる。佐助の顔は、それほど赤いわけではない。
(今日は調子がいいのだろう)
何と言っても新年だ。万丈目はもうほとんど残りの無い徳利を逆さにし、湯呑みを満たした。そして僅かな酒さえも逃すまいと、注いだ格好そのままに徳利に口をつけ、滴る雫僅か一滴を舌の上に転がした。かがんだ拍子で頭がくらりとする。おい、聞いてるのか。佐助が名を呼んだ。ああ、聞いてるさ。十分十分。
「毎年同じ流れだ」
万丈目は朦朧として淀んだ意識で考えた。口に出したつもりはない。だがどうやら栓の抜けた頭から、いつの間にか漏っていたらしい。佐助がむっとしたのが分かった。
「何でぇ、毎年同じ流れたぁ。俺が何度も同じ事喋ってるって言うのかい。売れねぇ瓦版屋じゃねぇんだ。大体おいらぁ思ったことは一度しか口に出さねぇ。喋れば喋っただけ言の値が下がるってもんだと、へぇ、確かどっかのお侍ぇが大言してたな…ははぁ、菊屋の通い者だぁ」
へへ、と気の抜けただらしの無い声を出して、佐助は遂に顔を真っ赤にした。酒徳利がごろごろと転がった中に、幾分上擦った声で弁舌を振るう。結局請け売りではないかと思ったものの、万丈目は面倒事を敢えて増やす様な真似だけは、もう決してしない。先ほどの失態から学んだのだ。


万丈目が口入屋の武藤双六なる親父から甘酒を大量に貰い受けたのは、暮れ六つが鳴り終えた頃だった。無論、空は暗い。丁度件の七日七両の用心棒家業を終えた時分であった。年始めとあって、双六への契機も上々で、大抵の元主が甘酒をくれるものだから困っていると、双六は少しもその色を見せぬ顔で万丈目に寄越したのだ。
ふん、贅沢な悩み種だな。減らず口を叩きながらも、万丈目はその徳利を返さない。返す理由も無いのだが、何よりもまず、この狸親父のお零れにあやかっていた方が得策だと、この男は知っていたからだった。
──三沢は此処へ来たか。
栓を閉めた徳利を抱えて、礼より先に男の消息を聞いた。かれこれ一月と会っていない。最後に交わした会話も虚ろで、妻の病態が未だ良くならないと、所在なさげに話していた記憶がある。本来ならば見舞いにでも行くべきだったのだが、気にかけてはいたものの、師走の忙しさに気をとられ、今日まで見舞いに行かずじまいだったのだ。
──いいえ、大晦日が最後でございますよ。御方様がご病気という事でございましたから、精のつくように寒鰤を差し上げました。
そうか、来ていないのか。万丈目は双六の口元を見つめながら、ぼんやりと思った。
──もし宜しければご様子見に伺っては如何ですか。私も三沢様には甘酒を召し上がっていただきたいものですし。それに何より、御方様の体にも宜しいでしょう。
双六が言い終える前に、万丈目は一揖していた。
(よし行こう)
心は既に隣町の長屋へと向かっていたのだった。
いつもながらではあるが、終始、双六に礼の言葉は述べていない。双六も、其れが万丈目の、この男にしかない独特な性格であると承知していた。礼を言われずとも、別段不快に思うこともない。
国元でも太閤時代からの由緒ある商家として一目置かれ、商家にもかかわらず扶持をとり、幼少から武家と違わず文武共に教え込まれてきた男が、礼節を知らぬわけがない。暫し遊学にと設けられた三年の期間を、恐らく万丈目は家督の重圧に追われるように日々急いて生きているに違いない。双六は其れを我が身のことのように理解することが出来た。其れゆえ、双六は万丈目を受け止める。江戸にしがらみを捨てに来たのなら、己が行き場を作ってやろうと、崩れかけた狭い間口を大きく開けて、せめて迎え入れてやるのがいいだろう。
あえて麻の羽織をなびかせる万丈目の背を、その温厚な目で双六は、そう見ているのかもれなかった。

「少しは三沢の旦那を見習えやい」
佐助の声で、はと目を覚ました。覚えず、寝ていたらしい。噎せ返るような長屋の空気が万丈目を夢中に落としていた。
「佐助、今何時だ」
ふらつく肢体を這いずらせて、戸を開ける。夜半の風が、火照った体に心地よい。
「夜鷹もそろそろ帰ぇる頃さ。腹でも減ったのけぇ」
「いや、──ああ、そうだな」
へっ若ぇのはいいな。佐助は空の徳利を転がして、ごろりと横になった。開け放った戸から寒々と吹き込む風が気持ちいいのか、まどろむように瞬きを繰り返している。
「俺ぁ無理だ」
俺ぁ無理だ。佐助が唸る。万丈目が佐助を無理に引っ張って、蕎麦を食べに行くとでも思ったらしい。心配するな。万丈目は笑って言った。
「蕎麦がもう帰ったと言ったのはお前だぞ」
その言葉に、違うと佐助が言った。
「俺は年だし才もねぇ。三沢の旦那にだって妻子がいる。お前ぇはいいなぁ」
また繰り言かと思ったが、佐助の零す言葉は万丈目の予想していたものではなかった。
「何がいいというのだ」
戸を三寸ほど開けたまま、ごろりと寝転んだ。俺の生活なんて先々が見えてる。もうあと数年も逃れられない事を、万丈目は知っていた。だからこそ、「暫し考えよう」なのだ。
「金がねぇのは、皆同じだ。けどお前ぇには時間がある。だからこそ、考えてる暇なんて、必要ないんじゃねぇのか」
酔いが醒めてきたのが、将又酔ったからこそ、腹にためかねた思いが口をついて出たのか。もしかすれば、一番道場経営を案じているのは、佐助かも知れぬと、万丈目はだんだんに冴える頭で考えた。
三沢も、同じような事を腹に据えていたに違いない。口には出さぬが、瀟殺とした後姿を見れば、自ずと其れが分かった。見舞い酒だけ置いて帰ってきたのは、その所為だ。
時間はある。だかそのある時間をどう工面すればよいのか、そのすべが俺にはないのだ。
誰かこの八方塞のいずれか一方を、快く受け持ってくれまいかと願うのだが、やはり其れは失念のうちに終えるのだった。
どうやっても俺は家督を継がなければならないらしい。
「何がいいというのだ」
精一杯醜悪の情を込めて、万丈目は己の鬱積した憤怒を吐き捨てた。佐助はもう、何も言わない。
風が、息苦しい空気を押し上げた。戸の隙間から厳浄の空が見える。仄かに明るい、星月夜である。
どこかに行こうか。万丈目は思ったが、どこに行こうにも、もう木戸は閉まっている。
──十代。
何となく、飄々とした男の顔が浮かんで、静かに風の中に消えて行った。




10/02/17 GX江戸パロディ