人の自慢というのは、聞いていて飽きない。自慢といっても、私の周りの人間がするものなど、ドローパンの引きがよかっただの、小テストの成績が満点だっただの、欲しかった雑誌が届いただの、はたまた吹雪さんと目が合っただの、日常のほんの些細なことだったりする。
広大といえど、やはり孤島の学校ということで、多少閉塞的な気持ちにはならざるを得ないのだが、そのためか、この学校の人間というのは、冷静に考えれば取るに足らないことを大きく取り上げて、自身を満足させる術に長けているようだ。
斯く言う私も例に漏れずそのひとりで、日がな楽しみを見つけては、蓋を開ければ他愛もないただの日常話だけの自慢大会に、情熱の幾分かを費やしていたりする。

けれども、そんな私でも話せないことが一つある。いや、話さないのだ、話したくても、話してしまえばその煌きがなくなってしまう気がして、いつかその時が来るまで、心の内でひっそりと温め続けたい。
そんな話を、私はずっと胸に抱いている。



ピストルはまだ鳴らない


。廊下で呼び止められた時、これは幻聴かと思った。後ろを振り返れば、確かにその声の主、万丈目君がこちらに向かっている。
高鳴る胸を抑えて、とりあえず当たり障りもないようにと、挨拶を返す。
「お、おはよう…万丈目君」
「ああ。ところで、今日の放課後は空いているか」
「え、」
「少し聞きたいことがある」
放課後の予定を聞くなど、まさか告白かと期待しないわけでもないけれど、この会話を聞く通り、万丈目君と私は大して仲がいいわけではない。いわゆるクラスメイトで顔見知りというものだ。
そんな万丈目君に呼び出されるとなると、接点が少ないのだからひとつやふたつ思い当たることがありそうなものだが、何しろ本当に偶にしか話さないものだから、これといった理由は見つからなかった。
とりあえず、大丈夫だとだけ答えると、では放課後に迎えに行くと残して、万丈目君は理由も告げずに、颯爽と廊下の角へ姿を消した。

万丈目君に話しかけられた。それは私にとってこれ以上ない大スクープで自慢の種だったのだが、彼のこと、殊にさっきの会話に関しては、どうしても話題に出す気になれなかった。


さん、聞いていますの?」
「へっ?」
私を呼ぶ声にはっと顔を上げると、不満げに眉を寄せたももえと目が合った。どうやらまったく話を聞いていなかったようだ。
少し寄ったももえの眉間に苦笑しながら謝る。
「あ、ごめん…ぼーっとしてた」
隣に座っていたジュンコからため息が漏れた。
、今日はずっと心ここにあらずって感じね。何かあったの?」
あまりにも無反応だったのだろう。流石にいつもと違いすぎると思ったのか。ジュンコは今までの話を切って、心配した風に首をかしげた。それにももえが声を上げる。
「まあ、いけませんわ。苦しいことは口に出してしまわないと」
「いや、そんなんじゃ、」
本当にそんなつもりはなかったし、基本的にお気楽な性格な私が、取り立てて話すような悩み事もない。しかし、わざわざ並んで正面から見つめてくる二人の目は、最早心配というよりも、搾り出しても吐かせてやる、といった色までをも含ませていて、とりあえずはどうやって宥めようかと思案することにした。
そんな私をよそに、ジュンコは「まさか…」と呟いて勢いよく机を叩いた。ももえが小さく悲鳴を上げる。
授業の合間の教室だ。人はそれなりにいるし、その中で大きな音でも立てようものなら、周囲の目は集中するに決まっている。
赤青黄とりどりの色の前に晒されながら、何故か興奮した様子のジュンコに私は肩をがっしりと掴まれた。
「恋?!恋なのね!!」
「ちょ、ジュンコ…!!」
何でいきなりそうなるの!そう言おうとするが、ほんのりと頬を上気させたジュンコに届くはずもなく、「誰なのよ相手は!その様子だと片想いね?!」などとどんどんエスカレートしていくばかりだ。
ももえに至っては、さっきまでジュンコに粗暴だの野蛮だのとぶつぶつ言っていたくせに、今では両頬を包んで、「まあ…」と微笑んでいる始末。そちらにも精一杯突っ込んでやりたいのだが、目下勝手に高ぶったジュンコを宥めなければと、着々と迫り来るしなやかな肢体を止めるために、私も負けじとジュンコの両肩をがっちりと掴んだ。

「離しなさい!!」
「ジュンコ落ち着いて!とにかく落ち着いて!」
「いいじゃない、ちょっとくらい!吐けば楽になるわよ!」
「それ高校生の台詞じゃないよ!朝日のマークつけたおじさんたちが言う言葉だよ!」
さん、私たちじゃ頼りにならないかしら…?」
「だから誤解だってーッ!」
短い休み時間をブルーの女子生徒が互いに両肩を掴みあって叫んでいる光景は、さぞかし滑稽なものだろう。
早くこの事態を収束するチャイムよ鳴れと願うばかりだが、それが一向に鳴らない。いつもは光の速度で過ぎる時間が、どうして今日に限ってこんなにも遅いのか、そして私は何を恨めばいいのか。心中でも何一つ解決しないまま、ももえが見守る中、ジュンコと熱いガチバトルを繰り広げていると、見慣れた姿が視界に現れた。
「あなたたち、一体何をしているの…?」
ああ、愛しの我が救世主明日香さん…!
授業配布プリントを抱えて呆れ顔で見つめる明日香の顔を見て、私は自分でも分るほどぱっと頬の筋肉を緩ませた。急に肩を掴んでいた腕の力が緩んだことで、ジュンコの馬鹿力は行き場を失って、ほんの少し前のめりになった。
そんなことは気にも留めず、完全にジュンコの元から身を翻して、明日香の背後に回る。
「ちょっと、どうしたの?」
身の回りがうるさくなってきたのに巻き込まれると不安を感じたのか、明日香が尋ねるが、私とジュンコの耳には入らない。体を持ち上げたジュンコが叫んだ。
「汚いわよ!」
「助けて明日香さぁん!」
明日香の細い腰を掴んで逃げの体制に入った私を、ジュンコがなじる。
ももえと来たら完璧に傍観の域に入って、時折「まぁ、」だの「あら、」だの言って笑うだけで、一切こちらには関与しようとしない。その癖いつもおいしいところは持っていくのだから、こういう人間を漁夫の利というのだろう。
「もういい加減にしなさい。そろそろ授業も始まるわよ」
そう言われて教室の時計を見てみれば、針は開始時刻の上を指しているようだ。あと少しでチャイムも鳴るだろう。
流石にこれ以上は騒げないと思ったようで、ジュンコはしぶしぶ「はーい」と気の抜けた返事をした。
、今日は絶対離さないからね」
「うふふ、私も混ざってしまおうかしら」
「うえ、勘弁してよ」
解放されたと思った途端、ジュンコとももえが目を光らせる。「まったく、何の話をしているの?」という明日香の問いに、「後で教えますわ」と楽しげに話すももえを見て、そもそもこんなことになったのは、私が考え事をしていたからか、と後悔した。
「で、、いつまで私の腕を掴んでいるの?」
明日香が笑いながら私の手を叩く。
「わっ、ごめん」
言って手を離して明日香から一歩下がると、肩を誰かにぶつけてしまった。
「悪い。」
「あっ、すみま、」
せん。中途半端に言葉が切れてしまった。勢いよく後ろに下がったわけではなかったので、ぶつかった痛みもそれほどではない。けれど一瞬視界が揺らいだ。眩暈とは違う。
か、すまなかった」
言葉が出なかった。一言告げて階段を下りていったのは、他でもない、先程までの私の考え事の中心人物、万丈目準だったからだ。
いつ見ても凛とした横顔と、背筋の伸びた背中。ただそこにいるだけで全ての空気を変える、そんな万丈目君に、私はあこがれていた。

ぼーっと、万丈目君の立ち去る後姿を見つめていると、「あ、あ、あ…」という震えた声でジュンコが私を指さした。「ジュンコさん、人を指差してはいけませんわ」というももえの声も案の定無視して、さっき明日香にたしなめられたばかりだというのに、教室中に響き渡る声で叫ぶ。
「アンタまさか…っまさか万丈目ぇえぇ!?」
皆まで言わせる前に、速効魔法もびっくりなスピードでジュンコの口をがっちりと抑え込んだ。

大丈夫、よし大丈夫だ「まんじ」で抑えた。「まんじ」だった、確かに「まんじ」だった。
塞いだ手の下でジュンコが苦しそうにもがいている。絶対にこの口は開かせまいと私も段々に力を込めるため、余計にジュンコの呻き声も大きくなる。
「何やってるのよ」
ばしん。終いには、唯でさえ細胞の少ない頭に追い打ちをかけるように、明日香の渾身の一撃を喰らわされた。
「何すんのよ!」
「ジュンコが悪い!」
私たちの再戦の火蓋を押さえつけるように、チャイムが鳴り響いた。続きは放課後よ。目で訴えてくるジュンコに、何が何でも逃げきってやると私は舌を出してやった。

万丈目君が好きかと聞かれれば、私は好きだと答えることしかできない。何せ好きじゃないなどと答えれば、嫌いなのかと返されるのがお決まりだからだ。それは私の感情とはまったく違う。
ならば好きという言葉がどれだけ私の気持ちに沿っているかといえば、100%その通りだとは言えないのだ。
私にとって万丈目君はあこがれの存在であり、それ以上でもそれ以下でもない。恋慕の情というよりも、いわば羨望の意をもって、万丈目君の背中を見つめてきた。
あの時、万丈目君があのデュエル場に立ち上がった時から、私は万丈目準という人物に興味の大半を奪われていた。

斜め前方に黒い背中を見る。黒板に貼り出された資料を眺めるその顔は、凛としているのに力強さを秘めている。ひときわ光る漆黒の目を見る度に、私は万丈目準という人間を考える。
胸の高鳴りとか、鼓膜を震わせる歓声を。
そして私が初めて万丈目準と向き合った、二年前のあの時を。


デュエル場に立つ彼の自信に満ちた、それでいて飢えた目をした眼差しに、私は惹かれた。
以前から見聞きしていた彼とは、少なくとも観客席から見た限りでは、まったくの別人のように思えた。あれ程までに、自身と希望と勝利に光る目を、かつて彼に見たことがなかった。
もしかすると、彼は死んでいたのかもしれない。
常に上に立つということによって、高みへ望むことの胸の高鳴りを、失ってしまっていたのだろう。

広いドームにサンダーの掛け声が響く。誰もが腕を掲げて、声の限りに叫んでいた。

今でも熱に満ちたドームの震えが耳に残っている。その場にいた人々全員が熱くなったあの一瞬の興奮が、あの時の私には嬉しくて、少し寂しかった。
本来アカデミアの生徒であった彼が、こんなにも頼もしい変貌を遂げたというのに、彼が立っているのは向こう側、ノース校の方だという事実が私を素直に喜ばせてはくれなかった。
真っ青な制服の、成長期の滑らかで、それでいて力強い背中を見て喜びたい。興奮しながらも、そういう気持ちが歓声の中を浮き沈みしていた。
しかし、彼がノース校の生徒であったことで、彼の表情の一挙一動を余すことなく見れたことは、幸いだったのかもしれない、そうでなければ、私はこのときに彼という存在をこれほどまで心には刻まなかっただろうし、デュエルを観戦していた生徒は、彼がまったく変わったことに気づかなかったかもしれないからだ。

二校の代表が退場すると、私は歓声を掻い潜って、一目散にデュエル場から駆け出した。
もう空は暮れかかっていて、紫色の雲が校舎から港のほうへとゆっくりと流れていた。どこか静かな場所へ涼みに行くのだろう、茂みに向かう彼の姿を見つけて、私はせき切って声を上げた。
「ま、万丈目くん…!」
一つのデュエルにすべてをかけた、あの真っ直ぐで飢えを潜めた目が、私を振り返った。
「何の用だ」
無表情に射抜かれ、まだ整わない呼吸を落ち着けようと、胸に手を当てる。と、自分でも驚くほどに手が震えていた。走ってデュエル場を抜け出してから、彼が出てくるまで大分経っているのに、鼓動も収まらない。
そこで私はようやく気づいた。
私は、緊張しているんだ、と。

もう一度呼びかけようと思って口を開くと、あ、あの、と耳に届くか届かないかのか細い声が出た。喉が震えるというのは、音を出す以外にもあるものなのかと思った。
顔は真っ赤だというのに、手は冷水に浸したかのように冷たく、その上喉が震えて声がひっくり返る。
「用がないのなら行くが、」
冷やかしなら帰ってくれと言いたげに眉を寄せ、訝しげに私を見下ろす。
逆光で翳る彼の姿は黒々としていて、その存在が強調されている。
「もっ…もう、」
彼が踵を返そうとするのと、私が勇気を振り絞ったのはほぼ同時だった。彼の表情を伺おうともせずに、ただ吐き出すように言葉を向けた。
「もうアカデミアではデュエルはしないんですか…ッ」
まだ、デュエル場に木霊する彼の声が、鼓膜を震わせている。
私はもっと彼にいて欲しかった。また彼のデュエルを見たかった。変わった、そして変わってゆく彼の姿を見てみたかったのだ。
それが彼に伝わったとは思っていない。たった一言で、この気持ちが伝わるわけがない。あの時、あの一つのデュエルで、確かに憧れとなった彼に、湧き上がる私の興奮は言葉では伝えられなかった。
けれど、ともすれば無愛想に聞こえる私の声を聞いた後、彼は私の目を見て黙り込み、すぐにニヤリと笑った。
「そんなわけがなかろう」
校長に会ったら、少し経ったら行くと伝えておいてくれ。ちゃっかりとそう告げてから、彼はきらめく赤色の地面を蹴って、茂みの中へと身を翻した。
その後姿は私が思うよりずっと男らしく、間近で見た彼の背は、こんなにも大きかったのかと、木々の梢に影までもが消えるまで、私はただただ呆けたように、彼—万丈目準を見つめていた。

どの瞬間にあこがれとなったのだろう。二年前の始まりをこんなにも鮮明に覚えているというのに、理由というものを留めていない。ただ私は万丈目君が好きで、その存在に強く惹かれたということなのだ。

、終わったばかりですまないが、ついてきてくれ」
「へ?」
いつの間にチャイムが鳴ったのか、気づけば周りは教室の出入り口に急ぐ生徒でざわめいていた。ノートも筆記用具もそのままに、声の主を見上げると、今朝言っていたことは本当だったらしく、授業道具を小脇に抱えた万丈目君が私を待つばかりと立っていた。
ジュンコとももえがあからさまに黄色い声を上げる。「嘘、知らない間に…」だとか「さんったら中々やりますわね」という抑えきれない声が漏れてくるが、この際突っ込みは後にしようと、道具をかき集める。情けないことに、手が少しばかり震えて、消しゴムを何度も落としそうになりながら、やっとのことで筆入れに詰め込んだ。
私が片付け終えたのを見届けて、万丈目君がジュンコたちに声をかけた。
「少し借りていくぞ」
「あっ、ま、待って」
一言告げて出口へ向かう万丈目君の背を追いかける。振り向いてごめん、と手を挙げたが、まったくこちらのことは眼中にないようで、二人できゃあきゃあと声を上げて手をたたき合っている。「あなた達、さっきからどうしたのよ…」と明日香が聞いているのにも、興奮の余り言葉が出てこないようで、もう行こうと私は明日香だけに手を振って教室を飛び出した。
万丈目君は、律儀にも教室の外で私が出てくるのを待っていた。
「そ、それで、聞きたいことって…あっ」
早速用件を聞こうと口を開くと、遠慮なしに手を掴まれて、ぐいぐいと引っ張られた。万丈目君!と声を上げたが、一向に答える気配もなく、私の手を引いたまま湾曲した長い廊下をひたすら突き進んでいく。
後ろを振り向くと、ジュンコとももえが出歯亀を狙うようにこちらを伺っている様子が見て取れたので、その行動に何となく納得した。
万丈目君は、そういうのを嫌いそうだ。

そのまま立ち止まることなく、万丈目君はアカデミアの校舎を出た。生徒は大分散ったようで、正面玄関にはまばらに人影が見えるのみとなっていた。しかし、万丈目君は止まらない。まだ、手も繋がったままだ。
一体どこへ行くのだろうと、段々に硬くなって来る身を叩いて、私は駆け足で彼の歩幅を辿った。
「急いでしまって悪かった」
急に万丈目君が口を開いた。少しずつ、歩く速度が落ちている。
「用というのは大したことではないんだ」
正門を出て、西へ向かう。アカデミアの放課後は静かだ。風も雲も光さえも、ゆっくりと流れていく。万丈目君もそれに乗せるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「何となく、今日話さなければならない気がしてな」
「…うん」
ここまで来ても、何の話かは全く見当もつかない。ただ、少しずつ言葉を紡ぐ万丈目君に合わせて、私もひとつずつ相槌を返すべきだと思った。
万丈目君の歩幅が、私の歩幅と重なる。

「2年前を覚えているか」
唐突に、心がざわめく。驚いた表情で万丈目君を見上げた。逆光で顔は陰っていたが、眼だけは光を浴びて煌いていた。漆黒の、私が惹かれた目だ。
覚えていると頷くと、万丈目君は立ち止って、私の手を離した。
「これから言うことは、聞き流してくれて構わん」
俺の独り言だとでも思ってくれ。有無を言わさぬ口振りで、万丈目君は私が再び頷くのを待つと、安心したように口を開いた。
「俺は落ちぶれた人間だ。兄弟の中でも落ちこぼれと言われ、唯一頂点に立っていたアカデミアでさえ、地の底に落ちた」
それはまだ万丈目君がブルーの生徒で、重い荷を背負っていた時期の話だ。聞いている、私は声がしかと届いていると伝わるように、万丈目君から目を逸らさなかった。
「しかし俺は諦めなかった。再びこの学園で頂点に立とうと、そう誓ってノース校を訪れた」
赤い日が差している。まるで2年前のあの日のように、私たちは同じ光を受けて向かい合っている。
「けれど、ノース校の頂点に立ったところで、俺が背負う荷は変わらなかった」
ただ姓に課せられた肩書を背負うに、制服を青から黒へ変えただけのことだった。と万丈目君は眉を寄せた。

不思議な感覚だった。毎日話すわけでもない、席も近いわけではない、ただ偶に些細なことで言葉を交わすくらいの仲だった万丈目君が、ここまで打ち明けて私に心をさらすのは、どこか違う世界にいるようにも感じられた。
力になりたい。私は今までずっと、勇気をもらってきた。デュエル場で見たあの自信と飢えが入り混じった瞳に、風にはためく長いコートを翻らせるその背中に、私は幾分の光を貰ってきたことか。
僅かに言葉を詰まらせた万丈目君に、精一杯の感謝の意を込めて話しかける。
「私にできることは、何ですか」
万丈目君が、驚いたように目を開いた。
「お前は、本当に変わらないな」
そして続けて、俺はもう貰っている。と、ひっそりと笑った。
「さっき、2年前を覚えているかと聞いただろう」
私は静かに頷く。何もかも、一分一秒さえ、覚えているかもしれない。
「貴様に呼び止められた時、確信した」
万丈目君は後ろを振り返った。鬱蒼と茂るその奥に、赤々と輝く空が沈む場所がある。2年前、丁度今日と同じ時期に、私は正門の近くで万丈目君を呼び止めたのだ。
頭上を通り過ぎる紫色の雲と、目の前の黒に、私は強い既視感を覚えた。風が時を滑って行く。
万丈目君の言葉が、静かに流れた。
「あの時、あの客席の中で、心からオレを学園に留めておきたいと願ったのは、貴様だけだった」
その風に乗るように、以前感じたよりすっかり逞しくなった背中が、ゆっくりと私を振り返る。

万丈目君があこがれとなったのは、どの瞬間からだったのだろう。今でもそれは思い出せない。けれど、2年という長い月日を経て、あこがれが姿を変えたのはこの瞬間であると、私は確信できる。
漆黒の、自信に満ちた、それでいて飢えを潜めた目が、私を捉える。
「どうやら俺は、」
あと一言、あと数秒。
「貴様を、」

私の恋が、始まろうとしている。



(ほのぼの100題/028/ないしょの話)
10/01/14 短編