気づかなければ良かったのだろうか。



ラプソディ・イン・ブラック



「あ…」
思わず声が漏れた。アカデミア一の収容率を誇る教室の中間地点で、私は頭ひとつ下にある万丈目の肩を見て、シャーペンを落としかけてしまった。すんでのところで握りなおす。
斜め前に座っていた翔が少しこちらを振り向いた。
「どうしたんスか?」
クロノス先生の授業のためか、いつもより声をひそめて聞いてくる翔に曖昧に笑い、小さく手を振った。
「ん、いや、何でもない」

これは見過ごしてはいけない。
翔が姿勢を正したのを確認して、視線を元に—声をあげた原因である万丈目準に戻した。
万丈目の肩には、明らかに制服の汚れではない、埃のようなものが落ちている。ノース校のキング、そしてジェネックスの優勝者として誉れ高いこの男に、このまま表を歩かせては恥をかかせることになる。
実際のところ、私には万丈目のプライドとか肩書などどうでもいいのだが、見つけてしまったからにはどうにかしないと心が落ち着かない。
肩の上に白い埃のようなもの—そこは万丈目の矜持のためにも汲み取ってやってほしい。—を乗せたままいつもの調子で格好をつけられた日には、その事実を見過ごした私が罪悪感と羞恥心で発狂してしまいそうだ。正直に言おう。今現在もかなり心苦しい。
隣に座る翔やいつもしつこく絡んでいる十代は気付かないのだろうか。まあ、洞察力の低い彼らのことなら気づかなくても仕方がない。
先程ひと時の別れを告げた水色の頭をぼんやりと見つめながら頬杖をついてそんなことを考えてみたが、いやいやそんなはずはない。いくらスルースキルが高くて鈍感な彼らでも、目の前の黒一色にいきなり白い点が現れたら、それはもう「何だろう…?」とか少しでも思うだろう。
ならば彼らは気づいていて尚且つ、万丈目の山よりも高いプライドを傷つけるようなことは伝えられないとしり込みをしているに違いない。言いたいが言えない、伝えていいのかもわからないという最大級のジレンマに悩まされているのだきっとそうだそうに違いない。
(うわぁ、心苦しい…)
他人の心情まで深読みしていたら、さっきまで感じていた羞恥心が一気に上りつめて、いよいよ何とかして万丈目に伝えてやらねばと強く思い始めた。こんなに使命感に捉われるのは久しぶりだ。かれこれ一年振りだろう。それも、万丈目がレッド寮の外に放置していた家具や装飾品が傷んだり盗まれたりしないかといった、今考えると本当にどうでもいいことに熱意を燃やしていたのだから、今回のことも冷静になってみれば取るに足らないことかもしれない。
思考がそこまで至った時、この数分間自分が思いつめていたことが馬鹿らしくなった。よく考えれば、今日の授業もこれで最後だし、授業が終われば各寮一斉に入浴が始まる。そうすれば、万丈目だってコートと自身の汚れを全て洗い流すに決まっているのだ。
ようやく完結したところで、タイミングよくチャイムが鳴る。ざわめく教室の中をフライング気味に走り去っていく姿も見られ、よし、これで風呂に入れば安心だと無駄に遣っていた気を緩めた。
「はぁー疲れた疲れた」
さん、おばさん臭いっス」
「しょうがないでしょー?さっきまで一年分の気を遣っちゃったんだから」
「どうせくだらないことっぽいっスね」
「はいはい、その通りっすよ」
余程疲れているのか、いつも以上に歯にきぬを着せない翔の台詞も大人な対応ですり抜けて、机の上に残った消しカスを手の甲ではじいていると、授業道具をまとめ終えた万丈目が立ち上がった。ふと、脳裏を微かに不安がよぎる。
「万丈目ー、今日の夕飯何だか覚えてっか?」
「さんだ。オレが知るわけがなかろう」
まだ眠気冷めやらぬといった気の抜けた声で十代が尋ねると、万丈目が心底どうでもよさそうに返す。
なんだろう。この胸に残る不安は。
消しカスを集め終えて、再び万丈目へ目を戻すと、やはりそこにある白い埃。うん、どう見てもやはりそれは埃ではない。と、
「あ…」
思い出した。
以前十代が言っていた。万丈目は、一週間、風呂に入らなくても平気、だと。

「万丈目!!ちょっとついて来て!!」
「さんだ!のわっ、っ、貴様何をする!」
「いいから!」
気づけば万丈目の腕をぐわしと掴んで、有らん限りの力で引きずっていた。これはもう、見過ごせない事態だ。


レッド寮一頑丈なドアを叩き開ける。勢いよく開けすぎて、跳ね返ってきたドアに万丈目の頭が当たったが、そんなことは気にしていられない。「ッ、貴様…!!」という痛みにうめく様子に少しばかり胸が痛んだが、謝っている時間すらもったいないのだ。許して万丈目、これもすべてあなた自身のためなんだ。

綺麗に整えられた万丈目ルームを我が物顔で横切って、二つ三つ開ける。一人で使うには勿体ないほど広く、整然と並べられたタイルが滑らかに光る浴場が目の前に開けると、その中に万丈目を放り込んだ。美しくも硬いタイルの上に倒れこんだ万丈目の、二度目の呻き声が響いた。
「いきなり何なんだ貴様は!」
誰だっていきなり強引に連れてこられた揚句、ぞんざいな扱いを受ければこのような反応をするだろう。
万丈目は相当怒っているようで、身を正すのも忘れて浴室に座り込んだまま、私に向かって目をつり上げた。
うん、連れてくる過程はやりすぎたかもしれない。そう思ったが後悔はしていない。何せ今の私は強固な意思の元に行動しているのだ。
「ごめんなさい。ひとつ聞きたいことがあるんだけど、」
スムーズな返答を促すべく、あくまで丁重に言葉を紡ぐ。へりくだり過ぎずといったところがポイントだ。まぁ、万丈目は下手に出れば出るほど調子に乗ってくる奴なので、この場合やり過ぎと言うくらい慇懃に畏まったところで疑念を抱くことはないと思うが。
「何だ、俺は貴様と違って暇じゃないんだ」
案の定、万丈目は少し話に耳を傾ける気になったようで、体を持ち上げてゆっくりと立ち上がった。
ここまで来たら詰んだも同然だ。原因の万丈目の肩を見遣って、私はおもむろに口を開いた。
「最後にお風呂に入ったの、いつ?」
は?といった顔で、万丈目は私を見返した。次いで、くだらない。そんな風に考えているのは手に取るようにわかる。
「くだらん」
やはり万丈目は呆れたように腕を組んだ。
「そんなことのためにこの俺様を呼び出したのか」
私が聞きたいことはそんなことではない。何としてでも答えを聞かないと、私は万丈目を離すつもりはない。自分自身で思う以上に、私の意志は固いのだ。さぁ、しらを切れるものなら切ってみなさい。
そんなことを考えながら、万丈目の返答を無視して、
「いつ、入ったの?」
少し強めに繰り返すと、目の前の男は面倒そうにため息をついた後でたっぷり間を開けて、「毎日入っている」と告げた。
これは、明かなる、嘘だ。

「一日二日ならまだしも、あろうことか毎日だって…?」
静かに浴室のドアを閉める。鍵は掛けていない。掛けずとも逃がさん。
「当り前だろう、さっきから何が言いたいんだ」
「じゃあ証拠はあるの?毎日入っているという証拠は」
「何故そんなものがなければならん。俺が入っていると言っているのだ。それが証拠だろう」
さも当然と言わんばかりの俺様発言に、私の眉がひくりと動いた。ここまでわかりきった嘘を通せる者も、この男を除いて中々いないだろう。そういった点においては感服せざるを得ない。
しかしそれとこれと話が別で、恐らく数日どころか、十代が言うように一週間風呂に入っていなくてもおかしくない状況で、そこまでしてしらを切る必要があるのか。これは何としてでもその入浴観念を更生させないといけない。
いよいよ使命感に助けられ、私の心は一瞬にして決まった。使命?いやいやこれは義務なんだ。
そんな私を置いて、万丈目は己の嘘を暴かせまいと必死に繕う子供のように、息つく間もなく言葉を紡いだ。
「それとも、貴様は俺が風呂に入っている時間を狙って覗きにでも来ようと言うのか?」
「…はい?」
「まぁそうすれば証拠にはなるだろうし、貴様の悪趣味もそこで満たされるだろうがな」
待て待て、この男は何を言っているんだろう。私の正義に満ち溢れた頭では到底理解し難い言葉が羅列されている。
嘘を守りたいのならもっと賢いやり方があっただろうに、そうでなくてもただ見え透いて馬鹿げた理由を並べ立てていれば、少なくとも私の心に火をつけなかったかもしれない。しかし万丈目は言った。
「貴様の趣味はとやかく言わんが、俺を巻き込むな」
そこで私の沸点は訪れた。

ずいっと、万丈目の前へ詰め寄る。腕組をしてそっぽを向いたまま「何だ」と不機嫌そうに問われたので、即座に返答不要と判断して万丈目の肩を掴んだ。
覗きなんてとんでもない。第一一週間に一度も入っているか微妙な人間の入浴シーンなど、どうやって拝めというのだ。その代りに、もっと簡単に掴める証拠が目の前にある。臭いだ。

万丈目の目の前に立ってみて気づいたことがある。万丈目は、私が思うより背が高い。香水やコロンで容易に臭いを消せる服や体と違って、頭は風呂に入らなければ、たとえ整髪料をつけていたとしても誤魔化せはしないだろう。そう踏んで肩を掴んだのはいいものの、思っていたよりも身長に開きがあって、無理にでも引っ張らなければ確かめられそうにもない。
とんだ誤算だったと悔しく思いつつも、嘆いている暇はない。ここまで万丈目を引っ張ってくるのに強引なことをしたのだから、似たようなことをあと何回やっても罪は同じだろう。それに、私だって散々な言われ方をしたのだ。私のやり方に非があったとしても、裏のない質問に対してあんな言い方はないだろう。
そう思って、いざとばかりに両手に力を入れると、「ま、待て!」と万丈目が焦ったように叫んだ。
見上げれば、待てと言いつつも何も抵抗せず、甘んじて私の両手を受け入れている万丈目が、何故か頬を赤らめてこちらを見ている。
「貴様、そうならそうと何故もっと早く…」
また訳のわからないことを。そろそろこの男のとんちんかんな妄想力にはついていけそうにない。実力行使に出た方がいいのだろうかと考える私の前で、「いや…」と万丈目はまた独り言のように、どこか私のあずかり知らぬ世界の恐らく妄想という名の妖精さんたちと話し始めた。

俺が悪かった。万丈目が言う。
謝られる理由は様々思い当たるが、唐突に謝られても困惑するばかりである。折角の謝罪を受けたのに心に抜けきれないわだかまりを持ったまま、とりあえず次の句を待ってみる。言うことによっては強制的に頭にシャワーをかけてやろうと手に力を込める。
と、万丈目がその手をそっと握り締めた。
「待って、いたのだろう」

蹴り倒せばよかった。張り倒すことだってできたのだが、情けないことに、身が硬直して動かなかった。
万丈目はそっと私を抱きしめた。陳腐な言葉だが、視界が黒に染まった。その表現が一番正しかった。
腰を抱く腕が、抵抗しない私を少しずつ引き寄せていく。突然のことだったので、私は倒れるような格好で、万丈目の胸板に顔を押し付けていたのだが、不思議と苦しいとは感じない。驚いたからかもしれなかった。
より一層、胸に押しつけられる。そこは広くて、硬くて、この男がどれだけ逞しかったのかを知らされた。頭を抱くその手で優しく撫ぜられる。
…」
全身の力が抜けていくのがわかった。寒いわけでもないのに、体の底から、神経も細胞もすべてが鼓動するように、微かな震えが沸き上がるのを感じた。
自分の名前を呼ばれたのは、もしかすると初めてかもしれない。しかし、私をどうしようもなく震わせたのは、耳元で愛おしげに囁いた万丈目の声だった。
固い身を解すように、万丈目は黙って私の頭を撫でていた。息を吸い込む。
風呂場の窓から差し込む太陽の光を吸い込んで、すっかり温かくなった万丈目の制服の匂いが、私の空気を満たした。それは、万丈目らしい匂いだ。
甘くて清潔なコロンが微かに漂い、成長期特有の汗のにおい、そして香ばしい醤油の香り。確かにこの目の前で私を抱きしめているのは、万丈目なのだと思わせるにふさわしい独特なにおいだった。
そこでふと思い出す。どうして私はここへ来たのか。その、使命を。

胸板を押すと、万丈目は簡単に私を離した。その両手をするりと抜けて勢いよく言いきった。
「万丈目!お風呂に入って!」
「なっ…!」
万丈目は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「そ、それはまだ心の準備というものが」
あろうことか続けて、それでも貴様が入りたいというのなら…などと俯くものだから、私の方が赤くなって万丈目から数歩身を離してしまった。そして万丈目の横にあるシャワーを慌ててひっつかむ。
「違うわこの馬鹿!」
「うわ、やめろ!」
!」
風も穏やかな春の放課後。このまま万丈目ごと一緒に濡れてしまっても、日が沈むころまでには服も乾くだろう。
思えば万丈目がレッド寮に越してきたあの時から、私をこんなにも懸命にさせるのは、この男だけだったかもしれない。そしてたった今、この瞬間でさえも。

「私は清潔な人が好きなんだ!!」
と呼ぶあの掠れた声を掻き消す様に、私はシャワーのノブを全開にした。



(ほのぼの100題/055/お風呂)
10/01/19 短編