ドアノブを回す瞬間はいつも、心臓がどくどくと波打つ。手先は普段よりも冷えているというのに、ノブを握りしめた手のひらにはしっとりと汗が浮かんでいる。
この手を少し右に回せば、このトタン一枚のようなドアなど簡単に開くと言うのに、私の緊張しきった心は、まるっきり一枚岩の如く立ち塞がる壁と認識を同じくしてしまっていた。
しかし、開けたいのだ。開けたいと思うことが、ここまでドアを閉ざすなんて、思っていなかった。



いざ参らば、丑の刻



月夜というには少し霞んだ空模様。暗くなったと思えば視界が開け、今夜は明るいからと思って電灯を持たずに散歩をすれば、すぐに月は雲間に隠れてしまう。
こんな夜にはいつもならば出かけたりはしないのだが、なぜか私は部屋を飛び出してしまった。いや、何故かと言うのはおかしい。私はその理由を知っているのだし、それがなければ今頃、とても心地よいとはいえない硬いレッド寮のベッドの上で、今では慣れてしまったガチガチのシーツに顔を埋めて、気持ち良く夢中へ入って行っていたことだろう。
しかし私は今、紛れもなく気まぐれな月夜の外にいて、それも距離からすると壁一枚の部屋の住人に会うために、わざわざこんな夜中に起きたのだ。
一つ弁解しておくが、私は自主的に夢から覚め、ベッドから起き上がり、制服に着替えてまでこの部屋の住人に会いに来たのでは、決してない。
決して、だ。

そもそも、原因が起こったのは、30分前、いやもっと前だったかもしれない。



ガタン、と音がした。
布団に耳を押し付けて寝ていたためか、随分と遠くから聞こえた気がしたが、まだ浅いところで夢うつつを彷徨っていた私は、そのぼやけた鈍い音に意識を浮上させた。
あらかた寝惚けた同僚が無理な寝返りをうって、ベッドから盛大に転げ落ちたのだろう。レッド寮の壁の前にはプライバシーという言葉もすり抜けて行く。何をしているかなど、部屋の両隣には筒抜けなのだ。
今頃すっかり眠りから覚めて、もんどりうっているであろう同僚の姿を一瞬よぎらせ、自分は女子故の個室待遇に精一杯甘んじようと、再び意識と共に身を布団に沈めた。のだが・・・

うるさい。
目を閉じた暗い空間の中で、心臓がドクドクと波打つ。ざわめいている、と言った方がいいのだろうか。靄がかっているのに何故か焦燥感に駆られる、そんな状態だ。
つまり、まったく落ち着いて寝ていられないのだ。
がたがたがたっ、とまた鈍い音が鳴る。始めに気づいてから、もうとうに十回は超えただろう。

暗闇の中で静かに目を開いた。覚醒していなかった頭はすっかり冴えきっていた。そのためか、ゆっくりと開けた筈の目には、寝起きだというのに力が込もっている。
「うるさい・・・」
息を吐くように口から溢れた。暗闇で澄まされた神経の集中した眼で、暫く虚空を見つめていたが、後頭部の方向、要するに壁側から、またしても何かが床に落ちる音と呻き声のような、間伸びした声が聞こえた途端、私の意識は俄かに覚醒した。

部屋の右隣、丁度私のベッド側の壁向こうにある部屋の住人は、最近やけになったとしか思えない無茶な部屋のリフォームを行った、万丈目グループの三男坊、万丈目準である。
レッド寮は壁越しに会話もできるという、肯定的に捉えるならば利便性の高い性質を備えているが、万丈目が改築した馬鹿広い部屋には、そんな性能は勿論ない。レッドにありながら、ほぼ完全に孤立したプライベートの空間を保っているのだ。
はじめ、私が寝惚けた頭でどの部屋かの同僚がベッドから落ちたと思ったのは、そのレッド寮にあるまじき機能性にまだ慣れていないためだった。何せ防音に関しては右隣の壁は、ほかの数部屋を合わせても届かないほどの性能を持っているのだ。一年間レッド生として過ごして、それが寮たる当たり前の待遇なのだと既に体に染み込んでいる私には、どうやっても万丈目ルームは現実感を帯なかった。

ベッドから身を起こし、耳を澄ましながら机上の時計に目をやった。時刻は2時10分前。床に就いてから大分時間は経っていたが、起きるにはまだ早すぎる。
少し室内に視線を彷徨わせてから、再び時計を確認し、はぁと小さく溜め息をついた。

何をやっているのか、万丈目の部屋からはひっきりなしに喧しい音が聞こえてくる。やけになったのだろう、夜中だというのに最早自重をするつもりはないらしい。
一応防音は効いているものの、勢いに任せて短期間で完成させたため、不完全なところも多いといったことを、完成のお披露目の際に万丈目が言っていた。

あー何故だ!今度ははっきりと聞き取れる。部屋を移動したのかもしれない。
明日は体育の授業がある。元々体力がある方ではない私が、このまま寝不足で一日を過ごし、その上、体まで動かすことが出来るか考えて、やめた。考えるまでもなく、答えはノーだ。

ベッドに手を着いて、身を起こす。
万丈目が静かになるまで待った方が、多少の睡眠不足は否めないものの、面倒事に巻き込まれずに済むのかもしれない。それでも立ち上がって制服を羽織り、まだ癖のついていない髪を手櫛で整えた。



こうして私は万丈目の部屋の前に立つことになった。 そして私は冒頭のように、ドアノブを握りしめたまま微動だにできず、ただただ万丈目の部屋の前で、理由のない不安と緊張に身を固まらせて立ち尽くすばかりとなっていた。

部屋の前に立っていると、万丈目は私が思っていたより騒音を奏でていたことがわかる。室内にいたときより、音がはっきり聞こえた。
何やってるんだか・・・と思う反面、ドアノブを握る私の手は少し汗ばんでいる。
うるさーい!と怒鳴り込んで行く手筈が、ドアの前でいつまでも尻込んでいるのだから、つくづく自分の小心ぶりには呆れてしまう。
もう一度髪を整えて深呼吸。
よし行ける。いざとばかりにノブを回すと、まだ引いてもいないのにドアが開いたので、びっくりして大袈裟に飛退いてしまった。そろりと見上げる。
「…、?」
部屋の明かりを背に受けて、万丈目が目を見開いて立っていた。

「あ、う…」
驚いて声が出ない。柔らかな風がさわりと肌を撫でる月夜に、万丈目と私は阿呆みたいに口を開けたまま見つめあっている。
今時分は、健全な学生ならば大抵はとっくに自室で布団にくるまって寝息を立てている頃で、レッド寮の生徒なんかは特に、授業の成績も出席率も低い割に、就寝と起床時間ばかり規則正しい優等生ばかりなので、この夜更け特有の匂い漂う微風を受けているのは、目の前の万丈目と私だけということになる。
そして珍しいことに、敷居の向こう側に立つ万丈目は、肌の色を強調させるような黒に統一された服ではなく、極々ありふれた黒いTシャツにジャージのズボンを穿いたい出立ちで、何か言いたげにこちらを見ていた。
どんなに熱い夏の日中であっても、万丈目の半袖姿は見たことがない。自分でも分らないうちに、かっと顔が熱くなっていた。
「な、何で万丈目がここに」
「俺の部屋の前に立っていて何を言う。それはこっちの台詞だ」
「はっ、そうか」
そうか、ではない。うるさいと言う言葉はどこへ行ったのか、怒鳴り込むどころか寧ろこちらの方が不審がられてしまっている。頭の上からは、はぁ、という万丈目の溜息がこつりと当たる。
何か言わなければ。これ以上の挙動不審が続けば、これではまるで夜這いもいいところだ。
そう思ったところで、何も言葉は浮かんでこない。代わりに風邪も引いていないのに顔がやけに赤くなって、熱い。

俯いて必死に回らない頭をフル回転させて言葉を探していると、どこからともなく甘い香りが鼻腔を掠っていった。ふと、視線を上げる。呆れ顔でドアノブを握っている万丈目は、夜もいい時間だというのにしっとりと濡れていて、よく見れば手にタオルといつも着ている黒い制服を抱えている。
「も、もしかしてお風呂上がり?」
どもる必要などないのだが、勝手に上ずった声で尋ねると、それに気にした様子もなく、「ああ、そうだ」と万丈目は一言返し、
「ところで貴様は俺の部屋の前で何をやっているのだ」
自然な疑問を投げかけた。
「う、うん…」
万丈目がうるさくて寝れなかったから、直談判しに来たとは言えなかった。すっかりしおらしくなってしまっていた私の心境では、この部屋に来る前まで思い浮かべていた強気な台詞は、到底言えそうにない。いっそ小心者と笑ってしまえ。
「その、音が聞こえたから…万丈目が何してるのか気になって」
いい言い回しを探して、結局思いついたのがうるさいの「う」の字もない言葉だった。暗に、つまりその音のせいで寝れなかったんだよ、というニュアンスを汲み取ってくれという気持ちを込めたのだが、万丈目は「そうか」とだけ呟いた。さらりと、髪が流れる。万丈目がそっと頭を撫でていた。
「ま、まんじょうめさん?」
やはり万丈目が動くたびに漂う甘い石鹸の匂い。ひくりと、喉が詰まって息も声も止められてしまったように動けない。呼吸を止めているせいか、ますます自分の顔が真っ赤になっていくのを肌で感じた。
どうすればいいか分らなくなって、でも頭を撫ぜる心地よい万丈目の手が離れるのも惜しくて、唯一動かせる眼だけがきょろきょろと忙しなく右往左往に彷徨っていた。
ふと、万丈目が笑う。
「暖かいといえど夜は冷える。中に入れ」
そう言って間口を開けられ、頭を撫ぜていた手に引かれるようにして、私は万丈目ルームへと足を踏み入れた。

お、おかしい…絶対におかしい。私は何をやっているんだろう。
石鹸を擦り合わせて、両手で汚れを落とす。桶にたまったお湯を掬いあげてまたガシガシと擦ると、もう汚れは落ちてこない。顔についた泡を拭って、水を含んで重くなった制服を絞った。
「何やってんの、私…」
精一杯力を込めて水けを絞りながら、私は拭えない疑問をふつふつと沸きあがらせていた。今私は万丈目ルームのただっ広い浴場で、万丈目の制服を手洗いしている。そもそもの原因は私なので、どうしてかなど聞かないでほしいのだが、万丈目を注意しに来たはずが一言も言えず、その上のこのこと敵の手中に入り、挙句にはその男の制服を洗うはめになるなんて誰が想像できただろうか、とだけは愚痴を言わせてほしい。
どうやら私の睡眠を妨害た万丈目の奏でる迷惑極まりない騒音は、この制服を洗うための洗剤を探していたようで、見つからずに仕方なくレッド寮に設置されている洗濯機へ向かうところで、私と鉢合わせたらしい。自分の想像以上に心優しかったらしい私が、そんな話を聞いたら放っておけないと一肌脱いだ結果が、今の状況というわけなのだ。
両手を床についてうなだれる。
「私のばか…」
勝手に騙されたとしか言いようがない。だって、あんならしくない万丈目を見てしまったら、こちらだって釣られてしまうじゃないか。ついさっきの戸口の情景が離れない。

認めるのは悔しいが、私は万丈目が好きだ。それも恋愛感情というものを持って、好きだと感じている。だからといって、ここへは理由をつけてきたわけではなく、本当に自分の睡眠時間を案じて赴いたのだ。多少の期待をしたことは否めないが、それが目的ではない。本音も建前も明日のためだ。
けれど、いざ万丈目を前にすると、どうしても体が思うように動かなくなって、ついつい言いたいことを飲み込んでしまう。いつもというわけではないが、そんなことが多いのだ。
今日だってこの通りの有様で、刻々と削られていく時間に少しは焦りを感じた方がいいというのに、もう、心は万丈目でいっぱいになっている。
かっこよかった。気づけば頬が緩んでいる。
少しくらい幸せに浸ってもいいんじゃないだろうか。本来の目的を完全にすっぽかした弱い気持ちがどんどん侵食していく。戸口で触れられた彼の体温を思い出す限り、私はどうしてここにいるかなんて理由を永遠に思い出さないのかもしれない。

濡れた手を自分の制服で拭って、頭に触れてみる。やはり万丈目とは違う。万丈目はもっと優しく、触れるか触れないかくらいの軽さで髪を撫ぜたのだ。思い出す様に、そっと自分の手を滑らせる。目を瞑ってなるべくその感覚に近づけようと、心が求めるままに手で触れていると、ほんの数分前の出来事が色づいたように胸を打つ。
彼からは動くたびに仄かに石鹸の香りがして、風呂上がりの蒸気がまだ漂う清潔な空気が、私の皮膚をさらさらと撫でては胸を熱くさせた。その熱と夜風の涼しさが、ますます私の心を万丈目へと引き寄せていく。
まんじょうめ。まんじょうめ。いつの間にか、頭ではその名前を繰り返していた。まんじょうめ。

「終わったのか」
びくりと大きく体が跳ねた。心臓が飛び出るかと思うほど、こんなに驚愕したのは生まれて初めてだ。
いつの間にかその当人の万丈目が背後に立って、腕を組みながら私を覗きこんでいた。
慌てて振り返るが、今の光景は絶対に見られていただろう。理由は感づかれずに済むとしても、浴場で一人頭を撫でることに没頭している姿は滑稽には違いない。
誤魔化す様に勢いよく立ちあがって、万丈目の制服を差し出した。
「ああああ洗ったよ!本当に手洗い大丈夫なやつだよね?!」
「あ、ああ…」
失敗した。誤魔化すどころか疑念を膨らませるような言い方をした気がしてならない。けれど、やはり気にした様子のない万丈目は制服を受け取ると、
「すまんな、貴様にやらせるつもりはなかったんだ」
そう言って、礼にはならんが茶を淹れたから飲んで行け、と告げる。そして、浴場のドアを開けたところでゆっくりと振り返った。
「そんなところに立っていると、風邪を引くぞ」
優しい声色が私の鼓膜を響かせた。開け放したままのドアを万丈目が離れる。もう、怒るにも怒れない。彼はこうやって私の感覚を殺いでいく。
やわらかな石鹸の香りと、私の胸に甘い疼きを残して、万丈目は浴場から出ていった。
「あ、つい」
風邪なんて引くわけがない。だって私はこんなにも熱いのだ。

「これを飲め」
「あ、ありがとう」
リビングに戻るなり半ば強制的にソファに座らされると、待ち構えていたのか、すぐにカップが差し出された。そこには自分の掛け声に掛けたのだろう雷のマークが、可愛らしくプリントされている。特注だろうか、それともわざわざ選びに行ったのだろうか。どちらにしても、その光景を思い浮かべると変なところに拘る万丈目が可愛く思えてきて、知れず笑みが浮かぶ。
そうして飲みやすい少しぬるめのカップに口をつけた。中身はホットミルクだ。夜だからという万丈目の気遣いが感じられて、固かった身がようやく解れてきた気がした。
「何を笑っている」
「え、いや、このミルクおいしいなーってあはは」
どこまでも白々しい私の反応に、体ひとつ分空けて隣に座る万丈目は深いため息をつく。
「まったく…夜も夜更けに部屋の前で立っているから何かと思えば、特に理由らしい理由もなし」
「う、ん」
「貴様は明日が体育だということを覚えているのか」
「…覚えてます」
まさか私がここに来る元凶となった男に説教をされるとは思わなかった。しかも制服まで洗ってあげたのに。けれど反論できないのは私の小心さ故で。
あそこで、あのドアノブを回した時に万丈目さえ現れなければ、確実に今ここでの形勢は逆転していたのだ。勇んだ心のまま乗り込んでいれば、絶対に言い返せたのに。
後悔してももう遅い。今の私は口を尖らせるくらいしか、反抗する手段を持たない弱虫の骨頂なのだ。

「ドアの前で、いつから立っていた」
「え?」
「ここに入る時、貴様の手が冷たかった」
そういえば、手を引かれた記憶がある。でもそれは緊張していたからで、それほど長い時間部屋の前に立っていたわけではない。
「来てすぐ、だよ」
「だが今は秋でも冬でもないぞ」
万丈目を振り向く。何が言いたいのかわからない。目がかちあった。万丈目はまっすぐにこちらを見つめている。カップを持つ手に、そっと万丈目の手が重なる。私の頭を優しく撫でた、あの手だ。じんわりと、熱が伝わる。
どうしたのかと聞きたくても、また喉が詰まったように声が出ない。万丈目の手は冷たそうに見えて、すごく温かい。静かにカップを離された。
「中身は温かいはずだが、貴様の手はまだ冷たいな」
片手を握ったまま、万丈目が静かに湯気が立つホットミルクをテーブルに置くのを、私はただ呆然と目で追っていた。
「水が冷たかったか?」
ふるふると首を横に動かす。実は面倒でぬるま湯で洗ったなどとは口が裂けても言えないのだけれど、否定した私を見て、万丈目は特徴的な意地の悪い笑みを浮かべて喉を鳴らした。それは、さっきまで私の頭を撫でて、風邪を引くなと身を案じていたものとは、結びつきようのない色をたたえていた。
「ならば貴様の手は何故冷たいのだ」
「そ、れは…」
手が繋がっているだけで、距離はまったく変わっていないのに、私は段々に万丈目が近付いているような気がして、体が硬くなっていくのを感じた。
いつもは着ない半袖のTシャツから、すらりと伸びる筋肉の付いた白い腕が、蛍光灯の淡い光を浴びて滑らかに光っている。その手が私を掴んでいると思うと、なぜか少し怖くなった。同じ手だとはどうしても思えないほど、黒から覗く白い肌に違和感を感じた。
、答えられないのか」
「ま…まんじょうめ、」
万丈目は目を細めて笑みを湛えたまま、じっと私を見つめている。光も映らない静かな漆黒の目に、私の影が映っている。吸い込まれそうになって、肩を竦めてギュッと目を瞑って反らしてしまった。ドアノブを回そうとしていた時とは比べものにならないほど、手が氷のように冷たくなっているのが、自分でもわかる。
するりと、万丈目の手が離された。

さらりと、髪が流れる。思わず身を震わせたのに、感じたのは私の胸を熱くした万丈目の手だった。
「まったく、貴様は何をしにきたのだ」
「あ…ま、まんじょう、め」
「明日は貴様の苦手な体育があるというのに」
そう言ってゆるりと笑う。
「手が冷たいから、心配をした」
私の頭を撫ぜたまま万丈目はゆっくり立ち上がって、間にあった一人分の間隔に体を置いた。もう恐怖心はない。それでもやはり、私は何も言えずに万丈目が動くのを見ているしかできなかった。
万丈目が私を正面に体を向ける。頭に触れる熱が、ふたつになった。万丈目の両手が、私のこめかみをやわらかく包み込んでいた。
「だが、頭は熱い」
顔がひどく熱い。体中の熱が首から上に集まってきているみたいだ。万丈目に包まれている皮膚以外は、すべて感覚が曖昧で、蛍光灯に照らされた万丈目の白い肌がぼんやりと視界で揺れているのだけが、視覚として脳に送り込まれる情報だった。立眩みみたいに、頭の奥の奥で耳鳴りが聞こえる。
体が傾いたのにも、何かが触れたことにも、数秒遅れてから気がついた。
「あ…」
頬に頭と似た温かい感触。ただそれが、やわらかな万丈目の唇だということ。
「こんな夜更けに俺の元へ来て、」
万丈目の手が私の髪を梳くように、後頭部へ流れていく。
「どうなっても知らんぞ」
甘い清潔な香りが鼻腔をくすぐって、私の全身の熱は一番やわらかな皮膚に吸い込まれていった。



(ほのぼの100題 2/066/宵っ張り)
10/01/31 短編