『直ちにスケート場に来たれ!』


ナイマゼにして



デュエルアカデミアは現在、冬期休暇を迎えている。そのせいで島中しんと静まり返っていて、普段は起床から消灯時間ぎりぎりまで賑やかな、女子寮のフロアまでもが閑散としていた。は思わずため息をついてしまう。
というのもこの女子寮において、こうしてアカデミア特有の潮風を嗅いでいるのは、ただ一人であるからだ。もともとそう人数も多くないというのに、あろうことかこの休暇で全員が本土へ帰ってしまった。

誰も残らないと初めから知っていたならば、自分だって最初から学園の方に帰省の申請書を出していた。だが、は事前に今年の冬は実家には帰らないと連絡してしまっていた。どうせなら寒い時期ではなく、緑生い茂る中に燦々と太陽照る夏に家族の元気な顔を見に行こうと思ったのが、どうやら間違いだったようである。世間の親というのは、が思っているよりも子供が心配で仕方がないらしい。

母に父にと口々に帰省を促されたと告げる友人たちの顔が浮かび、はさらに大きなため息をついた。
自分の部屋にただ一人ぼんやりしつづけるのも物悲しい。しかし静まり返った寮の中を当てどなく歩き回るのも、それはそれで十代も半分をとうに過ぎたには切なすぎた。

どうしようか、考えあぐねていたところ、部屋の戸が控え目な音を立てる。てっきり寮には自分しかいないと思っていたから、はぎょっとしたまま固まってしまった。身動きできずに視線だけを入り口に走らせるが、背中は椅子にくっついてはがれない。もう一度ドアを軽く叩かれる。
さん、いるかしら?鮎川だけど」
「あ、鮎川先生?」
がくりと項垂れた。一瞬でも最悪の客人を想像してしまった自分に、恥ずかしさを覚える。気になどしていなかったが、案外広い敷地で一人きりというのは不安が募っていくものらしい。
ほっと胸を撫で下ろしてドアを開けた。
「鮎川先生…驚かさないで下さいよ」
情けなく眉を下げて顔を覗かせたに、鮎川先生はあらそう?と口に手を当てて笑った。
「そうね、一人だけだとどうしても警戒しちゃうわね」
いい心がけだわと誉めた後、続けて大きな目を優しく細めながら、の肩を叩く。
「寂しい時は遠慮なく保健室に来なさい。いつでもいるわよ」
「是非そうさせて頂きます」
そうしてしばらく談笑していると、思い出したように鮎川先生は手を叩いた。
さん!」
いきなり大声で呼ばれて動きを止めたに、鮎川先生は懐から一枚のプリントを取り出すと、その手を取って半ば強引に握らせた。
「暇つぶしにでも行ってらっしゃいよ。きっと楽しいわよ!」
きっと急いで折りたたんだのだろう、正方形というより台形に近い折り目を丁寧に開いていくと、「スケートリンク冬期限定開場」という如何にも学内文書らしい明朝体の文字が、でかでかと目に飛び込んできた。
「今日からなのよ?」
そう言って微笑む先生は、折角だから学内に残ってる生徒さんたち全員に配るつもりで今朝から歩き回っていたらしく、残すはブルー寮だけと呟いて、別れの挨拶もそこそこに廊下を足早に歩いて行った。
「スケート…?」
誰もいない女子寮の廊下で、乱暴な折り目のついたプリントを手に、は呆然とその背中を見送ることしかできなかった。

アカデミアの完全な寮生活で、実家に帰れるのは夏季と冬季の休暇だけだ。お家恋しくて抜け出そうにもここは絶海の孤島に等しく、気軽に帰省出来るような作りにはなっていない。デュエル嫌いにとっては、完璧な強制収容所になりかねない。
もしかするとそんな人間には、アカデミアという場所は刑務所よりも酷い環境かもしれない。税金に養われ、黙っていても出てくる飯を喰らい、暖かい場所でぬくぬくと冬を越えるなんてことは出来ないからだ。各自温かい飯にありつくためにはお金が必要だ。自宅からの限られた給付金の中でどうやって学校生活を乗り越えていくか、ここの学生は日々そんなことまで考えながら過ごしている。
そんな限られた空間の中で過ごしているせいか、いくらデュエルが好きで入っても時々気が滅入ってしまうこともある。思春期ならばなおのこと。だからこそ思いついてしまうのか、世間数多の学校と比べて、このデュエルアカデミアには息抜きの場はやたらと多く存在した。最初は体育施設にジムが設置され、次はプール、その次は温泉施設、そして今回がこのスケート場だ。

よくもまぁ維持費のかかるものばかりと、キッチンの壁に寄りかかりながら、は今しがた貰ったばかりのプリントを眺めていた。ガス台の上では、小さな飾りのついた薬缶が、絶え間なく白い息を吐き出している。はプリントに目を遣ったまま、取っ手を左に回した。最後に数回息を吐き出すと、薬缶が放っていた北風のような音は、やがて換気扇に吸い込まれて小さく消えていった。
「アイススケートかぁ」
最後に滑ったのはいつのことだろう。中等部か、いや、もしかするともっと前のことかもしれない。思えば中等部の頃からデュエル三昧で、あまりこういった遊びというものをやった記憶もない。この冬期休暇の思いもよらぬ誤算で一人暇をしていたところに、いい知らせが入った。この体の行き所にも困り果てていたので、丁度いい機会だとは小さく頷いた。行ってみようか。

プリントには、防寒服以外はすべて無料で貸し出すと記載されている。PDAと上着さえ持っていけば、あとは単身で行ってもあちらで何とかなるようだ。
思ってPDAを手に取ったとき、ふとある顔が思い浮かんだ。確か冬期休暇は学園に残ると言っていた後輩の顔。
の知る限り、あえて自らお祭り騒ぎに行くような性格はしていなかったはずなので、鮎川先生から知らせを受けても、きっと今も部屋で虚ろな生活を送っていることだろう。断られる可能性もあるが、何より一人ではあまり行きたくないというのが本音だ。
それに。
はPDAを開く。そして少々迷った後、比較的古い登録番号を押した。


「靴はここから選ぶみたいよ!」
天窓から透き通った空が見える。白銀に輝くまんまるい滑走路は、冬休みの退屈を返上せんとばかりに集まった生徒たちで溢れかえっている。楽しげに思うがままに滑る姿は、課題や宿題というしがらみを浄化しきって気持よさそうだ。
は入口付近で手を振った。疲れた顔をした生徒が、一人の元へ歩み寄ってくる。
「ちゃんと来たね、万丈目君」
「以前無視したら、部屋まで来られたので」
まるでそうでなければ来たくなかったとでも言いたげに、の後輩である目の前の男、万丈目準は不満を隠しきれないといった態度で言葉を返した。
それにあの強制的な文章。そう付け加えられて、わざわざPDAに送った自分のメールまで見せられる。
『直ちにスケート場まで来たれ!』
確かに誘うにしては、押しつけがましい文章である。だがそういった万丈目の態度には嬉しそうに目を見開いた。
「覚えてたんだ」
対照的には無邪気な笑みを浮かべる。
まだ中等部のころのことだ。体育棟でバスケをしたかったのだが、人数が一人足りなかったので、今回と同じようには万丈目を呼び出した。
はひとつ上の学年で、もちろん空き時間に仲間内で集まって遊んでいた。しかし試合をするには一人足りない。誰かいないかと考えていたところ、ふいに後輩の思い浮かんだ。それで直ぐに万丈目を呼び出したのだ。
中等部では、高等部と違って制服は学年ごとに色分けされていたから、の学年の中にいきなりぽつりと万丈目が現れれば、ひとりだけ浮くに決まっている。分っていたから、万丈目はからのメールを無視したのだが、直感的にそれがわかったのか、は万丈目の部屋まで急き切って迎えに来たのだ。
そこまでする時間があるのなら、もっと別の人間もいただろうにと、一色だけあずき色の制服に身を包んだその頃の万丈目は、恨みこもる目でを見つめるしかなかった。

「覚えているも何も、苦い記憶ですよ」
万丈目は本当に苦々しげに顔をしかめている。大した顔見知りもいない年上の集団の中にいきなり放り込まれたら、誰だっていい気分にはならないだろう。
ごめんごめんと、悪びれた様子もなく謝って、はスケートシューズを手に取った。次いで万丈目の分も無理矢理押しつけるようにして手渡す。
「俺のサイズ、知ってたんですか」
確かめるようにして靴のサイズを覗きこんだ万丈目が、驚いて目を丸くした。まぁ、ね。は曖昧に笑う。
「適当に渡したんだけど、あってたなら良かったよ」
さあ早く滑ろう。万丈目が言い返す暇もなく、は相も変わらず黒い制服に包まれた腕をリンクへと引っ張った。大したことでもないのに、は自分の顔が熱くなるのを感じた。先輩。呼び止められても振り返りたくはなかった。赤い顔を見られたくはない。そしてその原因を感づかれたくはない。
先輩!」
いきなり力強く万丈目を引いていた腕を掴まれて、歩きながら驚いて振りかえる。万丈目がもう一方の手でを引きとめていたが、遠慮がちに掴んでいるので、は歩みを止めようとしない。リンクにたどり着く寸前に、万丈目は腕の力を強めた。
「靴!靴履き替えずにどうするんですか!」
ぴたりと、の迷いない歩みが止まった。無言で足元と万丈目を見遣って、はっとしたように口を開ける。万丈目は心底呆れたといった風にため息をついた。 は思いっきり顔を伏せた。いそいそとリンク脇へ退散するその顔は、もう誰が見ても真っ赤だ。恥ずかしさを誤魔化すように、いつもならば決してしない丁寧な動作でベンチに腰かける。
自分は動揺しすぎだ。は知れずに浮かれている自分を叱咤するように、おでこを一度ぱちんと叩いた。万丈目がその様子に、息で軽く笑ったのが聞こえた。


施設はまだ午前中だというのに、たいへんな賑わいを見せていた。広いリンクは人でごった返している。休暇だというのに、どこにこんなに人がいたと思うほどだ。
万丈目は、まるで大縄跳びの縄が通り過ぎるタイミングを待つように見計らった後、リンクへ滑らかに身を滑りだした。流石に人が多いためか、縦横無尽に好き勝手走るような奴はなく、比較的滑走する流れができていた。初心者には滑りやすいかもしれない。そう思いながら後ろを振り返る。恐らく後ろからついてきているであろう先輩を伺ったのだが。
「ま、万丈目くーん…」
万丈目は頭ごとリンクへ突っ込みそうになった。はまだリンク脇の柵に手を駆けて、氷の上にすら足を乗っけていない。そして不安げに、しかし必死に笑顔で取り繕うとしているのが分かるほどの強張った表情筋で、笑いながら万丈目に手を振っている。
万丈目は微妙に出来上がっていた流れを逆走して、の元へ足を滑らせた。その様子にが間の抜けた声を出す。
「え、うそ、万丈目君滑れるの?」
滑れなければ何があっても来るわけがない。そう思いながら一度フロアへ足を乗り上げた。
「先輩こそ、滑れるのではないんですか?」
「いや、やればできると思うのよ」
つまり今は出来ないということだ。不思議な自信に満ち溢れた発言に頷きたくなるが、そう言う割にリンクへは一歩も踏み出そうとしない先輩に、万丈目は言葉が詰まった。まったく、と大袈裟な動作でため息をつきたくなる。

はスケートをするためか、いつもの女子指定の制服ではなく、細見の黒のズボンに厚めのパーカーを被ったラフな格好で柵にしがみついていた。本気でスケートを楽しみに来たらしく、遠目に着替えやらタオルやらが詰まったバックが、無造作にベンチの上に投げ出されている。万丈目も数分前に、そのバックの中身に世話になったばかりだった。隣には自分のトレードマークといっても過言ではない、ノース校の擦りきれた制服が丁寧に畳まれている。
全身黒といったことには変わりはないが、はノース校の長ったらしいコートがスポーツ向きではないと思ったのか、最初から着替えさせる目的で、大きめのパーカーを用意していたようだった。には少々大きすぎるが、万丈目には丁度いい。
こんな合わないサイズをどうしたのかと、内心焦ったように尋ねると、はこれを部屋着としてきていたらしい。中にたくさん着れるのだと笑いながらつぶやいていた。
「うん、やっぱり万丈目くんは黒が似合うね」
ぼんやりとしていた万丈目に声が掛かる。何をしているのかと思えば、は組んだ腕の一方で顎を撫でながら、品定めするように万丈目を上から下まで眺めている。そして挙句には、スタイルもいいと感嘆の声を漏らした。
褒められるのは嫌いではない。むしろ賞賛の類は大歓迎だ。だが、と万丈目は桃色に染まりそうだった頬を引きしめて頭を振る。
「…先輩、いつ滑るんですか?」
「うん、頑張ってみる」
元気良く宣言するが、が一向に動き出す気配はない。万丈目は思い切ってみた。
「それじゃあ、行きましょう」
「え、え?」
の手を取った。女性だからか、先輩だからか、の手を握る万丈目のそれは、普段とかけ離れた優しさに満ちている。
万丈目君と叫ぶの焦りようは尋常ではない。初めて自分が優位に立ったようで、万丈目はそれが可笑しくてたまらなかった。
「わ、私そんな、いきなりは!」
大丈夫ですよ。優しく言いながらも、笑みを抑えきれない口元が弧を描く。
「まずは歩いてみましょう」
言っての手を引きながら一歩後退すると、も決心したように、氷の上へ足を踏み出した。
「わ、」
不安と興奮が混じったの声が、小さく洩れる。万丈目はこれからどうなるのか、楽しみで仕方がなかった。

『直ちにスケート場に来たれ!』
こんなメールがPDAに届いた時は、またの唐突な思いつきかと気が重くなった。思い出されるのは数年前の出来事。年上の集団の中に溶け込めずに右往左往する情けない自分の姿が浮かんでは消える。正直行きたくはなかった。
しかし行かなければ、いつぞやのようにがその身をもって万丈目を引きずっていくことになるのだろう。それはそれで面倒なことだ。いずれにせよ、指定の場所へ行ったところで、今回もその二の舞を踏むのだろうと考えたが、ふと気付く。冬期休暇で残った女子生徒は、確かだけだったはずだ。仲のいい友人が全て本土へ帰ってしまったと、休暇初日に嘆いていたことを思い出した。
もしかすると。万丈目の頭には、都合のいい考えが浮かび上がる。今日ばかりはも一人かもしれない、と。話す者もなく暇で身を持て余していたところに、スケート場開場の知らせが入り、気まぐれで自分を誘ってみたのかもしれない。
そういう考えに至ると、万丈目は俄然行く気になった。単純かもしれないが、ひとつ学年が違うとただ話すだけの時間すら貴重なものになるのだ。それが今回は二人きりかもしれない。
どうせ行かなければならないのなら、天国を期待して出掛けよう。そこまで考えると、ようやく万丈目は重い腰を上げたのだった。

それがどうだろう。
「滑らなくていいです。歩いて下さい」
「あっ、ま、待って!もうちょっとゆっくり」
まさかこんなことになるとは思ってもいなかったと、万丈目は密かに驚愕する。無論、悪い意味ではない。
万丈目の手を掴んで歩くのは、完全に腰が引けた格好のだ。怖々と足を踏み出すのに合わせて、万丈目も少しずつ後退していく。
リンクに入る時は万丈目から手を引いたものの、今は緊張の方が勝っているのか、言いもしないのに、は万丈目の両手をむんずと掴んで離そうとはしない。それが、万丈目にはこそばゆかった。
気を抜くと緩んでしまいそうな頬を誤魔化すために、万丈目は幾らか下にあるつむじを見降ろして、からかう様に言い放った。
「てっきり先輩は俺に勝負を挑んでくるのかと思ってましたよ」
「悪かったわね、見ての通りよ」
憎まれ口で返すくせに、の上ずった声に万丈目は笑いを零す。
誘われた時から、この事態は想定していなかった。いつも活発に動き回っているし、知っている限りでは特に目立って出来ないものは無かった気がしたのだ。だから万丈目はは滑れると思っていた。しかし、は今こうしてへっぴり腰に万丈目の両手に必死ですがっている。
いつも勝ち気で自分勝手に万丈目に振舞う態度が、リンクの上では一変して大人しく、素直で可愛らしい。こうして見ていると自分たちは恋人のように見えるのかもしれないと、無意識に浮かんだ自分の考えに万丈目は少しだけ顔を赤らめる。
今この学園には女子生徒はだけであるから、自然とリンクの視線も万丈目達に集まる。けれどそれを気にした様子もなく、というより恐らく気づいていないのであろうが、が神経を研ぎ澄ませているのはこの自分にだけであると思うと、世間体など気にせずに高笑いでもしてしまいたくなるような喜びに、万丈目の胸は熱くなった。
そんな万丈目を知ってか知らずか、はおぼつかない足取りで少しずつ氷の床と格闘している。

「ちょっと…慣れてきたかな」
言うを見てみれば、確かに歩くスピードが滑らかになってきている。この様子だともう少しで滑れるようになるだろう。
こうして手とり足とり教えていくのもいいが、二人で滑るのもきっと気持ちいいに違いない。
「足が平行になってますよ」
万丈目は思って、の手をそっと握り返した。氷の上にいるからか、の手は冷たい。自分の体温もそれほど高いとは思えないが、の手を冷たいと思う程度には温かい。
温めるようにきゅっと握ると、途端が足を滑らせた。目の前の体がぐらりと揺れて、バランスを崩す。

万丈目が動く暇もなかった。は驚いて体を強張らせたまま、いつまでも万丈目にしがみついている。万丈目は呼吸が止まったのにも気づかなかった。息を吸ったまま、吐き出せない。心臓の音ばかりが自分の鼓膜に響いた。
「あ…せ、先輩」
すぐ傍をハイスピードで滑って行った生徒の影で、ようやく正気に返る。慣れない氷の上で転びそうになり、身が固まったのだろう。ぴくりとも動かないに、大丈夫ですかと言おうとして肩に手を置くと、胸に、二の腕にしがみついていたの手が、ぎゅっと万丈目のパーカーを握り締めた。
覚えず、鼓動が速くなる。生徒の声で騒がしい場内。自分の鼓動が聞こえるわけがないと思いながらも、気づかれてしまったら。そういう不安が更に脈を早める。それくらいに、万丈目との距離は近かった。

「お、万丈目!お前もやっぱ来てたんじゃねーか」
突然にかかる明るい声に、ぎくりとしてリンク中央に目を遣る。いつもながら周りの目など一切気にしない開けっ広げな態度で、遊城十代がこちらに手を振っていた。
さんだ、と訂正するのも忘れて、万丈目は嫌なものでも見たように顔を顰める。確かにここに来る前に十代たちにも誘われたが、いつも通り断っていた。万丈目は、ライバル同士での慣れ合いというものをあまり好まない。それ以外にも、面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。
「アニキ駄目っすよ、あれはどうみてもデート中なんスから」
「え、そうなのか?」
「どう見てもそうザウルス」
遠くに聞こえる師弟たちの会話を聞きながら、さっさと自分たちから興味を逸らしてくれと、万丈目は苛立たしげに睨みつける。その願いが通じたのか、十代は得心したように頷いて、再び万丈目に手を振った。
「悪ィー!デートだったのか!頑張れよ万丈目!」
いまだ自分を掴むの肩が、小さく揺れた。緊張が和らいだのかもしれない。万丈目はその様子を見て、やはり羞恥というものを知らないらしい同級生にさっさと視界から退場してもらおうと、半ばやけになって声を張り上げた。
「そうだ!だから貴様らに構ってやる暇はないのだ!分ったらさっさと消えろ!」
叫んでやれば、十代は翔と剣山の二人に押されるようにして、リンクの隅へと運ばれていく。万丈目はほっと胸を撫で下ろした。そしてもう一度へ視線を向ける。今度こそ二人で練習を再開できるだろう、そう思ったのだが。

ひたりと、目が合う。の顔は、みるからに真っ赤に染まっている。の白く透き通るような肌を、熱い血が流れては彩っていく。この寒い中にいて、熱でも出たのだろうかと万丈目は心配したが、直ぐに違うと思い直す。
見開かれたの目は、期待と驚きに満ちている。ひっそりと寄せられた眉には、困惑の色も読み取れた。万丈目の胸が高鳴る。
「…ま、」
は声が出ないのか、口をしきりに開いたり閉じたりするものの、その先の言葉が出てこない。
何故こんな顔をしているのか、自分の思い違いでなければ、その理由は躍りあがりたくなるほど嬉しいことだ。勢いだけで適当に言い放ったようにも聞こえるが、きっとは自分が十代に叫んだ言葉に反応しているのだろう。間違いでなければと思うが、それ以外には自分の先輩がこんな反応をするわけが見つからない。
本当に、本当にそうなのだろうか。自意識過剰で振られた日には、どんな深い穴に入っても入り足りないだろう。
しかし、昔から後輩の中でも自分ばかりを気にかけてきてくれたこと、同じ学年から見つくろえばいいものを、わざわざ自分をバスケのメンバーに呼び出したこと、今日自分を呼び出したこと、そして靴のサイズを恐らく知っていたであろうこと。それらを思い出すと、万丈目にはどうしても自分の考え違いではないような気がした。

万丈目は確かめようと決めた。いつまで経っても自分から離れないの手をそっと解いて握る。
「…俺の、思い違いでしたか?」
は、これ以上ないほどに目を丸くした。空気を吸っても吐いてもいないのだろうに、口が開いたり閉じたりと忙しない。
どうか期待通りであってくれと、万丈目は縋る思いでの手を固く握りしめる。その緊張が伝わったのか、大きく息を吸って、はやっと言葉を吐き出した。
「こ、この自信家」
素直な返事ではないが、情けない声は肯定を示している。万丈目の瞳が希望に満ちる。そして確信した。は、自分を好いているのだと。
感情を隠しきれず、浮かぶ笑みを耐えることが出来ない。先輩。万丈目はすっかり熱くなったの手を優しく引いた。
「デートのお誘いでしたら、俺はいつでも飛んできますよ」
そう言って、万丈目は愛おしそうにを見つめる。陸と氷の上では、まるで立場が逆転したようだ。
はいよいよ恥ずかしくなって、万丈目の顔を見ていられなくなったのか、気障な台詞がその口から零れると、急いで顔を伏せた。
足元からは絶えず冷気が上ってきているはずだが、俯いたところで、の顔の熱は冷めそうになかった。
万丈目は白い肌を心なしか上気させて、の答えを静かに待っている。
「明日も…よろしく」
小さな声で呟くと、それじゃあ早く滑れるようになりましょうと、万丈目は張り切って手を引き始めた。これでもう、晴れて恋人同士ということになるのだろうか。思うが、高鳴る胸とは反対にあまり実感は湧かない。

後退し始めた万丈目に合わせて、が一歩一歩前に足をふみだす。万丈目は、こつを得てきたの歩きに明日への想いを馳せる。
きっと明日こそは並んで滑れるようになるだろう。そのためには休んでいる暇などない。先輩か恋人かと悩むより先に、今日は思いっきり自分の知識を叩きこんでやろう。
困ったように笑うを前に、万丈目のふたつの心を綯い交ぜにした特訓が、スタートを切った。



(ほのぼの100題 2/093/おけいこ)
10/02/20 短編