「ねぇ、剣山くん、」
なんスか先輩。と振り向く後輩に、万丈目を振り向かせるにはどうしたらいいと思う?と、まっすぐ目を合わせ…ることは流石にできなかったので頬杖をついて聞くと、「趣味悪いザウルス」とコンマ0秒で返された。



ゆゆしきこの花ごころ



食堂は食事時以外はいつも閑散としていて、レッド寮の中で風呂場の次に最も静かな場所と言える。試験前などは、他の生徒はたいていイエローの知り合いに頼み込んだり、同級生と集まって広い校内で勉強会を始めるので、食堂はちょっとした盲点でもある。
だから考え事をするのにはうってつけの場所で、特にすることがなく暇を持て余した時は、食堂へ足を運んでは、日がなのんべんだらりと椅子に座ったまま、夕飯がくるのを待ったりしていた。
彼らもそういった類の人間なのか、それとも隠れ家の匂いを嗅ぎわけるのか、時折食堂で遭遇することがある。仲は良好な方なので、会話に混ざることもしばしば。私の食堂の活用法を心得ているのか、私が先に来て読書をしているときは、二、三言交わすのみで、会話を強要してくるわけではない。食堂内においても、中々良好な関係である。
そして今日がその日で、引き戸を開けて現れたのは、珍しくイエローの弟子組二人だけだった。
しかし、その日の私の心は別のものに捕われていたので、その疑問を口にすることはなかった。

二人を見てにこりと笑って手を挙げると、そのまま力尽きて私はテーブルの上に突っ伏した。瞼もなんだか重い。ゆるゆると目を閉じて体の力を抜くと、ふと何かに気がつく。…醤油の匂いがする。
少し頭をもたげて鼻先をテーブルにくっつけたまま、くんくん空気を吸ってみる。確かに、醤油の匂いだ。

そういえば今日の朝食の時に、万丈目がこの席に座っていた。朝食のメニューは目玉焼き。難しい思春期の少年たちのために、テーブルには醤油と塩が両方並べられるが、かの誇り高き万丈目サンダーは醤油派だ。そして私はその瞬間を目撃していた。黒いコートなのをいいことに、テーブルの上に零してしまった醤油を、あたかもそんなことは無かったかのように袖口で抹消する行為を。
思い出して、あー、うー。と言葉にならない声でうめく。いつも高慢でプライドの高い、いいとこ生まれの万丈目が、あんな子供染みた仕草をしたと思うと、どうにもこうにも、こっ恥ずかしいやら、微笑ましいやらで胸のあたりがきゅっと締め付けられるのだ。
もう何が何やら自分でもよく分からないが、とにかく、この高ぶった感情は抑えられない。醤油の匂い一つで、よくここまで気分を上昇させることができるものだと、我ながら思わないこともない。だが仕方がないのだ。これが俗に言う、恋する乙女なのだから。

挨拶されるなりテーブルに突っ伏して、頭をせわしなく動かしたかと思うと、急に呻き出し、ついには両手をテーブルの上で伸ばしきった状態で、わしわしと空気を掴みはじめた私を見て、翔と剣山君の2人は、目の前で起こっていることが理解できないといったように、口を開けたまま、しばらくじっとその様子を見つめていた。
二人は二人で会話をしているものだと思っている私は、そんなことお構いなしに、思う存分、今朝の万丈目の仕草に恋する乙女的意識を高ぶらせている。すべての乙女というものは、恋をすると奇声しか発しなくなるのか、傍にいる2人からすれば、もう少し今の状況が分かりやすいように日本語を話して欲しいところだろう。
「くー、うあー!」
私が呻き声とともに軽くテーブルを叩くと、目の前の奇怪な行為に飲み込まれていた剣山君が我に返って、翔の方を向いた。
「丸藤先輩…先輩はどうしたんだドン?」
「さ、さぁ…どうしたんだろうね…一体」
二人が私のことを見なかったことにしようと、心の中でシンクロした時、ようやく私の乙女ゲージも通常の値に戻ってきた。

この状況だけ見ていると、私はとてもおめでたい人間のように思えるが、勿論そんなわけはない。多分。…少なくとも自分ではそう思っているからいいのだ。本題はそんなことではない。

私は、万丈目準に恋をしている。
あのどうしようもなくエゴイストで金持ちで高慢で自尊心ばかり高い万丈目準に、どうしようもなく、惚れているのだ。
しかし、それと同時に。

「はぁ…」
ため息が出る。さっきまで恋心を最大限高めていたとは思えないテンションの下がり方だ。
グーパー運動をしていた両腕から力が抜けた。がつりと額がテーブルに落ちる。やはりそこは醤油臭い。

あんな大きな皿の上にある目玉焼きから、どうやってこんなところに醤油を零せるのか、私には理解できない。そもそも、万丈目には理解できないことだらけなのだ。特にその無精さと、常に上から目線の態度。文句も不満も、出せばきりがない。そして、そんな万丈目に心底惚れている私自身のことですら、到底理解できないでいる。
殊更、万丈目の心には明日香ちゃんがいるということが、私の突き止められない疑問を、より難解にしていた。
私は、失恋しているというのに、なぜ万丈目がこんなにも好きなのだろうか。否、失恋していると知っていて、なぜ万丈目を好きになったのだろう。
こうして私は、授業のない晴れた休日の昼下がりを、食堂という静けさに身を任せて、ひたすら鬱々と考えていたのであった。

目を閉じると、明るい話し声が聞こえる。落着きを戻した私に安心したのか、普段通り、翔と剣山くんが斜め向こうの離れた席に座って、雑談に花を咲かせ始めたようだった。
食堂の引き戸からは、心地よい午後の日差しが部屋を明るくしている。二人の楽しげに弾む声を聞いていたら、段々に考えることが面倒になってきた。もともと私は深く考えることは得意ではない。

「最初にアニキと約束したのはボクっスよ!」
「いいや、俺だドン!」
一人の世界に浸っている間に、何やらまた弟子による十代の取り合いが始まっていたようである。
がたんばたんと騒々しいものであるが、私もこれだけ素直に言えたらと感心してしまう。万丈目とは十代たちとの繋がりで、一年生の時からの関係であるが、実を言うと私は今日という日まで、一度たりとも万丈目とまともに話せたためしがないのだ。酷いことに、もしかすると私は万丈目の名すら、呼んだことがないかもしれない。それもこれも、私が万丈目のことを、恋慕の情をもって見ているからに他ならない。
万丈目を好きでありたいのに、好きであるがために上手く会話をつなぐことができない。つまり、良好な関係が築けないということだ。こんな不毛なことって、あるだろうか。

頬杖をつきながら、またそんな下り気味なことを考え、二人の様子を見守っていると、ふと、この二人にに何かいいアドバイスはもらえないだろうかと思い至った。
今まで誰かに、万丈目が好きだと話したことはないが、これだけまっすぐに相手に向かっていける二人なら、いつまでも堂々巡りの私の思考に、新しい道を指し示してくれる気がしたのだ。
そうは言うものの、少し魔が差したのかもしれない。

とにもかくにも肩を怒らせて口論中の大小二つの背中に、遠慮がちに口を開いてみる。
「ねぇ、翔、剣山くん、」



ぶはっ。小さい体からよくそんな音が出たものだと少し目を丸くする。
「だ、大丈夫、」
翔、と言う前に、丸眼鏡をずり下げて、ひどく驚いた顔で私を指さしながら
「そそそそそれはこっちの台詞っスよ!」
などと叫んでくる。
剣山くんといい、翔といい、人に対して少しばかり、いや、大いに失礼ではないか。
「な、なんで万丈目なんかが好きなんスか!」
「そうザウルス!ここはもっと漢らしいアニキに惚れるべきドン!」
予想以上の反応をしてくる二人は鼻の息が荒い。や、やっぱり聞く相手を誤ったかもしれない、と後悔しても後先立たずというもので、「"なんか"って何よ!」とか「万丈目だって男らしいでしょー!!」などと叫び返してやりたい気持ちもあったが、言葉の裏にあるこれまでの万丈目の軌跡を思い返してみると、否定できないことも多々あったので、結局のところ、
「う、うるさい!」
と逆切れするしか、私に足掻く手段はなかった。
そんな真っ赤な私の顔と対照的に、翔は今度はどうでもよさそうに目を細めている。
「で、どこが好きなんスか?」
挙句、仕方ないから聞いてやろう、といったような風にその場から聞いてくるのだ。生憎今日に限っては、真剣に話を聞く優しさは持ち合わせていないらしい。
けれど、はじめて他人に自分の想い人を告げた私が、そんな翔の様子に気づけるほど冷静な意識を保っていられるわけもなく、おろおろしながら目を忙しなく動かすことで、無意識に落ち着こうと努めるので精一杯だった。
「ど、ど、どこって」
そんなのこっちが聞きたい。いつも考えても出てこないことが、そんな簡単に分かるはずもない。そう答えるはずだったのに、完全に羞恥と緊張でショートした頭はぐるぐると廻り。
「ぜ、ぜ、ぜん、ぶ?」
あちゃー。といった表情で、二人は顔を見合わせた。な、何その反応。そっちが聞いてきたくせにさっきからあんまりだ。
「とにかく!」
私は早くも聞かなければ良かったと後悔し始めたが、気を取り直す。急に大声を出した私に、二人の視線が集まった。
「私はものっすごく本当にとっても真面目に話してるの!」
立ち上がってまで事の重大さを伝えようとする私の剣幕に、翔と剣山君は呆気にとられている。
「万丈目について知ってること洗いざらい話してもらうからね!」
「こ、これじゃあ取り調べドン…」
呟く剣山君をひと睨みして、私は二人をこちらに招き寄せた。もうこうなったら目標を立てるしかない。とりあえずは万丈目と話せるようになる。これにつきる。
そうなれば、万丈目の趣味や好物でも聞いて、どうにかして話の種を作っていくことから始めなければならない。
そこまで考えると、私は俄然やる気が出てきて、おもむろに口を開いた。これだけで力が湧いてくるなんて、恋する乙女って素晴らしい!
「話を聞かないところはサンダーにそっくりっスね」
「え、ほんと?」
褒め言葉ではないというのに、万丈目と同じというだけで頬を赤らめた私に、末期患者を見るような目が、痛く突き刺さった。



大分話が逸れたりと、色々苦労はしたが、私が知りたかったことの情報の大部分は教えてもらえたので、大満足だ。
収穫は上々。これならば、今度いつ会っても何とか会話は繋げられるかもしれない。それに、とっておきも教えてもらったのだ。翔と剣山君曰く、これさえあれば、仲良くなること間違いなし!らしい。が、信用していいものか。

そう思って晴れ切った心で久しぶりにレッド寮周辺を散策していると、タイミングのいいことに万丈目がこちらに向かって歩いてきていた。
慌てて隠れようとするが、今さっきこれで大丈夫と張り切っていた身だったと思いだして、その場に身を留める。逃げたい気持ちと話したい気持ちがぐちゃぐちゃに絡み合って、私は不自然に体を傾かせて、万丈目と対面する形になった。
万丈目を見たまま立ち止まって固まっている私を怪訝そうに見た後、万丈目はおい、と言いながら私の目の前で歩みを止めた。
「貴様、十代を知らんか?」
漆黒の目が、私を映している。それだけで緊張に身が固まった。
万丈目の問いに千切れんばかりに首を左右に振る。その様子に、そうかとだけ呟いて、万丈目はレッド寮の方へ足を向けた。その背中に迷いはない。自分との話はもう終わったと、そう告げられているようだった。
何か話さなければ。そうは思うものの、先ほどの意気込みはどこへ行ったのか、喉が竦んで声が出ない。でも決めたのだ。絶対に会話をすると決めたのだ。
私は喉を絞るように声を出した。
「あ、あの!」
びっくりした。まだ近くにいる万丈目に話すにしては大きすぎる声だった。けれど、そのおかげで続いて言葉が出てくる。
「…どうしたの?」
極々自然な問いかけにさえ、心臓が破裂しそうなほど鼓動を早める。万丈目は今までの私の様子から、まさか声をかけられると思っていなかったのか、目を大きくして私を振り返った。けれど、爪先はまだレッド寮へ向いたままだ。
「クロノス先生から教材の整理を頼まれたというのに、十代の奴、自分だけどこかへ逃げてしまってな」
そう不機嫌そうに告げる万丈目くんに、レッド寮にはいないみたいだよ、と事実を告げると、悔しげに声を漏らした。そんな万丈目に、いつもなら絶対に出ない言葉が口から零れた。
「わ、私が手伝おうか?」
その言葉は、レッド寮へ向けた万丈目の爪先を、再び私に向き直させるには十分だった。意外そうな表情で万丈目は、いいのかと問い返す。それにひとつ頷くと、
「すまないが、助かった」
と言って、万丈目は柔らかな表情を見せた。私は万丈目のこんな優しげな顔を見たことがない。話そうと努力するだけで、こんなにも変わるものなのなら、物おじせず初めから向かって行けば良かったと思ったが、その後悔すら吹き飛ぶほどに、私は舞い上がった。
万丈目からお礼を言われた。それすら感動的なことだった。

私があまりにも嬉しそうな顔をしていたためだろうか、表情に表れていたとは気付かなかったので、突然息をつくように笑った万丈目にびっくりしてしまった。
安心した。万丈目は言う。
「俺にもそんな顔をするのだな」
言った意味がわからなかった。首をかしげると、私に諭すように言葉を続けられる。
「俺の前では絶対に笑わんかっただろう」
気のせいだろうか、そう言う万丈目の瞳が少し寂しそうに見える。私は確かに万丈目の前で笑ったことがないかもしれない。でもそれは、緊張して顔が強張ってしまうからだ。しかし万丈目がそれを知る由もない。それであからさまに一人だけ違う反応をされたら、嫌な思いをするに決まっている。万丈目に私は申し訳ない気持ちになった。
同時に、自分の表情を気に留めてくれていたのかという嬉しさが、また私を喜ばせた。
どう返せばいいか分らずほんのりと顔を赤くして戸惑う私に、万丈目が行くぞと声をかける。
「それと…今言ったことは気にするな」
背を向けたまま、ばつの悪そうにそう告げられると、万丈目にとってはきっと何でもないことだと思っていたさっきの発言が、意味のあるもののように思えてきて仕方がなかった。思考が追いつくより先に、私の心臓は一足先にどくりと波打つ。
もしかして。そうであればいい。色々な考えが渦巻く最中に、ぽっと、そこから何かが急に飛び出してくる。私の脳は反射的にそれを引っ掴んで喉に押し出してしまった。その流れに乗って、するっと口から飛び出してくる。

「準くん」
自分で言ったのに、驚いて口を抑える。大股に歩んでいた万丈目の足が、地面に吸われるようにして急に止まった。
「…、今何て」
私はとんでもないことを言ってしまったのだろうか。翔と剣山君が、あんまりしつこく、万丈目を下の名前で呼べと言うものだから、緊張で混乱しているうちに、つい口を衝いて出てしまったのだ。
私は不安な面持ちで万丈目を見つめる。レッド寮の面子は大体名前で呼んでいる。だから万丈目を名前で呼んだところで、何も不思議ではないのかもしれないが、万丈目自身がそれを嫌っていたら諦めるしかないではないか。
「ご、ごめん、嫌だったかな」
焦る気持ちに、どんどん声が小さくなっていく。

しかし振りむいた万丈目は、私の予想を遥かに超えていた。万丈目は、黒と白のコントラストがよく映える人間だ。それが、振り返った彼には、いつもの白がどこにも見当たらなかった。
「…構わん」
それだけ呟いたっきり口を噤む万丈目は、顔中、いや手さえも、制服から出た肌全てが真っ赤に染まっている。
そんな万丈目の様子に、つられない私ではない。ここでありがとうでも何でも、無理にでも会話をつづければいいものを、すっかり感染した私は、万丈目と向かい合ったまま、体中から熱を吐き出すしかなかった。

ああ、こんなときに詰まる喉、震える手、棒になった足、ごみだめみたいな頭の中。これだから乙女心ってやつは!
だから。
「あの…準くん、」
だから、大事な一言が、なかなか言えないのだ。



(ほのぼの100題 2/048/マイペース)
10/02/20 短編