差し出した両手で、何を伝えようか。



忘れ形見



ソーサーが軽く音を立てる。吐き出しそうになるため息を飲み込んだのは、今日で何度目になるだろうか。いつも好んで飲んでいたはずの紅茶は水のように味気ない。微かに香る茶葉も万丈目の周りを漂うだけで、楽しむ余裕もなかった。
一際高い笑い声が万丈目の耳をさらった。四方を包む騒がしい人声が耳に障る。まだ昼まで数時間もある。それだというのに、休日のこの時間帯にアカデミアの食堂が何故賑わっているのか万丈目には理解できなかった。ある生徒は寮でも焼けるパンを貪り、またある生徒は水一杯をこれ見よがしにテーブルに乗せて図書館でやればいい宿題に頭を抱え、卒業間近の女生徒達はそれしか道楽がないのか、狭い世間の噂話に執心している。しかし大半は何がそんなに可笑しいのか、大口を開けて笑いながら朝食メニューに口をつけていた。
食堂の料理が美味しいと言って、寮の食事を放って通い詰める生徒もいるのだということは知っている。しかし、それも万丈目には理解し難い。よく分からないが、寮の朝食を食べずにわざわざ遠い校内の食堂まで足を運んでくる生徒も、居心地がいいと自室より食堂に籠もる生徒も、集会場所の様に身をくつろげる生徒たちも、見ていると腹が立つのだ。わけもなく、「煩い」と喚いてこの場所から一人残らず追い返してしまいたくなるのだ。
無意識に、カップの飲み口を執拗に撫でていた。
こんなところが落ち着くなどと、まったくもって理解できん。そんな奴は余程寮に居場所がないとしか考えられんな──万丈目は自分で思ったことに眉間を抑えた。
それは俺も同じことではないか。
酷く情けない気分になった。どんな紅茶を飲んでも美味しいわけがない。


部屋の片づけをしようと言いだしたのはだ。三年の学期末、そろそろ万丈目がブルーへ入寮する日も近い。だというのに、授業が終わるなり真っすぐにレッド寮の自室へ帰って来て、ベッドの上で足を組んで呆けているだけの万丈目に、とうとう堪えきれなくなったが膝をすりよせて言ったのだった。
「今の内に荷物をまとめておかないと、後で大変なことになりますよ?といってもどうせ万丈目さんのことですから、また人を使えばどうにかなるとでも思っているんでしょうけど」
そんなことは一言も言った覚えはないのだが、入寮の話を出されると明日明日と適当にあしらっていたのも確かだった。それがには万丈目に動く気がないと映ったのかもしれない。
幾ら万丈目でも私物を他人の手で整理されることには抵抗がある。しかし怠けていたのは事実で更に弁解しようにも理由がないとあれば、に返す言葉は出てこない。
その上責めるような目で見られては、いよいよ重い腰を上げるしかなかった。

「本当に何にも片付いてないんですから」
改めて部屋を見まわしたが呆れたようにため息をついた。万丈目もそれに倣って自分の生活空間を眺めてみる。なるほど言われてみれば本や雑誌が机にも床にも積み重なっているし、枕元からは薄っぺらい文庫の束がどっさりと顔を覗かせている。これでは収めることを考えずに読んでは放り、また買い足しては放りとしている様子が、真っ先にの目にとまってしまうのも仕方がなかった。
はため息交じりに本を一ヵ所にまとめ上げている。あまりに役に立たないと、自分もあの本のようにつまみ上げられて部屋の隅に寄せられてしまうに違いない。そう思いながら手持無沙汰にベッドのふちに寄りかかって、慣れた様子で狭い部屋を動き回る小さな背を眺めていると、辞書を抱えたが此方へ向かってきた。書籍を玄関口に置くつもりなのだろう。通りやすいようにと体を除けた万丈目を、は訝しげに見上げた。
「先輩も片づけて下さいよ?」
「…あ、当たり前だ!」
慌てて二段ベッドの梯子を上った。見るからに不要そうなものが手当たり次第詰められた段ボールと、埃を被った装丁本が所狭しと並んでいる。は重たげに辞書を壁際に寄せてから万丈目を見た。視線で尻を叩かれている気分になった。上段に乗り上げて埃まみれの段ボールを手に取る。このままでは、万丈目が玄関口に重ねられるのも時間の問題かもしれなかった。

しかしやりづらい。窓際から自分を見上げるが視界に入ると、手が止まりそうになる。
が嫌そうな顔をするのはこれで三度目だ。物置と化した二段ベッドの一番上からダンボールを持ち上げた拍子に、大きな埃の塊が部屋中に飛散するのが嫌なのらしい。だからといって吸い込んだ様子もないというのに、わざとらしくこほんと咳を吐き出して、レッド寮なのをいいことにひとしつかない小さな窓と部屋の戸を壊さんばかりに全開にするのには流石に閉口した。段ボールを持ち上げるたびにそのように険しい顔で身構えられては、幾ら万丈目でもやりづらい。
自然と眉が寄った。
「随分触っていないのだから仕方がないだろう」
それをは必要のないものを持ち込むのが悪いと一蹴する。
「大体いつも部屋から出ないくせにこんな埃っぽいところに居て、体でも悪くしたらどうするんです?空気の入れ替えはしてるんですか?」
よく回る口だと思っても、動くのは口だけではないから文句の言いようもない。早速万丈目が降ろした段ボールの埃を隅々まで拭き取って、何でもかんでも放り込んで雑然とした箱の中身を仕分けている。考えもせずに無暗やたらと突っ込む自分とは手元の動き方からして違う。
無造作に持ち上げたプリントをめくって、がため息をついた。
「万丈目さん、いくら興味がないからって、これじゃどれがどの授業のものか分りませんよ…」
「後でやろうと思っていたんだ、後で!」
とは別にレッド寮の喧しい同級生が見たら、どちらが後輩だか分らないと言って笑うのだろう。そんな光景が容易に想像できて気が重くなる。読もうと思っていた本は玄関口に積み上げられ、残る道楽といえば寝るくらいのことなのだけれど、とてもそれは叶いそうにはない。
「そうですか。私が整理しなかったら卒業するまでこの段ボールの中に綺麗に収まっていたでしょうけど」
暗に私がいなかったら何もできないんだからと、そう言いたいのだろう。顔を見れば呆れた様子もなく、寧ろ満足そうにプリントの束を除けている。仕方がないと思う反面、後輩にここまで大きい顔をされては面白くはない。しかし、それで一言でも返そうものなら、2倍にも10倍にも膨れ上がった言葉を投げつけられそうで、万丈目は煮え切らぬままに口を閉ざしたのだった。その代りに思いっきり埃を立てて、ダンボールを床に置いた。また小言を言われると分かっていながらも、そうしなければ気は治まらなかった。
「ああっ、」
案の定が声を上げる。しかし、万丈目が思っていたことではなかったようだ。何をするのかと思えば、急に床に這いつくばって、ベッドの下に手を差し入れている。
何か置いていただろうか。万丈目は一寸首を傾げそうになり、が引きずり出そうとする物が何であるかに至った途端、背中にひやりと冷たい重石が圧し掛かってくるのを感じた。
「万丈目さんったら、こんなところにも入れて…!」
ずるりずるりと、出しづらそうに引っ張り出されるそれには見覚えがある。忘れかけてはいた。しかし他でもない万丈目がしまったものなのだ。自分にしてみれば随分と昔のことで、思い出すには時間がかかったのだけれど。
ベッド下で押しつぶされるようにして眠っていたカビ臭い風呂敷包みを、は手元に手繰り寄せた。極力カビの臭いを吸わないようにしている様子で結び目を解く。
「あ……」
が戸惑うように声を漏らした。軽く開いただけの包みからは、真っ青に染まったほとんど新品のままの制服が見える。万丈目が着ていたものに違いなかった。
息をのんだ。急に体中がざわめき立った。足元が疼いて、このまま黙って立っていたらどうにかなってしまいそうだ。
「万丈目さんこれ」
声が背後に聞こえる。何だ。そう聞こうとした。その時にはもう、万丈目は自分が駆け出していることに気づいていた。駆け出そうと思って走っているわけではないのに、万丈目の足は意志を持ったように力強く地面を蹴っている。の声は追いかけてこなかった。


味のしないぬるいだけの紅茶を煽って、万丈目は席を立った。レッド寮に戻るつもりはなかった。自分で逃げ出しておいて戻れるはずもなかった。自分の部屋にはがいる。根が真面目な人間だから、万丈目が放り出した片付けを今も一人で続けていることには違いない。
戻りたくない原因はではないし、追い出されたわけでもないのだが、足はどうやっても寮の方向へは向かなかった。見えない力に引っ張られるようにして、気づいたときにはもう寮に背を向けて駆けだして、食堂に逃げ込んでいたのだ。
「馬鹿らしい」
食堂に居座る生徒たちを見渡して万丈目は吐き捨てた。結局俺もこいつらと同じなのだ。
振り切るようにして外に出た。午前だというのに真夏日の太陽はやけに肌を突き刺す。食堂が快適だというわけがわかった。あそこは冷房がある。
とにかくむかっ腹を立てて後にしたからには食堂に戻るわけにはいかなかった。すれ違う生徒が暑苦しげな目をこちらに寄こしてくるのは知ったことではない。これが今の自分自身であると自負しているだけに、どんな炎天下であってもこのスタイルを捨てるつもりは万丈目にはなかった。
これが今の俺なのだ。
再び心の内で繰り返した言葉に、安堵させるための響きを含んでいたことには気づかなかった。



先輩は悪い人じゃないのだ。
床に散乱したプリントをかき集めるように手繰り寄せながら、は額を手の甲で摩ってため息をつきかけた。埃が付いているような気がして、先程から気づけばこうして何度も拭ってしまっている。さっきまで背後にいた万丈目は、部屋中に埃をまき散らした挙げ句、段ボールの中身を取り出しながら盛大なくしゃみを繰り返していた。埃を拭き取ってから出すということを、この男は知らないらしい。まったく、と思いながらもは手にした本を愛おしげに布で丁寧に拭った。

悪い人じゃないのだ。ただ少し、常識とか、人間関係というものを知らなすぎるのだ。だからこんなことになる。
これからどう片付けようかと困りきっているのに、散らかしたまま部屋を飛び出して行った万丈目を思い出して、は何にも考えられなくなった。埃のこともそうだが、今回の入寮もきっとが言い出さなければ、このがさつに物が詰め込まれた段ボールのように一人で適当な荷物整理でもしていたのだろう。
頼みさえすれば助けてくれる人間はそこら中にいるというのに、万丈目はいつだって空回りしている。人の頼り方が下手くそで、その上意地っ張りなのがいけない。今日自分が無理にでも急かさなければ、今頃どうしていたのだろう。そうに考えさせてしまうくらい、万丈目は甘え下手なのだ。

は4年前の中等部の頃を思い出した。初めて万丈目と言葉を交わした時のことだ。中等部の頃の万丈目はとにかく有名人だった。新入生だって一週間と経たずに覚える名前と言われるほどだ。は一つ下だったが、それでも入学した時から万丈目の評価は高かった。
話したのは万丈目の高等部進学間際だ。何も特別なことがあったわけではない。偶然廊下で目があったから、ご卒業おめでとうございますと、そう言っただけだった。けれど万丈目の返した言葉は何故かの心をくすぐった。
「卒業くらい誰でも出来る」
言った後ではっとしたのだろう。数秒間をおいてもう一言告げられた。
「…礼を言う」
早口で告げられた一言は万丈目の不器用な一面を表していた。それだけで学園トップというの万丈目に対するイメージは和らいだ。いつも能面をつけたような顔が、少しでも謝罪の色を浮かべたのが、の底に眠っていた母性と恋心に、それとなく火をつけたのかもしれなかった。
だからこそ、高等部に入ってから目の当たりにした万丈目の自堕落な生活に、自然とお節介を焼きたくなってしまうのかもしれない。それを楽しみに思っている自分は相当の物好きだが、の世話を抵抗もせずに甘んじて受けている万丈目も中々に物好きだと思うのだ。
それがには万丈目が人間付き合いが下手なだけで、必ずしも孤独を好んでいるわけではないと思えた。中等部の取り巻きは、万丈目の望みでもあったのかもしれないと、そんな風にも考えてしまうと、どうにも自分が世話を焼きに腰ぎんちゃくみたいにくっついて歩くのは正当な理由があるみたいで益々後には引けなくなったというのもある。
しかしそうなれば、万丈目と少しでも一緒にいたいという思いがあるにとっては願ったり叶ったりだった。

山のようにあった本を重ねた。一通り埃をふき終えたので、場所を広げるように端に寄せる──と、の視界の真ん中で、風呂敷がどっしりと居座っていた。

風呂敷の結び目を解いただけだ。それ以上触っていない。万丈目のあんな顔を見てからでは、が勝手に開いていいようなものではない気がして、触れられなかった。追いかけてでも尋ねれば良かっただろうか。それはには分からない。
万丈目はどんな思いでこの制服を風呂敷に詰め込んだのだろう。恐らく仕舞いこんでからは一度も触れなかったことは、表面を漂うカビと解くのに随分苦労した固い結び目が雄弁に語っているけれど、万丈目はが知らない一年間のことはあまり話したがらない。興味がないと言えば嘘になる。理由などなしに、何とかして好きな人のことを知りたいと思うのは悲しい恋心だった。でも、知らずとも何の支障もないのも確かだ。だからは詮索もしなかったし、そのことに関して気を遣うこともなかった。何より万丈目が振り切ったと自ら言っていたのだ。振り切ったのに隠したがる矛盾は感じても、に口出しは無用だった。
は、万丈目は自分のことを少なからず悪いようには思っていないと感じていた。だからいつだって困らせること覚悟で詰め寄ることはできたのだ。それでも「振り切ったんでしょう、私は頼りないですか」と縋りたい気持ちを抑えて2年待ち続けた。本当に万丈目さんが振り切れば、いつか話してくれるだろうと、そう思っていたのだ。

それなのに、卒業まであと数カ月という時になって万丈目は逃げ出したのだ。が包みを開けた時に戸惑ったのは、“振りきった”はずの過去が、固く結ばれた風呂敷包みの中に過去のカビと埃と一緒に封印されていたからだった。
万丈目が部屋を飛び出したのは、果たして制服のせいだろうか。それともの心が揺れたからだろうか。
もし後者であったなら、は嬉しい。が万丈目をそれだけ支えられているということだからだ。

中等部の頃の取り巻きが、ほとんど立場を変えたことはも知っている。だからこそだけは裏切らない。そう決めていた。
にその頃の万丈目の心情は知る由もないが、能面を被るのだけは得意な人間だということさえ分かっていれば、心が読み取れなくとも、自分の一貫した気持ちでもって万丈目を安堵させられればいい。少しでも休まる日があればいいのだ。自分が信じることで、万丈目さんが安らぐ日があれば、それでいいのだ。

人目を気にして意地を張らずとも、失敗してデュエルに負けようが、だけはそれを受け入れたいと思った。たとえ18にもなって人参が食べられなかろうが、大の風呂嫌いで優等生のくせに怠け癖があろうと、は一度だってそれを情けないなどとは思ったことがない。
が何度諌めようが毎日同じ服を着て、体を気にして出した料理は野菜をことごとく避ける。構うなと言うくせに相手にされなければ途端に虫の居所が悪くなり、授業にも出ずに部屋にこもりっぱなしの男だけれど、にとってはそれで良かった。
服を洗えば無言でお茶を入れ、料理を出せば文句と共に皿を空にし、人に頼られれば自分の部屋すら簡単に放ってしまうのも万丈目だ。が嬉しそうに笑えば、決まって戸惑ったように鼻を鳴らす不器用で厄介な性格を持つ人だと、十分過ぎるくらいに知っていた。

デュエルが強い人間は幾らだっているけれど、を心の底から幸せにさせてくれるのは、万丈目しかいない。昔のように肩書ばかり背負ったトップにならずとも、は今の万丈目で十分だった。数年を経て、ようやく万丈目さんらしくなったと、そう思うのだ。彼の拘るデュエルの成績はともかく、の中で万丈目が一番であることは確かだった。

の手が制服に伸びる。できることなら卒業する前に、が支えられる内に、万丈目に向き合ってほしかった。過去にわだかまりのない、綺麗な気持ちで入寮して欲しいのだ。
「本当に先輩は…世話がかかるんだから」
呟いた言葉は、存外甘さに満ちていた。言葉どおり本当に手のかかる人だけど、それが万丈目だと思うと、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「よし!」
立ち上がって気合いを入れる。いつ帰ってくるか分らない万丈目を待つにしても、この部屋を片付けるにしても、まず、制服にこびりついたこのカビをどうにかしなければならなそうだ。
窓から風が吹く。甘い香りがした。の好きな、幸せを運ぶ香りだった。



はたと足を止めた。合わせたように、蝉の声が止む。何か、甘い匂いが鼻を掠めた気がした。恐らく花の香だ。花には詳しい方ではないが、万丈目が花と分かるくらいにはよく嗅ぐ匂いなのに違いない。
近くに咲いているのだろう。辺りを見まわしたが、それらしい色は見当たらない。はて、何の花だったか。思いながら足を踏み出せば、風の中の花弁を追うように香りを辿っていた。

振り切った、と思っていた。過去の自分の弱さも、背負うものの重圧も、全て己だと消化しつくしたと思っていた。しかし、が奥にしまい込んでいた包みを大仰な動作で引きずり出した途端、急に落ち着かなくなって、気づけば背を向けて走り出していた。
変わったという、つもりでいたのだろうか。それだけだったのだろうか。そうじゃなければ、何故逃げ出す必要があるのだろう。

──万丈目さんこれ
駆け出す直前のの声。どうするかと聞きたかったのだろう。もう2年以上も腕を通していない制服だ。それもレッド寮に来てからあの通りの扱いだったのだから、すっかりカビの臭いが染みついてしまっているだろう。今さら持っていても仕方がないものだった。
どうしようと困ることもない。捨ててしまっても構わんと、一言でも言ってくれば良かっただろうか。そうすれば今頃、しがらみのない自室に戻って、の生意気な言葉を聞きながら、埃まみれになって荷物をまとめていたことだろう。片付けなんて少しも楽しいとは思わないが、こんな日照りの中を行く当てもなく歩き続けるよりは幾分もマシだった。

万丈目さん。
は相変わらず万丈目をそう呼ぶ。もう自分をさん付けで呼ぶ人間など、この学園にはそういないというのに。
まっすぐな瞳をしたに名前を呼ばれるのは嫌ではない。純粋に万丈目を慕って呼んでくれているのだと分かるくらい、はまっすぐで単純に自分に向かってくるのだ。けれどそれがこそばゆい反面、呼ばれるたびに複雑な感情がせり上がってくるのは否定できなかった。過去の呼び名を捨てて、いつの間にかサンダーという呼称を逃げ口にしていたのかもしれない。
ひとつ気づいてしまえば、次々と容易に他の綻びが見つかっていく。が尋ねたそうにして我慢しているのを知っていても知らん顔を通したことも、制服と一緒にブルー時代の象徴のデッキやホルダーも無造作に風呂敷に包んで押し込めてしまったことも、何より、念願と言い続けた入寮が間近に迫っているはずなのに、に急かされるまで少しだって荷物を整理をしようとは思わなかったことも、すべてとっくに振り切ったことなら起こるはずのないことだったのだ。

花の香りが強くなった。ただ何となく甘いと感じていただけだったが、近くなるとミルクのような柔らかさが加わった。思い出せそうで思い出せない。この香りは何の花だったか。思いながら雑木林に足を踏み入れる。少しの陰りで体感温度が下がった。軽く汗を拭う。代わりにミンミンゼミの声が大きくなった。
もう少し歩こうかとも思ったが、急にどうでもよくなった。匂いを追って歩いてきたここは、よくよく見渡せばレッド寮の近くの林だ。このまま歩いて行けば数分も経たないうちに寮の立つ崖の方向へ出てしまうだろう。

さてこれからどうしようか。
いずれレッド寮には帰らなければならないが、今は帰りたくなかった。まだ、どんな顔をしてに会えばいいか分らない。きっとあのボロ臭いドアを開ければ、聞きたいのを必死で我慢していてくれる後輩に甘えて、適当な軽口を叩いて誤魔化す自分の姿が容易に想像できた。
万丈目には、それは耐えられなかった。綻びを見つけた後で放っておくのは、いくらにずぼらだと言われ続ける万丈目でも出来ない。窓を開けただけの暑苦しい部屋の中で、埃にまみれたの我慢顔を見るのは、に責めるつもりがなかったとしても、今の万丈目には耐えられそうにはなかった。

すっかり陽の上った中を歩き続けるのは、予想以上に体力を消耗した。ここらで休むのもいいかもしれないと、万丈目が思った矢先だった。
「ちゃんと水分はとってるんですか?」
の声がした。驚いて振り向く。しかし視線の先にあるのは、万丈目の踏み荒らした雑草がしおれている姿だけだった。がいるはずがない。は真面目で真っすぐで、だから今頃逃げ出した万丈目の代わりに部屋を片付けているはずなのだ。
どうしての声なんか。幻聴なんて聞いたのは初めてだ。精霊の声なんかではない。確かに芯の通った、の声が聞こえたのだ。
「紅茶しか飲んでないなんて、また倒れても知りませんよ?」
まただ。振り返ってもやはり誰もいない。
木陰に居ても汗ばかりが流れてくる万丈目の様子を見たかのように、もう一度の声が鳴った。
「ただでさえ好き嫌い多くて栄養失調になるんじゃないかって心配してるのに、その上熱中症なんかになったら入寮なんて先延ばしになっちゃいますよ」
好き勝手に頭を巡るの声。どこから聞こえるのだろうか。声の質もトーンも、万丈目の口を挟む暇を与えないしゃべり口調は、まったくそのものだ。
「万丈目さんは本っ当に何にもしないですよねぇ」
──うるさい。俺にだっていろいろあるのだ。
「色々って、寝てるだけじゃないですか」
──たまたま寝てる時に貴様が来るだけだろう、勝手なことを言うな。
「毎日そんな姿しか見てませんが、たまたまですか。十代先輩たちが声を掛けても高いびきなのもたまたまですか」
──貴様……!
「朝晩ほかの寮生よりご飯が多いのも、先輩の部屋だけアンペア数高いのも、金に物を言わせて明日香先輩の写真を買い取ったのもたまたまですか」
──、貴様いい加減に!
「でも、」
息をのんだ。

「好きですよ」

先輩のそういうところ、好きですよ。
くらりと幹に寄りかかった。何を言っているんだ。いや、が言ったわけではない。俺の幻聴だ。しかし一度だってはそんなことを言っていない。
何もしないだとか、寝てばかりだとか、ぐちぐちと小姑のような文句は聞いてきたが、好きだ、なんて。
──好きですよ
全身がざわめき立った。ブルーの制服を見た時とは違う。痺れるような感覚だ。そう、たとえて言うならこの花の香りのような。

万丈目は首を振った。そうしなければ中心でひしめく何かに飲み込まれてしまいそうだった。
は後輩以外の何物でもない。ただ小うるさくて付きまとうだけの後輩だ。あれを食べないと倒れるだの、遅刻するから起きろだの、出席日数は大丈夫かとか、顔色がよくないとか、とにかく煩いだけの、そんな後輩なのだ。万丈目が一日でも学校を休めば倒れたのかと心配して飛んできて、ブルーへ入寮すると聞けば自分のことのように駆けつけて部屋を片付け始める、そんな後輩なのだ。

何故か胸が締めつけられた。苦悩の日々は経験してきたはずだったが、こんなに胸が苦しかったことはない。どういうことだろうか。に裏切られたわけではない。つき上げる痛みの意味が、万丈目には理解できなかった。
はいつだって幸せそうな顔をして、万丈目に小言を零していたのだ。憎たらしい生意気な言葉を吐いても、その口元は抑えきれない優しさを零していた。そんなに対して自分が傷つくことなど、ひとつもない。
しかしそう思うと、ますます胸は痺れを増す。

不意に顔を上げた。木々の間に、微かに淡い白が浮いているのに目が止まった。鼻腔を、ミルクのような甘ったるい柔らかな香りがつきぬけて行った。
クチナシか。
名が浮かんだ途端、全身が熱を持ったようにほてった。万丈目は自分が興味のないものにはとことん無知であることを知っていた。目立った女性付き合いもなければ、幼い頃からデュエル一筋の頭で生きてきた。花など、好きであるわけがない。
林の中に切り取られたように立つクチナシを見て、万丈目は記憶の端のずっと端っこに、クチナシの思い出があることを微かに思い出した。
それは確か──が好きだと言った花だ。

「まったく…」
乾いた笑いが漏れた。こんなところまでに追いかけられて来ては、もう覚悟を決めて戻るしかなかった。


ドアを開ける必要はなかった。風が吹き抜けるように、が全開にしているからだ。万丈目の足音に気づいていない様子のは、流行りの過ぎた歌を口ずさみながら整理のし終わったノートやプリントを段ボールに詰め直している。
声をかけようかと思ったが、その前に目に留まるものがあった。逆光を浴びての頭上でゆらゆらと揺らめくものだ。暗い室内の窓に青空がぽっかりと浮かんでいる。その中をもう一つの青が、風の吹くままにその身をなびかせている。万丈目の、青い制服だった。
もし万丈目の帰ってくる今まで、ずっと日当たりの強い窓辺で揺れていたのなら、カビ臭さは大分消えているに違いない。洗われた風呂敷が窓の桟にかけられ、机の上には記憶から消しかけていた昔のデッキとホルダーが丁寧に揃え置かれていた。

のことだ。きっと万丈目が去った後、直ぐに洗ったのだろう。駆け出す前に万丈目が捨てろと言っていても、それは変わらなかったのかもしれない。「振り切ったと言ったじゃないですか」とならそんな風に、いつもの調子でけろりと言ってのけた気がした。万丈目が口を挟む暇がないくらいの小言を吐きながら、口元を緩ませて。
ぶるりと、唐突に震えが起こった。下腹部からじわじわと上りつめてくる。体が変だ。何かがうごめいて滲み出そうになる。じんわりと、硬いスポンジに水が染み込むように柔らかくほぐされていく。この感情は、いったい何だ。
「…
戸口から、噛みしめるように名前を呼んだ。万丈目の呼びかけにが振り返った。この後輩の性格上、きっとただでは出迎えてはくれないことは承知していた。
万丈目さん。芯の通ったの声が、名前を呼んだ。
「まさか全部私に任せて逃げるつもりじゃないかと思いましたよ」
少しだけ眉を寄せて万丈目を睨む。いつもよりほんの僅かに、怒っているようだ。万丈目の帰還がの予想を上回っていたのかもしれなかった。
しかし何故だろう、そんな怒り顔にすら心が和んでいく。
「ではすべてを後輩に任せて逃亡した万丈目さん、袋取ってください」
「お・ま・え・は…!」
ツンと澄ました顔では、寄こせとばかりに手をひらひら振る。怒りを示してやっても微塵も動じないのはレッド生と関わりすぎたせいだろうか。
僅かに足を踏み出せば、丁度よく足元に袋があった。屈んで拾い上げる。は万丈目に背を向けたまま、段ボールの出し入れを繰り返している。ずるずると、あまり使わない衣類がいもづるのように引っ張り出された。
「こんなに服があるのにどうしてしまいこむんですか、まったくもう…」
の小言は絶えない。けれど面倒そうな様子は一つもない。それがまた、万丈目の胸をやわらかく締め付ける。どうやら俺は余程不可解な感情を抱えてしまったらしい、と思った。考えても考えても、答えには到底辿りつけそうな気はしない。

何にせよそれは、背を向けっきりの彼女を抱きしめれば分ることかもしれなかった。無意識に手折ってしまった甘い香りと一緒に。の好きなクチナシごと、両腕で。

クチナシの風。揺らめく夏色。次にが紡ぐのは、どんな言葉だろうか。



(ほのぼの100題 2/020/後かたづけ)
10/08/15 短編