四月のつの(コブラ)の名前を社長に置き換えてみました。教授はお腹いっぱいという方はどうぞ。
※臨時教師設定としてお読みください。


四月のつの-海馬ver



今朝、清掃員に磨かれたばかりの窓を通して、アカデミア名物の火山が構えている。赤茶色に染まる体のところどころを、噴火の名残か黒ずんだ影が覆い、斜面を際立たせている。その麓では、まだ若い木々の葉が揺らめき、折り重なる新緑の中に淡い桃色の花が綻ぶ姿が目に映る。もう春と呼んでも問題はないだろう。
4月1日の午前授業の終わりを告げるチャイムが響き渡ると、私はようやく窓辺から体を離した。喉も程よく渇いたところで紅茶でも飲もうかと、テーブルのカップに目を移すが、いつの間に飲みほしていたのか、僅か一口を残して、カップの中身は渇ききっていた。ちらりと、この部屋の主を見遣る。
「海馬君」
答えはない。しかし、来客用のテーブルの傍に佇む私を一瞥したところを見ると、声はしかと届いていたようだが、それきり学内文書へペンを走らせるのみで、こちらへ反応を返す気は微塵もないようだった。いつも通りの海馬君だ。
それでも私は声をかける。ねぇ海馬君。
「紅茶淹れるけどあなたもいる?」
やっぱり返事はない。

私が海馬君の部屋に来たのは一時間ほど前だ。午前の授業がないからと、暇つぶしに訪れたのだけれど、いくら話しかけても表情一つ変えない同僚の様子を見ていると、逆に自ら暇を持て余しに来たような気がしてならない。お昼も終われば海馬君も実技授業が控えている。きっとこれまで通り、私などには目もくれず部屋を出て行ってしまうのだろう。切ないにもほどがある。だからそれだけは遠慮願いたい。
「海馬君、ねぇ海馬君、海馬君」
半ばやけになって、ひとつとして反応を示さない同僚に、ゆったり歩み寄ると、おどけた様に名前を呼んだ。
漸く、訝しげに歪められた目が、私を捉える。知れず、紅を塗った唇が弧を描いた。
「随分お忙しそうな海馬先生に一言申し上げたいのだけれど」
宜しいかしら?首をそっと傾げると、海馬君は鼻を鳴らして、また文書へ視線を戻した。海馬君に無視されるのは慣れている。私は気にせず、注意を引くように海馬君のデスクに無遠慮に腰を掛けた。
海馬君が睨む気配。
「ここは椅子ではない。疲れたのならソファにでも座れ」
私は破顔した。今日初めて聞く海馬君の声。
「あなた、お客様が来た時はいつもそうなの?」
くつくつと喉を鳴らしながら机から決して降りようとしない私を、鋭い眼光が射抜く。余計なことをあと一言でも付け足せば、今にもかみ殺されそうな目だ。
でも、海馬君が絶対に女性に手を上げないどころか、その実大きな体躯に似つかわしくないほど優しい心根の持ち主だということを、私は機会あって知っている。だからこそ、こうしてほぼ毎日と言っていいほど仕事の邪魔をしに来ているというのに、相手にもしないものの、邪険にもしないのだ。
さも迷惑だと言わんばかりの顔をして、私を睨みつける同僚に晴れやかな笑みを向ける。迷惑ならさっさと追い出してしまえばいいのに、私の意思以外でこの部屋を出たことは、一度もない。

楽しげに笑う私に海馬君はとうとう観念したのか、お世辞にも似合うとは言えない、細やかな装飾の映えるコーヒーカップを片手に持つと、
「貴様もコーヒーにしておけ」
と言って席を立った。
初めに紅茶を淹れてあげるといったのは私。喉が渇いていると思ったのも私。海馬君なりの気遣いだ。そして、私がコーヒーより紅茶の方が好みだと知っていてああ言ったのは、海馬君の小さな抵抗。
人が見かけによらないというのは、この同僚を見ていればわかる。
海馬君が電気ポットに向かう姿を見届けると、私は言われたとおりソファに腰をおとした。海馬君のソーサーを持って座れば、いくら彼でも仕事を中断するだろう。何といっても今はお昼休みなのだ。

「貴様は俺の邪魔をしに来たのか」
湯気の立つコーヒーを差し出しながら、海馬君はソーサーに誘われるがままソファに腰をおろした。それに安堵して、私はテーブルに置かれたバスケットに、丁寧にお菓子を並べていく。勿論来客用ではなく、自分用だ。コーヒーを飲むなら甘いものにしよう。思ってチョコレートやらビスケットやらパイ菓子を順々に並べて、満足げにひとつとる。
海馬君は鼻から息を大きく吐き出した。所謂ため息というやつだ。
「あなたにも仕事があるでしょう、先生」
「いいのよ」
厭味ったらしく丁寧に紡がれた言葉を適当に流すと、海馬君の眉間にしわが寄った。新入生の手続きも一通り終わった。私の仕事と言えば、あとは残すところ身体測定と女子寮の配属名簿を作成するだけなのだ。それも鮎川先生と協同だから、大して時間もかからない。
「仕事ならあなたより進んでるわよ」
海馬君の机の上に重ねられた生徒の通知表を見て笑うと、返す言葉がないのか、はたまたどうでもいいのか、海馬君は私から視線を外してコーヒーを口に含んだ。
そう、だから私は暇なのだ。授業の準備以外に、もう仕事はほとんどないと言ってもいい。だから。
かつり。アメリカンを揺らしながら、カップを置く。ワックスの程よくかかった木製のテーブルに映った自分の顔が、徐々に子供っぽくなっていく。
「退屈だから付き合いなさいよ」
海馬君のカップを持つ手が止まった。

長く空気が滞っていた気がする。時間にしてみれば数秒も経っておらず、コンマの世界なのだが、時が止まっていたような気がした。不思議とそんな感覚に捉われた。
それは、海馬君の僅かに言い淀む口元を見たかもしれなかった。
「俺に仕事が溜まっていると言ったのは貴様だった気がするが」
「…海馬君って本当に堅物ねぇ、いっつも仕事仕事」
確かに社長業もあるだろうけどと零し、コーヒーを一口飲んで、またテーブルの上に置く。
「浮ついた話もひとっつも聞かないし」
海馬君がいつも通り、聞いているのかいないのか分らない態度で静かに視線を落としているのを見て、構わずに一人で話しかける。
「もしかしてあなた、好きな人いるの?」
お菓子の包装紙を弄んでいる私の前で、座ったばかりだというのに、海馬君はおもむろにソファから立ち上がった。
無言のまま一時間前と同じように、静かな沈黙を守り続けるような姿勢で、海馬君は仕事机に向かった。
「え、ちょっと、海馬君?」
振り返って呼ぶけれど、見向きもしない。私がコーヒーを飲んでいること以外、一時間前と、まったく同じだ。
慌てて海馬君を追いかけた。
「私、何か気に障るようなこと、言ったかしら?」
今まで無視されることはあったが、会話の途中で急に席を立つことはなかった。私が怒らせてしまったに違いない。
「ごめんなさい、もしかして私」
「謝られたところでどうなることでもない」
遮るようにして、海馬君が声を上げた。手に握ったペンが、戸惑うようにゆらゆら揺れている。
「貴様には、関係のないことだ」

可笑しな話だが、その一言を言われただけで、さっきまで謝罪の気持ちで満ちていた私の心は、怒りで突き上げられた。散々この部屋にしげく通い、好き勝手なことを言って、その上やれ暇だやれ構えなどと言っておきながら、すべて悪いのは私であるにもかかわらず、関係ないと一蹴されたことに、私は酷く憤りを感じた。
「関係ないってどういうことよ、私はただ」
「貴様のそういうところが」
またもや遮られる。海馬君が声を荒げるところを、私は初めて聞いたかもしれない。海馬君はペンを置いて、食いかかるような私を射抜いた。出かかった言葉が、勝手に喉を下って行った。
「人の領域に勝手に入り込んでくる貴様のそういうところが、」
本当に怒っている。海馬君は、怒っているのだ。じゃなければ、いつもみたいに無遠慮な私にあの鋭い眼光を突き刺していたところだろう。なのに今、目の前で私が食いつこうとしていた同僚は、仏頂面の中に言い知れぬ悲しさをまとっている。
「……海馬君、」
言いかけたが、何を言おうとしたのか、自分でも分らなかった。それを知っていたように、口を閉ざした私を前に、海馬君は椅子から立ち上がる。
「好いた者がいるかと聞いたな」
無造作に投げたペンが、紙にインクを零している。じわりと、黒い染みが広がっていく。海馬君はゆっくりと身を屈めた。それを私は静観している。
「貴様には分らぬことだ」
乱暴に襟を掴まれる。視界が揺れると、粗雑でやわらかなものが、私の唇を襲った。

一瞬のことだった。
「…か、海馬君……?」
問いかけるが、やはり答えは返ってこない。そんなことは慣れている。でも、今は返してほしかった。
無表情の中に、やわらかな、それでいて悲しげな視線が、じっと私に降りかかる。これは冗談ではないのだ。けれど私は言わずにはいられなかった。
言わなければならない気がしたのだ。
「やだ、うそでしょ……?」
僅かに紅の伸びた唇が、肯定を祈るように震える。海馬君はただ一言言った。
「…貴様には、分らぬことだ」

チャイムが鳴った。お昼休みの終わりと授業の始まりを知らせる音だ。海馬君は上着とジュラルミンケースを持つと、無言のまま立ち去っていく。それきり、私へは見向きもしない。

春は終わりでもあり、始まりでもある。私には、これからそのどちらが待ち受けているのか、想像できなかった。頭が真っ白で、自分がどんな状況にいるのか、とても考えられそうにはない。
部屋を満たす香ばしい匂い。私があまり好きではない、コーヒーの香り。それが強く鼻を掠めるのは、海馬君のせいだ。紅が落ちた口元から、コーヒーの香りが離れない。海馬君の、悲しげな顔も。

透き通った窓が光を撫でる。嘘か真か4月の1日、外では桜の花が咲き綻んでいた。



四月のつの 海馬改訂版
10/04/02 短々編