せめぎあう。何もかもがぐちゃぐちゃになって、もつれ合って。記憶の糸を辿っても、どこで絡まってしまったのか分かりやしない。
本当はとっくに答えを見つけているのに、それでも俺は告げられない。

「どうしたんだ万丈目、もう限界か?」
…この男にだけは!



花と修羅



何かが鼻先を掠めた気がした。何かと思っていると、霞がかった暗闇にぼんやりと灯りが浮き出てくる。ちょうど気持よく漂っていたところだったから、体中の心地良い浮遊感から離れるのをどこか遠くの意識が惜しんでいた。光から逸らすように体を捩る。口から軽く呻きが漏れた。
「万丈目くん?目が覚めた?」
落ち着いた女性の声。起きがけの耳に心地よい温かさを含んでいた。
「…鮎川先生…?」
うっすら視界が開けると、ジャージ姿のふっくらとした輪郭が浮かび上がり、次いで「はぁい、随分寝ていたわね」と差し出されたペットボトルと共に、見慣れた保険医の顔を薄暗がりの中に見つけた。
「あ、ありがとうございます」
俺は一体どうしていたのだろうか。ゆっくり起き上がり水の入ったペットボトルを受け取ると、首筋から頭が持って行かれたようにくらりと揺れる。
体が火照って喉を潤したい気分だったので、遠慮無くキャップをひねって水を口に含むと、存外美味くてたまらない。喉を鳴らしてごくごくと一気に半分近く飲んだ。
頭が急に冴えてくる。冷えた水に乗って、飛散していた記憶が流れるように思い出された。

すべての始まりは鮫島校長の気まぐれから起こった。それも、
「三年生に修学旅行をさせてやりたいと思いましてなぁ」
このひと言からだ。
受験やら就職やらで忙しい時期だというのに、どうやら三年間の騒ぎの中まともな修学旅行をしていなかったことを急に思い出して、独断でスケジュールを組んでしまったらしい。教師連中は言うまでもなく右へ左への大騒ぎとなったが、校長は笑うばかりで断固撤回する様子もない。
その上いつの間にやら「三年生修学旅行・リターンズ~汗と涙の青春をもう一度~」なる妄想を膨らませに膨らませた噂が全校生徒に広まり、期待に満ちた三年生を煽るように、これまたいつの間にやら作られた旅行の栞が恐らく校長の手によって配られた。校長は無論、抗議にも聞こえぬふりである。もう何を言っても仕方がないと、生徒が自主的に部屋割りを始めて漸く、教師陣が折れる形で修学旅行が決行された。
そして今がまさに、その修学旅行真っ只中の旅館である。

「やっぱり男の子はやんちゃねぇ」
「…俺はあんなくだらない事するつもりはありませんでしたよ」
パチリと部屋の蛍光が灯る。鮎川先生がさもおかしそうにくつくつと笑った。
「でも結局やったんでしょ?」
「………まぁ」
濁しつつ答えれば、鮎川先生は声を上げて笑った。
女教師ということで設けられた一室は医療道具が置かれただけで広い。俺が座る布団の反対側にも、もう一式布団が敷かれている。
「ああ、それね、さっきまでエドくんがいたのよ」
俺は顔をしかめた。エド。今は一番名前も聞きたくない奴だ。普段からプロだプロだと鼻にかけて、人を見下すような笑い方が全く気に入らん。そもそも俺がこんなことになったのも…

「羽目を外しちゃうのは仕方ないけどね、温泉で我慢大会なんかしちゃダメよ?」
教師らしいことを言いながら、何が入っているのか、ごそごそと大きなカバンを漁っている。
「やりたくてやったわけじゃありません!」
何だかよく分からないうちにエドにけしかけられ、いつまで湯船に浸かっていられるかと、そんなくだらんことになったのだ。まあ、流れを良くは覚えてはいないのだが。
手に持ったペットボトルの水がちゃぷんと波打った。
「はいはい、これもいい思い出よ」
ほっそりした手から街頭で配られるような広告入りの団扇が差し出される。
「美しきかな、青春の1ページというものね。それにしても何事も無くて良かったわと思って。…本当に何事も無く」
“ほんとうに”を不自然に強めてにこやかにこちらを見つめてくる。この教師は何が言いたいのだ。
怪訝な心が顔に出ていたのだろう。抑えきれない笑みを隠すように、自分用にもう一枚取り出した団扇で顔を覆うと、
「エドくんは心配した女の子が迎えに来てくれたのよね~」
うふふ。と三日月に歪んだ目で声を漏らした。
「こう、手を握って、タオルを当てて」
不覚にもその光景を想像してかっと顔が熱くなった。
「アンタ本当に教師か!」
「心配しなくていいのよ、万丈目くんにもお友達はちゃーんと来てくれてたから」
女の子はいなかったけど。付け加えた声は言うまでもなく楽しそうだ。これでは女子生徒と全く変わらない。どっちが羽目を外しているのかわからんではないか。

悔しまぎれに勢い良く立ち上がった。少しふらついたところでくすくすと笑われる。
「もう大丈夫そうね、途中冷たいものでも買って飲んでから部屋に戻るといいわ」
「ええ、ありがとうございました!」
頭が沸騰している。落ち着け、万丈目グループの三男坊は落ち着いてこそしかるべきだなどと、兄さんの声が渦巻いたが、口から出た声は刺々しかった。着替えの入った袋をひっつかんで床を踏み鳴らす俺の慌てる様子に、また先生の忍んだ笑いが背を打つ。
もうエドくんと張り合ってお風呂で倒れないでちょうだいね~!
掛かる楽しげな声を遮るようにバタリとドアを閉めた。


なんて教師だ!!思いっきりそう叫んでやりたかったが、浴衣と、急いでつっかけたプラスチックのスリッパで、ここが旅館だったことを思い出す。廊下は薄暗く、すれ違う人間は愚か、見渡しても人影一つ無い。のぼせて意識を失ったにしても、一体今は何時なのだろうと丁度良く見かけた時計を覗いてとっくに消灯時間が過ぎていることを知った。どうやら鮎川先生の言うように、ぐっする眠りこけていたらしい。
きっと先生のあの興奮した様子は、見回りがてら混じった女子生徒の浮かれた熱にでも当てられたのだろう。まだ胸にもやっとした物を抱えながらも、ため息混じりに履き慣れないスリッパで床を打った。

女子の部屋と男子の部屋へ分かれる広間には、簡易な休憩所が設けられている。僅かに電気を落とされた暗がりに、自動販売機の光を受けて見知った顔が立っていた。
「何をやっているんだ?」
が振り返った。
「あれ、万丈目くん?」
手には土産売り場で買ったのか、小さなちりめんの小銭入れを持ち、空いた指先が自販機のボタンの上をうろうろしている。俺を見た途端焦ったように自販機にぶつかり、暗闇にピッと間抜けな音が響いた。あ。思わず声を漏らす。
みるみるうちにの目が見開いていく。
「あ、あーっ!間違った!」
取り出し口に鈍い音を立てて転がった缶を見て、は声を上げたまま呆然としゃがみこんでいる。
「買わないなら先に俺が買うぞ」
「待って、すぐ買うから!」
慌てているせいか、たどたどしい手つきで小銭を取り出すと、今度は慎重にお目当ての缶ジュースを選んだ。
ガコンと自販機が微かに揺れる。揚々と屈んだの髪が流れて、白いうなじが見えた。胸が跳ねる。不自然に目をそらした。
「万丈目くんは何が飲みたかったの?」
は俺が動揺していることなど気づきもしないのだろう。
「あ、あぁこれだ」
とよく見もせずに適当に指差すと、が歓声を上げた。
「わあ、良かった!最初に間違って押したの、それと同じだよ」
小さな小銭入れをぎゅっと押し込むようにしてジャージのポケットに詰め、が片手を差し出す。奢りということらしい。しかしどんな安価なものでも、流石に女性に払わせるのは躊躇われる。
「いいから、お願い!一人じゃ飲めないし、持って帰ってもトイレじゃないことバレちゃうから!」
「抜けだしてきたのか…」
室内の暖かな温度で缶から水滴が滴り落ちる。が半ば強引に俺に押し付ける。お辞儀の格好のまま俯いているために、勢いをつけすぎて俺の浴衣の胸のあわせが濡れていることに気づいていない。ちらりと視界を掠めるうなじを避けるように、俺は缶を受け取った。
「…有り難くもらう」
すまないな。言うと、は林檎色の頬ではにかむように笑った。

ヴゥーン、ヴゥーンという、自販機特有の音が広間を包む。暗がりに明るすぎる照明が、向かい側のソファーに並んで腰掛けた俺との影を浮かび上がらせている。その光でぼうっと浮かび上がるの白い肌がやけに視界にこびりついた。
よいしょと身動ぎをしたが、プルタブを捻る。気持ちのいい音がした。
あのさ。潜めたような、緊張したような声に振り向く。
「万丈目くんはさ…何で浴衣なの?」
「ああ……」
そういえば深く考えていなかった。のぼせて倒れた俺を同級生が運んだのだろうから、その時適当に被せたのだろう。
「ああ、それが…」
──エドくんは心配した女の子が迎えに来てくれたのよね~
途端に起きがけの状況が蘇った。鮎川先生の間延びしたからかい声と、エドと女子生徒の。
「その、色々あってだな…」
浮かんだ情景にとても話す気にはなれず適当に言葉を濁すと、はそれっきり、ふいっと顔を背けてしまった。
何となく落ち着かないので、俺も缶を開ける。の手元を窺った。一口飲んだ缶の上を、女性らしい手が水滴をなぞるように動いている。
──こう、手を握って、タオルを当てて
勝手に再生される鮎川先生の楽しそうな声色。不純なことなど考えてはいない。考えるわけがない。目の前にいるのはだ。どう間違っても天上院君ではないのだ。
現実から離れそうになった意識を戻すために、回らない頭を回して話題を探す。
「……何を買ったんだ?」
「…飲んでみる?」
首をかしげて持ち上げるので、急いで横に首を振る。がおかしそうに、持ち上げた缶を引っ込めた。
「ソーダだよ」
「ソーダ?こんな夜中にか」
やっぱりと言いたげに、は俺を見てうんと頷く。
「みんなで枕投げしたらあっつくなっちゃって。夏って無性にがぶがぶ飲みたくなるよね」
「分かるが…腹を壊すなよ」
言って、声音が驚くほど柔らかかったことに驚いた。ぽかんと、が俺を見つめている。なにか不思議な感じがした。浮いているような。ふわふわと得体のしれない感覚だ。が、ではないような。いつもとは、何かが。そんなばかな。
口を開こうとしたので、「確かに暑いな」と言って誤魔化すように缶を煽る。渋味のある緑茶がすっと腹の中に流れていった。

「本当はアイスが食べたかったんだ」
面白おかしく女子部屋の枕投げの顛末を語り終えた後、空き缶を手持ち無沙汰にくるくる回しながら、不意にが言った。
「……食べればいいだろう」
本当に不意だったので、答えに迷った。相槌ばかりを打っていて、すぐに言葉が出てこなかったのかもしれない。
は俺の言った言葉に些か不服なようだった。
「それもそうなんですけどね!でもね!ソーダを飲んでチョコレートも食べてアイスとなればね!ね!」
「あ、ああ、そうだな…チョコレートなんていつ食べたんだ」
「部屋を出る前に」
呆れた女だ。夕餉であれだけもう入らないと騒いでいたというのに、結局まだ食べているらしい。甘い物は別腹と言うが、ただ食い意地が張っているだけなのだろう。どんな大食いだと思い、気づけばの口元を見つめていた。
ふっくらとした唇がにわかに動く。柔らかく、柔らかく、暗がりの中でつややかに浮かび上がる。そっと目で動きをなぞる。あ、ん、お、め、
「万丈目くん!」
がっしり肩を掴まれた。そしてすぐに離される。
「よ、良かったら一緒に食べてくれない?」
驚いて半分息を吸い込んだまま、神妙に頷く。ふらりと立ち上がって財布を取り出す。頭を占めるのは浮かび上がる白だ。の、白い。
首を振った。俺は、一体。一体何を、いや、どこへ飛んでいた…?

バニラアイス、ソーダ味。二つのパッケージがかさりと捨てられる。
「やっぱり夜に食べるアイスも美味しいね」
バニラ味の棒アイスを頬張ったが、心から幸せそうに背伸びをする。本当に腹を壊さなければいいがなと、生ぬるい室温を肌に感じながらぼんやりと同級生を眺める。
「ソーダ味でも良かったかなぁ」
夜に浮かび上がる。熱に浮いた湿った空気。の口元で、溶けたアイスが光る。とろりと、俺の中でも何かが溢れたような気がした。

「食べるか?」
「…え?」
振り向いたが俺を視界に捉える。の目の中で、照明がきらきらと点滅している。何かが違う。今日は、何かが。
「…食べてみるか?」
ゆっくりともう一度なぞるように言えば、は静かに首を横に振った。目をそらさず、ゆるり、ゆるりと。きっと、おれが俺が捉えているからだろう。
いつもの。の口が微かに震えた。
「いつもの万丈目くんじゃない、みたい…」
俺?俺はいつもと同じだ。違うのは、
ちゅっ。何かが響いた。当たり前のようでいて、あるはずのない距離から。軽い音が。

「え?」
漏れたのはの声だった。転がるように口から零れた。の瞳が次第に揺らめいていく。
「アイス、溶けているぞ」
「え……あ、アイス!」
視線が手元にずれる。自分でも訳のわからないまま、のんびりと体を離した。は慌ただしく溶け始めたアイスを頬張っている。持ち手に流れ落ちたのを舐めとって、焦ったように一気に残りのアイスを口の中に放り込んでしまった。その後で、頭が痛い頭が痛いともがき苦しんでいる。

ヴゥーン。そんな自販機の音が脳を埋め尽くす。飽和状態だ。頭がいっぱいで、もう何も入りはしない。俺は今、何をしただろうか。何か、しただろうか。

「あっ、こんな時間に何をやってるノーネ!良い子はもうとっくに寝る時間なノーネ!」
背後からの甲高い声が意識を引き戻した。
「うわっ…すみません!」
「今の叫びはなんなノーネ、傷つくノーネ」
は空き缶と棒を転びかけながら片付け始めた。クロノス教頭がため息を付きながらその様子を見守っている。
ふと、座ったままの俺と目があった。
「シニョール万丈目、もう具合は大丈夫なノーネ?」
「え、えぇ…」
ふらつきはもう既に消えていた。それなら宜しい。クロノス教頭の声を遠くに聞きながら、緩慢な動作で立ち上がる。幾ら鮎川先生に言われたからと言っても、そろそろ部屋に戻るべきだろう。
が教頭の前で深々とお辞儀をした。
「そ、それではお休みなさい」
そして俯いたまま、俺の方を向く。万丈目くん。
「…ご、ごちそうさま、」
ひと言呟くと、顔もあげずに、逃げるように廊下を走り去っていった。躓きかける背を呆然と見送る。自販機の光が揺らめいた気がした。肩に手がかかる。
「疲れが出ているかもしれないから、早く寝るノーネ。顔が真っ赤なノーネ」
「そう、ですね…」
失礼します。耳に規則的な自販機の雑音を溜め込んだまま、荷物を手にふらりとと反対側の廊下を歩き出した。

まだ、頭がよく働いていないのだろう。幾度も思い返される。広間のソファが、その上に座って笑うが、その肌が、唇が。
首筋を何かが撫でた。廊下の窓がわずかに開いている。近寄って外を窺ってみれば、旅館の中とは対照的に、街路は騒がしい。車のライトが街灯の群れを流れるように走っていった。
暫く風を浴びてから廊下を歩いた。やはり屋内は切り取られたように静かだ。ただ、遠くにあの自販機特有の音が響いているだけだ。

──…ご、ごちそうさま、

上ずった声がリフレインする。はおかしな事を言う。寧ろお茶を奢ってもらったのは俺の方だというのに。いや。
──食べるか?
足を止めた。俺は。
──食べてみるか?
俺はなんと言った?

顔を抑えた。片手で覆うように、思いっきり押し付けた。暑い。熱い。顔が、あつい。団扇を取り出して煽いでみるが、これっぽっちも涼みはしない。
こんなに熱くてくらくらするのだ。のぼせたのが、長引いているのだろう。そうに違いない。エドの奴め、まったく余計なことをしてくれる。
手のひらから、さっき食べたソーダアイスの匂いが掠める。そして、食べたはずのない、バニラの香りも。のぼせたのだ。ずっと、のぼせたままだったのだ。そうでなければ、どうして。どうしてあんな、ことを。
室温が上昇した気がした。団扇をいっそう強く扇ぐ。

どこか湿った廊下。切り取られた世界。振り返りはしない。けれど、もし振り返ったならばその先で、うなじを桃色に染め上げたが、まだお辞儀をしているような気がした。



夏企画リクエスト'10『万丈目とアイスを食べる話』
11/04/26 短編