そぞろゆき



人間、妙な拍子でどうでもいいことを思い出す。昨日のクロウなんぞは、休憩がてらコーヒーを啜りながらD・ホイールの話をしている最中に、
「そういや米が切れてたな…」
と呟いて、話もそこそこに出ていってしまう始末だ。その時は多少呆れたものだが、どうやら自分にも同じ状況が回ってきたようだった。

システムスキャンのエンターキーを押した瞬間だった。の声が蘇った。
——遊星は頭から食べる?尻尾から?
はたと顔を上げる。脳裏にはたい焼きを頬張るの姿が映し出されていた。
そういえばはたい焼きをどうやって食べていただろうか。頭から?それとも尻尾から…?
ふと気になった。唐突な疑問だった。しかし脳裏に意識を凝らしてみるけれど、の手元は霞んでいて、肝心のたい焼きが見えやしない。上か。下か。思って唸ると椅子の背凭れがぎしりと鳴った。
ここにがいたならば答えもすぐに出ただろう。いや、あるいはも一緒になって唸っていたかもしれない。

スキャン完了のウィンドウが開いた。ポーンという軽い音と共に遊星の思考が引き戻される。それと同時にガレージの入り口から御免下さいという声がかかった。
時計を見れば修理の予約が入っている時間だった。住所は近くだったはずだが、ガレージまで運べないという電話越しの申し訳なさそうな声に、遊星が此方から伺うと答えたのだ。
「わざわざすみません」
振り返った先には、如何にも世話女房といった風な小柄な婦人が静かに入り口に佇んでいる。遊星はわずかに微笑んで工具箱を手に取った。
「いえ、ご依頼ありがとうございます」
確かに、ここまで壊れた機器を運んで来られそうな体つきはしていなかった。



「そういえば、ご飯食べる時って何から箸つける?」
「えっ?」
素っ頓狂な声が出た。そんなに驚く内容でもなかったけれど、突然言われたので思わず声を上げてしまった。昼休憩でざわめく職場の食堂が少し静かになる。周りを伺いながら、友人がごめんごめんと笑った。
「何だか急に気になちゃって」
そんなものなのだろうか。は首を傾げつつ何からだろうと律儀に食卓を思い描く。赤い塗りの箸を中心に、左側にご飯茶碗とお味噌汁、左側にお浸しや玉子和えなどのちょっとした副菜、真ん中に焼き上げた白身魚が香ばしい色で視界を彩る。昨日食べた夕食のはずだが、涎が出た。
というのは冗談だ。
私は先にお茶を飲んじゃうのよねー。と友人の呑気な声で想像の中の食卓にお茶を付け足すと、は頂きますと手を合わせて頭を下げた。
「そこまでやる?」
「集中しないと思い出せないの!」
からからと笑う友人から意識を離し、料理に向かう。えぇと、まず箸を取って、そのあとご飯茶碗を持ち上げて…あっ、ということはご飯からかな?あれ、でも副菜にも箸を寄せたような…。唸り声が漏れた。
と、目の前に醤油が差し出される。少し日に焼けた逞しい手を追うと、笑顔をたたえた遊星が同じく茶碗を持って座っている。呆然としていると、掛けないのか?と魚の乗った皿を示す。やっと口が開いた。喉が開ける。あれ、どうしてここに?
「遊星…」

視界を白い手が泳いだ。細くて女性らしい友人の手だ。友人が呆れ顔での鼻先を弾いた。
「あんたの幼馴染のことを聞いてるんじゃないのよ」
開いた口のまま、友人に目を合わせた。
「分からなくなった…」
そうね。苦笑交じりの返答に、も軽く息を漏らした。遊星なら、何から食べた?
気になりだすと止まらなくなった。



依頼の物は数個のパーツを交換しただけで簡単に直った。聞いた話ではもう少し状態が悪いかと思っていたのだが、遊星でも拍子抜けするほどに簡単な故障で、作業に入ってものの数分で終了してしまった。どれだけ婦人が丁寧に扱っていたかが分かる。
修理が完了した旨を伝えて振り返ると、口を開けたまま感心とも驚愕とも思えない婦人の声が、お礼と共に遊星を出迎えた。訪ねて早々に修理が終わってしまったのだから、仕方のない反応なのかもしれなかった。
「随分早いのねぇ…!そんなに簡単に直っちゃうものなのかしら?動かなくなったときはもうどうしようかと思ったのに、こんなに早く…へぇえ!」
遊星は軽く笑った。直って手元に返ってくる嬉しさは、人を饒舌にさせるものらしかった。
「お代は?どうすればいいかしら」
「大した故障でもなかったのでパーツ代だけで構いません」
「あら、それじゃ悪いわ」
考えこむように口元に手を当てた婦人の頬が紅潮している。先程よりあからさまに陽気になったのを見ると、どうやらお節介が好きなたちらしい。こう言った人間の、無下に断ったあとの落胆した表情は遊星もよく知っている。
——今度、三人のD・ホイール磨きに行くよ!

「いや、気を遣わなくていい」
言って手を振ったあとでを見ると、俄に眉間に皺を寄せていた。怒っているわけではないのだが、「えぇ…」と小さく声を零しているのを見ると、どうやら機嫌を損ねたらしかった。お世辞にも綺麗とは言えないの住むアパートのフローリングが、ぎしりと呻いた。
「修理代も要らないっていうし、昼からずっとかけて直してもらったのに何もしないのはなぁ…」
そう呟きながら視線を彷徨わせている。他になにかお礼の代わりになるものはないかと頭の中を引っ掻き回しているのだろう。遊星は工具を片付けると、修理したPCを持ち上げて微かに笑った。
「お礼はいらない。俺もジャックもクロウも、いつもお前に世話になっているからな」
なるべく嫌味のないように断りながら、PCを元の位置まで運んでいく。納得できなそうな表情での視線が遊星を追って、次いで影があとに付いた。パタパタとスリッパが床を打つ。
「そりゃあ、たまに差し入れは持って行くけどそれはまた別の話でしょう。それに遊星が三人分払うというのもおかしいし…」
どうせならジャックとクロウにも貢いでもらいたいわ!と話の路線が大きく逸れ始めたの様子に、遊星はいよいよ可笑しくなった。の世話好きは知っていたが、ここまで必死になることをすっかり失念していた。だから言ったのだ。
「そうだな、じゃあ…」

「もしもし?」
ハッとして首を捻った。視界の真ん中で、テーブル越しに此方を伺う依頼主の顔を捉える。
「お茶を淹れたのでどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
慌てて立ち上がる。ふと手元を見ると工具を握りしめたままだった。片していた最中にぼうっとしていたらしい。手の最後の一本を工具箱に入れて蓋を閉じると、先日のの様子が被った。ああ、だから思い出してしまったのか。
狐につままれた気持ちで呆然としながら、遊星は工具箱を持って再び立ち上がった。今日はのことばかり思い浮かぶ。俺はどうかしたのだろうか。何か、約束でもあっただろうか。思いながら、「冷めますよ」という奥から掛かる声に従って、用意された椅子に腰をかけた。
婦人がにこにこと満面の笑みを浮かべながら、満足そうにお茶を差し出し、更に忘れないうちにと付け加えて小銭をそばに置いた。
「これがパーツ代です。あと少しの足しにもならないと思うのですが、」
ぎょっとした。
「甘いものはお嫌いでしょうか?」
出された長方形の清潔そうな箱に、ぎっしりとたい焼きが詰まっている。
——遊星は頭から食べる?尻尾から?
ぐるぐると巡る柔らかな声。頭。尻尾。頭。尻尾。記憶の中の霞んだの手元で、たい焼きがぐるぐるとせわしなく回る。今日は、何だ。何の日だ。
「……
もしくは俺がどうかしているのか。



「うぅうん…」
は思わずうなり声を上げた。ご飯茶碗とお味噌汁、お浸しや玉子和えの副菜、真ん中に焼き上げた白身魚と緑茶。さて、どれから食べる?それがずっと頭から離れないのだ。
「あんた、まだ考えてるの?」
「うぅん…」
どっちよ…。呆れた友人の声に靄がかかる。ぐにゃりぐにゃりと想像した食卓が上下にうねっては元に戻り、うねっては戻りを繰り返しているが、一向に答えは見えない。
早上がりだというのに、どうも気になって動けないと言い、この調子で書類の上に顔を寝かせているを、友人が叩いた。
「帰ってから試してみなさい」
「そうします…」
ようやく立ち上がったの背に、苦笑交じりのため息がぶつかった。

どうしてだろうかと自分でも不思議になる。どうして今日はこんなにもどうでもいいことが頭から離れないのだろうか。
お膳を並べていただきます。そして差し出される右手と醤油。
——掛けないのか?
そうだ。いつもここで思考がもやもやとしてしまうのだ。自分もそうだが、遊星は何から食べていただろう。そんなことが気になってしまうのだ。当然のごとく覚えているはずもない。だからこそ、こんな日の傾いた夕方まで終始同じ思考を繰り返しているのだ。
「遊星ー!邪魔しないでよもう…!」
小さく漏らした途端、ふとサテライトの風景が脳裏にちらついた。が足を止めると、帰路の商店街が活性の中で赤々と染まっている。思い出の中のサテライトもいつも夕焼けのような気がした。
家路をたどれば年中肌寒い風が吹き抜ける。走りまわった汗が乾いて冷えているのを、サテライトの廃墟が身を凍らせているのだという錯覚に陥る。細い路地をくぐり抜けていつものアジトへ潜り込めば、地下の陰った空気がずっと温かく感じるのだ。それは何故だっただろう。
ぼんやりとした瞳の中に、現実と記憶の灯が交差した。街灯がゆらゆらと揺れている。安心する色だ。どうしてか、安心するのだ。味噌汁の匂いが鼻を掠めた気がした。
「お嬢ちゃん」
「はい、」
呆然としたまま声を辿る。年配のおじさんがの顔を覗き込んでいた。
「魚、買うんじゃねぇのか?」
辺りを見回した。魚屋の看板が大きく立てかけてある。
「え、えぇ!買います買います!」
「そうかそうか!」
あまりにもじっと見つめてくる瞳に負けて、は大声で丁度目の前にあったホッケを指さした。元気でいいなぁと笑う店主だが、長く店の前で立ち尽くしていたを怪訝に思っていたのだろう。安心したように手を叩いた。
「で、何枚だい!」
無意識だった。
「二枚お願いします!」



袋が揺れる。重い。重いったらない。はつい声に出しそうになる愚痴を喉の奥にとどめて、普段使わない筋肉を精一杯動員していた。
そもそも魚を二枚買ったときに気づけばよかったのだ。このあとの一枚はどうするのかと。それが知らぬうちにどれもこれも、ひとりで食べるには多すぎるほどの食材を購入してしまっていた。これはどういうことだろう。ため息をつきたくなったが、やはりそれも留めた。

すっかり日は暮れている。街灯が照っているとはいえ足元は少々覚束ない。
ああ、サテライトもドミノシティも同じだなと急には笑いたくなった。夕焼けも街灯も、家に帰ったときの安心感も。差別があったとしてもそれだけは変わらないのだなと、妙なところで感心してしまう。ジャンク市で手に入れた重い荷物を持って帰っても、アジトの地下に入ればほっと息がつける。買い物袋を玄関に下ろせば、今日もきっと疲れが取れるのだろう。そう唐突に思ったのだが。
なんでだろう。
ぽつりとそんな疑問ばかりが浮かび上がっては消えて行く。あの友人の夕飯の問いかけから、ずっとだ。心のなかで何かがもやっとして、胸につっかえてしまうのだ。
街灯がばちりと鳴って一瞬消えかかり、また明かりを灯した。買いすぎた袋を持ち直して見つめる。何か忘れてはいないだろうか。何か大事なことを。たとえば、遊星との、何かを。

ブロック向こうの家の窓が開けられた。白い光が漏れるのと一緒に笑い声と、味噌汁の匂いがぬるい風の中を漂う。
影が重なった。記憶と現実の灯がゆらゆらと揺れて重なっていく。
「遊星…」
呟いた瞬間に、ぱっと視界が開けた。オレンジ色の蛍光がパッパッと途切れがちに光り、その中に遊星の背中が浮かび上がる。の姿を認めると、遊星は手に皿を抱えたままあの穏やかな笑みで振り返った。この光景には、見覚えがある。いや。
ずっと見てきたのだ。

アパートの前で立ち止まった。二階の隅っこの、自分の部屋の古臭いドアが見える。がいつものように鍵を開け、ノブを捻るのを待っているのだろう。しかし、毎日繰り返しているその行為を今日ばかりは寂しく感じた。もう、何故とは思わない。気づいてしまった。答えが、分かってしまったのだ。
「…遊星は、何から食べる?」
——何から、食べていた?
覚えていないのだ。当然なのではない。もうずっと、いつからだろう。忘れてしまうほどずっと長い間、一緒に夕食を食べていなかったのだろう。
気づきもしなかった。休日は毎週のように通っていたし、狭い世間。育ちが同じならば行く先もそうそう違わないから、街中でばったり出くわすことも多い。だからついつい今までと同じと思っていたのかもしれない。けれど、唐突に寂しくなる瞬間。それだけは紛らわせようもなかった。手の袋を持ち直す。
そう、この前だって——

記憶を遡りかけたに、声がかけられる。アパート横の街灯が揺らめく。人影だった。ちょうど光の当たらない隅っこから、の視界のきく道路端までゆっくりと歩み寄ってくる。声だけで誰かはもう、分かっていた。
「…遊星」
名前を呼べば、ようやく明かりに照らされて浮かび上がった遊星の顔が、穏やかに微笑んでいる。たまらなくなった。気づけば、荷物も放り投げてかけ出していた。
「ゆうせーー!」
胸が鳴る。ばくばくと鼓動が高鳴る。会いたかった。そう言ってしまえば簡単だったが、その一言で収まりのつかない感情だということも心の何処かで感じていた。
代わりに、駆け寄るまでしきりに名を呼んでみる。だからといって寂しがっていると思われるのは、変なものだが、のプライドが許さない。お腹が空いたと照れ隠しに泣きつきながら、遊星の背に手を回すと、
「そうだな、俺も空いたから来た」
と遊星はやんわりと背中をなでた。
「この前の修理代の代わりに、奢ってくれると言っただろう」
言い訳がましさを隠すように、忘れていないよな。とつけ足す遊星に、は頷けなかった。そうか、妙にもやもやしていたのはこのことだったのかと、今になって気づいたのだ。言えるわけがない。
「とにかくご馳走するから荷物持って!中!ゴーホーム!」
慌て始めたの胸中を読み取ったのだろう。言われるがまま荷物を受け取りながら、もう片方の手を持ち上げた。同じくがさりとビニールの音。
「その前にひとつ聞いていいか?」
長方形の形をした箱が、ビニール越しにゆらゆらと揺れる。一体なんだろうか。見当もつかない。はそれを目で追いながら、静かに遊星の言葉を待つ。

「たい焼き、はどっちから食べるんだ?」
一瞬、何を言ったのか頭に入らなかった。目の前で左右に揺れる小さなビニール袋。ポッポタイム近くのスーパーの名前がでかでかと印刷されている。たい焼き。たいやき。たい…やき…?
今度こそ大声を上げて笑った。遊星、遊星!笑いがとまらない。今までぐるぐると渦巻いていた疑問が、砲丸投げのように吹っ飛んでいってしまった。なんだ。なぁんだ。今度はそんな言葉ばかりが溢れてくる。
呆然としていた遊星が、微かに眉を寄せ始めていた。これはいけないと、どうにか笑いを抑えて遊星を見上げる。
「私も聞きたいことがあるの」
は言いながら、目まぐるしい情景が頭に浮かび上がってくる感覚を覚えた。サテライトの日々と、今この瞬間とその後。
壊れかけたコンクリートの入り口を潜れば、薄暗くてそれでいて温かいアジトが広がる。重い荷物を抱えて階段を急ぎ足で駆け下りる。ぼうっと浮かび上がるオレンジ色の蛍光の下、遊星が足音に気づいて振り返り、そしてお帰りというのだ。いつも、何があっても同じ笑顔で、温かな光の下で。それは今日だって変わりはしないと、には想像できた。
明かりをつけて、重い荷物と共にお帰りの声。夕飯を作って並べて、そして少し薄暗い蛍光灯の下で、今日の疑問を打ち明けたらどんな顔をするだろう。のように大声で笑うだろうか。
——掛けないのか?
そういって醤油を差し出すのだろうか。でも。
「聞きたいこと?」
でも、今は。
「あ、ちょっとまって、言ってなかった!」
「ん、何をだ?」
たい焼きを持ったまま目を丸める遊星に、答えを教える前に、そして一番の質問を投げかける前に。このなんでもない幸せと一緒に、今は。

ただいまのひと言を、返したい。



夏企画リクエスト'10『言葉がなくても想いが伝わってくるような話』
11/02/13 短編