辛いことも苦しいことも、サテライトで何もかも経験してきたつもりだったが、どうやらこの世の中には、まだまだこの身に受けきれない苦悩というものが日陰に身を潜めているらしい。



カーテンコールが止んだら



寝床に伏せたっきり寝返りも打てないほどに衰弱しきった俺を眺めて、は愉快そうに喉を鳴らす。
「鬼の霍乱って本当にあるものなんだねぇ」
と、先ほどから何度も繰り返しては、妙に嬉しそうな顔をして笑うのだ。
目頭のあたりは内側からずきずきと痛むし、詰まる鼻では息ができないからと口を開ければ、吸いこむ外気が喉を無遠慮に突き刺して、まさに八方塞がりだ。殊に体のだるいのが、俺の気力を下げるところまで下げた。
これでは満足に呼吸もできないし、上体すら起こせやしない。それだというのに、はどこまでも愉快そうに笑っている。
そんな笑顔に乗って、朦朧とした頭で思い出すのは昨日のこと。

目を覚ましたのは病院だった。すぐ視界に飛び込んでくる白い清潔そうな壁に、よく見るとぽつりぽつりと黒い染みができているのを目ざとく見つけて、思うより完璧な場所ではなかったのかと、つまらないところで落胆していると、遊星の声が思考を遮った。
「風邪だそうだ」
風邪。サテライトにいる頃は、ガキ共がよくかかって、治すのに俺も苦労したものだ。
「風邪…?」
間抜けな声。きっとだろう。俺が目覚めたことに気づいていないのか、二人とも背を向けたまま、ぼんやりと話している。
何故俺が病室のベッドで寝ているのか、そんなことは全く考えもしなかった。それが当たり前のようにも思えたし、いきさつを考えるよりもこのままベッドで横たえていた方が楽だった。それで、完全に状況を理解することをやめた俺は、気づけば遊星との会話にするりと入り込んでいた。
「なぁ、風邪って」
ぎょっとして二人は振り返ったが、不思議と気にならない。俺はそのまま言いたいことだけ口に出した。風邪って、
「誰がだ…?」
とたん、の甲高い笑い声が鼓膜を突き抜けた。

自慢ではないが、生まれてこの方、一度も寝込んだことはない。というと、マーサに小言のひとつやふたつでも貰いそうだが、記憶にある限りでは、一度だってない。
風邪もそれ以外の病気にも勿論かかったこともあるし、骨を折ったことだってあったが、幸いその時は歩くことはできたし、体調を崩しても、今までは一日でも休めばあくる朝にはけろりと治してきた。
それが、今度ばかりはそうもいかなかったらしい。

風邪の宣告を受けてからもう二日目の昼もとうに過ぎているというのに、丈夫だけが取り柄の体は、一切俺の意思を受け入れようとはしない。無理に動かそうものなら、節々がやけに痛んで、そのままベッドに逆戻りさせられてしまうのだ。
はそんな俺の様子を、昨日から喜色満面に見続けている。それが悔しくて気丈に振舞おうとするが、
「俺は風邪なんかじゃ寝込んだりしねぇよ…」
決まって喉から出るのは、誰のものかと尋ねたくなるほど、しわがれた俺の声だった。
「だから、疲れからだって」
は笑いを耐えながら、これっぽっちも気遣いの色もなく言うが、そんなことでは納得は出来ない。今までだってずっと無茶はやってきた。誰も助けてくれる者もない中、自分の体ひとつを頼りにサテライトの暗雲を切り抜けてきたのだ。それが、たかが風邪ごときに寝床に縛り付けられることになるなんて、俄かには信じがたい。
俺の憮然とした顔が、胸の内の不満を零していたのか、
「きっと気が抜けたんだよ」
そう言って足の低い椅子に腰かけたまま、は汗にまみれた俺の額をつるりと撫でた。その拍子に、乗せていたタオルがずり下がって気持ちが悪い。僅かに眉を顰めた俺からタオルを手にとって、
「頑丈だ頑丈だと思ってる人間ほど、ちょっとした瞬間にネジが外れたみたいに崩れるものなんだよ」
などと、満悦そうに水に浸している。
こちらはの表情を追うだけでも、目頭に針を突き刺したように痛むというのに、何をそんなに楽しんでいるのか、病院から帰ってからずっと俺の横に座ったきり、人の苦しむのを見つめては、こうして愉快そうに笑うのである。

「クロウ、何か欲しいものなぁい?」
頭を冷やすものがなくなって、じわじわと体内にこもる高熱を持て余していると、はこれ見よがしに冷やしたタオルを見せつけながら、目を三日月にゆがませて俺に聞いてくる。
は、どんなに無理をしても自分の方ばかりが力尽きて、結局一度だって倒れもしなかった俺に、看病される羽目になったサテライト時代を思い出して、こんなところで恨みを晴らしているのかもしれなかった。
熱で朦朧としているせいか、いつもならば強がりに要らないと言うところを、今回ばかりは素直にの望む言葉を吐き出してやった。
「タオル…くれ」
変にかすれた声が情けない。けれどは、とびきり嬉しそうにはにかんで、俺の額に優しくタオルを乗せた。ひやりとした感触が一瞬体を凍らせるが、すぐに心地よい温度に変わった。
は、しっとりと濡れた髪をもどかしいほど柔らかく撫でていく。熱で敏感になった肌を刺激しないようにしているらしかった。春風のようにふわふわと通り抜けていく指先が気持ちいい。

。小声で呟けば、すぐに耳を傾けてくれる。つい、心地よさげに目をまどろませる俺を、
「なに?ほかに欲しいもの、ある?」
柔らかな声が包み込む。
「…あれ、持ってきてくんねぇか」
一言言えば、初めから分かっていたように、はひとつ頷いて席を立った。戸口に向かう足取りすら軽い。
離れてしまったの温かな手を無意識に追いながら、倒れた人間の世話がそんなに楽しいものなのか、俺にはまったく理解できなかった。

──クロウ
ふと、また頭が思い出す、の声。暇であればあるほど、人間というのは記憶の中に入り込んでいくらしい。俺もまた、少し窮屈な布団の重みを感じながら、少しずつ記憶の彼方へ沈んで行った。



──クロウ!!
歓声が湧き上がる前の静寂というものを、聞いたことがあるだろうか。ひっそりとしていて、そのくせ寂しさも虚しさもない、ただ静寂であるという他に言い表しようのない、何もない空間を。
その中で俺は、の声を聞いた。自分の心臓の鼓動も、呼吸さえも掻き消えた空間で、興奮と懇願にも似た感情が入り混じるの叫びを、俺は耳にしたのだ。
「クロウ!!」
気づいたときには、大きな轟きが俺の体に打ち寄せていた。全身が振動で震えあがる。
頭上に炸裂する火花、七色の飛行機雲、コース中央に煌くWINNERの文字。それが示すものは一つしかない。
「…優、勝……」
どっと心臓が悲鳴を上げた。ライダースーツを、ヘルメットを通り抜けて伝わる振動は、歓声だったのだと数秒経ってから気づく。
真っ先にクルーたちのいるピットを見た。一斉に駆け寄ってくるチームメイトの姿。皆が皆、歓喜のあまりに、手にしていた帽子やらグローブやらドリンクやら、何もかもを空高く放り投げて、まだ整備もしていない試合直後の荒れたコースにその身を投じてくる。
俺は、目を離さなかった。その中で、ただひとりピットに立ちつくして、力の抜けたように呆然と俺を見つめるを。そのまなじりに、今にも零れ落ちんばかりの涙をためて、俺を見つめているのを。
!!」
その名前を叫んだだけで、胸がいっぱいになった。
俺は立ち尽くすの気持ちが分かる。本当は今すぐにでも駆け寄って、あいつの涙が零れる前に掬い取って、思いっきりこの腕で抱きしめたくてたまらないのだ。だというのに、身の内から湧き上がる興奮が、どうしようもなく足を震わせて、とてもの元には行けそうもない。
情けないが、俺とは二人して同じように見つめ合うことでしか、感動を伝え合うことができなかった。
体中を駆け巡る想いが、胸を焼き尽くしてしまいそうだ。。俺はもう一度叫んだ。
「約束は守ったからな!」
俺の言葉を聞くなり、ついにが涙をこぼした。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔はとても可愛いとは言えないが、俺のために泣きじゃくる姿は愛おしい。不覚にも、泣きそうになった。
鳴り止まない歓声のせいか、頭がひどく痛む。張った背筋も振動で歪みそうだし、足もがくがくだ。デュエル直後の興奮だけが、俺をその場に立たせていた。
いよいよ感極まるクルーが俺に飛びつく。クルーたちにもみくちゃにされながら、俺は地面に崩れ落ちたが、泣きながら笑い転げているのを最後に見て、ゆっくりと意識を手放していった。


シティとサテライトが繋がって、初めて分かったことがある。俺は、真っ当な生き方を知らないってことだ。この一年必死で働いて、それが身に沁みた。
とガキ共と生活していた頃は、何人も一片に養うためにと盗みばかりで稼いで、働くことは一度もしなかった。汗水流して手に入れた金は決して無駄には出来ないものだとは分かっているが、俺との収入ではとてもガキ共を養っていけそうにない。自分たちの身ですら精一杯のジリ貧生活で、どうやっても盗みを働く以外に、俺は活路を見いだせなかった。
そうした状況で、サテライトが崩壊した。今まであった邪魔な垣根も全部取り去って、ようやくまともな生活ができると思った。だがその矢先、一歩も前に踏み出せなくなった。
もう盗人などしなくても、このシティでは働く限り生きていける。制度にしがみつけば、ガキ共に寝床を用意してやることだってできる。喜ぶべきことだった。けれど俺は、ネオ・ドミノシティで生きていくための働き方を、何も知らない。
折角子供の頃からの夢が叶ったというのに、俺は達した目標を背に、一歩も進めなくなってしまった。

──WRGPって知ってる?
そんなときに手を差し伸べたのは、だった。路線復旧のためにBAD地区も遊星のアジトも立ち退きを命じられてから、数週間をマーサハウスに世話になっていたところ、乱暴に飛び込んできたは、おもむろに一枚の紙きれを差し出した。
──WRGP…?
──うん、面白そうでしょ?
受け取ってまじまじと眺めたそれは、フォーチュン・カップ以来の大規模なデュエル大会の開催を記したものだった。
はっと息をのむ。
──世界中から集まるんだってよ!
目の前で輝くような笑顔を浮かべるに、俺は背中を押される。ダイダロスブリッジの夢が達成された今、俺の背負うものはなくなった。唐突に手に入った、ただっ広い世界に、俺は戸惑っていたのかもしれない。だからは、道を標した。
興奮気味に立ち上がる俺に、はもう一つ言葉をかける。今思えば、それがこのWRGPに向けた、俺たちのすべての目的だったのかもしれない。
──もう一度、シティとサテライトを繋いでよ!
橋が繋がっても、十数年に渡る垣根は完全にはなくならない。差別思想ばかりは、人の心に根強く残るのだ。それが無意識であっても、思想教育は人の心の基盤に浸透して、死ぬまで消えることはない。新たなネオ・ドミノシティで過ごしてきた数週間で、サテライト生まれにはそれがよく理解できる。
目標をくれた代わりに、俺はに約束をした。必ず優勝すると。全世界が見守る大会で、サテライト生まれの俺たちが栄光を手にすることで、もう一度垣根を取り除いてやると、俺はに約束した。
もう立ち止まっている時間はなかった。それをが望んでいたのだ。

ネオ・ドミノシティは、復興事業による物の流通で混乱している。俺はすぐに配達業を営むことに決めた。この仕事なら食い扶持に困らない。何より、相棒とできる仕事といったらこれしかない。
──私も働かなきゃね!
活気を取り戻した俺を見て、は幸せそうに笑うと、自分もすぐさまハローワークに飛んでいった。いつもあっけらかんとして、サテライト育ちとは思えないほど、素直で天真爛漫な性格だった。そういう姿に、俺は救われてきたのかもしれない。
遊星もエンジンを作る傍ら、得意の修理を職にして、マーサハウスでは狭すぎるからと、ゾラのガレージを紹介してもらった。ジャックは相変わらず何もしなかったが、少しずつ、俺たちはまた走り出し始めた。はいつもそれを嬉しそうに見守っていた。
その顔を見るたびに、俺も一層頑張らなければと、ギアを最大にして走り続けることができたのだ。

だからだろうか。道を示されてから、脇目もふらずにひたすら全速力で疾走してきたから、の言うように、WRGPの優勝で俺は気が抜けたのかもしれない。
サテライトなんかでは気を抜くことなんて一切許されなかったから、ますます今回の自分の弱りようには、納得がいった。振り返れば、こんなに全身の力を抜いて眠ったことは一度もなかった気もする。


「クロウ、寝てるの?」
の声に、ゆるりと瞼を開く。寝ているつもりはなかったが、知らぬ間に夢中に入り込んでいたらしい。心地よいソプラノが、やんわりと耳を撫でると、さっきの夢で見たの笑い顔と泣き顔がぼんやりと浮かび上がってくる。零れそうなのを必死に耐えていた、子供みたいな表情も。
寝起きのためか夢も現実も曖昧な頭で、そういや泣いてたなぁ、と言葉を零すと、が俺の髪の毛を遠慮がちに撫でた。
「誰が?もしかして寝ぼけてる?」
可笑しそうに喉の奥で笑う様子は、俺が寝る前と少しも変わらない。本当に楽しそうだ。
いや。俺は思い出すように遠くを見つめる。
「勝った後の、お前の顔」
「わたし?」
素っ頓狂なの顔に、昨日の浮かんだ涙を重ねる。そして、顔を歪めて地面に崩れ落ちる姿を。
今朝から俺にやりたい放題やってくれたが、昨日のの様子を思い出すだけで、笑いが込み上げてくる。愛おしい。愛おしいのだが、これが何度思い返しても、まったく可愛くはないのだ。
分らないといった風に首を傾げるに、俺は堪えきれなくなって、体が痛むのも忘れて噴き出した。
「な、なによクロウ!元気じゃない」
「しゃ、写真撮っときゃ、っよかったぜ…!」
息も絶え絶えに笑い続ける俺に、が顔を真っ赤にして叫ぶ。やはり甲高い声は脳みそをぐらぐらと揺らすが、不思議と嫌な心地はしない。
もともと真っ赤だった俺の顔が、酸素を求めて喘ぐうちに益々色を強めてきたのを心配して、は呆れたような怒ったような表情を取り繕って、俺の腹に一撃を喰らわせた。
「うっ…」
「はい、お望みのもの」
手加減したとはいえ、全身を走り抜ける痺れに呻く俺の手を、わざわざ布団から出す。握らされたものはの手よりも冷たく、重い。体が痛むのも構わず、上体を起こして手元のものを見る。
「“あれ”って、それでしょ?」
指示語だらけのとんちんかんなの言葉が差しているのは、俺の手の中に収まりきらない大きなトロフィー。俺が両手で支えたのを見届けると、は掴んでいた手を離して、俺にトロフィーをすっかり受け渡した。
金色の煌く表面には、熱に浮かされた情けない俺の顔が光っている。さらりと撫でた。ただの合金の塊だというのに、指先からはデュエルのスピードも興奮も躍動感も、ありありと伝わってくる。だが、それだけではない。
を振り返った。昨日から何も変わらない姿勢で、俺のベッドの高さに合わせた低い椅子に腰かけたまま、は嬉しそうに俺を見つめている。トロフィーに触れて思い出すのは、デュエルの白熱や、優勝の瞬間だけではない。
この輝く金を手に入れるまでの軌跡を、俺は思い出さずにはいられない。それはきっと、この手のひらにトロフィーの重さを乗せる度に、それを眺めるの笑顔を見る度に、思い出すことなのだろう。

ずり落ちたタオルを、はまた丁寧に水に浸している。その間に、俺の額を滑って行く汗の一粒一粒を、やわらかく拭き取って行く。
「寒くない?」
そう言って着替えを用意するは、どうしてそんなに幸せそうに笑うのか、俺には理解できない。
ただ、真に思う。もう少し俺が遊星と、ジャックと、もっといろいろな奴とデュエルをして、それで変えられるものがあるなら、この先もずっとカードを握ることはやめないだろう。
けれどこうして、たまには走ることもなく、ベッドの上にのさばって暇を持て余しながら、記憶の中に身を投じるのもいいかもしれない。そういうときには必ずが傍にいて、今日みたいに幸せそうな顔で寄り添っているのがいい。
「…なぁ、
「なぁに?」
まだ当分、熱が下がらないといい。まさかそんなことは言えず、俺は浮かんだ考えを熱のせいにして、曖昧に笑う。
「どうしたの、クロウ?」
俺の気持ちを分かっているのかいないのか、愉悦に満ちたを見ているのは嫌いではない。
「何でもねぇよ」
そうして俺は、世話焼きの好きなの、水に浸してすっかり冷えた手を、やんわりと握り締めた。



バレンタインリクエスト:『クロウがWRGPで優勝した瞬間とそのトロフィーを貰った後のヒロインとの話。』
10/03/05 短編