しゃりしゃりとスプーンが突くたびに、光が弾ける。とろけそうな赤いシロップはきっとイチゴの赤。かき混ぜるたびに少しずつ、少しずつ溶けていく。

目の前にある夏のこの色を、音を、私は決して忘れはしない。



其れまでは



夏が歓喜していた。零れ落ちそうなほど大きな太陽が熱気を滴らせているのが、二階の窓から見える。風通しがいいようにと開け放った桟に時折カーテンが身を靡かせるが、ここ暫くは沈黙を保ったままだった。マスターの部屋で唯一「動」と呼べるものは、忙しなく空気を震わせる蝉の大合唱だけだ。
「あちぃ…」
陸に打ち上げられた魚のような呻き声につられて、視線を下げる。視界に入った声の主がソファで仰向けに倒れていた。
あちぃ。また十代さんが声を漏らす。
「あちぃ…なんでこんなに暑いんだぁ?」
「だから暑いと言うなと言っているだろうが」
「ハイ、サンダーに1カウントー」
貴様!叫ぼうとしたマスターは翔さんに向かって開いた口を閉じ、立ち上がりかけた腰を力なく戻した。
「くそっ、貴様らといても暑くなるばかりだ」
言ってうな垂れるマスターの横では、翔さんがソファに頭を預けたままぐらぐらと左右に揺れている。三沢さんは階段に腰を下ろしたまま身じろぎどころか微動だにもせず、剣山さんに至っては先程から据わった目をして「絶滅…」と呟いているのが恐ろしい。
今日はそんなに暑い日なのか、気温をあまり感じない私には理解することなしには同情も出来ない。
死屍累々。そんな言葉が浮かんで、じめったい空気の中に溶けていった。

ひどい暑さだとか、溶けるだとか、焦げるからカーテンを閉めろとか朝からこの部屋は騒がしかった。
それもそのはずだ。レッド寮に最近できた高設備の万丈目ルームは、冷蔵庫、エアコン、大型液晶テレビ、その他諸々完備のブルー寮顔負けの快適な空間だったはずなのだ。特に夏の日照りと肌に纏わりつく湿度に負けた生徒は、エアコン目当てにこぞってこの部屋に駆け込んでくる。
ところが、そのエアコンが昨夜未明をもってご臨終してしまった。朝一番に、冷風を期待してドアを開けた十代さん達が腐ってしまうのも、仕方がないことなのかもしれなかった。
「肝心な時に、万丈目君は使えないっス」
「…何だと?貴様らがあれだけ弄り回せば壊れるに決まっているだろうが」
いつもなら延々と続く不毛な言い合いも、それだけで体力を尽くした二人の溜息で終わってしまったことで、また部屋は蝉の声ばかりに満たされる。

「精霊はいいよなぁ……」
不意に呟かれた声に反応して顔を上げると、十代さんの淀んだ目が部屋の隅の棚、間違いなくその上に座る私を捉えていた。
どう答えればいいのかもわからないので、とりあえずそんなことはないと、首を振る。
「カードに何かあればお終いですし」
「そっかぁ?身軽だし、壁はすり抜けられるし、空は飛べて…今も暑くないんだろ?」
神妙に頷き返せば、羨ましそうに呻いて、また暑いと呟くと十代さんは事切れたように静かになった。
ほっと息をつく。話しかけられるのは嫌いじゃないけれど、この感覚にはまだ慣れていない。人間に対してつい身構えてしまうのは、まだトラウマを拭えきれていないのだと、苦い思いになる。
マスターが僅かに怪訝そうな顔で十代さんと私を見つめていた。覚えず顔が赤らむ。すぐに逸らされはしたものの、一瞬でもマスターの意識が向けられたことに、胸が弾んだ。
「十代、ところ構わず話しかけるその癖をどうにかしたらどうだ」
「別にいいじゃんか、お前も見えるんだし」
窓からの日差しが顔に触れるのか、十代さんは気だるそうに目蔭を差した。マスターの小言を遮るためかもしれなかった。

不機嫌に寄せられたマスターの眉間を、汗の粒が一筋転がっていく。通った鼻筋を伝い、白く滑らかな頬、細い顎の線を辿り、首筋に零れ落ちてインナーに沁み込んでいく。それをマスターは鬱陶しそうに拭った。大きな手は、何の障害もなく汗ばんだ肌を滑った。窓から射す日で、それが滑らかに光る。額には一房の髪が張り付いていた。
「いやん、何見とれてるのよぅ、このス・ケ・ベ!」
「うぎゃあ!」
耳元で囁かれて、大声を上げた。脅かしたはずのイエロー自身まで、私の声に驚いて飛び跳ねている。
「びっくりした…あんたそんな大声出せるのね」
「な、何するんですか!」
耳を抑えて振り返ると、厭らしい笑いを浮かべたイエローが体をくねらせた。
「だって、万丈目のアニキに熱視線を送ってるから」
「ねっ…?!」
「このままじゃアニキ溶けちまうんじゃないかって、オイラ心配になったのよう」
「そっ、んなわけないじゃないですか!」
顔面が一気に真っ赤になった。きっとのぼせたみたいに赤いに違いない。それを隠すように思いっきり手を振ってイエローを追い返すと、言われた通り無意識に体を乗り出していたことに気づいて慌てて目を伏せた。恐る恐る視線を向ければ、マスターの横でおジャマ兄弟がいたずらが成功したとばかりに手を叩き合う姿。マスターがハエを追う要領で鬱陶しげに手を振ると、一度ウィンクをして満足げに姿を消した。
マスターの切れ長の目が、また私を捉える。名残惜しかったけど、赤くなった顔が見られないように急いで伏せた。

精霊が見える人間に会ったのは、これが初めてだった。人間自体、それほど多く見てきたわけじゃない。目を覚まして数刻も経たないうちに、私の世界は井戸の中に反転していたのだから、地上というものもあまりよく知らなかった。
枯れた井戸の中は薄暗くて自分がどこにいるのかさえ分からない。何を食べなくても生きていけることは果たして幸いだったのかどうか。そのお陰で消滅することもなかったけれど、助かる見通しもなかった。ただ、いつも頭上にぽっかりと開く穴は、入り口であって出口ではないということだけは知っていた。食料も水分も与えられず、目の前に密の滴る果実をぶら下げられて縛られたまま眺めているだけの捕虜のような、きっと私たちの状況はそれほど違わない。大きく不利なことは、幾ら苦しんでも私たちには終わりがないということだ。人間なら欲しがる者もいるだろう永遠の命が、永遠の牢獄を作り出していた。
始めの内はきっと助けてくれる人間もいるはずだと、だから気長に待とうと安易に考えていなかったわけではない。しかし実際のところ、頭上に人影があれば、降ってくるのは希望ではなく落胆だけと決まっていた。日に日に仲間が増えていくにつれ、期待する気持は消えて行った。
そんな限られた世界の中で、たった一つの欲望といえば決まっていた。眼前の果実に齧り付きたいという思いだ。せめて陽の光を浴びたいと思ってしまうのは、生まれた瞬間の日の温かさを知っているからだろうか。もう一度、それきりでも構わないから、目が眩むほどの日の光を浴びてみたいと何度も願い続けた。
しかしそれが、まさか本当に叶う日が来るなんて、少しも思ってはいなかったのだ。

伏せた瞼の裏には、まだ汗をぬぐったマスターの白い手のひらが写っている。マスターには返しても返しきれない恩がある。手を見るたびに、体に光が染み込んだ瞬間を思い出さずにはいられないのだ。
あの手が私を救った。あの手がなければ、私も、この部屋の隅で一緒に埋もれている仲間も、一生叫べど声の届かない不毛の年月を井戸の中で重ねていたことだろう。滅多に人の来ない島に取り残された井戸で、カードが無事であり続ける限りずっと、気の遠くなるような日々を暗がりに過ごしていたに違いないのだ。
今も部屋の隅でじっとしていることには変わりないのだけど、ここならいつでも体いっぱいに日を浴びることが出来るし、この部屋の景色はいつも違う。騒がしくて、目まぐるしくて、飽きることがない。何より、マスターは必ずここへ帰ってくる。それが私を一番に安心させていた。
そんな私が、恩を返したいと思って恩人を目で追ってしまうのは仕方のないことだった。でも、そうじゃないのだ。どうやら私の感情は、大人しくその枠には収まってはくれないらしい。それに気づいたのは最近のことだった。大概にしてきっかけなんて覚えているはずもない。
いずれにしても、マスターを守れるように、少しでも恩を返せるようにと、一挙一動を追う内に視線に含む感情が変わってしまったのは閉口すべきことだった。それがどんなに愚かなことか、いくらずっと井戸で過ごしてきた世間知らずな私でも、知っているからだ。

「かき氷食いてえなぁ…」
十代さんがそう言って寝返りを打った時に、万丈目ルームに駆け込んだ全員が十代さんに視線を送った。例外なく、私も。そして声なく頷いて、次にそれぞれが落胆の表情を浮かべる。
そうッスね。
「何でもいいから、甘くて冷たいものが欲しいッス」
ソファにだらしなく凭れかかった頭をぐらぐら揺らして、翔さんが呻くように呟いた。
「ああそうだなぁ…たとえば………かき氷とかな」
「アニキそれ同じドン……」
「でもよー…他になんかあるかー?」
生気のない会話が交わされる。見ているだけで、私までもだれてしまいそうだった。
左右に動いていた翔さんの頭が、ひとつ大きく揺らいでぴたりと止まった。
「……かき氷、っスかね」
「丸藤先輩も…あ、でも俺もかき氷が食べたいドン」
十代さんの口からかき氷という単語が飛び出した瞬間に、頭から離れなくなってしまったようだった。
「だよなー、やっぱかき氷だよなぁ」
「かき氷ッスね」
「かき氷ドン」
それまで階段に腰かけて静かに佇んでいた三沢さんが、けだるそうに顔を上げた。
「そう言ったって、誰が買いに行くんだ?」
途端にしんと静まり返った。少しでも風をと開け放った窓から流れ込む蝉の声が急に大きくなった。

風はいまだにカーテンを揺らしてはくれない。蝉の声も佳境といった勢いだ。
──精霊はいいよなぁ
果たして本当にそうなのだろうか。朦朧とした面々を眺めながら、思い返す。その日も蝉が盛んに鳴いていて、耳を澄ませば涼やかな音が絶えずに鳴っていた。

今日みたいな暑さではなかった。その時はエアコンも正常に稼働していたし、マスターの部屋は人間にとっても快適そのものだった。いつも通りの風景。私も少し離れた棚の上にからその様子を眺めていた。少し違うのは、全員の手元に紙製の容器が握られていたことだろうか。どうやらトメさんという人が、寮を回って気まぐれに作ってくれたものらしい。

こんもりと山の様に重なった、白く透明な粒。それをかき氷と知ったのはその時だ。私にとって、地上で過ごす初めての夏だったから、そのかき氷というものが物珍しくて仕方がなかった。軽快に氷を砕くマスターの手元をじっと見つめる。その隣で大きく氷を頬張った翔さんが、こめかみを押さえて蹲った。三沢さんがからりと笑う。どうしたのかと慌てたが、頭痛はかき氷にはつきものらしい。一種の風物なのだと教えられたのは、私がマスターにしつこく聞いたからだ。
あんまり熱心に見詰めていたのだろう。その様子が十代さんの目にとまった。
「食いたいのか?」
笑顔で片手に持った紙製の容器を差し出す後ろでは、友人たちが不思議そうな目でその様子を眺めている。またかと呟く翔さん達の声に、返事を忘れて呆然としていた私は慌てて首を振った。
「いえ!いえ!ちょっとぼーっとしてたんです!それに私たちはお腹空きませんし、食べられませんので気にせず食べて下さい!」
「そっかぁ?」
十代さんは首を傾げる。そんな仕草にも動揺してしまう。そんなことを言われたのは初めてだったから、妙に落ち着かなくなってしまった。
助けを求めてマスターに目を向ける。視線がかち合うと、仕方ないと言いたげにため息が吐き出された。
「当然だろう十代、そいつは精霊なんだからな」
つきりと胸を刺すものがあった。でもマスターの助け船を無碍にするわけにもいかない。雑念を振り切るようにうんうんと何度も頷いた。くるみ割り人形の両手か何かになったみたいに、何度も何度も。
しゃり、とどこかで氷を砕く音が聞こえた。

それまで不機嫌顔で腕を組んでいたマスターがおもむろに立ち上がったと思ったら、三沢さんの横を素通りして寝室へと姿を消した。首をかしげながら寝室のドアを見つめていると、数分を挟んで戻ってくる。さり気無く、片手に忍ばせていたPDAをポケットに隠したのを私は見逃さなかった。
十代。さっきまでと対照的に、呼んだ声は心なしか弾んでいる。仰向けになって、お腹の上で手を組んでいた十代さんが、顔だけをマスターに向けた。
「どうしたぁ万丈目?」
「忘れていたが、トメさんがお呼びだぞ」
「トメさんが?」
何の用だと尋ねる十代さんに、マスターが知らんと鼻を鳴らす。
「俺は十代に用があるから来いと言われただけだ」
「はぁ、何もトメさんもこんな暑い日に…」
それまで黙って聞いていた翔さんと剣山さんが、じとりとマスターを睨んだ。
「なぁんか怪しいっスよね」
「何がだ」
「俺たちを追いだす口実を作ってるみたいザウルス」
マスターは案外ずぼらなので、余計なことはしない性格だ。剣山さんの言葉に納得しそうになる。頷きかけた私を遮るように、マスターが頬をつり上げた。
「何を言うか。貴様らがいようがいまいが暑いことは変わらん。それならば初めから部屋には入れん」
それでも翔さん達の疑いの目は逸らされない。まー、どっちでもいいさ。間の抜けた声が間を割った。
「トメさんが呼んでるなら行かないことにはなぁ」
独り言のように呟いて、十代さんは気だるさを隠さない緩慢な動作で起き上がる。と、そのままふらりとドアを開けた。
「さっさと行け」
「おう、それじゃ、ちょっと行ってくる」
ついでにかき氷食えるかなぁ、という呟きを翔さんと剣山さんも律儀に追う。忙しげに閉まるドアを確認して、三沢さんがマスターを振り返った。
「何を企んだんだ?」
「なに、ほんの親切心だ」
ため息と一緒に、マスターはソファに戻った。残った部屋に蝉の声。そしてマスターと三沢さんの、一時の静寂が訪れた。

一週間前から頭を離れないのは、食べられないかき氷でも、笑顔でそれを差し出す十代さんでもない。たった一度、一瞬見せた、怪訝そうなマスターの顔。「食べるか」と問いかけた十代さんに、何を言うと不可解だと言わんばかりの表情が、私の頭を離れないのだ。
食べれるはずがない。食べられるわけがない。でもどこかで私は食べたいと思っていたのかもしれない。
「食いたいのか」という言葉に、思わず「はい」と零しそうになった心は、隠しきれそうになかった。

おジャマ兄弟だって、十代さんのハネクリボーだって、この棚に眠る私の仲間だって、本当に精霊でよかったと思っているのだろうか。確かに年中快適だし、滅多なことで死ぬこともない。外に出たければドアまでと、遠回りなんかせずに壁をすり抜ければいい。十代さんの言うように、思わず黙り込んでしまうほどの暑さを感じなくて済むのだ。でも、それはいいことなのだろうか。

私には人間の方がよっぽど魅力的に見える。暑ければ暑いという表情をし、エアコンが壊れれば期待外れだと落胆し、かき氷をうまいうまいと頬張る。人間は私たちなんかより遥かに生き生きとしているように見えて仕方がない。
不相応だとも、馬鹿馬鹿しいと言われても、精霊なのだと正されても、暑い、寒いと愚痴を零し、躓き転べば簡単に傷を作り、外に出るのに机を椅子を掻い潜ってようやくドアに辿り着くような、私にとってはそんな生き方が魅力的で仕方がないのだ。

願えば願うほど歯止めの効かなくなる感情だということは想像できた。でも、もう遅い。十代さんの問いかけに、「はい」と頷きかけたあの瞬間に、より深みへはまるように、もうとっくに絡みとられてしまっているのだと、気づいてしまった。
出来ることなら私も人と同じことがしたい。みんなと同じように我が物顔であのソファーに腰かけてみたい。暑いと言いながら思いっきり汗を拭ってみたい。人目を憚らずに寝転がって、文句を言ってみたい。喉に潤いを求めて、氷を頬張って、頭が痛いとこめかみを押さえながら蹲ってみたいのだ。
そうして顔を上げれば、視線の先にはマスターがいる。呆れた顔をしていようが、知らん顔で氷を食べていようが、同じ空間で笑い顔と氷の冷たさを共有していれば、私にはそれだけで十分だった。
違う。それが、一番なのだ。

馬鹿みたいな話だった。そんなこと、願っても一生、あり得るわけがないのだ。井戸の上から、あのまんまるの世界からマスターが現れたのとは話が違う。私が今願って仕方がないのは、地上の光を見るよりもずっと、難しくて愚かしいことなのだ。
つまり、人間になりたいと。そういうことを言っているのと、おんなじなのだ。


部屋の密度が下がってから、どれ位経っただろう。勢いよくドアが開いた。あんまりの激しさに、三沢さんと私は肩を震わせたほどだ。
「万丈目君ひどいっス!!」
「やっと来たか」
飛び込んできた翔さんの第一声を、鼻歌でも歌いそうな面持ちでマスターは迎え入れる。後ろから十代さんと剣山さんが二人がかりで小さなダンボールを運び込んできた。拭う暇もなかったのだろう。顔中、汗でじっとりと濡れている。
「ご苦労だったな、十代」
言って、テーブルの上に乗せられた段ボールを開く。中から取り出されたのは、お世辞にもきれいとは言えない、廃品に出してもよさそうなほど年代物のかき氷機だった。回し手が斜めに歪んで、下手に回したら外れてしまいそうだ。かき氷はどうやって作るのかと質問攻めにしたときに聞いていたものとは、大分様相が違っている。でも、氷を入れる蓋と、やわらかな結晶に変える回し手と、それを受け止める器の置き場所があるのだから、きっとかき氷機に間違いはない。
これも借りてきたのか、隣にどどんと使い古しのシロップが置かれた。

いかにも上機嫌にかき氷機を取り出すマスターを、十代さんが恨めしげに見つめる。
「万丈目、食いたいんなら自分で取りに行けよな」
「僕たちに運ばせるなんてあんまりっスよ!」
肩を怒らせる翔さんの様子を見て、マスターが一度寝室に戻ったのは、PDAでそのトメさんという人にかき氷機を借りるためだったことを理解した。マスターらしいと言えばマスターらしいが、怒るのは当たり前だ。三沢さんが呆れた風に苦笑いを零す。
「貴様らがあまりにも喧しいから据え膳してやっただけだ」
寧ろ感謝せんかと、ぬけぬけと言う図太さは流石だ。
「据えてるのは僕たちっスよ」
言いたいことを言い終えて、マスターはすでに知らん顔だ。
「折角持ってきたんだから、俺が作ってやろう」
今まで一度も上げなかった重い腰が嘘のように、三沢さんは軽やかに立ち上がると腕まくりをした。すぐにでも食べられる状況にあると知って、活力が沸いたようだった。
「俺もやるドン」
「あ、僕も僕も!」
明るい声が後を追う。楽しそうだ。かき氷というたった一つのものなのに、それだけで、人間にはいくつもの楽しみがある。
羨ましい。図らずも漏らしかけた。口は留めていたけれど、頭の中ではずっとひとつの感情が渦巻いていた。私の思考回路は、自然と羨望を辿るようにでき上がってしまったらしい。

ひとつ、またひとつ、氷を入れた機械は、驚くべき速さで銀粉を積もらせていく。三人が交代交代に回せば、人数分出来上がるなんてものの数分だった。
氷が解けた水滴が散らばるテーブルの上に、五個のばらばらの器。どれが一番量が多いと騒ぎ立てる姿に口元が緩む。私ならば、余りものでもいいと傍から見つめているのだろう。たった今のように。

十代さんが近付いてくる。言われることは、分かっている気がした。私が期待していただけだったのかもしれない。でも、開かれた口から出た言葉は、想像と違わなかった。
「お前も食いたいだろ?」
ちらりとマスターを伺う。喧嘩を始めた翔さんたちの傍らから、案の定、こちらに視線を送っていた。開いた口を閉ざす。
答えるのに、数秒かかった。
「…ったって、私は食べられないじゃないですか」
声が消え入りそうになるのを精一杯喉を震わせて、思いをぎりぎりまで紡いだのに、十代さんはからからと愉快そうに笑った。
「食べたいって気持ちはあるんだろ?だったら食えないっていつも遠くから見てるより、食いたいって言ってみた方が楽だと思うぞ」
簡単なことなのかもしれない。一言か、頷くか、とにかくひとつの動作を見せればいい。それだけのことをできないのは、私の感情が別のところにあるからだ。かき氷を通して、その向こうに。

不満は?ない。マスターの傍は居心地がいい。不便なこともない。すべて上手くいっている。たったひとつ。ただ、私の感情を除いては。

マスターと同じものを共有したい、だなんて。精霊が、望んでいいことじゃないのだ。
マスターに助けられた日、日の光を浴びたいという一生のものと決めた願いは叶ったのに、どうしてこうも欲が深いのだろう。この想いは、決して成就することなんてないのに。私にとってのマスターは恩人で、一人の万丈目準という存在だ。じゃあマスターにとっての私は?そんなの、考えなくたって分かることだ。
ぷつりと、内側から棘が深々と刺される。十代さんが折角頷いてもいいと言ってくれる好意を、それも私が強く望んでいることを態と断るのは、確かに針の痛みと同じだった。
「でも、やっぱり私は…」
精霊だから。これ以上、マスターに迷惑はかけられない。そんな思いを口にするつもりだった。

「十代、もうひとつ器をもって来い」
驚いて、顔を上げる。十代さんの振り返った先で、マスターが鼻を鳴らした。閉じていた瞼がゆっくりと開いた。そうして、すらりと伸びた切れ長の目が、私に向けられる。
「食いたいか?」
一瞬、言葉というものを忘れてしまった。喧噪を挟んできょとんと首を傾げる三沢さんを放っておいて、暑さに汗の雫を滴らせながら、静かに私に問いかけている。
マスターは何を言っているんだろう。食いたいか、なんて。そんなの無理に決まっている。だって私は、

自分でさえも、不意だった。
「たっ、食べたいです!」
言ってしまって、はっとした。口を抑えたけれど、もう遅い。私の声は、凄い勢いでマスターの鼓膜を震わせたに違いないのだから。
「そうか」
何を言ってるんだろう、私は。とうとう頭が沸騰してしまったらしい。心底馬鹿なことを言った。食べたいだなんて。だって、私は精霊だ。さっきだって、一週間前だって、それにいつも、こんなことは言わないと決めてきたじゃないか。何より言ったところで、この世界のものには、何一つとして触れられはしないのだ。触れもしないのに、食べられるわけがない。でも、だけど、それなのに。
私は言ってしまったのだ。どうしようもなく、あの輪の中に入りたくて。マスターの隣で、かき氷が冷たいと、こめかみを押さえながら笑いたくて。食いたいかと問われて、一瞬でも人心地がした気がして。それに、気のせいかもしれない。
マスターが、やわらかく笑った気がしたのだ。

ざりざりと、氷を擦る音がする。三沢さんや、翔さん、剣山さん三人は氷片手に不思議そうな顔でマスターを眺めている。「食い意地張り過ぎてお腹壊すっスよ」という翔さんの言葉にも耳を貸さず、黙って取っ手を回している。その手元で、他でもない私だけの氷が器に流れていく。
少し乱暴に、棚の上に器が置かれた。覗きこんで見えるのは、遠くから見つめた透明の粒。その上から真っ赤な雫が滲んでいる。マスターの手が器から離れた。
「これでいいか」
頷く以外にどうしろというのだ。なんにも言葉は出てこない。喉が詰まって、出てこないのだ。精霊だから、と胸に刺すための刺を作り出していたのは、自分だったのだろう。確かに言ってしまえば心に取り付けた枷の重さがなくなっていた。

部屋を満たす、しゃりしゃりという爽やかな音。氷同士が擦れる音。掬いあげて、翔さんたちが頬張る姿。どんな味がするのだろう。こめかみを押さえる冷たさとは、どんなものなのだろう。きっと精霊の私には、一生分からない。
でも、これだけはわかる。はっきりと、わかる。
「そうでなければ困る」
大きく頷いた私に吐かれた、ぶっきらぼうな返事。
「しかしただの氷だ。冷たい以外感じるものもないけどな」
ぐっと、目元につき上げるもの。力を入れて堪えなければ、零れ落ちてしまうもの。それを生み出す感情さえあれば、いつだって舌に乗る言葉は甘くなるのだ。
「…そう、ですね」
端から私の顔を見た十代さんが、頬を緩めた。
「でも私、冷たいもの、好きなんですよ」
ありがとうございますと呟けば、涙の代わりに笑みが零れた。私の人生で一番、いや、きっと世界で一番やさしい嘘がやさしいままであるように、私も今までと違う幸せな嘘をついた。

「もう一つお願いしてもいいでしょうか」
「構わん」
「鳴らして貰えませんか」
秋になっても、冬になっても、春になっても、私がこの音を忘れないように。来年の夏にまた、私だけの音を思い出せるように。この涼やかな氷の音を聞いていたい。マスターがくれた初めての夏を。

マスターの手は何の装飾もないスプーンで、透明な氷をかき混ぜる。細かな粒が、差し込む光に反射して眩く輝いた。赤色が少しずつ滲んでいく。
「この赤は、どんな味がするのですか」
「イチゴだ」
「それは甘いのですか?」
一拍、間があった。

「さぁな、味気なくてよく分からん」
何かが頬を掠めた気がして、二階の窓を見上げる。したたる太陽の光の中で、カーテンが波のように揺らめいていた。十代さんたちが気持ちよさそうに目を瞑る。

いつか欲していた光は、こんなにも私の周りに満ち溢れている。それなら、こんな風にマスターの前で氷をかき混ぜる日が来るのだろうか。暑いと言いながら氷を口に含み、こめかみが痛いと蹲って、それでもうまいうまいと掻きこむような、そんな日は来るのだろうか。
とんだ笑い話でも、その日が来るまではずっと、今日という日を焼き付けておきたい。網膜にも、聴覚にも、心の中にも。
氷の音と笑い顔、太陽の色、器を滑るしずく、蝉の声。そしてマスター──万丈目さんの世界で一番やさしい嘘と一緒に。

「気持ちいい風だなぁ」
誰が呟いたのか。透き通る日差しに向かって瞼を閉じてみれば、瞼の裏に確かな、溶けていく夏の赤を感じた。



バレンタインリクエスト『精霊ヒロインがサンダーに恋する切なめの話。できればハッピーエンド』
10/07/25 短編