夏霞
一、スイカのひなた
一、スイカのひなた
「今日の昼は、軽くでいいよ」
ダイニングに訪れるなり放たれた露伴先生の言葉は、ふあ~ぁ、と噛みしめることもなく吐出されたあくびで、半分ほどくぐもっていた。
目をこすって、俯きがちにボリボリと後頭部を掻いて、それからまたあくびをする。時間管理の行き届いている露伴先生にしては珍しく、さながら休日の朝のような無防備さだ。
フライパンを片手に、ドキドキとしながらその様子に胸をときめかせていると、先生は私の視線に気づいたのか、
「ちょっと夜更かししちゃってね」
と顔を顰めて言った。
「最近は週末に出かける暇もなくて、買った本も袋のままだったよ」
「そうだったんですか」
どうやら先生は、その楽しみにしていた本を読んで徹夜してしまったらしい。
私は相槌を打ちながら、先生がどんな本を読むのか聞きたくて仕方がない衝動に駆られていた。本の趣味は、多くを語る。その他のことを知らなくても、特別な一冊を知るだけで、その人と語り明かしたかのような気分になれる。
でも本当は、そんな遠回りなことをしなくても、漫画を読んでしまうのが一番なのだということはわかっていた。けれどそれが、簡単なようでできないのだ。
私は、露伴先生の漫画を未だに読めていない。だって、気恥ずかしくて仕方ない。ほとんど毎日会う人の、人柄や癖すら知っている人の本を読むのは、その人の気取った一面を盗みてしまうような、なんとも言いがたいむず痒さが邪魔をして、どうしても手に取る勇気が出なかったのだ。
雇用者と被雇用者という関係がまた、気安く歩み寄れない一線を引いてしまっているような気がして、先生を知ることに、しれず尻込みをしてしまう。だから露伴先生の趣味がどんなものなのか、私はいまいち掴めていない。
書斎に入ることも数回はあったから、露伴先生の本の趣味を知る機会は全くなかったわけじゃない。
先生の職場と言っていい領域なので、頻繁に呼ばれることはないのだけれど、私ときたらコーヒーを持って行くことがあっても、ジロジロと見るのは憚られて、邪魔をしないようにすぐに出て行ってしまう弱虫だ。
あんなに広い壁面の本棚に、びっしりと並ぶ背表紙をひとつも覚えられていない言い訳は、ド緊張。これだけだった。
ダイニングの椅子を引く音が鳴って、重くて丈夫なそれに、露伴先生が気怠そうに腰を下ろした。手には新聞や本や雑誌を抱えていて、テーブルの上にそれを広げたところを見ると、食事の用意ができるまで、そこで待つつもりなのかもしれない。
テーブルに並べる前に来ることは多々あったけれど、準備をする前から台所へ現れることなんて今までに一度もなかった。露伴先生を背後に食事の支度をしなきゃならないことを思うと、背中ばかり意識してしまって、上手く出来る気がしない。
眠気眼で本を捲っている露伴先生は立ち去る気配もなく、私は「も~~!」と叫びたくなるのを抑えて、先生にぐるりと背を向けた。
リビングに行ってくれればいいのに──
悪態をつきつつも、私は密かな高鳴りを体に押しこめながら、息を吸って小さく吐いた。ということは、だ。露伴先生が台所に居座るということは、いつもより長く、会話ができるということだ。本の趣味を聞いたって、悪いことじゃない。露伴先生から話したんだから、私がプライベートに突っ込んだわけじゃない、と自分に言い聞かせる。
口を開こうとすると、さっきまで控えめだった心臓が、急にドクドクと激しく音を鳴らし始める。開けた口の隙間を、心臓から流れた振動が押し出されてくるような気さえする。
先生のことが知りたいわけじゃあない。あくまで仕事の片手間でコミュニケーションのために聞いているのだ、という雰囲気を出すために、体は冷蔵庫やシンクを行ったり来たりしている。無闇に引き出しを開けたり締めたり、お玉を出したかと思えばまたしまったりと、やたらめったらなことをしているけれど、そうでもしないと、私は絶対にやけに真剣な目を向けてしまう。そうしたら、先生だって怪訝に思うだろう。あの神経質な目でもって、訝しむように観察されるのだけは耐えられない。
趣味を聞くのは全然邪じゃない。普通の会話、普通の会話──
と言い聞かせながら、包丁とまな板の位置を何度も何度も直しつつ、もう一度吸い込んだ後、
「何の本ですか?」
と、私はようやく尋ねることが出来た。
遠慮がちに後ろを窺った時、丁度、露伴先生は首筋に手を当てて凝りを解していたところだった。
開いた本のページに、片手で栞をしながら、「ん?」と横目に私を見て、納得したようにああ、と小さく零すと、
「スティーヴン・キングだよ」
と素っ気なく呟いた。
「今月に邦訳が出たんだが、丁度発売日に書店で見かけて買ってさ。偶然入った時が新刊の発売日って、スゴく嬉しくならないか?」
そう言いながら、苦しそうに目頭を押さえていたかと思うと、今度はテーブルに片肘を付いて、そのままだらしなくあくびを零している。
私は「ええ」と頷きながら、露伴先生の様子を見つめて、笑みが浮かびそうになるのをどうにか堪えた。書斎の机か、ベッドの中か、数ある部屋のソファか、そのどこかの薄暗い電灯の下で、眠たい目を凝らしながら、一冊の本と一緒に夜を明かす露伴先生の姿を浮かべると、どうしてか、ぽっと胸が温かくなる。
よほど夢中になって読んだのだ。寝るのも忘れるくらい、目が疲れるくらい、寝不足の気怠さに満足してしまうくらい、きっと。
「面白かったんですねぇ」
自分の手元を見つめながらしみじみと呟くと、顔が赤らんだ。覚えず、家族にしか出さないような柔らかい声が出てしまった。まるで愛でるような、そんな声だ。
咄嗟に弁明したくなったけれど、露伴先生は寝不足で、そんな些細なことには気づいてはいないようだった。その証拠に、うん、と生返事のような、ぼんやりした音が返ってくる。
露伴先生が頬杖をついたままちらりとこちらを見たのと、ばっちりと目があってしまって、私は腰だけで振り返った状態のまま、動けなくなった。支えの腕を下にして傾けられた顔が、眠たげに私を見つめている。先生が手に持っていた本をパタリと閉じるのが見えた。
唇がたった二字のために動くと、少しだけ掠れた調子の声が静かな台所に落ちる。
「読む?」
驚いて、すぐに返事はできなかった。露伴先生の長い手が、すっとテーブルの上を動いて、本を押し出してくる。
「は、はい!」
勿論! とか、喜んで! なんて心の声は、間違っても漏らしはしないように、大事に大事に、胸の内に押し込めた。
「あとで、あとでお借りするので、まだ先生が持っていてください」
「わかった」
帰りにでも渡そう、と続けられた露伴先生の言葉に、嬉しさで胸がはちきれそうになる。露伴先生のもの。露伴先生の読んだ本。先生の大事な本。楽しみにしていた本。
思い浮かべると、体の骨を抜かれたみたいに、ふにゃふにゃになりそうだ。言葉は押し込めても、へにゃりとした、だらしのない顔を隠すのをうっかり忘れてしまって、私は頬の筋肉を引き締めた。こんな顔を見られたら、あまりにも恥ずかしい。戒めるように頬の内側を噛みながら、先生をちらりと盗み見る。
頬杖のまま、本を手元に引き戻した露伴先生は、どうしてか楽しげな笑い顔を浮かべて、俯きがちに目を細めている。
テーブルに、背中を向けた。頬が熱くなった。胸をくすぐられるような感覚がじわりじわりと体を侵食していって、動けなくなってしまいそうだ。
私はそれを振り切るように、慌ててまた、まな板と包丁の位置を直しにかかった。
露伴先生がわからない──
前々からそう思っていたけれど、最近はもっとわからなくなった。私が知っているのは、その原因だけだ。
動物園の取材から五日が経っていた。露伴先生はあのことについて、何も言ってこない。本当に何事もなかったかのように接してくるので、まるで私だけがずっとあの日のことを抱えて、意識しているみたいだ。
絶対におかしい、と思う。私があんなことをして、気持ち悪がられたっておかしくないし、私が苦しめられた“岸辺露伴”のような人なら、きっぱりと遠ざけてしまうはずだ。それなのに、動物園でのことは一言も持ちだしてこないのだ。嫌いなことには白黒つける露伴先生が、ほとんど毎日接しなければならない私に対して、物事を有耶無耶にするとは思えない。
それに、だ。いつもだったら些細なことでも見つけると、しめたとばかりにチクチクと突付いてくるあの嫌味な癖にも、この五日間お会いしていない。小姑一人は鬼千匹だなんて言うけれど、小姑もかくやと思わせる露伴先生の鬼千匹は、あれからすっかり鳴りを潜めていて、うるさいお小言に慣れきってしまった私には、それがどうにも落ち着かない。
なにより、何か言ってもらえないと、自分から切り出すこともできなくてもどかしいのだ。あっさりとした露伴先生の態度に、困惑ばかりが募ってしまう。何事もなく日がすぎて行くと、その呆気なさでだんだんに、本当はあれは夢だったんじゃないかって思えてくる。とても暑くて、知らず熱中症気味になっていた私が見ていた、妄想だったんじゃないかって。
けれどそう思う度に、夢じゃないことに気づかされる。
だって、私はしっかりと覚えていた。先生の骨ばった手の甲や、汗で少ししっとりとした手のひらの感触。冷たいのかと思ったら、意外にも温かかったこと。その体温が、じんわりと私の肌に同化して行ったこと。並んだ時の、先生の肩の高さ。二の腕を擦る、自分のものではない服のこそばゆさ。風が吹かなくても満ちている、先生の匂い。柔軟仕上げ剤と、ワックスと、それから香木のような香り。低くて落ち着いた声の距離と、胸をくすぐるような、その振動。
五日経った今でも、それらを私は、何度でも思い出せた。光も匂いも香りも感触も声も。ただ夢と言ってしまうには、あんまりにも、記憶の感覚は鮮明すぎたのだ。
恥ずかしくてどうにかなりそうだった。何回思い返したって、私の行動は常軌を逸している。正常だとは思えない。判断力をまるっきり失っていて、まるで酔っぱらいだ。意識がぼんやりとしている感覚があったから、本当に、熱中症だったのかもしれない。そういう風に理由でもつけないと、おかしくなってしまいそうだ。
もし、具合が可笑しかったなら尚更、私はあの時のことをどうしても弁明したくて、出来ることなら、露伴先生に話題にして欲しかった。どんな形であれ、露伴先生から話して欲しかったのだ。私からはどうやっても口にできない。口にしてしまったら、あの時のことをはっきりとさせなくちゃならなくなる。私が露伴先生を、好きだってことも。
でもそんなの、余程の鈍感でもない限り、わかってしまうはずだ。露伴先生に寄り添った時、あの時点で。
玉ねぎをスライスして、水にさらす間も、頬杖をついた露伴先生の笑顔が浮かぶ。本を貸すと言う、先生の声が浮かぶ。
わからない。けれど、解決しない問題があったとしても、嬉しさは今まで通りに込み上げてくる。
露伴先生はやっぱり、昼食ができるまでダイニングテーブルで雑誌を眺めていた。見られちゃいないとわかっていながらも、そわそわとして、背中に視線が突き刺さっているような錯覚に陥ってしまう。
私は身を固くしながら、レタスと玉ねぎのスライスの上に豚肉を乗せたサラダと、薄味のコンソメ風ポトフ、ナスの梅煮お浸し、作りおきのポテトサラダやひじきなんかを小皿にちょっとずつ取り分けて、露伴先生の前に運んだ。寝不足には油ものを食べたくなるだろうと思って、夕飯のために唐揚げ用の鶏肉をタレに付けておいた。うとうととしている今はきっと胃袋も睡眠モードだろうから、さっぱりとしているものの方がいいと思ったのだ。
「まあまあの盛り付けだなぁ」
なんて偉そうなことを言いながら、露伴先生は雑誌を避けて、両手を伸ばした。メインの大皿もスープもほとんど並べ、小皿を差し出していたところだったので、それを上から掴もうとした露伴先生の手が、小さな陶器を乗せていた私の両手に触れた。指先を、じぃんと痺れが走って行く。
「あっ」
大きな声が出て、思わず両手を引っ込める。私は咄嗟に口元を抑えながら「すみません」と言って、取り乱したことを誤魔化すように、愛想笑いを付け加えた。
お箸を取りに行くふりをして、胸の前に手を抱え込む。手のひらの下でドキドキと心臓が脈打っている。食器棚の引き出しを開ける手が微かに震えていて、私は困りきってしまった。
「スプーンも頼むよ」
「わ、わかってます!」
かかった声に叫びながら振り向くと、露伴先生は私と正反対に、楽しそうに笑っていた。この人は焦る私の様子に気づいているのだ。それでいて、心の底から無邪気を滲ませたように笑っている。私の好きな、優しげで少し抜けた、憎めないあの人柄を、内側から滲ませながら。
「……どうぞ」
出来るだけ手に触れないように、スプーンとお箸の先っぽを持って差し出すと、露伴先生はお礼と一緒に受け取って、「それじゃあ頂くよ」と律儀に断りを入れて食事を始めた。
違和感に、むずむずとした。いつもだったら「嫌らしい渡し方するんじゃあないぜ」とか、一言添えてもおかしくないのに。
わからない。露伴先生がわからない。
いつも突拍子もなくて、思いつきと気持ちだけで、人をからかうことを楽しみにしているような人だから、最初から理解なんてできていなかったけれど、もっと、わからなくなった。手をつないでから、はっきりと私が先生に対して羞恥心を持っているのを知っているのに、どうしてこんな風に接してくるのかわからない。私の胸は日を追うごとに、露伴先生と言葉を交わすたびに、不安や期待でごちゃまぜになる。
何も言われないということは、何を思っているのか、さっぱりわからないということだ。本当に私の気持ちに気づいているのかさえも。
寄り添ったり、手をつないだり、それを受け入れたり、からかったり。何度考えたって、そんなことは、恋人同士でもないとしないことだ。
ましてや露伴先生と私は友人ですらない。私情を挟まないように努めるべきの、雇用者と被雇用者なのだ。
それなのに──
調理器具を片付ける私の後ろで、先生は柔らかく口元を緩ませて、私が作った料理を口に運んでいる。胸が締め付けられて、ひたすらに手を動かすしかなかった。
期待してもいいのだろうか。否定がないことを、期待しても構わないのだろうか。
繋がりを持っていたい、と思っていただけだったのに、いつの間にか、こんなことまで考えるようになっている。
私は、本当に露伴先生を好きになってしまったのだと気づいた。後戻りできないくらい、なかったことにできないくらい。自分を、誤魔化せないくらいに。
掃除も洗濯も終わり、敷地の周辺の雑草も取り終わる。先生が食べ終えた食器を片付けても、まだ時間は余っていた。
いつもより早いけれど、お伺いしてやることがなければ上がってしまおうと、書斎をノックするけれど返事がない。いつもなら原稿を執筆中の時間だ。
「先生?」
声をかけてみても、中から声はない。物音一つしなかった。
もしかすればトイレかもしれない。あるいは、他の部屋に資料でも取りに行っているのかも。お茶の替えだったらいけないと思って、私は一応台所も覗いてみたけれどそこにも姿はなかった。
庭だろうか、と私は思い当たった。よくリビングの窓から、垣根の影で庭いじりをする先生の頭が見えることがある。
サンダルをつっかけて整えられた芝生へ降りると、焼けるような夏の暑い日差しが、緑の草木に一斉に降り注いで、表面を光らせていた。吸い込んだ空気は、少し青臭くて湿っている。露伴先生が水やりをしたのだろう。一歩、二歩、と芝を踏みしめると、足先に穴の開いたサンダルなので、靴下の足の指の部分に、冷たい水が染みこんでくる。
広い庭の中程まで進んで一度リビングの方を振り返ると、壁沿いの影になった蛇口に、ホースが取り付けられたまま、無造作に放置されているのが見えた。
私がいる時間帯でも、露伴先生が庭の手入れをしている姿はよく見かけた。けれどその姿といえば、地面をほっくり返したり、何やら引っこ抜いたり、見ているこちらがどきりとすることをやっている。
昨日は雇っている年配の庭師に、クマガイソウとアツモリソウを隣り合わせで植えているのを見咎められて、「根を広げるもんと弱いものを近くに植えるやつがあるか」と大いに怒られていた。それは先生が前の年に、熊谷直実と平敦盛の因縁を面白がって、商店街の市で買ったばかりの株だったのだという。
去年より明らかに減ったアツモリソウの株を見て、「弱っちいのを寄越されたんじゃあないだろうな」と疑っていた先生も、自分が原因だと聞いてもケロッとしたもので、
「相性なんてあるのか。勉強になったなァ」
なんてしげしげと眺めながら、顎を撫でている呑気さだ。色々手を出すのはいいとしても、人のことはからかうくせに、露伴先生は案外やることが大雑把なのだ。庭ばかりデカくて知識がない、と庭師が呆れて肩を竦めるのも仕方なかった。
その庭師というのは、先生がここへ越してきてからお世話になっているようで、趣味で山野草の栽培もしている花好きのおじいさんだ。芝の管理もあるので、私が休みの日に庭師を頼んでいたらしいのだけれど、露伴先生のあまりに適当な手入れに、生け垣や植木ばかりではなくついそちらにまで口を出しているようだ。先生の方も、自分がやるよりいいと、すっかり任せきってしまっている。
しかしそんな付き合いがあったのだとは、最近になって知った。三ヶ月にもなって、今頃だ。私は露伴先生について知らないことが多すぎる。こんなに近いことですら。
サクサクと心地よい芝の感覚を踏みながら、私は日差しに目を細めて辺りを見回した。緑一面に、黄色や白、ピンクや紫が顔を出す庭へぐるりと視線を送ってから、ぴたりと止まった。
家の角から、手が、だらりとぶら下がっている。縁側のある軒先だ。
露伴先生は縁側の一番端の板に肘から下の指先までをぶら下げて、横向きになりながら、なんとも死人にしか見えないような奇妙な格好で、静かに寝息を立てていた。和室に近い庭は、一角に砂利が敷いてある。それを踏む足音にも、先生は目を覚ます気配はなかった。
うたた寝と言うにもすっかりくつろいでいる様子に、きゅうきゅうと、胸が鳴る。やわらかく、締め付けられていく。私は声をかけることも出来たけれど、結局思いとどまって、黙って先生の足元に回ると、隣に浅く腰を下ろした。思いの外、涼やかな縁側だった。庭木が並び、心地よい木陰を作っている。
私は縁側についた両手に体重をかけながら、自分の肩に頭を預けて、眠りこける露伴先生を眺めた。先生が息をするたびに、半袖のサマーニットの下で、ゆっくりと胸が上下している。縁側の端に植えられたユキヤナギが、青々とした細やかな葉をつけた枝を伸ばしながら、光と影の間をゆらりゆらりと揺れている。少しだけ、風が出てきたようだった。
庭先で暑がっていた私と違って、露伴先生は随分と寝心地が良さそうだ。家の中にいたって蒸し暑いし、寝不足で体温が下がっている時には、私に合わせて付けられた冷房が効いた部屋では寒すぎる。それに比べてここは、随分と気持ちがいい。見つけてついつい横たえてしまう露伴先生の気持ちも、わからなくなかった。
それにしたって、猫じゃないんだから──
ふと、鼻をしっとりとした甘い香りが掠めて、私はいつの間にか自分が微笑んでいたことに気づいた。視線は、露伴先生の寝顔からちっとも離れていかない。何かに怒っているような厳しい眉間からは、すっかり険が消えて、先生はいつもこんな顔で寝ているのだろうか、と私は思った。そう思うと、ますます胸の締め付けが強くなる。
いつまでも子供みたいで、自分勝手で適当な姿に、呆れていたはずだったのに。呆れていた、はずだったのに。
目を閉じて、頑張って先生から視線を外す。反対側を向けば、道路際には白い花を咲かせた蔦が、遠慮がちに垣根を作っている。匂いのもとは、これだ。
「スイカズラかぁ」
控えめな甘い香り。目を閉じなければ気づかないような、ささやかな微風。葉が擦れる音。ちらりちらりと掠める、暖かな光。露伴先生の寝息。鼓動。やわらかな胸の痛み。
ひなたに満ちているこれは、愛しさなんじゃないか、と思った。私は誰の声も聞こえない、そよそよと木陰の靡く空間で、ひっそりと感じ入った。
まるで誰かに優しさを分け与えたいような気持ちが、次から次へと沸き上がってくる。
まだ、時間は余っている。
音を立てないようにサンダルを脱いで、縁側へ上がった。開け放たれた障子と窓の先は和室で、掛け軸がかかっているけれど、高い壺が置いてあるだけで、花を活けるような風流人はここにはいない。そんな離れのような寂しげな和室だ。
和室を抜けて台所に戻ると、私は急いで冷蔵庫を開けた。小さなカットスイカがあったはずだ。カップデザートでも作ろうと思って、他のフルーツと一緒に、露伴先生に買ってきて貰えるよう頼んでいたものだ。
意外にもちゃんと冷蔵庫に収まっていたスイカを、私は食べやすいように更に小さく、三角の積み木くらいの大きさに切り分けて、途中で落とさないように、底の深いお皿に乗せた。
小さく切っておけば、好きな量だけ食べられる。ウリ科が嫌いな露伴先生でも、美味しく食べられるようにしたかったのだ。
お盆に載せて、私はまた縁側のある座敷へ今度はゆっくりと向かった。入り口も窓も全部開けているから、吹き通しだ。外からの涼やかな音と匂いが、寂れた和室に季節を彩る。ちらちらと瞬きする小さな光のざわめきが、畳の上を通り過ぎて行く。
廊下から入った瞬間にわかった。露伴先生はきっと、そんな心地よさに誘われてしまったのだろう。
お盆を縁側に置いて、脱ぎ散らかしてしまったサンダルを整える。正座をしながら、露伴先生を見るけれど、ちっとも眠りから覚める様子はない。咳払いをしてみても、規則正しく胸を上下させるだけだった。
声をかけるのに、少しだけ勇気がいった。
「露伴先生」
砂利の音で起きなかった先生は、人の声にも反応しない。
仕方なく、露伴先生の足元に置いていたお盆を離して、私は再びサンダルを履くと、先生の前に回って腕の辺りを叩いた。手のひらに服の感触と、微かな人の体温を感じて、私はすぐに手を離した。先生の腕に触れるのは、五日ぶりだった。手のひらの体温を忘れないように、ぎゅっと握りしめる。
さん、というぼんやりした呟きが聞こえて、私は弾かれたように後ろへ半歩下がった。目が覚めたらしい露伴先生が、手で顔を覆いながらうめき声を漏らしている。
「……時間かい?」
まだ眠そうな声だ。露伴先生は背を丸めながら起き上がって、大きなあくびを俯きながら噛み締めると、縁側からぶら下げていた腕を揉んでいる。血の巡りが悪くて、痺れてしまったに違いなかった。
いいえ、と私は首を振った。
「まだ時間が余っていたので、スイカを切ってきたんです。良かったら食べませんか?」
いいお天気ですし、と言いながら、胡座をかいた露伴先生の横へお盆を寄せると、先生が重たい目で、不思議そうに私を見ていた。また、ウリ科はどうとか言おうとしているのだろうか。
少しだけどきりとした心臓を宥めるように、
「寝起きは喉が渇くと思って」
と言ってから、私は露伴先生に、一つでも食べるように勧めた。全部食べたって、大して多い量じゃない。独りでだって十分食べられる。
まだ頭が回っていないのか、露伴先生はやはり不思議そうな顔をして、ぼんやりとスイカを眺めている。
仕事も忙しかったと言っていたから、起こしてしまうのは確かに忍びなかった。でも私が黙って帰ったら、もしかすると日が落ちるまで露伴先生は寝たままになるかもしれない。そうしたらきっと、夏だと言っても体を冷やしてしまう。
「他に仕事がなければ、私はこれで失礼しますけど……」
後ろ髪を引かれる思いで言って、庭を回ってリビングへ戻ろうとした私へ声が掛かる。
ワンテンポ遅れた、露伴先生の声だ。
「なんだよ、一人で食べさせる気かい?」
こういう時、すぐに振り向いていいものか迷ってしまう。だって、嬉しさで緩んだ顔を引き締めるのには、時間がかかるのだから。
シャクシャクと、口の中で泡が溶けるように、汁が溢れていく。夏だけの、独特の舌触り。手をつうっと滴っていく果汁のべとつく感覚も、日のそよぐ中で食べるとなお美味しい。
露伴先生は胡座をかいていた片足だけを縁側から降ろして、先程から大口でスイカにかぶりついている。
「美味いな」
「ウリ科、嫌いじゃなかったんですか?」
ぷっと種を裏庭に飛ばすと、
「そうだよ」
と、露伴先生が言った。
「だから君を引き止めたんじゃあないか」
私は露伴先生に、なんて返せばいいのかわからなかった。色々、浮かぶ言葉はあった。ありがとうございますとか、本当ですか? とか、わたしのこと、どう思ってますか? とか。
わからない。私には、露伴先生の言うことは、さっぱりわからない。言葉そのまんまなのか。それとも、何かを誤魔化すための言い訳なのか。
でも、どっちだってよかった。人付き合いが嫌いだと言う先生が、私を引き止めてくれた。一緒にスイカを食べようと、誘ってくれた。思わず眠ってしまいたくなる、こんなに穏やかな縁側で。それだけは、ほんとうのことだ。
「そうだ」と、露伴先生がスイカを飲み込んでから、思い出した様に声を上げた。
「本、忘れるなよ」
小さなスイカの皮を、両手で摘むように持った先生が、念を押して言う。スイカにかぶりついたばかりだった私は、上手く返事をすることも出来ずに、目を見開いて大げさに頷くしかなかったのだ。
先生も満足そうに頷くと、またぷっと種を吐き出した。それから体を丸めるようにして、手の甲へ流れた果汁を追って顔を傾けると、ぺろりと舐めとってから、またスイカにかぶりついている。
好きだなぁ。
ぽつりと思う。好きだなぁ。
足元の影と、サンダルと、露伴先生の裸足の足と、塀を覆うサカキやヤマボウシ、ツツジやレンギョウ、紫陽花と地面に垂れる緑のユキヤナギに、それから道路際のスイカズラ。甘い夏の匂い。縁側の匂い。隣でスイカを食む、露伴先生。
好きだなぁ。
何度も何度も湧き上がってくるその言葉を、胸でゆっくりと繰り返しながら、スイカと一緒に噛みしめるようにして、私はようやく飲み込んだのだった。