ましろの空気


 このひと月といえば、アパルトメントの隣人が喧しくて辛抱ならないと、頻繁に使えそうな口実を考え出してはの部屋に押しかける。電話越しの泣き落としで駄目ならば、直接出向いて懇願する徹底っぷりだ。
 一度あまりのしつこさにキレたに通報されそうになったが、これでも短い付き合いではないので大事にはならなかった。
 俺は自慢じゃあないが、普通よかずっとモテる。こいつは間違いない。しかし声をかける相手となると、俺の好みと上手く咬み合わないのか、笑顔で躱され名前も遮られ、いつの間にか一人映画館にポツリと座っていることがままある。
 もそうだった。早起きをしすぎた朝、狭っ苦しいしけたバールで時間を持て余していた時、ふと、横目に女の姿が写ったのだ。
 女は安いペーパーブックではなく、オーダーメイドかどうかは知らないが、そこそこの装丁の本を片手に、うつむき加減にカウンターに寄りかかっていた。不思議と女の座る席だけ、埃っぽいバールの色が違っているように見えた。
 話題になるかと、読んでいる本を覗きこんだが、見たこともない文字がびっしりと並んでいる。よくよく見れば女の顔立ちも、ラテンともスラブともゲルマンとも異なる。そこがどこか神秘的で、理知的に思えたのかもしれない。
 初めは通りすがりの気分でなんとはなしに声をかけたのだが、警戒心の強さはなかなかのものだった。世間話だけでも、と思えど全くなびかない。こういう女はどうやら、俺のような男はひと目では好かないらしい。
 と会えるまでバールに通い続け、コーヒー一杯で居座り、迷惑な顔をされながらもなんとか名前を聞けたのが数週間後のことだった。その頃にはバールの店主も俺の執心を理解し、俺が店に入れば黙って特定の席を確保してくれるようになり、何度も顔を合わせた成果が常連という仲間意識を生んだのか、蚊を追い払うように俺をあしらっていたも次第に顔を上げ、いつしか手に持った堅いカバーを閉じるようになった。

 ようやくだった。ここまで、一年以上もかけた。
 が、あの固っ苦しい、男に対して岩石の塊のようなが、俺に部屋を快く貸すようになったのだ。今日こそ、今日こそだ。もしかすれば、雰囲気が味方してさえくれれば、が恋人らしいあれやこれやの営みをついに許すようになるかもしれない。
 そういう期待で胸を膨らませながら、夕刻の目抜き通りを抜け、いい気分でアパルトメント3階のチャイムを鳴らした俺へ、ドアを開けるなり、
「呆れた」
と言い放ったのは、他でもない、俺の期待の大部分を占めていただった。
 あからさまに嫌そうに歪めた顔が、肩を辛うじて突っ込める程度のドアの隙間から俺を睨めつけて、決してそれ以上開けようとしない。
 俺が戸口に立つせいで、隙間から覗くを影が覆っていたが、それでも唇に乗った口紅は俺好みの明るい色だということは充分分かったし、の白い肌によく映えていた。なぞるように視線を下げれば、裾がひだになったよそ行き用のAラインのワンピースは膝丈で、そこから女の足が伸びていたら、ついつい目が釘付けになるというものだ。にはアパルトメントへ行くと話していたので、どうにも俺を待ってその格好を選んだとしか思えなかった。
 しかしラッチ部分へ手をかけた俺へ、「出て行って」と、は厳しい声を出す。面食らって、思わず立ちすくんでしまった。
 許可が出るまで毎日付きまとったことをは根に持っているので、あまりしつこくなりすぎないことを意識はしていた。気がつきゃバールの感覚で毎日足を運びそうになるのだから、じゃなくても辟易とする気持ちはわかる。俺だって女の気を引くためにジョルノに毎日呼び出された日にゃ、幾ら嫌いじゃあないといっても、毎日毎日飽きるまで同じ顔を見るってのはこんな感覚かと、身に沁みたものだ。
 だが納得するのと行動するのでは別だ。ジョルノはじゃなけりゃあ、好意にも限度がある。とは毎日顔を合わせたっていい。慣れることはあっても飽きるこたないと、俺は確信しているのだ。
 煩わしいと思われようが、もそう思うようになってはくれまいかと願いながら、一年以上も通い続けてきたつもりだった。だが肝心のときたら、その気持をこればかりも理解してはいないようなのだから、俺の不遇といったらない。
 数日前に電話した時には、チェーナをご馳走するとも言っていたし、少しばかり調子に乗った俺の軽口にも笑い声を漏らしていた。

 それが、だ。
「出てって」
「お……おい、」
 どうしたんだ? と続けようとして、俺は口をつぐんだ。会わない数日の間に、一体何があったってんだろうか。突き放すような冷めた声色に反して、の目に冗談ではない、激しい怒りが滲んでいたからだ。
「ここはあんたのホテルじゃないの」
 一等先にとのズレを感じ取って困惑がこみ上げたが、それを上手く言葉で表せないことにちっとばかしむかっ腹が立った。ぐるぐると腹の中で、腑に落ちない思いが渦巻く。
「つれねーこと言うなよ」
 変わることもあるかもしれないと、冗談めかしてラインをなぞってみれば、の手刀打ちが待っていた。手の甲の鈍い痛みにはっとして、を見る。怒りを助長させただけだったと知ったのは、その時だった。
「体が目当てなら帰って頂戴、仕事もしないでこのろくでなし」
 何がをここまで怒らせたのか、頭の中を引っ掻き回してみるも、思い当たるフシが多すぎる。とてもじゃあないが、誠実に生きてきたと胸を張って言えることとすりゃ、仲間を売ったことがないだけだ。自分でも、の喜びそうな生活はしてきていないと知っている。
 は両親のために自立しようと働いている、親思いの真面目な女だ。曲がったことが嫌いで、人情家で、そのくせ手が出るのは早い。だからこそ、苦労をするのだ。
 嫌われてまたバール詰めになりゃあお手上げだからと、ばかりに呆けていられず、港一帯へ従事するフーゴから密輸品を買い取り、子供用の玩具ディーラーを装って適当な稼ぎを得てみたりと、働いているところを見せてやらなければならなかった。
 その傍らで、ジョルノのボスの座を安定させるために、儲けの多い日にはナイトクラブに通ってみたりと遊ぶふりをして勢力圏内の情報を集めに回ることに執心せざるを得ない。やけに繁盛しているディスコはいいカモだ。ポルナレフの亀を連れて潜入しては、麻薬の出処を掴み、ジョルノへ情報を流す。
 どう言い訳をしようが、にすれば俺は、遊び人にしか見えないだろう。
「何よ?」
 見つめるだけでもこれだ。言えるもんなら言ってみろと言わんばかりの、煽り顔。下手をすると自尊心を傷つけられる。
「小さい企業に雇われてちょっとした、こ、コンサルタントを、だな」
「嘘つき」
 俺は黙りこむしかなかった。
 言えるわけがない。ギャングなんてことを言ったらご破綻どころではない。罵倒と平手の挙句、殺されかねない勢いで絶縁されることは目に見えていた。そうなれば、バールに通おうがアパルトメントへ来ようが、俺のしでかしてきたことを洗いざらい吐かせて、今度こそ問答無用で通報するに決まっている。たとえ数年付き合った男だとしてもだ。とは、そういう女だ。
 しかしそういう女に、俺は惚れてしまったのだった。
 訝しげに細められたの目が、じっとりと俺を見つめていたかと思うと、聞き覚えのあるようなフレーズが俺の耳に叩きつけられた。
「あんた、男がいるっていうじゃない」
「なっ!」
 大声を出す。しかしすぐに取り乱したら逆効果だということに気づいて、俺は慌てて取り繕おうと、縋りつくようにドアに手をかけた。
「い、いやそれは……ッ! 誰から聞いたんだ」
 先程からの緊張もあって、冷たい汗が滲みだす。嫌々付き合わされた茶番が最悪の形で身に降りかかって来たという予感が、足元からせり上がってくる。
 明らかに焦りを滲ませ始めた俺の様子に、が目をまんまるに見開いた。
「やっぱり! あんたゲイだったのね!」
「違う! 誤解だ!」
「バールで熱を上げてる相手がいるとか、そんな話はいいの……でも私でカモフラージュされるのは御免よ! このろくでなしの大嘘つきッ!」
「だ、だから誤解だって言ってんだろ! 話を聞け……ッ!」
 俺が叫んで否定すると、眉を吊り上げたはすぐ傍のシンクから包丁を抜き取って、迷わず俺へ刃先を向けた。薄明かりにも光る銀色に、一瞬息を呑む。
「次私の名前を呼んだら、あんたの股についてる大ぼらの元をこの包丁で叩ききってやるわ! 研ぎたてのドイツ製よ……!」
「頼むから話を聞いてくれ……!」
 、ともう一度呼べば、口を引き結んだは、包丁を突き出すことなくドアを勢い良く閉めた。新調したと聞いたカギをかける音が響く。あとは俺の声も虚しく路地に反響するだけだ。近隣の住人は知らぬふりで、覗きこんできたとしても、ただただ騒音に腹を立てているだけだろう。
 暫く戸口で粘ったが、は物音ひとつ立てずに引きこもり続けた。こうなったら梃子でも動かないのがだ。時間を置いて、怒りが冷めた頃にでも、もう一度来るしかない。
 最悪の状況だ。俺はジョルノの初恋とやらの、飛び火を食らったというわけだが、それよりもの言葉にショックが大きかった。俺は、俺の今までの行為は、寸分足りともに届いちゃいなかったと、思い知らされたからだ。

 放り出されたゴミだらけの路地で、捨てられた缶に向かって当たっていると、「やっぱりここでしたか」という声がして後ろを振り返った。フーゴがため息をつきながらのたりくたりと歩み寄ってきた。組織に関することで問題があったようには見えない。
 ジョルノの乗っ取りまでの事情を知る数少ない人間と言っても、フーゴは以前裏切りを噂されたこともあって、建前上ジョルノから距離を置いている。ブチャラティの代わりに新しく配属された幹部のもとで上手く下っ端に紛れ込んでいるようだが、麻薬を一掃した組織収入の大部分を占める密輸を管理しているため、こいつは幹部とともに港の要と言っても過言じゃあない。
 だから下手をすりゃジョルノの親衛隊よか忙しい。今もきっと幹部に頼まれでもした運送だのと、面倒くさい話でも俺に押し付けに来たのだろう。
「フーゴよぉ」
 油断しきっている顔を、俺はがっしりと両手で挟み込んだ。「おい」とフーゴの眉が上がるが、気にしちゃあいられない。何せ俺の気分は最悪も最悪なのだ。今なら美女が下着姿で歩いてようが素通りする自信がある。あるだけかもしれないが……とにかくだ。
「俺は前にトリッシュにワキガ臭いと言われたが、ありゃきっと違う……ホモの臭いがするに違いないぜ……なぁ、嗅いでくれ、どんな臭いがする? 正直にだぞ。正直に言えよ?」
 フーゴのこれ以上ないほどに鬱陶しそうに歪められた顔へ、有無を言わさず思いっきり胸のあたりを近づけると、「オイッやめろよな! 気色悪い!」と足蹴にされたので、仕方なく距離を開ける。しかし顔は掴んだままだ。答えるまで離す気はなかった。
 苛立ちは感じられるが、付き合ってやった方が早いとでも思ったのかもしれない。フーゴは口を開いて、
「正直に言うと汗臭いな」
と億劫そうに言い放った。
「嘘つけ! ちゃんと嗅いだか?!」
「嗅いだよ! 汗とワキガ症候群だよ! これ以上気色悪いことするなよな! お前いつシャワー浴びたんだ」
「体は洗ってる! 服は……忙しくて替えちゃあいねーが……」
 尻すぼみになる俺に、フーゴがため息をついた。
「っつーことはホモ野郎はこういう臭いが好きなのか?! それとも女はこういう臭いがする野郎をホモだと思ってんのか?!」
「ぼくが知るかよ」
 ウサを晴らすつもりが、嵩を増しただけだった。手軽いところとフーゴを選んだのが間違いだったのかもしれない。下っ腹がムカムカしてどうにもならない。
 どいつもこいつも呆れ顔を張り付けやがって、と思いながら俺が理不尽に舌打ちを零すと、バタンと開いた窓から、女の声が響き渡った。
 両手で捉えたままのドアップのフーゴの顔に、しまったと思った時にはもう遅い。の怒りと誤解は限界を突き抜けていた。
「私のアパルトメントの下でよくもいちゃついてくれたわね! このドグサレ男ッ!」
「馬鹿ッ! 誤解すんな!」
「何を言ってるんだあの女は」
「てめーも黙ってろフーゴ!」
「パンツ丸出しで誘ってんじゃないわよ露出野郎!」
 の罵声に、フーゴの目が据わる気配がした。理性が飛び散る前兆というやつだ。
 正直こいつのキレる瞬間は見ていて愉快でならないが、それはからかっている間の話で、に何かしでかされでもして、俺への誤解が深まっては元も子もない。
 俺はフーゴの両肩を掴んで、落ち着くように路地の隅へ追いやることにした。しかしには、その光景が俺がフーゴを庇っているように見えたらしい。憤慨するほど真剣に勘違いをしていれば、或いはそうも受け取れるかもしれない。
 あっという間もなかった。
「腹出し同士ちちくりあって一生生産性のない生き方でもしてればいいわ! お前なんか死んじまえ!」
 そんな叫び声が発せられると、一瞬にして両開きの窓と、前の住人が置いて行ったままの花柄のカーテンが閉められる。こうして、俺との間は、一切遮断されたというわけだ。
 張り付くような不快感があると思ったら、どうやらさっきフーゴを移動させる時に、ガムを踏んづけてしまっていたようだった。
「くそっ」という悪態が漏れても、誰が咎められるってんだ。フーゴが壁に寄りかかりながら、何事もなかったかのような顔で、「喧しい女だな」と言うのに、俺は睨まずにはいられなかった。
「ジョルノのお次はお前かよ……ツイてねぇ…」
「それはぼくの台詞だ。初対面の女に罵倒された挙句吐き気のする誤解を受けたんだぞ」
「おめーはその格好じゃ自業自得だろうが」
 ため息を零し零し、通りを抜ける。フーゴは少しの間俺の横を歩いていたが、俺が話を全く聞いちゃいないことに気づいたのか、ふと辺りを見回した時にはいつの間にかどこかへ消えていた。
 デート帰りなのか恋人らしい姿が幾人も通りすぎる。男は女の腰を抱いたり、女は男の方に頭を預けたりと、触れ合うことに何の躊躇いもない。俺ときたら、との関係で最高ランクの、手作りのチェーナが、たった今消え去ったばかりだというのに。
 あーちくしょう、羨ましい──
 軽快な笑い声がして、ドルチェの店へ目をやると、楽しげに輪を描く女生徒の姿が目に映る。頬を掻いた。
 の激情を含んだ声もいい。肌だって触りたい。だがそれより何よりつれなくても、時折見せる甘ったるい笑顔が恋しくなった。


 悔しい? 悲しい? 分からない。そんなことを考える余裕もない。頭の中がぐちゃぐちゃで一体自分がどうしたいのか、見当もつかないのだ。
 ミスタと喧嘩をした。あまりにも一方的だったので、喧嘩とは呼べないかもしれない。酷い言葉を浴びせてしまって、後悔をしていないといえば嘘になる。あんなことを言われたら、誰だって傷つくに決まっている。でも、どうしても言わなければならなかったのだ。
 ある日、私と歳近い知り合いからとんでもない情報を得た。同じ学校に通う後輩が、ゲイだというのだ。そこまでならいい。別段珍しい話題でもないので、世間話に終わったのだろうけれど、その相手の特徴というのがどう考えても、よく見知った男にしか思えないのだ。
 勿論、笑って忘れることだって出来た。それでも私の頭の中には消えない引っ掛かりが残ってしまって、避けようとしていた疑問を承諾してしまえば、今までおかしいと思っていたことが納得できてしまうことに気づいた。
 女と見ればナンパするらしいことも知っているし、好みの美人がいればニヤけづらを晒しもする。でも、それ以上がない。表面上ばかりで他の噂もなく、私へ言い寄るくせに必要以上のタッチもない。あまりにも、禁欲的なのだ。
 ミスタはゲイかもしれない──
 笑えばよかったけれど、言葉にしてみれば、妙に真実味があった。“かもしれない”が核心に近づくきっかけも簡単に訪れてしまった。噂の男子生徒と、何やら意味深に食事をしているのを見てしまったからだ。それもカップルに人気のバールで、毎日のように。
 私だって行ったことがない場所だった。ちょっと興味があるけれど、自分一人なんて恥ずかしくて行けるわけがないし、ましてやミスタを誘うなんて、自分から一線を越えるようで、言えるはずがなかった。
 私のどこが気に入ったのかはわからないけれど、ミスタが執拗につきまとうようになったことは、そこまで迷惑じゃなかった。つきまとうとと言っても、別に甘い言葉を吐くわけじゃない。私が読んでいた本の話題とか、自分の読んだ雑誌であの会社は最近のコラムが狙いすぎているとか、そうやって必死になって私に合わせているのが滑稽だった。無言で通すこともあったし、適当に躱すのが大半で、碌に会話もしたことがないというのに、毎日飽きもせずに通ってくる根気に、ついに折れてしまったのは三ヶ月も過ぎた頃だった。私も負けまいと思う内に、勝負事にしてしまっていたのかもしれない。
 だからだろうか。初めて本を閉じた時のミスタの顔は、今でも忘れることが出来ない。
 その日ネアポリスでは珍しく、雪が降っていた。ちらほらと降ってはすぐに消える結晶に、早朝だというのに薄暗い中を子供たちが大騒ぎをして駆け回っていたことを覚えている。寒い日だった。遅れて入ってきたミスタの鼻も頬骨の辺りも真っ赤になっていて、暖房にさらされるとそれが更に増していった。
 私が本を閉じたのは、コーヒーで冷えた指先が温まってきた頃だ。行ったばかりだというカプリの話を止めて、ミスタはぱちくりとひとつ瞬きをする。それから信じられないものを見る目で、呆然と私の手元を凝視するのだ。
「それで、続きはどうなったの?」
 ミスタへ初めて体を向けた瞬間だった。
「お、おう」
 すっかり動揺しきったミスタは、口元を手で覆って考え込んだ後、ちらりと私を見た。話している時の勝ち気な顔とは違う、子供のようなあどけない表情。そうして、照れ臭そうに笑ったのだった。

 それでも前々から、恐らくその頃からずっと、私とミスタには見えないラインがあった。互いに踏み込んではいけないような、絶対的な雰囲気が、どこかにあったのだ。
 それは秘密事に限らず、私とミスタの関係にも言えた。ミスタの様子から、好意を抱いているのらしいとは思うのだけれど、かれこれ今日という日まで出会った当時のままなのだ。ミスタがバールに通い、私が本を閉じた、あの時のままなのだ。はっきりとした一言なんて、一度も言われたことがない。
 いや、今となってみれば、敢えて言わなかったのかもしれないとも思えた。女に飽きた時、別れ際にそれを切り札にして、「好きだとは一度も言った覚えがない」とでも言って、全て女の思い込みにしてしまえばいいからだ。遊び人の常套手段を、絶対に使わないなんて言い切れない。だって私たちは、これといって特徴のない、知人程度の関係だからだ。
 そこまでの男だとは思ってはいないけれど、でも私は話を聞いて、自分の目で見て、そしてようやく、ミスタが持っていたラインが何であったのかを、感じ取ったのだった。

 冷蔵庫にぎゅうぎゅうに買ったばかりの食材を詰め込む。ミスタを招待するはずだったチェーナは、始まる前にお開きになってしまった。私が食べるのに、こんなに材料は必要ない。
 何よ──と思った。
 何よ、ちょっときつく言っただけで、あの男と仲良く帰るなんて。あんまりだ。もしこのままよろしくやっていたのだとしたら、惨めでならない。期待していた私が馬鹿みたいだ。
 期待──自分で思っていたことに気づいて、恥ずかしくなった。まるで、これじゃあ私がミスタに言い寄ってるみたいじゃない。それだけは絶対に避けなくてはならない。だって、いつどこでどうやって、ミスタが私を友人と言い出すかわからない。私の勘違いだと、気づかせるかがわからないのだ。
 ノックの音がした。次いで私の名前が呼ばれる。聞き間違うはずもないミスタの声。
 宣告日は、今日かもしれなかった。

 すんなりと部屋に招き入れた私に、ミスタは驚きを隠せないようだった。嫌な予感でもしたのか、少しばかり狼狽えた様子が伝わる。でも、それは私の方だ。
 ミスタを狭い部屋のソファーに座らせて、私は化粧台の椅子を回して、向かい合うように腰掛ける。普段は必要な時に言葉で盛り上げていくくせに、ミスタはソファーに腰掛けたまま、借りてきた猫のようにまんじりとも動かない。もどかしい沈黙が続く。
 窓の外では会社帰りの足音や、カブのエンジン音が通り過ぎて行くのに、私たちの間には冷蔵庫のモーター音と、時計の秒針が規則的に動く以外、息をするのも苦しいほどの静寂で満ちている。
 どうして何も話さないのだろうか。もう付き合えないと切り出す機会を窺っているのだろうか。いや、そもそもつきあっていないのだから、それはおかしい。でも、友人関係のことだとしたら。もしかして。いや。もしかすると。でも──
 私は延々と続く時間に堪えきれなくなって、やけっぱちにミスタの名前を呼んだ。
「わ、私たちの関係って、何て言えばいいの」
「何って……」
 言ってしまった。思いながら相手を見ると、必要以上に張り上げた私の声に、意表を突かれた表情をしたミスタが、言葉をどもらせていた。
「俺は彼氏で、お前は、つまり……」
 不安気な眼差しが、私へ向けられる。
「恋人、じゃあねぇのか……?」
 こいびと。恋人? 胸が跳ねる。奈落の底まで沈みかけていた気分が、ミスタに少しずつ引き上げられていく。
 なのに、私はまたブレーキを掛けてしまった。口からするりと出てきた声は、撥ねつけるようだった。
 何よ。張り詰めているミスタと私の間に、ころりと落ちる。
「……何よ、それ」
 言ったきり、言葉が出てこない。でも口にすれば、言い表しようのない不満は私の胸の中で確実に形をなしていった。
 いつから恋人なんてものになったのだろうか。当人のはずなのに、どうして私がそれを知らないのだろうか。どうしてミスタだけがそう思っているのだろうか。
 顔色を沈ませ神妙に黙りこんでいる私を見て、ミスタは怒っていると思ったのか、
「さっきのは、違うんだ」
と慌てた様子で弁解をした。
「俺ァ、俺ァホモじゃない、本当だ、神に誓って言う」
 そんなこと、分かっていた。ミスタが迷いもせずに“恋人”だと答えた瞬間に、私の単なる勘違いだったとわかった。
 でも驚くべきことに、誠実な声だったにも関わらず、ミスタのその言葉では私を雁字搦めにしている不満は少しも晴れはしなかった。そうして初めて、私はその内容が私にとってどうでもいいことに気づいたのだった。
 ミスタがゲイだろうと、それは大した問題ではない。そうじゃない。私が、私たちが抱える心の差は、その距離を埋められないもっとも重要な問題は、好みでも性癖でもなくて、もっと根本的なところにある気がするのだ。私の馬鹿馬鹿しい勘違いも、そこから来たことは確かだった。
 冷静になってみると、ミスタの焦る様子は嘘を付いているようでも、誤魔化すようでもなかった。そう信じたかっただけなのかもしれない。けれど確信はなくても、ミスタが目の前にいることは本当だった。あんなことを言った私に憤慨しても良かったし、口を利かなくなっても当然なことをしたというのに、ミスタは戻ってきてくれたのだ。それはミスタを信じるのに、充分なことのように思えた。
 真剣な面持ちで私を見つめ返すミスタへ、私は「違う」と言った。
「私、聞いてない」
「な、何がだよ」
 一緒に行きたかった──
 不意に浮かんだ言葉を、私は心の中で咀嚼した。バールに行きたかった。ミスタと一緒に。二人で初めて、一緒に行ってみたかったのだ。
 ちっぽけな望みが溢れて、もうここまで来れば、自分自身が一体何を求めていたのか、分かってしまった。どうして不満だったのか。バールに行きたいとか、食事をしたいとか、望みをひとつも言えなかったのか。
「だから、その、一言を」
「一言……?」
「聞いてないの、一番大事な……」
 具体的に言いかけて、私ははっとした。これじゃあミスタから聞く前に、私が言ってしまうことになる。
 私は瞬時にミスタから目を逸らした。顔が真っ赤になって、羞恥心に耐えられなくなった。どうして分からないの! と理不尽な言葉が次々に浮かんでくるけど、それすらも吐き出せない。おろおろと言葉を探す内に、気づけばミスタを置いて戸口へ向かっていた。
 そうだ、近くのバールでコーヒーを買って、少し頭を整理しなきゃならない。とにかく鼓動が激しくて、冷静になれない。
 後ろから「オイ!」と呼び止める声と、ブーツの重い足音が追いかけてくる。急いでドアノブを回して押し出すと、ミスタの手が上から重なって、ドアを引き戻された。ラッチがストライクに嵌る、カチャリという音が鳴ると、そのままミスタの体でドアに正面から押し付けられる。小さく呻き声が漏れてしまった。もがいても反動をつける間隔すらなければ、後ろ手に拘束されたら最後、ミスタの体はびくともしない。これでは逃げられない。
 俺ァ。ミスタから小さな、溜息のような呟きが漏れた。
「俺ァ本っ当……しょうもねーなぁ……」
 信用されねーわけだ。ぎゅっと、胸が潰されるような、悲哀の混じった自嘲だった。
 急に平衡感覚が崩れた。足場が消えて視界が大きく揺れたと思うと、口元を緩めたミスタの横顔が、眼前に飛び込んでくる。耳を傾けて油断していた私を、無理やり横抱きにしたのだ。
「やめて、離してお願い!」
 私は本心から口走った。他人の、それもたった二本の腕に自分の身を委ねるという恐怖感は、尋常ではない。まるで橋渡しされた二本の丸太に寝転がるような感覚だ。
 それでもミスタは私を横抱きにしたまま、ずんずんと部屋の奥へ戻っていく。
「やめてって……! 離せ馬鹿!」
「俺もそう思ってたところだ」
 余裕の声にカッとなって、私は支えがなくなれば落ちるのだということも忘れて、ミスタの上でじたばたと足掻く。
 ガクンと体が傾いた。驚いてぎゅっと目を閉じる。腰に衝撃があった。でも、予想していた痛みとは違っていた。
 恐る恐る目を開けると、好戦的な笑みを浮かべたミスタが視界を埋める。前かがみの姿勢に、腰にミスタの膝が当たっているのだとわかった。落ちかけた私の体を支えていたらしい。顔が熱くなる。
 咄嗟に、“あ”の形に口が開いていた。
「あんたなんか大っきら」
 嫌い、と言いかけた途端、後頭部を鷲掴みにするように片手で引き寄せられる。元々近かった顔が更に迫ると、生暖かい感触が降りる。口を塞がれたのだと、私は気づいた。それも強引に。
 もがきたいが、がっしりと両足はミスタの右腕に捕らえられているし、慣れない浮遊感で、上半身はさっきの体験がまだ頭に植え付けられていて、落下することを恐れていた。
 唇を幾度か食んで、ミスタは満足そうに口を離した。
 何すんの、と言おうとしたのだけれど、それを見越したように私の耳元に唇が寄せられる。期待のような抵抗のような感情に、体が強張る。
 ミスタは私を引き寄せると、
「好きだ」
とやけに真摯な声で囁きながら、耳たぶまであま噛みをしていった。
 腰に疼きに似た痺れが走って、思わずミスタの胸を掴んだ。派手なカシミアのセーターが、引き寄せた私の手の中でぎゅっとシワが寄る。
「おっ」
 ミスタは甘えていると勘違いしたのか、嬉しそうな声を上げて私に体を寄せた。背中に腕を回して、私を片膝に抱え直す。両足は、いまだ抱えられたままだ。
 頭のてっぺんに重みがかかる。顎を乗せたらしいミスタが声もなく笑ったのが、振動で伝わった。
「ちょろい女だなぁ、お前は」
「うるさい臭いのよ」
「それが嗅ぎたかったくせによォ」
「誘ったわけじゃない」
 むすっと不機嫌声を絞り出しても、ミスタはくつくつと喉で笑いながら、やはり嬉しそうに私の髪に顔を埋めた。

 ひどい男だ。出会った時から、デリカシーって何? って顔をしてやって来るくせに、私がほしい物を全部持っている。腕も手も胸も背中も声も言葉もキスも、笑顔でさえも。この男は自分がどんな顔をしているのか気づいているのだろうか。こんな状況で、子供のようなあどけない笑顔を浮かべていることを。それにどうしようもなく安堵して、ほだされてしまう私を。
「このまま散歩でもしちまうか」
「わっ、やだっ」
 ミスタは膝に乗せていた私の体を持ち上げて、また両腕に横抱きにした。疲れを知らない男なのかもしれない。しかし私といえば、そんなことを考える余裕なんてどこにもなかった。
「馬鹿ッ! ちょっとやめて……!」
 焦って私がミスタの首にしがみつくと、ミスタはしたり顔で私を見つめた。不本意にも、ぐっと詰まる。
 男にしてやられたのだと気づいた時には、私の腕はもうミスタから離れなかった。観念したように肩口に顔を埋めて、ぎゅっとしがみつくしかなかった。
「っつーことで、俺の勝ちだな、
 真っ赤な顔を隠したかっただけだと、心の中で言い返したけれど、どちらにしても墓穴を掘るだけなのは知っていた。私の欲しいものを全部持っている男に、叶うはずもなかったのだ。
「おっ、おい、くすぐってぇよ」
 開き直って顔をすり寄せると、今度はミスタが困惑したような情けない声を出した。

 ただひとつだけわがままを言うのなら、カシミアのセーターは、顔を押し付けるには距離がありすぎるということだ。たった一枚の空間さえもどかしい。この火照りは、しつこい男が時間をかけて蓄積させた熱だった。私が否定したくてたまらなかったはずの、そういう熱だ。この下品で自分勝手なチンピラに、私はとっくの昔に陥落させられていたのだった。だからこそ、何も知らず必死に言い寄る男に対して、悔しさと認めたくない嬉しさで、葛藤がこみ上げるのだ。
 小さな問答に勝った気で一杯のこの男には、一生かかってもこの気持ちは分からないだろう。
「それじゃあお次は、お待ちかねのメイクラブだな」
 腰を抱く手つきがいよいよもって怪しくなる。調子に乗って事に及ぼうとする男へ、私はすかさず人差し指を瞼に突き刺した。
「今度それ言ったら、次はあんたのウィンナー切り落として口に突っ込んでやる」
「テメェ……」
 仲直りをしたばかりなのだ。一瞬、ほんの少しだけ、男を怒らせてしまったのではないだろうかと思って、私は謝罪と一緒に、まだ無理なのだということを伝えようとした。
 でも、私を抱え込んだまま呻きながら蹲ったミスタは、私の心配とは裏腹に小さく「ちくしょー」とだけ漏らした。ちょっとだけ、嬉しさを滲ませたような声で。
「焦らしやがってェ……」
 肩と腰を、ぎゅっと強く抱きしめられる。私はどうしようもなく、胸から、腰から、全身に痺れが広がっていくのを止めることが出来なかった。
 ミスタは誰がどう見たって、手が早そうなナンパ男なのだ。それなのに、決して手を出さない。バールの外で会うようになってからも、もうずっと。他にそういう女でもいるのかもしれないし、処理には苦労しない顔をしている。そうだとしても、これだけは言える。
 ミスタは堪えているつもりなのかもしれない。それでも胸の中にいる私にはばっちり見えてしまっている。困ったような、それでいてちょっぴり嬉しそうな表情を見たら、疑いなんて、ちっぽけでどうでも良く思えてしまったのだ。
 顔どころじゃない。全身が真っ赤に染まる気配がした。ミスタなんて、チンピラで、ナンパ男で、とてもじゃないが定職につきそうにもない。はっきり言ってきっといつかヒモになるに決まってる。
 ぐちぐちと精一杯の悪条件を並べても、高鳴る胸が静まらない。男に縋る指が離れてくれない。
「……っ」
 息を漏らしながら、私はしがみつく腕に力を込めた。
 こんな男の腕の中で、どうして私が頬を染めているのかなんて、分かるはずがない。ミスタなんかには、絶対に──と思いながら。



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14/01/19 短編