02


 ぼくはに甘いという自覚はある。上司の娘だからじゃあない。
 初めて会った時から、妹みたいなやつだった。年のわりに冷静で、男女関係なくしっかりした物言いをすると、幹部連中には可愛がられていたようだし、気立てのよさから仲間内でも疎まれてはいない。彼女の評価には、どこか期待が込められていた。
 しかしぼくにはどうも、彼女は子供っぽすぎるように見えた。彼女の周りといえば、組織の人間が多いのだからスレたやつらばかり集まっている。そういう連中に何とか舐められまいとする意地が、彼女の中に見え隠れてしているのが、ぼくには分かっていた。
 はぼくより年上のはずだったが、無理に肩肘を張って、大人びた言葉を選びながら、強気に背伸びをしている姿は、大人に囲まれた子供のようであり、仲間とつるむ兄についていく妹のようでもあり、或いは、貴族の社交界の中に放り込まれた成り上がりを彷彿とさせ、放ってはおけない、庇護欲のようなものが湧き上がっていることに気づいた。
 ぼくは彼女の中に、一瞬でも、過去を見つけたような気がしたのだ。それはかつてナランチャに抱いたものと似ているようで、決定的に異なっていた。は仲間というよりも、やはり、妹だったのだ。

「いた」
 客間に入って辺りを窺っていたが、ぼくに聞こえるくらいに、小さく呟いた。長い広間の奥に、人の行き来の激しい集まりがある。それが、の目的の主催者らしかった。
「少しでいいの、恋人のふりをして……お願い」
 見上げてくる彼女を見つめ返した。本当は、“ふり”でもミスタとしたかったのだろう。
 がどうしてミスタに執着するのか、なんとなく分かっていた。いつも気負っている彼女には、ミスタのように自由であけすけで、何事にも後腐れのない生き方は、強く惹かれるものがあるに違いなかった。
 しかしあいつにも都合があれば、結局は相手にされないので、毎度のように、最終的にぼくが頼られる羽目になる。ぼくとはいきつけのバールが同じということもあったせいなのか、もしくは父親からよく名前でも聞いていて、勝手な親近感でも湧いていたのかもしれない。
 はいつの間にやら、聞いてもいない悩みを吐き出しては、「どうしたらいいと思う?」などと助言を要求してくるようになった。
 彼女の方は背伸びをするたちであるし、年上というので姉貴分とか、ぼくを悪友とでも思っているのだろうが、そういうわけで、こちらからすれば可愛げのない妹分と言うにしっくりくる。
 そんなが、プライドを投げ売って“お願い”と懇願している。ここで彼女を立ててやらなきゃ、ぼくの格が下がるというものだ。
「……分かってるよ」
 ため息混じりに吐き出すと、がほっとしたように息をつく。ウェイターからジャンパンを受け取って、一気に飲み干した彼女へ、ぎょっとして眉尻を上げる。
「行くわよ」
 振り返った顔はガチガチに強張っている。
 大丈夫かよ、と心配しつつも、ぼくは悟ってしまった。性スキャンダルだらけの組織に揉まれているくせに、は意外にも、恋愛は得意ではないらしい。
 歩き出すの後ろで、ぼくは口に拳を当てながら、吹き出すのを堪えられなかった。
 いくら意地っ張りでも、背伸びをするにも程があるだろう──そう思ったからだ。

 男女に囲まれた賑やかな輪を前にすると、流石のでも尻込みをするようだった。
 中心には、シルクのドレスを着た美少女が華やかに笑っている。鼻もふっくらとした口も、細い輪郭にそっと添えられた、全てが精巧な人形のような顔だった。件のの争い相手だとすぐに理解する。
「あら」
 ふと、遠巻きに立っていたへ少女の視線が向く。ちらりとぼくを見て、連れらしいと気づいたようだ。彼女の取り巻きの顔までもが、一斉にこちらへ向けられた。
「来てたのね」
 明るいトーンだが、言葉の裏にはありありと“意外だ”という感情が込められている。さんざ舐められているとから愚痴を聞かされていたが、こういうことかと、ぼくは今更のごとく納得した。
 目の前のの背からは、息を詰める気配がした。
「ええ、誘ってくれてありがとう。素敵なパーティね」
「あなたも楽しめるパーティになってるといいわ」
 の眉が微かに上がった。ちょっとした言葉尻にも、女の虚栄心が込められているらしい。
 しかし恋人らしくとは言われたものの、がこの様子とあっては、どこまで演じればいいのか見当もつかない。甘い言葉なんて吐く雰囲気でもないので、彼女の行動を待って方向性を感じ取るしかなさそうだった。
 そうやって半ば呆然と見守っているぼくを、少女の澄んだ瞳が捉えた。ぼくとを交互に見て、何か確信めいた直感が少女の目に宿った気がした。
 ほっそりと眦がほぐれて、口元に柔らかい笑みが浮かぶ。小さな唇が取り出したのは、決め手の一言のように思えた。
「後ろの方は、ご姉弟?」
 ぼくへ向けられた「楽しんでいってくださいね」という声と、にかかる微かな忍び笑いが、ホールの雑音の中でも耳に届く。腹の底にどすんと、岩のような重みのある何かが落ちてくる感覚がした。割れ目から熱が吹き出して、神経を火照らせる。
 横目にを窺う。
 彼女の目の奥には、燃えるような闘志がはっきりと見えた。しかし無言だった。引き結んだ口から、どう返してやろうかと、ない頭で必死で考えているのだろう。嫌いじゃあない、と思った。
 はきっと、嘲笑されると分かっていたのだ。だからこそ、彼女らしくもなく、申し訳ないという気持ちで、ぼくへパートナーを頼み込んできたのだ。
 嫌いじゃあない──
 もう一度思った。笑い者にされると知っていながら、そして実際に侮蔑を受けながら、それでも逃げない彼女には敬服する。
 ぼくは腹の底から静かに漏れだす熱風を手のひらに込めながら、の肩に触れる。
「フーゴ?」
 緊張した面持ちがぼくを上目に見た。奥手な彼女じゃあ、どうにも出来ないだろう。
 ぼくは憮然とした態度を装って、の腰を抱き寄せた。彼女の刺繍入りのフレアスカートが大きく靡く。寄せ合った顔の間を、エントランスホールから流れる弦楽団のクラシックな音色が満たしていた。
 大きく見開かれたの両眼は、驚きが弾けたように、照明を受けてチカチカと光が揺れていた。その中に、薄っすらとぼくの影が見える。じっと見つめ返した時、ふと、ミスタの顔が脳裏をよぎったが、それも一瞬のことだった。
 彼女を覆うようにしてキスをする。の体が、石のように固くなったのを、抱き寄せた手のひらで感じた。しかし、ここまで来たら成るようになれだ。
 衆目の中、きっかりと5秒数える。出来るだけゆっくりと唇を離して、ぼくはの争いの相手とやらを見返した。少女に特別な私怨はないが、を立ててやらなくっちゃあならない。ショックで固まってしまっている、情けない彼女のためだ。
 言葉はいらなかった。出来るだけ無言の方がいい。胸にを引き寄せたまま、目の前の生意気な主催者が目を逸らすまで見つめ続ければいい。互いの意図が分かりさえすれば、それだけで充分だった。

*

 さんざ知らない人間に冷やかされた後、うんざりしたフーゴによってパーティを早々に引き上げることになった。
 私は逃げるようで、もう少し留まらなければならないと思ったのだが、フーゴに引きずられながら坂道を下り、オンボロ車に詰め込まれると、何もかもがどうでもよくなってしまった。
 壊れかけのハリボテみたいなフィアットに、パーティのためだけのパートナー。今日の私が身につけていたドレスは、虚栄心そのものに違いなかった。
 1時間程度の出来事でどっと押し寄せてくる疲労感に、埃臭いシートにもたれ掛かる。フーゴへは手伝ってくれと頼んだ手前強くは言えなかったが、お礼と一緒にやりすぎだと、不平をちくりと紛れ込ませると、
「連れがシャンパンで酔っぱらってたって言えばいいじゃないか」
 なんてけろりと言い放った。
 目立ちたくないとぼやいていたくせに、派手なことをしておいて、どうして平気でいられるのか理解に苦しむ。これだからフーゴってやつは分からない。
 そう思いながら、助手席でくつろぎきった体勢で、私は横目に今夜の連れを見る。ハンドルを握ったまま、片手で窮屈そうにネクタイを緩める仕草に、ほんのだ、ほんの僅かにどきりとする。フーゴがスーツを着ている姿は珍しいからだ。スーツがいいからなのだ、と私は無意識に自分に言い聞かせていた。

 車は自然に、いつものバールに向かっていた。店仕舞いも近いからか客はまばらで、いつも忙しそうにしている店主も、カウンターに頬杖をつきながらイヤホンでラジオを聴いている。
 会場を出る前に飲んだワインのせいか、ほんのりと酔いが回っていた。そしてほんの僅かだけど、気まずい空気も存在していた。示し合わせたわけじゃなかったけれど、このまま帰ってはまずいという気持ちは、お互いに感じていたのかもしれない。
 いきつけのバールには、日の当たりにくい奥の壁際に古いアップライトピアノが置かれている。店主が娘さんのために骨董屋から買ったものだというが、結局上達はしなかったのだという。
「俺は期待してたんだが、こっちの才能はさっぱりだったな」
と、苦笑交じりに店主が首を振った。
 頻繁に通っていたのに、調度品と思い込んで、ピアノをよく観察したことはなかった。やけに目についたのは今日だからかもしれない。フーゴとの間に流れる奇妙な雰囲気を紛らわせたくて、私は初めて見たもののように、興味深げにピアノへ近寄った。
「弾いてもいいよ」
 熱心に見つめる私の背中に、カウンターから店主の声がかかる。調整はしてないが、そこまでズレちゃいないだろうと笑う。
 お言葉に甘えて、鍵盤蓋を開けてみた。なるほど、年季は入っているらしい。黄ばんだ鍵盤も、少しだけ凹んだ箇所も、直さずに放置してある。
 椅子を引っ張って腰掛けると、それまで黙って見ていたフーゴが前板に片腕をついて覗きこんできたので、
「弾けるの?」
とからかい混じりに尋ねてみた。フーゴが答えるのに、少しだけ沈黙があった。
「あまり得意じゃない」
「そう……」
 私も小さい頃にピアノを買ってもらったけれど、長続きがしなくてこれっぽっちも肥やしにはならなかった。今でも唯一弾けるのは、バッハのメヌエット位だ。
 指で軽く鍵盤を押す。高い音が伸びた。鍵盤は重たくて、それでもその後にぽーん、と軽く跳ね返ってくる感触が気持ち良い。
「君こそ、弾けるのか?」
「もう何年もやってないから、多分弾けない」
 及び腰になる私に、
「いいよ、弾いてくれ」
と奥から店主が言った。
「娘よりは聴けるに決まってる」
 軽く笑って、私は指先の記憶を思い出してみた。それから息を吸う。アルコールで火照った体に、懐かしい、遠い微かなメトロノームの音が入り込んでくる。
 しかし、だ。
「うっ……!」
 ぐぅ、と呻きながら、たどたどしい音色を必死で叩く。私の作り出す不協和音に、フーゴは前板に当てた腕に顔を押し付けて、笑い声を忍ばせている。
 聞いちゃいられない、という顔だった。フーゴが笑いながら鍵盤に手を添えたので、私は渋々椅子を譲り、どれほどのものかと腕を組んで、神経を尖らせる。
 高い、透き通る音がひとつ落ちた。
 堰を切ったように、続けて切ない音色が流れる。透明でいて、幾つもの感情を内包した旋律が、後から後から途切れることなく胸を取り巻いていく。紛れもない、ト短調だ。
 私ははっとして、息を呑んだ。こみ上げてくるものがあった。
 海面に浮かぶ鮮やかな船と漁師。赤みがかった静かな街路を駆ける風。その上を流れる雲を見上げると、刺すような光で視界が真っ白に飛ぶ。美しい情景に反して、入り組んだ路地では、帰る家もなく道端に寝そべる人。狭い部屋にひしめく出稼ぎの移民たち。
 そんな町の情景が胸の内にあふれてきて、切なさに膨らんで弾けそうになる。薄っすらと差す光と闇が、その音色には重ねられていた。

 不意にぷつりと、旋律が途切れる。暫く経っても再開しないので、その場にいた客が、軽い拍手を送った。
 聞き入っていた私は、途中で取り上げられた恨めしさ滲ませながら、不思議に思ってフーゴを見た。
「嫌いなんだ」
 呟きに似た声だった。
「こういうのは窮屈で、好きじゃあない」
「……メヌエットのこと?」
 指を離したフーゴは、私の問いには答えることなく、ちぐはぐな鍵盤を見つめていた。
「知ってますか? このメヌエットがバッハの作品じゃないって言われていること」
 唐突な問いかけに、私は声もなく首を振った。
「でも、だからなんだっていうんだろうな……もしそれで何かが変わったっていうのなら、音なんて聞いちゃいなかったってことさ」
 何があったのだろうか、と思ってから、私はフーゴのことをよく知らないことに気づいた。
 たった一年の付き合いだ。どうして組織にいるのかは、簡単に触れられることじゃない。でも、どこで生まれたのかも、今まで何をして来たのかも、どんな曲が好きだったのかさえも、私は全く知らなかったことに初めて気づいたのだった。
 ただ、ミスタから聞いて一つだけ分かっているのは、フーゴが裕福な家の生まれだったということだ。
 生きてゆくのに到底困ることのない、そんな場所に生まれながら、組織に落ちてしまった人間にしかわからない、挫折や葛藤があるのかもしれない。フーゴは今でも、名前に縛られているのだろうか。
 だからといって、育ちの違う私がそんなことを憶測して、無理に同情めいた気持ちで思いを巡らせても、フーゴを貶めるだけのことだった。

 でも、彼が嫌いだからといってなんだというのだろう。私は好きだと思った。こんなに心のこもった音を、フーゴから聞いたことがない。安寧と悲愴の交差した、感情の揺さぶられる音色を。
 言葉でも、表情でも、フーゴは決して語らない。だからこそ感じたのだ。この音が、彼なりの感情の重ね方だと。それは私の知らない、きっと誰にも吐露したことのない、フーゴの心の一欠片なのかもしれなかった。
「私は、好き」
 寄りかかったまま、呟く。たったの一言なのに、何故か緊張をして、息を大きく吸い込まなければ言葉にできなかった。それはきっと、私でも気づかなかった、本心だったからなのかもしれなかった。
 フーゴもいつもなら「君が好きでもぼくは嫌いなんだ」とでも言って譲らないだろうに、私を静かに見返して、一言だけ「グラッツェ」と呟いた。

 道端に乗り上げた錆だらけのフィアットは、店の前に停まっているはずだけれど、夜の帳にひっそりと紛れてしまっている。
 フーゴは怒り心頭らしいが、入ったばかりで下のいない駆け出しが、お坊ちゃんをこき下ろしたくなる気持ちも、私には理解できた。
 フーゴはたかが安いバールのカプチーノを飲むだけで育ちが垣間見える男なのだ。豊かになりたくてもなれず、落ちぶれた男たちからすれば、やに気取ってるようで面白くもないだろう。それでも、それがフーゴだった。頭がいいくせに、不器用で遠回りな性格の男だ。
 そこまで思って、私はどうしてフーゴがパーティに協力してくれたのか、なんとなく、分かったような気がした。
 ピアノを片付けて、カウンターの特等席に座る。何を言わずとも、カプチーノとエスプレッソが店主から差し出されるのに、フーゴと顔を見合わせた。
 酔いのせいなのか彼の目元は、柔和でいて寂しげな、奏でた音によく似ていた。


 帰り道は、居心地の悪さはさっぱりとどこかへ消えていた。
 ポンコツのエンジンが掛からなくなり、いよいよ廃車となってしまったが、フーゴの顔は清々しい。徒歩で帰路につく足取りは軽かった。
 歩きながら、私は自分が放った「好き」という言葉を、幾度となく反芻していることに気づいていた。それが何に対しての“好き”なのか、今はよく分からなくなっていた。
 もう、酔いは覚めている。それなのに、フーゴの柔らかな目元が、網膜に焼き付いたように幾度となく思い出されるのだ。忘れようと追いやっている、パーティ会場の照明と、高い天井、布擦れの音、腰を掴む圧力、暗い視界に、柔らかな唇の感触までもが。
 光景がまざまざと蘇った時、唐突に隣を歩くフーゴの影が近づいて、私は平静を失くしてしまった。
「待って、フーゴ、だめなの」
 叫んでから、フーゴの背後を車が通り過ぎる。私は口を開いたまま、顔を真っ赤にした。フーゴが怪訝な顔つきで、「大丈夫か?」と私の顔を窺っている。私は慌てて何でもないと首を振った。
 もうどうにかしたみたいだった。胸からのぼりたつ蒸気が、ゆらゆらと隣の影に吸い込まれて行く。どうしてこんなに意識しているのだろうか。
 思い当たる理由がないわけではないのだけれど、認めてしまったら、軽い女のようで嫌だった。
「ね、ちょっと試しに、もう一回やってみない?」
 声が震えそうになるのを抑えながら、慎重に舌を動かした。
「やるって、何を?」
 ぐるぐると視界が回る。自分が言おうとしていることが、常軌を逸しているのは分かっていた。
「キス」
 私は呟きながら立ち止まり、覚悟を決めてフーゴへ向き直った。男の背丈は思いの外大きい。目の前の男は訝しそうに突っ立っているだけなのに、どうしてか今に限って圧倒される。
 断られても冗談で済ませられる確信はあった。でもいざ口にしてみると、みるみる体内の水温計が上昇して、まともに立っていられるかも定かじゃなかった。

*

 何を考えてるんだ?──
 の意図が全く汲み取れない。ぼくは暫し呆気にとられたが、おちょくっているのだろうと思い当たった。
「あとで、フーゴに無理矢理やられたって泣くのはなしだぞ」
「それってすっごく失礼じゃない?」
 茶化してみれば流れてくれるかと思ったのに、はホッとした様子でぼくへ向き直っている。本気だったと、そこで知らされることになった。
 仕方ない、一度も二度も同じようなものだ。どうせ、雰囲気に酔いでもしているだけなのだろう。そう思ったぼくも、存外流され気味だったのかもしれない。
 一歩近づくと、がやはり身を固くするのを感じた。それでも「本気にしないでよ」なんて撤回してこないので、そっと唇を重ねてやる。一秒にも満たない時間だ。触れる瞬間に、彼女の肩が微かに揺れた。
 パーティとは比べ物にならない、幼稚なキスだったけれど、ふっ、とぼくは笑いを堪えきれなくなった。このこそばゆさ、這い上がってくる背徳感のような感覚。
 口元を抑えて、へ背を向けた。
「やっぱり駄目だ、笑っちゃうだろ」
 そうだ、まるで兄妹でしてるみたいな感触だ。
 笑いを含んで言えば、同じように吹き出すはずだったは、背後でしんと静まり返っている。ぼくは怪訝に思って、彼女を肩越しに振り返った。

 どうしよう。ぼんやりとした声が、ぽつりと落ちた。の小さな口から、本当に、転げ落ちるように。ぽつりと。
 どきりとする。
 何だのやつ。顔を真っ赤にしている。いや、知っている。これはよくある光景だ。ぼくの目の前で、ぼくの事情も関係なしに、勝手に一人で赤くなっている顔。何度も見てきた。小さい頃から、勘当され組織に落ちてからも、何度も。この顔を、立ち込める靄のような雰囲気でさえも、ぼくは知っている。
 けど、今ぼくの前にいるのはだ。男勝りで、やんちゃで、少しばかりがさつな。姉というより、世話の焼ける妹分のような女だ。
 こんな顔は、今までまるで見たことがない。

 急に血が沸き立った。体の中心から波が押し寄せて、思わず身震いをする。自分の目が据わって行くのを、他人事のように感じた。
 の腕を掴んで振り向かせると、彼女はぼくを見た途端ビクッと肩を震わせた。目に、僅かに怯えが浮かんでいる。意外だった。彼女はいつも、どんな屈強な男に囲まれても、突っ張っていたように思えたからだ。
 ぼくは我に返って、慌てて謝りながらから手を離した。思わず呟きが漏れた。
「君も、女だったんだな」
「し、失礼ね……!」
 緊張しきった彼女の、いつもよりワントーン高い声に笑いを零して、ぼくは沸き上がってくる欲を必死で押し留めなければならなかった。
 駄目だ。絶対に面倒なことになる。彼女は上司の娘だ。それにこんなに胸がかき乱されるのも、一時的なものに違いない。彼女の格好と、パーティの熱気に当てられたに決っている。ちょっとした非日常に酔っているだけなのだ。
 けれどそう思っても、無視できない熱がいつの間にか侵蝕していて、ぼくの胸をひっきりなしにくすぶっては、思考を遮断していった。
 気づけば、、と噛み締めながら彼女の名前を呼んでいた。
「一つ聞きたい」
 確認しつつも、頭には何も浮かんでいなかった。自分が何を尋ねたかったのか、はっきりしていない。それでも明確にしたいことがあるのだけは、理解していた。
 舌が意思を持ったように、勝手に動く。
「君は、ミスタが好きなのか?」
 それは、確かにぼくの声だった。自分自身の出した言葉に、唖然とする。どうして今、そんなことを気にするんだろうか。この状況で、これじゃあまるで。
 ぼくが放った質問で、の中の時間は一瞬止まったようだった。動揺して、黒目が忙しなく動き回っている。
 ぼくの意図を窺うような目でまんじりと見つめた後、何かを言おうとして言葉が出なかったのか、幾度か口を開きかける。しかし最後には引き結ぶと、慌てて首を横に振った。それは取り繕ったというよりも、たった今振り切ろうと思い込んだように見えた。
 けれどそれで良かった。きっと、雰囲気に流されているぼくにとっては、彼女の心に別の影があっては困る。
 さっきまで何度も、しかも他人の目の前で合わせたはずの彼女の唇が、今になって目を逸らせないほどに気になり始めたのだ。
 どっと、胸に流れ込んでくるものを感じる。それが何なのか、ひとまずぼくは、見てみないふりをしたかった。
「なら、良かった」
 零れた呟きにも思考を止めて、顔を傾ける。えっ、と彼女の小さな声が空気に溶ける。
 両手はだらりとぶら下げたままで、を拘束するものは何もなかったはずだが、ぼくが顔を近づけても彼女は瞳を揺らすだけで、逃げようとはしなかった。それが全てを物語っているように思えた。彼女の気づかない、奥底のものですら。
 ふと、唇が触れる寸前に動きを止める。ぼくは顔を寄せた至近距離から、と視線を交わらせた。彼女は今にも触れてしまいそうな距離に、緊張ともどかしさで目を見開いて停止している。
「……目を」
 空気を押し出して、一言囁くと、が微かに震えたような気がした。まだ唇は触れ合わない。限りなく近い位置で、その時を待つ。
 唾を飲み込んで、の喉が上下した。戸惑いを押し込め、彼女は覚悟したように目を閉じた。

*

 エスプレッソを胃に流し込んだ時、待ち遠しい思いが強くなった。
 いきつけのバールの前に、乱暴に歩道に乗り上げて無理矢理に駐車する車が見えたからだ。
 ミラー付近にサビのはびこる安っぽいフィアットは、たまにマフラーから黒い煙を吐く。お目見えした瞬間に「こんな廃車寄越しやがって」と、フーゴが毒づいた車だった。
 結局一晩置いたら直っていた曰くつきのおんぼろ車を停めて、フーゴは錆びついたフィアットにしっかりため息を零してから、店のドアを開けた。
 流れこむ新鮮な空気と一緒に視線を狭い店内へ這わせたフーゴは、カウンターでだらしなく脱力している私の姿を認めると、大股で歩み寄ってくる。体の芯がブレない、モデルのような所作だ。今まで何度も見てきたというのに、私は今初めて目にしたかのように心のなかで感嘆した。
 高鳴る胸を抑えながら、私は隣へ立ち止まった人影へどうにかして「チャオ」と笑顔を向けた。精一杯平静を装ったのだけど、頬の筋肉は引きつっていたような気がしてならない。
 しかしフーゴは意に介さない様子で、背凭れのない丸椅子に脱力するようにどかりと腰を下ろした。
 フーゴが「カプチーノ」と注文を告げる前に、カウンターの店主はアイコンタクトで制しながら、温めたカップを取り出す。
 ガラス張りの入り口からは、軒を連ねた寂れた商店と人通りのまばらなレンガ道がすっかり見える。フーゴは相も変わらないオンボロフィアットをもう一度一瞥して、ため息を零した。
 いつもの夕刻。いつもの音楽。変わらないコーヒーの香り。同じ時間に満ちた店内。私は店が混むまでエスプレッソ一杯で居座り、フーゴは甘いカプチーノでパニーニを頬張る。
 数週間悩ませていた用事も終わってしまった今となっては、私たちの間には少しだけ沈黙が流れていた。
 頬杖をついて、思わず溜息を零しかけると、
「あー……」
と、レタスを飲み込んだフーゴが、おもむろに歯切れの悪い声を出した。
 首を傾げて、隣の男へ目を向ける。期待に心臓が締め付けられたのだけれど、無理矢理に押し込めて、取って代わる平常心も、忘れたりはしない。
「明日、食事でもどう?」
「へっ?」
 予想もしていなかったので、変な声が出てしまった。
 ドクドクと胸が痛いほどに跳ねて、私はフーゴへ大きな目を向けた。
 フーゴとは今までくだらない話で時間を潰すくらいで、誘ってまでどこかに出かけたことなんてなかった。これは、そうなのだろうか。そういうこと、なのだろうか。
 私は居ても立ってもいられない気持ちになった。すぐに確かめないと、誤魔化されてしまうような気がする。それだけは、何があっても阻止したかった。
「そ……それって、デート?」
 叫びたい衝動に駆られた。何を言ってるんだろう、と思った。もっと別の聞き方だってあったのに!
 こんな言い回しをしたら、期待していることも、私の軽くふらついた感情もバレバレだ。
 それでも私は否定することなく、答えを待ってしまった。どうしても簡単に、あの夜の唇の感触を、指先の音色を、柔らかなまなじりを、忘れることはできなかったのだ。
 少しの沈黙。たったの数秒だ。時計の秒針が、カチカチと何度か動いただけの時間。しかし、息をするのも苦しい数秒だった。
 フーゴは不自然なほどにカップを見つめながら、ちょっとだけ舌で唇をなめる。
「……君が、そう思いたいなら」
 呟きが、ぽつりと落ちた。目も合わせずに、ひっそりと。でもそれは、フーゴの言葉だった。遠回りな男の口から出た、本当の。

 私達はコーヒーを啜りながら、それ以上言葉を交わせなかった。真っ赤な顔と、上擦った声を晒すのは、あまりにも情けない気がしたのだ。
 多分、お互いに知っていたに違いなかった。とっくに気づいていたのだ。変わったのは、一人だけじゃないってことを。きっと、真っ赤に燃える、胸の奥から。



|終
theme of 100/098/パーティ
14/04/20 短編