七月が泣くとき — 05 つま先立ち
ジャックが遊星のD・ホイールとスターダストのカードを盗んでからもう二年になろうとしている。ラジオの音に耳を傾けながら夢中にブラックバードの整備をしていると、もう新しいD・ホイールは完成したのだろうかと遊星の方も気になってくる。
ピアスンの元で過ごすようになってから、一度もジャックとは顔を合わせていない。ラジオから聞こえる様子では相変わらず元気そうだとは思うが、遊星がケジメを付けに行くのも時間の問題だろう。
ラリーを犠牲にして盗んだと聞いた時は憤ったものだが、「俺とジャックの問題だ」と決意した目で言われてしまえば俺も黙るしか無かった。仲間内で無駄な軋轢を生まないよう、遊星なりに気を使ったのだとすぐにわかった。だから俺はこうして二人の仲を静観している。
ラジオから歓声が上がった。ジャックが相手のライフを大幅に削ったようだった。歓声の中に混じってD・ホイール特有の回転音が聞こえてくる。
「ジャックはいいもんだぜ…」
呟きながらレンチを手に取った。D・ホイールには大分乗っていた。ピアスンが死ぬ前まで毎日のように乗り回していたので、操縦には誰にも負けない自信はある。譲り受けたブラックバードもあの事件で一部が故障してしまったが、教わったことを思い出しながら弄っていたら、半年を掛けて何とか動くようにもなった。あとは馬力と、オートシステムの調節さえどうにかなれば、俺の目論むことは近い内に出来そうだった。
俺のアレンジが効いたブラックバードが完成すれば、きっと今まで以上に子供達の生活を楽にしてやることが出来るだろう。それで最近は、もっぱらテントの中に篭って未来の相棒と睨めっこをしている。
『WINNER!ジャック・アトラス!』
湧き上がるラジオに「へっ」と笑いかけながら、手の中でレンチをぐるりと回した。
テントの外でジャリ、と砂を踏む音がして顔を上げる。がまた飲み物と軽い昼食を持って来たようだった。どういう心境の変化か分からないが、俺がテントに篭りだしてから最近はずっとそうだ。屈んでいた体を起こして、ほんのりと湿った額を拭う。汗の染みこんだグローブが鈍く色を変えた。
は幕から顔だけを覗かせて、俺の様子を伺っている。息をついて笑いかけた。
「悪ぃな、あんま気を使わなくていいんだぜ?」
は静かに首を振った。それ以上は何も言わない。気を使っているわけではないと言いたいのだろうが、急に俺に世話を焼くようになった真意は分からなかった。
器用に体を捻ってテントの幕からするりと入り込み、近くの簡易テーブルにプレートを置く。廃品を利用してプレートに見立てた上には、コーヒーとプラスチック皿にサンドイッチが数切れ乗っている。
作業の手を止めて油まみれのグローブを外しながら、から温かいカップを受け取った。じっと見つめる視線も必ず一緒に付いてくるのだが、どんなに日が経ってもそれには慣れることができない。その赤らんだ顔が、俺には掴みようがなかった。
コーヒーに口をつけようとして、ちらりとに視線を送る。合わないはずがない。目が合った途端僅かに揺れたにも関わらず、はやはり目を逸らすことはなかった。どうも飲みづらい。俺の方がいたたまれなくなって、口からカップを離してそれに目を落とす。
あー。遠慮がちな声が漏れた。が何だと言いたげに瞬きをする。横目にを見て、それからまたコーヒーに目を戻した。
「あのよォ…」
グローブを掴んだままの手で頬を掻く。オイルが付く臭いがしたが、気にならなかった。
「あんま見られると飲みづれぇんだが…」
は頬を薄っすらと紅潮させて俯いた。まるで恋でもしているかのような仕草にぎょっとする。勘弁してくれ。思いながらも、俺の方が余程戸惑っていた。扱いに困るのだ。弥吉のお陰でどうも意識して仕方がない。どうこうしようという気はないのに、体のほうが上手くついてきてくれないのだ。子供達と同じ接し方ができない。それよりも俺が今までの接し方を忘れてしまっていた。「ほら、立ってねぇで椅子にでも座れ」
デスクから椅子を引っ張ってへ渡し、コーヒーを置いて簡易テーブルに寄りかかった。言われるまま、は無言で椅子に腰を下ろしている。それを確認して、今日の食事当番は誰だったかと無理やり浮かべながらサンドイッチをつまみ上げて口に放り込んだ。少し塩の味が強い。特定の顔がすっと流れた。ぎしりとテーブルが鳴る。
見るなと言われたは、俯きながらも一向に立ち去る様子はなかった。いつも俺が食べ終わるまで静かに佇んでいて、美味かったと言うと嬉しそうに空の皿を片付けていく。以前まで気まぐれに差し入れを持ってきていた子供達も今では遊ぶ以外にはすっかり来なくなり、どうやら俺の知らないところでの役目と定着していたようだった。
「お前は食ったのか?」
こくりとひとつ頷く。そして見てもいいかという風に、の目が上目遣いに俺を伺った。思わず顔がひきつる。
これがあのだというのだろうか。噛みつかんばかりに睨みつけてきた時もどうしようかと悩んだものだが、これはこれで頭を抱えたくなる。単に慕っているだけなのか、それとも別の意味があるとでもいうのか。俺は完全に弥吉に振り回されていた。
あいつにゃ、今度来たら一言言わせてもらおう。熱のこもった視線を避けるように、大口でサンドイッチを頬張った。その時、が「あの…」とか細い声を出した。どきりとしながら振り向く。危うく喉に詰まって咽るところを、なんとか凌ぎきった。
「な、なんだ?」
具を飲み込んだばかりで詰まった声が出る。は俯いたままじっとしていたが、ふっと顔を上げると眉を寄せて俺の顔を見つめてきた。口を開くが、暫くはあえぐように音を出すだけだ。
「どうした…?」
首を傾げながらその場にしゃがむ。俺が少し見上げる体勢になった。安心させるように、ジャンクごと抱きしめた日を思い出す。あの日と今では違っていた。はもうアジトの一員で、敵意も抱かなければ、感情を伝えることも拒まない。
「どした?」
話しやすいように首を傾げて笑ってやると、の顔が少し泣きそうになった。何事かと思って俺は口を開こうとしたが、の切実な表情がそれをさせない。だが、目だけはじっと見つめてくる。その顔では大きく口を開いた。
「クロウの…」
「ん?」
クロウの。は何度もあえぐように言った。
「クロウの妻になる」
俺の思考は完全に停止した。「して」でも「なりたい」でもなく、また「お嫁さん」なんて可愛らしいものでもない。「妻になる」。はそう言った。一度言ったその後は、決意したように真っ赤な顔で口を引き結んで俺を見つめている。
きっと数秒しか経っていないのだろう。あんぐりと口を開けて頭を真っ白にしている俺には、時間など計れはしない。は食べ終えた俺の皿をトレーに乗せて抱えると、そのまま満足したようにテントを去っていった。
「ま、待て、それは大きくなってからだな…!」
ようやくありきたりな言葉を発するが、出ていったに届くはずもない。だが俺の頭はじわじわと感覚を取り戻してきた。
ちょっと待て。妻。妻ってのは勿論妻だよな?それになるってことははやはり俺をそういう意味で好きで、だから妻になるのか?待て。いやそれは俺の知っている妻と何かが違う。そうだ。妻ってのはそうそうなれるもんじゃなくて、それというのも相手の意志というものがあるからだ。そう、だからだな。
回らない思考を無理にグルグルと手で回していると、そこまで来て、嫌な予感が込み上げてくる。
何であいつ、返事聞かなかった…?
「お嫁さん」という、夢見がちな単語ではない。「妻」とあいつははっきり言った。そいつはお嫁さんより確かに現実的な響きのあるものだった。そして切実な表情と決意の滲む眉。極めつけには「なる」である。「して」でも「なりたい」でもなく、「なる」なのだ。
どういう意味だ…?いや、どういうつもりだ…?
つけっぱなしのラジオからは長ったらしいジャックの演説が聞こえる。ノイズの混じった黄色い歓声に包まれて、ふらりとデスクに寄りかかった。
間違っても弥吉に言えそうにはなかった。貰ってくれなんて軽口叩きながらも、なんだかんだでが可愛くて仕方が無いような奴なのだ。俺みたいにその日暮らしで盗みで食っているような悪党に、娘同然の子供をよろしくしたいなんて思うはずがなかった。のあの一言のお陰で、俺には気を使う対象が一人増えたというわけなのだ。
あれから数日経ったがは呑気なもので、言いたいことも言ったという風に清々しい顔で過ごしている。相変わらず俺がテントに篭った日には三食の給仕はしに来るし、その間も決して離れようとはせず、ひたすら観察するように俺に視線を送ってくる。特に変わったこともなく、深読みの末、疑心暗鬼に陥った俺の心だけが残った。何が来てもいいように身構えていたというのに、これでは肩透かしを食らったようだ。
悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなって、カバンを肩に掛けて部屋を出た。昨日は調査の甲斐あって、ここずっと狙っていた倉庫に仕掛けをすることが出来た。恐らくサイレンもならずにすんなりと忍び込めることだろう。新品のパーツばかりが揃う工業倉庫だ。裏で売り払えばジャンクの倍の値で取引できる。
「お前らー、ちょっくら出かけて来っから、アジトは任せたぞー」
アジトを横断しながら散歩に行くような雰囲気で手を上げると、地面で転げまわっていたり、プレハブでぬくぬくしていた子供達が一斉に顔を上げた。俺のカバンでどこに行くのかわかったのか、いたずらっぽく笑ってる奴もいりゃ、不安そうに眺めてくる奴もいる。
「兄ちゃん気をつけてよね」
「捕まんなよな!」
「ったりめーだ」
近くで心もとなく見上げてくる子供の頭をぽんとひとつ叩いて、それからアジトを抜けた。最後にセキュリティに捕まって最終通告を受けてから、二度と掴まるようなヘマはしていない。盗人稼業に馴染んできた証拠だった。だからと言って油断はできない。盗みを始めた最初の頃のようにちゃちなものを盗んできたわけではない。末端ではあるが裏組織とも繋がりがある。次に捕まったら、今までのように軽い再教育プログラムでは済まされないだろう。そうなって困るのは、法の届かないBAD地区にいる子供達の方だ。セキュリティですら保護の望みはないだろう。
だからこそヘマはしないし、ヘマをしてもカバーできるよう何重もトラップを仕掛けるのが俺の策だ。時間はかかるが、その方が比較的安全で確実に金は手に入った。それに、これが上手く行けば弥吉にも金が行く。
地面を蹴った。D・ホイールが完成すれば、もっと楽に行くようになるだろう。今まで以上に追われることにはなるが、大分生活が楽になる。ブラックバードに思いを馳せて、俺は廃墟を縫うように走った。
ものの見事に思惑通りとなって、意気揚々パーツを抱えて帰った。戦利品を見て喜ぶ子供達だったが、安堵した色がにじみ出ていて、思いっきり全員の頭を撫で回してやった。
これで当分は飯が食えるだろう。思いながら、寝静まったアジトに耳を澄まして息をつく。盗んだものはいつも、子供達が勝手に売ってセキュリティの足がつかないよう、全て俺の部屋に保管していた。売る人間は事情を知り、信頼のおける者と決めていて、弥吉もその一人だった。空き箱にたっぷり詰めたパーツを部屋の隅に寄せてボロ布を被せる。
夜も更けていた。張り詰めていた緊張が抜けて、どっと眠気が押し寄せてくる。ブラックバードを少し弄りたかったが、体が思うように動かなかった。今日は寝ちまうか。思うなり正直な体はベッドに潜り込む。
コンコン、と控えめなノックが鳴った。閉じかけた目を開ける。知っている。ノックをして更に俺の返事を待って入ってくるのは、ここではだけだ。にこれといって変わった様子もないので、俺の気はもうすっかり抜けている。
寝転がったばかりでだるい体を反転させる。起き上がるのも億劫で、布団に包まったまま戸口に声をかけた。
「おう、入っていいぞー」
は薄い防寒着を羽織った姿で、ゆっくりドアを閉めた。振り返って、布団に収まったままの俺をぽかんと凝視している。
「何だ?」
俺の声にはっとしたのか、何か言おうと口を開いて少し考える素振りを見せると、俺の元へ歩み寄ってきた。の影が顔に重なる。枕元で立ち止まって、言葉を探しているようだった。
「腹、減ったのか?」
まさかなぁと思いながらも口に出し、笑いを零した。それが本当だったらそんなことで神妙な顔つきをしているが可笑しいと思ったのだ。
だが、は面白くなさそうに俺の問いを跳ね除けた。
「違う」
「じゃあなんだよ。俺ァもう眠いんだが」
ごそっと足元の布団が音を立てて仰天した。ひんやりと冷たいものが俺の足に触れる。が布団に潜りこもうとしていたのだった。
「お、おい!何やってんだお前は…!」
外気に触れていたの冷たさから逃げるように、壁際に寄りながら起き上がる。がっつりと俺の肘が壁に当たって地味に痛い。これじゃあ前と逆だ。
はベッドの上に半身を乗せて、ほんのりと頬を赤らめる。恥ずかしいのか、か細い声で何かを呟いた。至近距離のお陰で鼓膜がしっかりとその震えを捉える。
「添い寝…」
「…添い寝?」
薄っすら頬を紅潮させたは、じっと俺の目を見て静かに頷く。ふと、これまでのの行動を思い出す。ここの生活に慣れ、子供達に打ち解けてきても、決して自分から弱みを出すような奴ではなかった。嫌なことにははっきりと拒絶を表すが、頭を撫でられた時も抱きしめた時もなすがままになっていた。もしかしたら、甘えたいだけなのだろうか。頬の赤らみに、の子供らしい思いが重なる。
布団をめくって受け入れてやろうと思った。子供達にも何度もやってやっていた。も初めてではない。
いいぜ。言おうとして布団に手をかけると、は見たこともないようないたずらっぽい笑みを浮かべて、恥ずかしそうに口を開いた。
「…夫婦だから」
「自分の部屋で寝ろ!」
叫ぶが、それすら楽しそうには俺の隣に入ってくる。体は氷のように冷たかった。いつまで戸口に立っていたのだろうか。仕方がなく引き寄せて布団を被せる。その肩が思ったより硬くて、不器用なやつだと思った。前と同じように、ゆっくり背中を撫でる。はすぐに緊張を解いて俺の胸で丸くなった。抱き寄せた体からは、前とは違う落ち着いた鼓動が伝わってくる。
「ったくよぉ…」
急に俺が戸惑っていたことが馬鹿らしくなった。弥吉の言うような好きだろうがなんだろうが、それは俺たちの想像するものではない。お嫁さんだろうが妻だろうが、の好きは、たとえどこまでいってもガキのそれなのだ。
二人分の体温で、次第に冷えていた布団も暖まってくる。を撫でていた俺の腕も弛緩して、まどろみの中を泳いでいた。寝ていると思ったから、不意にぼんやりとした呟きが漏れる。
「盗みはやめて」
盗みをする人は嫌い。嫌いだと言いながら、はぎゅっと俺の胸にしがみついた。撫でていた俺の手が布団に落ちる。おぼろげな頭では、返事が浮かばなかった。