七月が泣くとき — 11 夏の涙
帰り道、俺はどうやって帰ったのか覚えていない。アジトで子供たちとどんな会話をしたのかも、すっぽりと頭から抜け落ちている。これは現実だろうか。思うが、そうして現実逃避させてくれるほど、恵まれた土地で生きてきたわけではなかった。
は死んだ。あっさりと、とても簡単に。
の火葬には行かなかった。あの体が骨になるのが、どうしても信じられなかったのだ。ピアスンの骨を抱いた時、燃えるところを目の当たりにしたというのに、俺はそれがピアスンだとは思えなかった。だからきっと、にも同じ事を思うだろう。
弥吉が来る前に俺はの荷物をまとめた。子供たちには離れた地区で腰を落ち着けるらしいとだけ話した。子供たちは仲間としてを迎え、心から心配していたのだ。知らせることもできたが、それでも俺はが死んだとは口にすることが出来なかった。
荷物をまとめている俺に、子供たちはとは会えないのかと執拗に尋ねてきた。一足先に向かっちまったと言えば、水臭いだの恩知らずだのと様々呟いては口を尖らせていた。だが弥吉と暮らせる。そう思えば少しばかり喜ばしくもあり、羨ましくもあり、中々素直にはなれないのかもしれなかった。
弥吉は三日後の朝にアジトへやって来た。日が昇りかけた少しばかり涼しい空気の中、ふらふらとアジトへ近づく影に目を細めると、布の袋を肩に背負った弥吉だった。トレードマークの天秤棒がなかったので、一瞬誰かわからなかった。
顔を洗っていた子供たちが、足音が聞こえるとリスのように顔を向け、それが弥吉だとわかると一斉に大声を上げてかけ出していった。
「と遠くに行くって本当か?!」
弥吉は飛びつきながら言われた言葉に一瞬目を丸くしたようだった。しかし意味がわかると次第に柔らかな顔になり、笑みを滲ませながら「ああ、そうだ」と子供を優しく受け止めた。
「悪ガキどもは相変わらず元気だな」
そう言いながら頭を撫でている弥吉に顔を濡らしたまま近づく。俺を見つけると弥吉は「よォ」とニヤリと笑った。
俺はどう返していいか分からなかった。気軽に笑い返せるような気分でもなかった。体に小さなおもりがぶら下がっているような感覚を覚えながら、一寸考えた俺はひとつ頷いて、プレハブの前まで弥吉を招いた。そして用意していたのものを取って差し出す。
「……のものは、これだけだ」
これだけ、だった。俺の手が掴んでいるものは、リュックひとつにも満たない。はそれしか、物を持たなかった。
それでも弥吉は愛おしそうにそれを受け取って、暫く眺めた後自分の袋へ詰め込んで、深々と頭を下げた。
「すまねぇな、おめーには面倒をかけた」
「んなこと……」
そんなことはない。あるはずがない。俺が目を離したばかりに、こんなことになったのだ。言葉に詰まって弥吉を見れば、「そんな捨てられた犬っころみてーな目で見られてもな」と困ったように眉を下げた。
「俺に、出来るはずがねぇだろう」
責めてくれやしないか。口に出したわけではないというのに、そう思った俺の気持ちを悟ったのか、弥吉は静かに首を振った。ずるい言葉だった。弥吉は俺を責めてもおかしくない。本当は誰かを、何かを、責めて責めて当たりたいだろうに、弥吉はただ、困ったように笑うだけだった。
似たもの親子だ。俺は自分の体が小さくなっていくような心持ちがした。責めてくれなければ、謝ることさえも出来ない。ずるくて、どこまでも優しすぎる。と弥吉は、そんな親子だった。
弥吉はそのまま子供たちを振り返る。
「おめーたちもだ。あいつが迷惑かけたな」
「本当に大変だったよ」
「ああ、クロウ兄ちゃんがベタベタでさぁ!」
言いたい放題に並べる子供たちに、そうかそうかと、弥吉は可笑しそうに声を上げて笑っている。名を聞くだけでも辛いだろうに、俺が子供たちについた嘘に、乗ってくれているようだった。もしかしたら弥吉なら話すかもしれないと思ったが、子供たちの中だけでも、を生かしていたかったのかもしれなかった。
「おら、調子に乗ってんじゃねーぞお前ら!」
子供たちのあまりの様子に見かねて声を出す。俺も今だけでも、生き続けている居場所を、確かめたかったのかもしれない。
弥吉はいつものように、子供たちに飴玉を手渡した。
「暫くは会えねぇから、これで飴玉は最後になっちまうが…」
喧嘩するんじゃねぇぞ、と続けた弥吉に、飴を握りしめた子供が、もう会えないのかと寂しそうに尋ねる。
子供にとっては広い土地でも、俺や弥吉にとっては狭いサテライトだ。幾ら端と端に住んでいようが、会おうとすればすぐに会える。それでも弥吉が「暫くは会えない」と告げた時、俺は弥吉の悲しみの深さを本当に知ってしまった。心想は、もう「暫く会わない」のだろう。しかし会いたくないからなのではない。「会えない」のだ。
弥吉は飴を渡し終えると、ぽんぽんと子供の頭を叩いて立ち上がる。別れの時だった。目が合う。痩せこけた薄気味の悪い顔でまんじりと俺を見つめると、あの人懐っこい笑みを滲ませてから、子供たちに「じゃあな」と一言投げかけた。
ゆらゆらと建物の影に紛れる弥吉の背を、小さくなるまで見送る。
「いつかまた会えるさ」
最後に子供たちに呟いたそれは、弥吉自身に言い聞かせているような気がした。
目が覚めた時、俺は反射的にを探さなければ、と思った。それももうする必要がないことなのだと思った途端、全身から魂が抜けるように力が抜けて、固いベッドに背中を打ち付けた。
全てが終わってしまった。外は既に明るい。全員を起こしに回るはずの子供も、疲れて寝こけているようだった。
——いつもならが
そう思った俺が馬鹿馬鹿しくなった。はもういない。アジトにも、サテライトにも、どこにも。の形跡すら、どこにも残っちゃいないかった。俺は預っていただけだった。返してしまえば何も残りはしない。そしてには、もう会えないのだ。
嘘のようだと思った。理解が追いつかなかった。嵐の夜が終わったようだった。
俺は寝ては起きた。毎日がその繰り返しだった。どこかにぽっかりと穴が開いている。何かが抜け落ちている。毎日がそんな感じだった。は俺の布団に入ってこようとしなければ、顔を洗っていてもタオルを渡してくれることもない。
俺はテントに篭ることが多くなった。がアジトから失踪して、慌ただしい中ずっと忘れていたブラックバードを、俺は無心で弄った。残りはプログラムを調節するだけだったので、幾日と経たずに完成した。新品同様に磨いた相棒が、テントでしんみりと佇んでいる。
を一番に乗せてやろうかと思ったが、空しくなるだけだった。
あっけなかった。こんなにあっけない死に方もあるのだと思った。いや、たくさんの死を見てきてそれは知っていたはずだった。けれど、それがに起こるとは思うはずもなかった。不思議と、涙が出てこない。
ああ、死んじまったのか。日が過ぎれば過ぎるほど、事実を突きつけられるというのに、その度に本当か?と思う俺がいた。またすぐ弥吉に連れられてひょっこり戻り、夫婦ごっこの続きをせがんでくるような気がしてならなかった。
その思いとは裏腹に、曖昧な日ばかりが過ぎていく。
人がいなくなることで、見えてくることがあまりにも多すぎた。弥吉は言葉通り、もうこのアジトへは現れることはなくなった。サテライトでも、噂を聞きはしない。どこで何をしているのか気になったが、無理に探すべきではないと思い、詮索することを止めた。
伝手を失った俺は、パーツを売るだけで生計を立てる事ができず、あれほどに嫌われた盗みを働くしかなかった。
拾ったパーツを他の店に売りに行ってみもしたが、小遣いにもなりはしない。その時になって俺は、弥吉が俺たちに気を遣い、買い手がいるのだと高値で買い取っていたことを知った。どんなに必死になろうと、弥吉にとって俺はガキで、子供達の一人でしかなかったのだ。俺と子供たちは、知らぬ内にずっと、守られていたのだった。
失ったものが見えれば見えるほど、のことも、弥吉のことも、鬼柳のことも、ピアスンのことも。サテライトの生活が、今まで考えないようにと受け入れてきた不条理な物事が、どんどん頭の中に浮かんで来る。
テレビをつけると、ジャックが遊星に負けた瞬間が映し出されている。この数日、どの番組もそればかりだった。どうやらいよいよ、シティの人間にジャックがサテライト出身だとバレたらしい。
忙しなく移り変わる画面を、木箱の上に片膝を立てて座りながら、ぼんやりと眺める。何もかもが不条理だった。どんなにあがこうと、どんなによじ登ろうと、この無情な現実はどこまでもついて回るのだ。
「……ククッ」
乾いた笑いが漏れた。子供たちにもう、心配をかけはしない。だが少しだけ、俺は可愛い復讐ってやつを仕掛けてみたくなった。相棒との、初仕事だ。
夜のしじまが鳴いた。静かな月夜だった。明日も晴れるだろう。きっと、線路を辿るには絶好の日和だ。
いくら待てど、布団に入ってくる人影はなかった。
*
クラクションではっと我に返る。ボロ服を着たバスの運転手が、こちらを振り返って睨みつけていた。乗員も、ぼんやりしていた俺をちらりと横目に見る。
「悪ィ!」
そう叫んで、俺は振り返っていたアジトに背を向けた。急いでステップに乗せていた片足に力を入れ、車内に体を滑り込ませる。重いドアを締めると、バスは待ちきれないと言わんばかりにブルンと大きくエンジンを震わせ、俺が座るのを待たずに発車した。それに合わせて、バスに乗せきれなかった荷物を運ぶトラックも、後ろから発車する。荷台に括りつけられたブラックバードが重そうに揺れていた。前方を窺うと、子供たちが乗るバスは、先に走っていてとうに小さくなっている。
ったく、せっかちな奴らだな。思いながら、俺はよたよたと車内の後部へ移動した。一つだけ席が空いている。二人用のそれに、贅沢に一人分の体をどっかりと下ろしながら、窓際へ体を寄せた。
弥吉はどうしているだろうか。するすると窓越しに流れていく、色のない景色を眺めながら思う。あれからの数カ月は、騒ぎの中で思い返す暇もなく過ぎていった。ダークシグナーの騒動で沢山の人間が巻き込まれたが、その時も弥吉はどこかで無事でいる気がしてならなかった。
未だに子供たちには、が死んだことは告げていなかった。今もどこかで、弥吉と一緒に廃墟の中を練り歩いていると思っている。それは俺さえも同じなのかもしれなかった。アジトの入り口に立つと、朝霧の中、そして逢魔が時の中、ゆらゆらと二つの影が今も歩いているような気がするのだ。
あるいは、弥吉はそうかもしれないと思った。弥吉は、今もの遺骨を抱えて、弔う場所を探しているのだろうか。
アジトでは、すっかりの来る前と同じ生活に戻った。偶に子供たちの話題に乗るだけで、がいたことなど嘘のように日は過ぎていった。弥吉に全てを渡したお陰で、がアジトに住んでいた形跡はどこにもなく、それが却ってが死んだという現実味をなくした。
俺の手元には、いつか消えてしまうかもしれない思い出だけが残った。だがその思い出の場所も、アジトも、もうすぐ瓦礫に埋まってしまうだろう。サテライトは、もうすぐなくなる。
バスは走る。黒い排気を尾のように残して、寂れた土地をぐんぐん進んでいく。行き先は埠頭だった。そこからまた船に乗り換えて、シティへ向かう。俺達にとっては初めてのシティになる。
錆だらけの窓の格子を、力いっぱい押し上げる。ぱらぱらと崩れた鉄を手で払いながら覗いた向こうには、澄みきった晩夏の青空が伸びていた。それがどこまで続いているのか、俺にはわからない。
いい風だ。思いながら眺めていると、気づけば音をなぞっていた。何でもいい。歌ってやりたい気分だった。
微かな潮の匂いが鼻を掠める。ダイダロスブリッジがスモッグのない空に浮かんでいる。
「せーんろは続くーよ、どこまでもー」
俺の呟くような小さな声が窓から漏れると、風に流れて景色の中に溶けていく。近くで聞いていた男が俺を見て、重ねるように同じ歌を口ずさんだ。その声が、少しずつ車中に伝染していく。歌であふれる。一つの歌であふれかえる。後ろの男が足でリズムを取った。斜め前の女が座席を軽く叩いた。口笛を吹くもの、手拍子を入れるもの。全ての振動でバスが揺れる。
俺はその様子に笑って、流れるサテライトに視線を戻した。
はーるかな町まーで、ぼくたちのー、たーのしい旅のー夢、つーないでるー。
の声が歌声に重なる。らんらんと、ステップを踏んで歩く軽快な後ろ姿が、景色にちらつく。
なあ、。あの時言わなかった言葉がぽつりと浮かぶ。
「……なあ、」
幸せだったか?
不意に焼けるような熱を感じた。泣いている、と気づいた時には、もう涙が止まらなかった。ぼろぼろと溢れるのを手の甲で何度も拭う。拭っても拭ってもそれは俺の手をすり抜けて流れ落ち、服に染みを作っていった。
馬鹿野郎。何故かそんな言葉が浮かんだ。馬鹿野郎。
大合唱と、の幾つもの声が、頭を巡っていく。小さな仕草も、息遣いも、笑い声も、泣き声すら全て。妻にして。そんなの、幾らだってしてやらァ。添い寝だってしてやるし、手だってずっと離さずに握っていてやる。どんなつまらないことでだって、笑ってやる。焼き芋が買えたとか、いいジャンクが見つかったとか、珍しい花が咲いたとか、そんなことでいいのだ。ホットミルクの体に染みる味は、でなければ出せない。
なのにどうして。
「ばっきゃろ……」
馬鹿野郎。何で。どいつもこいつも。こんな簡単に逝っちまうんだよ。
あの時、教会を立ち去る前に呟いた弥吉の言葉に、俺は泣いてでも頷きたかったのだ。恨むように、何で死んじまうんだと、死ぬなと、に叫びたかったのだ。
もしあの時先にを見つけていたのが俺であったなら、俺も涙を零せただろうか。好きなだけ、泣きつくせただろうか。そうしての体を、強く抱いてやれただろうか。どうにもならないことばかりが、浮かんでせき止められていく。頭の中は、少しずつ嵩が増していく。
あの夜、俺が怪我をした夜。腕の痛みなんか気にしないで、もっと強く抱いてやればよかった。が嫌がろうが、息ができないともがこうが、俺はもっと、強く抱いてやれたんじゃないだろうか。そうすれば、弥吉を探しに飛び出すことなんてしなかったかもしれない。飛び出しても、すぐに帰ってきたかもしれない。もっと、違う結末になっていたかもしれない。もっと。もう少し。
あふれる歌の中、ひとつだけ、とまだ守れる約束があったことを思い出した。もう、盗みはしないということだ。
俺は声を殺して泣いた。いくら泣いたところで、この涙もいつの間にか乾いちまうんだろう。泣いていられる今の内に、泣けるだけ泣いておきたかった。
抑えきれなかった嗚咽は、きっと歌声が飲み込んでくれる。
涙で霞んだ視界の遠くに、古びた線路がちらついた。燃えつくような頭に、どこからか汽笛の音が掠める。
線路は、どこまでも続いている。