透明な魔法
夏の夜更けは、うだるような暑さにぐったりとシーツに沈んでいても、意識がふっと起き上がる。意識だけが引っ張られるように、唐突に眠りから覚めるのだ。そういう時は大概、寝ようと思っても寝付けず、次第に喉の渇きを覚え始める。
どこで吠えているのか、広場の噴水の水音に混じって、微かに犬の騒がしい声が聞こえる。
「やかましいな……」
すっかり目は覚めてしまっていた。
ため息をつきながら起き上がり、ベッドから足を下ろして腰掛けると、手を添えたシーツがしっとりと濡れている。どうやら窓を開け忘れていたらしい。汗を掻くのは当たり前だった。
顔に手を当てて眉間のあたりまで伸ばすように撫でてから、俺は一息ついて立ち上がった。熱気がこもる室内の空気を入れ替えて、緩慢な動きでキッチンへ降りる。
真夜中特有のしんみりとした空気が全身をすっぽりと包む。少し立ち尽くしてから、手探りで照明のスイッチを探して明かりを付けると、強い光に目を細めてしまった。
早速俺は棚へ向かい、グラスへ手を伸ばす。水道を捻っただけでなみなみと注がれる水が、グラス越しでも汗ばんだ手のひらには心地いい。それを喉を鳴らして一気に流しこむ。美味かった。夏に飲む水は、例え少し臭い水道水であろうと美味い。
何より蒸し暑い夜中に目が覚めれば、口の中はもったりとして気持ちのよいものではない。汗を掻いた分、水分を欲しているということもある。だがそれ以外の理由で、喉が渇いているような気がしてならない。
昨夜の料理はひどいものだった。当番は遊星だったのだが、どうもその日はエンジンの調節が上手く行っていなかったらしく、夕食を作るのが面倒だったようだ。冷蔵庫にある適当な食材で、味見もせずに適当に調味料を入れ、適当に炒めた結果、出来たのは塩辛いだけのチャーハンとタレを入れすぎたナス炒めだった。
「……遊星、こりゃちょっとしょっぱすぎじゃねぇか?」
その味とは、大概文句を言いつつも何でも平らげるクロウが、顔を顰めるほどのものだ。
「子供の料理じゃないんだぞ」
キン、と頭に響くような味に、舌が少しばかり痺れる。俺は一口食べてスプーンを置いたが「すまない」と言った遊星が立ち上がろうとした俺を引き止めた。
「不味いだろうが、タダで買った食材じゃない…それだけでも我慢して食べてくれ」
カップラーメンは生憎切らしていた。仕事帰りのクロウは作り直す気配もなく、俺自身が作る手間を考えると面倒に思えた。
ポッポタイムのガレージで共同で生活するようになってから、基本的に忙しく時間の合わない朝と昼は各自で食事を済ませることになっていた。
不味い。不味いのだが、ここで食べなければ明日の夜まで軽食で過ごすことになる。空腹には慣れていたはずだったが、シティにいた二年の生活が、規則的なサイクルを染み付かせてしまっていたらしい。
「ジャッーク、さっさと食べちまえ!おめーが残す事だけは絶対に許さねぇからな」
「誰も残すなどと言っとらんだろうが」
仕方なく皿を持ち上げて思いっきりスプーンで掬うと、覚悟を決めて表面がザラザラしたチャーハンにかぶり付いた。
遊星は自分が作った手前、黙々と口に入れて一番早く平らげ、残ってしまった分を明日の朝にと、ラップをかけて冷蔵庫へ入れたようだった。
まったく、ひどいにも程がある。塩を食べているのか米を食べているのか、途中で分からなくなるようなチャーハンは初めてだった。
クロウに至っては、風呂から上がった後「なんか知らねーが、頭が痛くなってきた」と言いながら、早々に自室へ行ってしまったが、あれは恐らくあの夕飯のせいに違いないと俺は確信している。現に俺も、米噛みの部分が引きつるような感覚に見舞われている。
「やってられん」
二杯目を飲み干したグラスをシンクへ置き、どさりとソファーへ座って、背もたれへ体を預けた。
水を飲んでひと心地ついたからか、慣れてきた照明の暖色の光に瞼が重たくなる。冷蔵庫の小さなモーター音が、静まり返った夜のキッチンに静かに満ちていた。
目の前のテーブルには、いつの間にか桃が置かれている。そういえば遊星が夕方に、ゾラから箱で桃を貰ったと言っていたことを俺は思い出した。
薄い黄色の地に、溶け込むように広がる桃の色がぼんやりと照らされて、テーブルの上に転がっている。ぼけた輪郭をなぞってから手に取ると、見た目よりずっとずっしりとした重みがあり、細く固い毛が手のひらの皮膚を押してくる。
美味そうだ──と思った。
この遠目から見る色とは正反対の、おぞましいような敵意すら感じる皮の感触のその下には、果汁滴るみずみずしい白い実があるのだ。滑らかな果実を口に含めば、爽やかな自然の甘さとともに、遊星の悪夢の調味料も舌から消え去ってくれるだろう。
思い立ってすぐに、キッチンの下の収納棚から包丁とまな板を取り出し、テーブルの上に置いた。
「皮は食べれんな…」
はて、と思いながら大きな桃を手のひらで弄ぶ。
やり方があったはずだった。一度も桃など剥いた試しがないが、漠然と、これには何か順序があったということだけが、俺の頭に浮かんでいた。しかし大して興味もなかったので、それがどういった内容だったのか、どこで教えられたのか、それすら出てこない。
考えながら、桃をころころと手の上で転がす。と、無造作に転がしていたせいで、手から零れ落ちそうになった。慌てて両手で潰れないように抑える。
「ん?」
唐突に記憶が蘇った。そうだ。両手だ。両手で──
いい子いい子、美味しい子。
はそう言って、桃を両手で包み込んで優しく撫で回した。いい子いい子、美味しい子。にこにこと子供をあやすように手のひらで桃を愛でている。
「何だそれは。何をやっているんだ」
安いドリップコーヒーを仕方なく啜りながらデュエル雑誌を読んでいた俺は、ソファーの隣に座るなり奇怪な行動を始めたに、呆れたような眼差しを送った。
「こうすると美味しくなるんだよ」
「なるほどな」
鼻を鳴らして雑誌に目を戻すと、が「信じてないでしょ?!」と俺の脇を小突いた。
「桃はね、こうやって愛でるとすぐドレスを脱いでくれるんだよ」
「まるで質の悪いナンパ男だな…」
そう言う俺の横で、やはりは愉快そうにいい子いい子、と繰り返している。の小さな両手の中で、桃が全身をまんべんなく撫でられている。撫でられるというよりも、抱きしめているという方が合っているような、そんな優しげな手のひらだった。
暫くして満足気に息を吐くと、はフルーツナイフで桃の皮に僅かな切れ目を入れた。そしてそこから、シールを剥がすように手でゆっくりと皮をめくって行く。
「普通に剥いてもそうなるだろう」
「ならないんだなぁ〜これが」
つるん、と剥けた皮を、要らないチラシの上に乗せてまた残った皮を手でめくりとっていく。
飲み干したカップを手に持ってキッチンへ上がってきたクロウが、の手元を見て、物珍しそうに声を上げた。
「おっ、桃か?久々に食うなぁ…桃って今の時期なのか?」
「ちょっと早いんだけど、売ってたから買ってきちゃった」
そう言って皮を剥きながら笑うの呑気さに、俺は脱力感を覚えた。
「またお前は無駄遣いを…」
「てめーが言うなてめーが」
低いクロウの声を無視して、途中だった雑誌の続きを辿る。
「それじゃ俺も一口、桃を貰おうかな」
椅子を引いてテーブル越しにどっかりと腰を下ろしたクロウに、は先程まで俺に説いていた桃の美味しい剥き方とやらを早速伝授している。ドリップコーヒーを煽りながら、雑誌を捲る。
「うすーく皮の部分だけ綺麗に剥けるのは、この方法だけ」
の楽しそうな声色が耳に残った。
美味しい剥き方という割に、が切ったその桃はまだ時期が早く、大変味気ないものだった。
だが、するすると解けるように皮が剥けていくのは見ていて悪いものでも無く、最終兵器のような料理を食べさせられたあとでは、その下から現れる白い果実が今では食欲をそそって仕方ない。
両手でキャッチしていた桃を包み直して、手のひらで磨くように撫で回した。だが、俺がやるとどこかぎこちない。まるで握り飯を作っているようだ。
はどんな感じで撫でていたかと思い返すが、優しそうだったという感覚だけが残っていて、後は少しも思い出せない。
「あれ、ジャック?」
「…?」
ガレージからの階段を上って、が顔を見せた。もうとっくに日付は変わっているというのに、外の匂いを染み込ませた服がキッチンを横切る。俺と同じように目が覚めて散歩をしていた、という格好ではなかった。
「今帰ったのか?」
「そ、ミスして残業」
と言いながら、は鞄を床に放ってうんと背伸びをする。それからその体勢のまま、ちらりと俺の手元を横目で見た。
「桃、剥いてるの?」
「ああ、遊星の料理が酷くてな…喉が渇いた。お前は夕飯は食べたのか?食べてないのなら残りがあるが…あまり勧めはせん」
「それも気になるけど、残念ながら食べてきた」
「そうか」
俺の手は完全に止まっていた。もうこのまま適当に剥いて食べてしまってもいいではないかと思ったのだ。何となく思い出して試してみたものの、それをやらないと剥けないという保証はない。
包丁を持とうとした俺に、シンクで手を洗ったが振り返る。
「剥いてあげようか?」
「……疲れているだろう、気にするな」
その言葉には笑った。ハンカチで手を拭いて棚からフルーツナイフを取り出すと、こちらへ歩み寄ってから隣へ腰を下ろした。
俺が包丁を手に持ったままその様子を見ていると、はまた笑って、
「ジャックが剥いたら実が半分無くなっちゃう」
とテーブルの上にフルーツナイフを置いて、俺の手から桃をそっと取り出した。
いい子いい子、美味しい子。
手のひらでゆるゆると桃が撫でられる。それはやはり、俺がやるのとでは全然違っていた。のそれは、どこか陽だまりのような柔らかさがあるのだ。
「ほらジャック、お皿用意してお皿!」
桃を撫でながら、は俺を肘で突く。人を急かす時に突くのは、どうやらの癖らしい。
「まったく…口で言えば分かる」
「あとフォークも!」
「分かった分かった…」
のそりとソファーから立ち上がって、食器棚の前に立つ。後ろからはいい子いい子と、が桃をあやしている。
ふっと笑いが漏れたように思う。という言い方はおかしいが、自分でも気づかなかったのだ。だが、確かに笑っていたような気がした。
「ほら、これでいいか」
「何いってんの、自分の分でしょー?」
言うの前に、俺はフォークを二つ皿の上に乗せる。が少しだけ満足そうに口元を緩めたのには、俺は何も言わなかった。
の指先でするり、するりと面白いように皮が剥けていく。それはあまりにも綺麗に剥けていくので、絵筆を流しているようにも思える。
「ああすると、こうやって美味しそうに剥けるんだよ」
桃を食べるまでが楽しいのか、それとも剥けていくのが楽しいのか、は桃を剥く時はいつも上機嫌だった。
食べるまでの過程など必要ないと思っている俺には、それがどうしても理解は出来ないが、が桃を剥くのを待つ時間は、どうしてかそれ程面倒に感じられない。
「何度も同じ事を言うな」
繰り返し説くに、俺が腕を組んで前にも聞いたと言うと、は少しだけ目を丸くした。その後の表情は、なんとも言い表しがたい。
どう言えばいいのか──そうだ。桃の皮だ。の手の中でするすると剥かれていくその桃のように、解けるような笑顔が滲んでいた。
「はいどうぞ」
皿に切って乗せられた白い果実の上を、キッチンの明かりが滑っていく。
迷うこと無くフォークで刺して口に含むと、待ち望んでいた想像以上のすっきりとした甘みが舌で溶けていく。
「美味いな…」
ひとり言だった。だが、口に出すとは思っていなかった。俺が思う以上に、体に美味さが染みているのかもしれない。
「そうだね、やっぱり桃はこれくらいの時期だね!」
俺に剥いてやると言ったくせに、当の本人はそれも忘れてパクパクと桃を頬張ってしまっている。挙句、
「大丈夫、まだ沢山あるみたいだから大丈夫」
などと呟きだしたのだから言葉も出ない。
俺の手も次々とフォークへ桃を指して行った。皿の上は数秒でまっさらになってしまう。がおもむろにテーブルの桃をまた一つ手にとった。
「もう一個、剥こっか?」
俺が頷かない理由などあるはずもない。
がまた桃を剥くのを待つ間、桃はこんなに美味かっただろうかと思った。そこまで意識して桃を食べ続けたことなどないので、考えたところで分かりもしない。
夏のせいかもしれないし、遊星の料理のせいかもしれない。水が美味かったのは、そのせいだったのだ。ただ、この桃と水道水を比べるのなら一つ違ったのは、桃はが剥いたということだ。
いい子いい子、美味しい子。そう言いながら、愛でるような眼差しでが撫でたということだ。
「どうせもう一つ食べると思うから、ジャックもやってよ」
「遠慮しておく」
ソファーにふんぞり返った俺を見て、は肘で小突きながらまた、ゆるりゆるりと解きほぐす魔法を唱えた。
夏アンケート'11『友情寄り』
(ほのぼの100題/090/魔法)
12/11/06 短々編
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