が待っている。薄暗い部屋の中、身じろぎもせず、俺の視界にそのふっくらとした柔らかな肌をさらけ出して、俺が触れるのをじっと待っている。絹のようなきめ細かな肌を、俺の汗ばんだ手が這うのだと思うと、罪悪感にも近い興奮が体を熱くさせる。
催促するようにの体が揺れた。
「い、行くぞ」
こくりと喉が鳴った。



手と手を — 絡めて



困ったことになった。気だるさから俺の朝が幕を開け、寝覚めのコーヒーで喉でも潤そうかと欠伸を零してから、ベットから起き上がった瞬間の光景に、血の気が引いていく。
引くなんてものじゃない。俺の頭からは一滴の血も消えたみたいに、体中が冷え冷えとしている。
「な、なんだ…これは」
呟いた俺の腰には、のしなやかな細い腕が巻きついていた。眠っている間、いつもより寝心地がいいと思っていたのだ。包み込まれるような温かな感触に、布団を掻き抱くように意識を落としていたのは、俺がを抱いて寝ていたからだったのかと、即座に気づく。そのおかげで夢見も良かったが、そんなことは今や少しも俺の心を静めてくれはしない。何せ、昨日のことなど記憶にはないのだ。
何故がここで寝ているのだとか、俺は昨日何をしていたのかと、さまざまな疑問が頭を過ぎ去って行ったが、ぐるぐると廻るばかりで一向に思い出せはしない。冷汗ばかりが背中を流れていっては、俺の顔を青くさせていく。
まさか俺は、いや俺たちは、一線を越えてしまったのだろうか。
「ばかな…!」
まとまりのない考えを整理するより先に、俺の手は逸る気持ちで、の体を覆う少し厚めの毛布をはぎ取っていた。
「ん、万丈目くん…?」
取り乱す俺の横では、唐突に動き出した振動で目が覚めたのか、重たい瞼をうっすらと開けたが、俺の気も知らず、掠れ気味な可愛らしい声で名前を呼んだ。服は、しっかりと着こんでいる。
深い、ため息が出た。もちろん、安堵の息だ。冷静になれば自分も服を身につけているのだから、事に及んでいないことはすぐ分かる。どうやら、相当焦っていたらしい。
「…驚かすな」
頭も抱えたくなる。出会って数年といえど、付き合ってまだひと月と経っていないというのに、俺は好き合う者を理由にに手を出してしまったのかと、肝を潰した。自分に限ってまさかそんなことはないとは思うが、愛するが故に、何をしてしまうかなど分らない。隣で丸くなるは守るべき存在であることは確かだが、その身の安全を保証することは、情けないことにできそうにもない。それは今この時だけでなく、恐らく、これからもずっとだろう。

ベッドの上で胡坐をかいたまま、ため息交じりにこめかみを押さえる俺を見て、はその焦りようを感じたのか、したり顔で俺の正面に身を起こした。
「万丈目くん、もしかして焦ったの?」
分かっているくせに、意地の悪い質問をする。
悔し紛れに、俺が折れるのを興味津津に見つめ続けるの頬を、そっとつまんでやる。うひゃ、と可笑しな声を出すのが面白い。やられっぱなしは性に合わん、と抓った頬が思いのほか柔らかくて、吸い寄せられたように、から手が離れない。
結局俺の方が何においても負けているようだった。
「やるなら反対やってよ」
いつまでも頬を触り続けられて痛くなってきたのか、そう言ってが強気に見つめてくる。その目は少しばかり恥ずかしげに揺れている。負けず嫌いな彼女の可愛らしい一面だ。
はきっと俺のわがままを聞いてやったつもりでいるのだろう。しかし、俺はの意志の通りに頬に触れてやっているつもりだ。俺がに触れたいのか、が俺に触れていて欲しいのか、恋人に触れる理由がそのどちらか一方ではなければならないように仕向ける俺たちは、きっと素直ではないのだろう。
の希望通り、反対の頬に手を添えて、俺は同じようにつまんでやる。するとは嬉しそうに目を和らげた。
その表情を見て、俺はようやく口を開いた。
「何故俺のベッドにお前がいるんだ」
俺の問いにはやっぱり覚えてないんだ、と言ったきり、腹を抱えてくつくつと笑い出した。俺は何も可笑しなことは言っていない。憮然とした表情での頬を少し強めに抓ると、拗ねていると思われたのか、は笑いながら俺の頭を撫でた。幼児にするように、よしよしと笑いを含んだ声で優しく俺の髪を梳いていく。
気持ちいい…が、そういう問題ではない。
「や、やめろ!はぐらかすな!」
仄かに赤らんでいたのだろう、俺と同じようにも俺の頬に手を当てて、耐えるように声を絞り出した。
「別にはぐらかしてるわけじゃないのに…元はと言えば、万丈目くんが悪いんじゃない」
「俺が?」
思わず声を上げた。
「馬鹿を言え、間違いを起こし兼ねんことを俺がするわけがなかろう」
「間違いって?」
の大きな目が、俺を真っすぐに捉える。俺の頬に手を添えたまま、片手で自身を支えてベッドに座り込むその姿は、カーテン越しに部屋を暖める光をその身に纏い、網膜に焼き付けておきたいと思うほどに輝かしい。顔にかかる髪を耳にかけてやると、はくすぐったそうに目を細めた。
その頬を愛しむように撫で、顎まで指を滑らせる。俺の体にはない、どこまでも吸いつくような女の肌だ。顎を持ち上げた指で幾度も肌を撫でた。の澄んだ瞳越しに、恍惚とした表情の俺と目が合う。このままこいつの目を見つめ続けていれば、あと少しで俺は完全に吸い込まれてしまうだろう。
「お前が思うほど、俺は我慢の利く男ではないということだ」
言って顔を近づけると、はゆっくりと瞼を閉じていく。

途端俺は眠りから覚めたように、はっとしてから身を引いた。急いでベッドのふちに腰かける。
「何で…?」
すがるような声が、背中に掛かる。
「ねぇ、万丈目くん」
振りむけなかった。今を見たら、勢いのままシーツの上に身を沈めてしまいそうな気がするのだ。
コットンのように柔らかな肌、ぴんと張った赤らんだ頬、しっとりと濡れた果実のような唇に、惹きつけてやまないの大きな瞳。俺は掻き抱かずにいられる自信はない。
そんな俺の気も知らずに、は起きがけのように、何の遠慮もなく俺の体に身を寄せる。いつもそうだ。は考えることもなさそうに、好きな時に好きなだけ、俺の体に腕を回す。背中に当たる柔らかな感触を、俺がどんな気持ちで耐えているのか、は知っているのだろうか。
万丈目くん。頬を寄せたまま話す、の熱い吐息が衣服越しに心臓を温める。
「キスすら、してくれないんだね」
責められても仕方がない。付き合って以来キスどころか、一方的にが抱きつくばかりで、俺はこちらから手を繋いでやったことすらない。 はそんな俺を恨んでいるのだろう。
悪いとは思う。だが、無茶を言うな。寄せた身から、その耳から、猛る思いを必死で押さえる俺の心を感じてくれはしないのか。
耐えるように足の間で組み合わせた手に力を強めると、が頼りなく、ぽつりと呟いた。
「万丈目くんなら、私、間違ったって…いいのに」
血が巡る音がする。心臓がどこにあるのか、今の俺には分からない。全身が鼓動している。絞り出したように、震えた声が出た。
「くだらん冗談はよせ」
「冗談なんかじゃ…」
振り向いたときには、しまったと思った。腕の中にはの体が収まっている。ベッドに乗り上げた片足では二人分の重みを支え切れず、俺の意志が止める間もなくシーツの上に重なってしまった。
の手は驚きのまま俺の服を掴んで固まっている。
「…待て、待て」
待て、このままではまずい。耳元で喧しく警鐘が鳴る。脳が揺さぶられるくらい高い音だ。もしかするとそれは俺の心臓の音かもしれない。
待てとばかり繰り返す俺の前で、のあの瞳がゆらゆらと揺れている。俺が吸い込まれるのも時間の問題だろう。
「お願い…」
流石に強請るのが恥ずかしかったのか、それっきり強気なが目を逸らして、口を噤んでしまった。顔を赤らめて必死に俺の視線を逃れようとする姿が扇情的で、顔を逸らしたことで曝け出された白い首筋がまた、俺の枷を外すのには十分すぎた。

近かった顔を、更に寄せて、俺は自分自身との最後の抵抗を試みる。
「俺は昨夜の記憶がないのだが、お前に何かしたか?」
再び出された俺の問いかけに、思い出して少しだけ気が抜けたようで、は口元を緩めて言った。
「キスしてって言ったら、真っ赤になって倒れちゃったのよ」
今度は俺が真っ赤になって目を逸らす番だった。

「物事には順序がある。何事もそうだ。それを通らずして先のことは出来ん」
黙ったかと思うといきなり語り始めた俺を、は嬉しそうに頷きながら待っている。
「だからだな、」
俺はそれ以上どうにも言葉が続かなくなって、の首筋に一旦顔を埋めた。女性らしい甘い香りが、胸を落ち着かせるどころか更に騒々しくさせる。慌てて顔を上げて、押し倒していたから体を持ち上げた。
抱き返そうとしていたの腕が、儚く宙に浮いている。怪訝な、それでいて悲しそうなの目を見て、
「物事には順序がある」
俺はもう一度繰り返した。
「だ、だからだな、」
先の続かない言葉に体が疼く。これ以上は我慢できそうにはない。そして空を彷徨う、小さなの手を取った。
「手をつなぐぞ!」
幸い今日は晴れている。コバルトブルーの空に微かな雲が流れるのみだ。とりあえずはこの薄暗いレッド寮を出て、緑豊かなアカデミアを散策しようではないか。木々も小鳥もさえずる木漏れ日の中をと歩くのは、きっと気持ちのいいものに違いない。
「キスは…その後だ」
言って少々強引にをベッドから起き上がらせると、は起きがけの時のように腹を抱えて笑いだした。折角立ち上がらせたというのに、すっかり息が上がったは苦しげに床を叩きながら、座り込んで笑っている。
「ま、万丈目くん…っ昭和初期!」
「ええい、うるさいッ!」
こんなぼろ臭い寮で床を力いっぱい叩いていたら、何事かと寮生が集まってくるだろう。必然的にからかわれることも予想できる。
楽しげなの笑い声を止めるのも惜しい気もするが、よく笑う人間だ。いつでも聞けるだろう。今はの望む、恋人らしい行為をすることだ。

そう思って、掴んでいた手を握り直す。指の一本一本が絡まるように、のやわらかな手のひらに俺の肌が吸いつくように、手を絡めて握る。
の笑いが止んだ。
「行くぞ」
果たしてこれはのためだろうか、俺のためだろうか。俺が理由をつけるのならば、が望んだからと言うのだろう。
「しょうがないなぁ」
零れるような笑みを浮かべて握り返すもまた、同じく素直ではないが、きっと望んでいることは違わない。

互いに伝わる体温が、本当の始まりを告げていた。



(ほのぼの100題 2/087/順番)
10/03/13 短々編