珍しいこともあるものだ。同級生と言うも憚れるような、何をするにも完璧な男を前にして、私は驚きを隠せずにいた。
手と手を — 重ねて
瀬人がうたた寝をしていた。雑用を頼まれて海馬邸に訪れた学校帰り、制服のまま瀬人の仕事部屋へ上がると、瀬人はスーツに皺がつくのも厭わず、大きな机の上にうつぶせて、静かな寝息を立てていた。
来る途中でメイドさんから受け取った二人分のコーヒーを、とりあえず瀬人の近くに置くが、ソーサーが机にぶつかる重い音が鳴っても、瀬人は目を開けなかった。私はトレーを抱えたまま、呆然とその様子を見守る。
瀬人に呼び出されてこうして海馬邸に来たのはいいけれど、何をすればいいのかはまだ聞かされていない。起こした方がいいに決まっている。だけど、私は寝息を立ててゆっくりと上下させる瀬人の肩を揺することはできなかった。
疲れている。瀬人は見栄を張るから、そういう弱音は絶対に口にしない。疲れていないわけじゃない。だからこんな風に、一人のときにふと気が緩むと、自分でも知らないうちに夢中に意識を投下させてしまうのだ。
休めばいいのに、そんな暇などないなどと言って、結局思わぬところで時間を浪費していることも、こういうタイプが早死にをするということも、瀬人は何も分かっていない。
「…瀬人」
小さく呼んでみるが、やはり起きない。もうすっかり眠りについてしまっているらしい。瀬人は呼吸をするほか、ひとつも身じろぎもせず、気持ちいいのかもわからない無表情で自分の上に頭を預けている。
色で表わすなら、瀬人の寝息は透明だ。うつ伏せている瀬人のすぐ横に立っているというのに、私の耳でも瀬人の口から洩れる音を拾うことが出来ない。瀬人と私以外誰もいない部屋に、静寂だけが満ちている。
長い前髪が、瀬人の呼吸に合わせて滑らかに額を流れていった。隠れていた整った眉毛が私の目の前に現れる。少しだけどきりとした。
瀬人とは、それほど長い付き合いじゃない。合う時間もなかなかない。恋人同士なのに、他の友人に比べて共有した時間というものはもしかしたら数えられるほど少ないのかもしれない。だから、瀬人の顔は雑誌や液晶越しにしか、じっと見つめたことはなかった。
そのまんじりと見つめたかった瀬人の顔が、目の前に晒されている。いたずらをしているわけでもないのに、私の呼吸は緊張で張り詰めた。
赤々とした夕日が落ちて、明かりの灯していない仕事部屋は薄暗く冷たい。暮れ際の紫色をした空に照らされた瀬人の顔は、中途半端に流れた前髪で僅かに陰っている。
見てみたい。ぽつりとそう思った。もっと瀬人の顔を目に焼き付けておきたい。今ならきっと起きないだろうし、ちょっとくらい見ていても、すぐに起こせば怒られはしないだろう。私は一人頷いた。
そしてどきどきと波打つ心臓を抑えて、私は瀬人の顔にそっと手を伸ばす。
「…」
不意打ちに呼ばれた名前に、私の心臓は飛び出さんばかりに鼓動を強めた。
「せ、瀬人?」
起きたのかと思って声をかけてみるが、それっきり瀬人は静寂を保っている。寝言、だろうか。私の名前。その一言だけで、こんなにも脈を速めている私を、瀬人は知らない。
いつもいつも、目の前にいない人間を追いかけているのは私ばかりで、この瞬間でさえ、私の方が瀬人を求めてやまないのだと思うと、悔しくなった。
戸惑いがちに瀬人の前髪を掬って、優しく撫でる。いつ目覚めるだろうか。そんな風に半ばゲームのような感覚で、瀬人の寝顔を見つめるけれど、頭をいくら撫でても瀬人はやっぱりいつも起きている時と変わらない無表情で、規則的に浅い呼吸を繰り返すばかりだ。
こうしてずっと傍にいても、瀬人が目を覚まさなかったら。そんなわけはないのだけれど、起きていても寝ていても、表情一つ変えない瀬人に少しだけ寂しくなった。と呼ばれた名前が、微かに鼓膜を震わせている。無表情では、どんな気持ちで呼んでくれたのか、それすらわからない。
「瀬人、起きてよ」
呼んでも起きないと分かっているから、私は呟くように口から零れた言葉と共に、机の上にそっと乗せられた瀬人の手に、優しく自分の手を被せた。白い肌の色のまま、低い瀬人の体温が私の手のひらに溶けていく。好きだとか、寂しいとか、自分本位な感情や、無理はするなと瀬人を案じる心が折り混ざって、その想いの一片でも体温と共に伝わって行けばいい。そんな願いを込めながら、私は瀬人の手に自分のそれを重ねる。
すべらかな瀬人の手は気持ちがいい。重ねたまま頭を撫でたようにゆっくりとその手を撫ぜていると、瀬人の手が私から抜かれて、反対に私の手を包み込んだ。はっとして、今度こそと思って顔を伺うが、瀬人はやはり沈黙したままだ。
「ふふ、」
でも私は見てしまった。薄暗い静寂ばかりが満ちている冷たい部屋で、瀬人の低い体温に包まれながら、私は見たのだ。目を瞑ってゆったり寝息を吐く瀬人の顔が、やんわりと和らいでいるのを、見てしまったのだ。
安堵を浮かべる幼げな表情が、さっきまで沈んでいた私の心を上昇させる。きっと私も同じ顔をしているのだろう。
「瀬人」
愛しさにもう一度名を呼ぶと、それに応えるように、瀬人が手の力を強めた。
追いかけるばかりで何もできない私には、きっとおこがましいことなのだろうけれど、それでも思う。私の手のひらが、少しでも瀬人に安らぎを与えるものであればいいと。
「…」
相変わらず不意打ちが得意な恋人に、私は温めるようにもう片方の手を瀬人の手に重ねながら、はい、と喜びを零して返事をした。
(ほのぼの100題 2/075/うとうと)
10/03/01 短々編
10/03/01 短々編