02


 飢えているのは、言葉だけではない。
 あまりの空腹に、道中何度か通り過ぎた露店で、果物でも乾物でもスープでも、とにかく一口つまみたくなっていた私は、彼らの予約していたホテルにはレストランがあると聞いて、内心小躍りしそうになった。思えば、列車に乗って半日、何も口にしていなかった。
 レストランはホテルの中階にあり、周りには高いビルなどもないので、窓の外は街を一望できるようになっている。冷房も程よく効いていて、汗と砂埃でベタついていた肌から暑さがすっと引いていき、その余裕が余計に食欲を煽る。しかし、それだけじゃなかった。
 一行の背中を追ってふらふらと中に入って行くと、厨房付近に用意されたカウンターにずらりと大皿の料理が並んでいて、なんともいい香りが漂っていた。なんとそこは、中華料理をメインにしたビュッフェ形式となっていたのだ。
 味には最初から期待していなかったのに、食べ放題と知った途端に衰弱の一途を辿っていたはずの胃袋が、全部食べきれるだろうかなんて算段を始める。そこで私は、空腹以上に、自分がいかに飢えていたことに気付かされたのだった。
 初めの内は日本にいた時の習慣で毎日きっかり三食口にしていたが、マレー半島にいる間は一日に二回でも食べればいい方だった。ぶらっと出歩いて街角でぼんやりするような、消耗の少ない日々を幾らか送っていたので、無頓着と無関心が染みついていたようだ。
 しかし、ここには“言語”も、今だけは幾らだけ食べてもいい“食事”もある。気力が体に染みこんでくるのを感じた。人恋しさが満たされていく。胃袋が今だけは生きろと急かしてくる。

「さぁ、たんと食べろ」
 アヴドゥルがにこにこと笑って私に皿を差し出して来た。受け取ってから、どうしようか、先に何から食べようかと悩んでいると、そんなに欠食気味に見えたのだろうか。見かねたアヴドゥルが「食べれば同じだ」と言いながら、あれもこれもと豪快に乗せてくる。
「そんなに入らないって……!」
「口に入れれば入るものだ」
「あんたと一緒にしないでよ、女の子の胃袋はか弱いんだから」
 どうせなら食べたい量を盛って貰えるようにと、お皿を出したり引っ込めたりして調節していると、アヴドゥルは言ってもいないのにそれが分かるようで、引っ込めると少なく盛り、押し出すともう一度上に乗せてくれる。
 即興のサインが伝わるというのは、気のおけない特別さを実感するようで、胸がくすぐられるように気持ちが良かった。だんだんに愉快になってくる。
 そんな愉悦に浸っていると頭上から、「フフッ」とアヴドゥルの抑えたような笑いが聞こえてくる。
「なに?」
「その歳で“女の子”はキツイと思うがな」
「またその言い方っ」
 堅物のくせに、変なところで冗談好きだからムカつくのだ。
 肘で思いっきりアヴドゥルの脇腹を何度も小突けば、アヴドゥルときたら、「やめんか、料理がこぼれる」とまったく効いていない様子で諫めるので、アヴドゥルばかりが年上ぶっていて腹が立つ。
 ふと横を人影が通り過ぎる。皿を手にしたポルナレフ君の、
「カップルってのはいつでもどこでもこうだよ」
というからかい混じりのぼやきが耳に入って、私は顔を赤らめながら咄嗟に、「自分で取れるってば……!」とアヴドゥルからお皿を遠ざけた。その行動がまた子供じみていたことに気づいて、私はしまった、という顔で頭垂れる。
 アヴドゥルをからかうのは面白い。面白いのだけれど、私までネタにされては純粋に楽しめなくなってしまうじゃないか。

 ちょっと離れてから自分のお皿の上を確認すれば、豚肉炒めやレバニラや酢豚や鶏肉の唐辛子炒めなんて、偏った料理が乗せられている。ようやく自分の皿に盛り始めたアヴドゥルといえば、運ばれてきたばかりの湯気の立つ五目野菜を取っていた。
「私には後で絶対胃もたれするものばっかり取って~~」
と、眇めて文句を投げかけてみる。
 実際には味の濃いものを欲していた私はよだれを垂らさんばかりだったのだけれど、自分で邪険にしておいてすぐにありがとうなんて素直に言ったら格好がつかないから、どうしても無駄な一言を足さずにはいられないものだ。
 アヴドゥルはそんな子供じみた私のプライドを読み取ったのか、「ハッハッハ」と軽く笑いながら「それで足りるか?」なんて付け加えてくる。さっきの仕返しのつもりかもしれなかった。
「それにしてもお前、ちょっと痩せたんじゃあないか?」
「そりゃあ、歳も歳だし、昔よりはちょっとくらい細くなるでしょ」
「いかんぞ~」
 せめて一口ずつとけち臭く料理を取っているところに、ジョースターさんがすっと私を挟むようにして並んで、会話に割り入ってきた。
「あんまり細いのはいかん。子供を産むときに辛くなるからのぉ」
「ははは……」
 さすが年配だ、と私は思った。言うことはどの国でも同じらしいが、会ったばかりでこの話題は余計なお世話というやつだ。
 私はなんと返せばいいかすっかり困ってしまって隣を窺うけれど、アヴドゥルは「うむ」と適当な相槌で流して、慣れた様子でいる。
 かと思っていたら、
「それにアヴドゥルの子どもとなれば、恐らく普通よりかなり大き……」
「ジョースターさんッ!」
「おっとこりゃすまん、歳を取るといらんお節介ばかりしたくなってなァ~、無粋だったな」
 我関せずでいたアヴドゥルの顔は、一瞬にして羞恥に染まっていた。普段仏頂面だからなのか、こういう時には随分と表情に出やすい。やめて欲しいが怒りたくても怒れないという葛藤が輪郭の中で、さざ波のように押しては引いてを繰り返していて、なんとも情けない顔になっているのだ。
 私はアヴドゥル弄りに自分をダシにされたことも忘れて、笑いをこらえるので必死だった。
 その間にもジョースターさんの音頭は愉快さを増していく。
「まぁ、まぁそう怒るなアヴドゥルよ、いずれ二人のことは二人で決めねばな」
「だからですね、こいつとは何も……!」
 次々に流れ来る掛け合いを聞いていれば聞いているほど、ジョースターさんはからかうのが人生のような人らしい。まったく悪びれもなく怯まないところを見ると、その道にかけては年季が入っていると言ってもいい。
 アヴドゥルはすっかり殻にこもって、
「私は知りません、そんな話は絶対に知りません」
とただひたすら繰り返している。
 あまりの可笑しさに堪えきれず、ついに私が声もなく体を震わせていると、ジョースターさんが私の肩を抱いて、内緒話をするようにそっとアヴドゥルから遠ざけた。
 重いお皿を両手で抱えたまま、ジョースターさんを見上げる。何事かと思ったが、紳士の方は僅かに真面目な雰囲気を纏っていた。しかし目元には、ホテルの道のりで目にしたあの優しげな眼差しが浮かんでいる。
 思わず、
 アヴドゥルが好きなんですね──
と言いかけた言葉は飲み込んだ。今言うにしてもクサすぎると思ったからだ。
 ジョースターさんは私の背に合わせて腰をかがめ、声を潜めた。
「わしはあやつとは三年の付き合いだが、アヴドゥルは昔っからああなんだろう?」
「ええ、それは。変わったのは身なりくらいで」
 意外にも先ほどとは打って変わって、耳を包むような柔らかい喋り方だった。ギャップを感じて、何の話だろうかと動揺が頭をもたげる。
「何年も連絡を取らないなんて、意地を張るにも程がある」
「いやいやそんな……」
 私が首を振ると、目元のシワが寄って、ジョースターさんの目が愛おしそうに微かに細められた。
 また私越しに、アヴドゥルの実直なまでの頑固さを見ているのかもしれなかった。或いはそのアヴドゥルを通して、また別の人間を写しているのかもしれない。そう思わせる穏やかさが、ジョースターさんの目には宿っていた。
 心配しなくてもいい、と紳士は父親のような優しい響きで喉を震わせた。
「あとはわしに任せなさい」
「はい…………」
 返事をしてから、私は小さな声で、えっ、と呟いた。
 胸にサッと冷水を浴びるような冷たさが走って、私は顔に笑顔を貼り付けたまま、まさか、と不意に現れた不安を確認しなければならない気持ちに迫られた。
 慌てて後ろを振り返る。アヴドゥルはこちらに向かって、必死の形相で首を横に振っている。次にジョースターさんを見上げる。
「あ、あの、ですね」
「アヴドゥルに合わせて、無理に友人のふりなんぞせんでもいい」
 友人のふり──
 呆然として、それ以上言葉にならなかった。ふりじゃあなくて、友人で、本当で、恋人というのが冗談で。そんな返答がぐるぐると頭を迂回して、声に出せないまま霧散していく。
 時間の停止した私に、アヴドゥルが眉間を抑えながら、失望混じりにため息を付いている。
 まさか、と私はまだ半信半疑を反芻している。でも、ジョースターさんの目は真剣だった。年季の入った冗談を言う時とは、とても様子が違っていた。
 鳴き続ける胃袋の虫に反して、私の頭は、両手に抱えた料理のことなんてすっかり忘れてしまっていた。何せ思い違いじゃなければ、軽い冗談のつもりが、アヴドゥルの女っ気のなさが災いして、冗談とは取られていなかったのだ。


「お前のせいだぞ」
「まさかこんな信じるとは思わなくて……」
 弱々しい声が漏れた。確かに悪質だったかもしれない、と反省の念が重なる。
 久々の言語との遭遇に舞い上がっていた私は、普通ならドン引きするレベルのからかいをやってのけたということに、落ち着いてから気づいた。腹ごしらえをしたことで、脳は幾らか正常に伝達をしてくれるようになったらしい。
 食後は一度解散をして、バスか鉄道のチケットを買ってからまた夕食の時間にホテルに集合することになった。
 食事をしている間は、自己紹介やお互いの旅の話もしたが、ジョースターさんたちの予定の話し合いが大半となった。というのも、日程を切り詰めなければならない旅らしいのだ。
 一行は、これから5人でアンダマン海に面した港、ラノーンへ向かうという。ラノーンには財団の手配した船が待っているので、明日にはそこへ到着したいのだとジョースターさんが話していた。会話の中に頻繁に出てくる“財団”というのが分からなかったので、失礼を承知で尋ねると、アヴドゥルとジョースターさんはその財団の仕事で陸路でエジプトまで向かうところなのだと説明した。
 しかしそんなに急ぎ足ではゆっくり観光する暇もない。私がそう言えば、
「気になったところはまた後で来ればいいのだから、無駄じゃあない」
とジョースターさんは笑って、承太郎君に同意を求めた。
「まぁな」
という低い声が返ってくる。
 承太郎君という学生帽の高校生はジョースターさんのお孫さんで、緑の制服を着た長い前髪の花京院君は知り合いの息子さんだという。大人に連れられた高校生らしく、いつも静かな二人だ。この二人は社会経験のために無理やり引っ張ってきたというので、ジョースターさんの思い切りにも、ついてくる二人の冒険心にも感心してしまった。
 仕事の内容を聞くのは丁重に断られてしまったが、銀髪のフランス人、ポルナレフ君のことは「我々の助っ人だ」とジョースターさんが紹介したので、「えっ?」と出そうになった声を私は必死で飲み込んだ。
 このポルナレフ君、見た目は奇抜で普通じゃあない。しかしもしかしたら、アジア横断の仕事に呼ばれるほどなのだから、ものすごい技術者なのかもしれない。そんなことを思っていると、私の呟きを聞いたポルナレフ君は、
「ま、ちょ~っと違うが、アドバイザーみたいなもんかな」
なんて、得意そうにウィンクをした。アヴドゥルは顔を顰めていたかと思うと、何故か遅れて重いため息を付いている。

 明日までにラノーンへ行くにしても、一行は余っているチケットによって、タイの中ほどにあるスラタニーまで列車に乗ってそこからバスで行く経路か、バス一本で行く経路のどちらかを選ぶつもりだと言っていた。どちらを選んでもスラタニーは通らなければならないので、明日に出発できる方を購入する。
「お前はどうするんだ?」
 ホテルのロビーに降りてから、ジャラジャラとぶら下げたピアスを揺らして、アヴドゥルが私へ尋ねた。言われてから考えてみるも、言葉に詰まる。
 どうもこうも、安宿の主人に勧められるがまま国境を越えたので、タイへ来ることが目的だったのだ。それからどうしようかなんて、これっぽっちも考えていなかった。
 でも仕事で来ているアヴドゥルにそれを言ったら大いに呆れられるだろうし、そもそも私ときたら、実は仕事を辞めてこの旅に出たのだけれど、それでこんな有り様なのだから、情けないといったらない。出来ることならルポライターなんて格好をつけても見たかったけど、すぐに見破られる嘘は自分を貶めるだけだ。
 唸りに唸りながらようやく絞り出したのは、
「それが、考えてなくて……」
 なんて暫く出したことがないようなか細くて優柔不断極まりない声だった。

「ヌッフッフ」
 悪代官のような笑い声が背後から流れた。主はジョースターさんのようだ。
 アヴドゥル、とジョースターさんが小声で名前を呼んで、近寄ったアヴドゥルを手招きすると、耳元へ口を寄せた。
 ソファーで寛いでいた全員が、何事かと耳を澄ませてしまう。それにこそこそと潜められていても、昼下がりで閑散としていたロビーではちょっと息を詰めれば、聞き取れてしまうのだ。
「お前さん、“これから何食べに行く?”って聞かれて、“何でもいい”とか“決められない”って答えるのはどんな時だ?」
「え? 何ですか突然」
 突拍子もない質問だった。アヴドゥルも当然首を傾げる。しかし、「いいから、考えてみろ」と強く言われれば、真面目なアヴドゥルのことだから、何か理由があるのだと納得をして、真剣に考えてしまうのだ。
「そうですね……私の偏見ですが、見たところ“場の摩擦をなくす”或いは“相手に決めて欲しい”という心理が働いている時じゃあないでしょうか」
「そうだ。つまりあの子はな、お前さんに決めて欲しいんだよ」
「何度も言いますが、ジョースターさん」
「何年待たせても、言うことは言っておかねばならんぞアヴドゥルよ」
「勘違いなんですってば……!」
 ロビーは冷房が効いて心地いい空気だというのに、アヴドゥルの顔はもうすっかり汗で濡れている。
 ジョースターさんはからかいの中に、アヴドゥルへの心遣いを込めているのを私はちゃんと知っていた。それだけ心配されるアヴドゥルもアヴドゥルだが、レストランでの言葉は、もし事実に対して向けられたものだったのなら、あれほど胸のすく励ましはない。
 だからこそ、冗談混じりといえど本当に懸念されているからこそ、私はアヴドゥルが流石に可哀想になってきた。それも元はといえば、私のせいだからだ。
「本当に、あれは私の冗談で……」
 ソファーを立って、小声で言い合う二人のところへおずおずと歩み寄る。
「ごめんなさい、紛らわしい冗談を言ってしまって」
 ジョースターさんへ謝った後にアヴドゥルにも黙礼をすると、ばつが悪そうに目を逸らして、「俺には謝らんでもいい」とアヴドゥルが呟くように言った。少しばかり、照れ臭さが込み上げる。
 ジョースターさんが笑顔で私に頷いた。
「いやいや隠さなくてもいい、気持ちはよぉ~くわかる」
「えっ?! いえ」
「アヴドゥルは融通の効かんカタブツだからなァ、一度決めたら言葉を撤回できんような男だ」
「あの、」
「想い合っていても、こういう男だと、友人のふりでもしなきゃならないのだろう」
 なるほど、と浸透するような声が、私たちの間に零れた。
「アヴドゥルさんのように厳しい人なら、納得ができます。とにかく自分を律する人ですから……」
 じっと黙って成り行きを見守っていた花京院君が、そう言って、何故が感慨深げにため息を付いた。私とアヴドゥルは固まったまま、声の方角に合わせて眼球を行ったり来たりさせるしかない。
 ポルナレフ君は花京院くんにつられるように、大きなため息を長く吐いて、
「だぁから、さっきからアヴドゥルのやつ、こそこそと端っこの方でちゃんに声を荒らげてるわけだ」
なんて、やれやれといったふうにアヴドゥルへ肩をすくめてみせた。
「ポルナレフ、」
 アヴドゥルが喉をつまらせながら、ようよう声を絞り出した。厳しさを紛れさせているが、四面楚歌で威厳はもう薄れてしまっている。
 何を言うのかと私は見守っていると、アヴドゥルはひとつ咳払いをして、「言いたいことは山ほどあるが」と前置きをした。説教をするつもりらしい。
「こう見えてもはお前より年上なんだ。軽い呼び方をするのはやめんか」
 がくっと力が抜ける。ため息を付くのは私の番だった。そんなどうでもいいことより、もっと訂正しなきゃならないことがあるのに。
「いいじゃないの、女の子は若く見られる方がいいのよ」
 ポルナレフ君はこういう小言は耳にタコなのか、ケロッとして、「いいでしょ、ちゃん」と笑いかけてくる。
“女の子”の言葉に私が笑うより先にアヴドゥルが鼻で笑ったので、「ちょっと!」と肘で小突くことも忘れない。
 承太郎君が日本語で「やれやれ」と生意気そうに零すのが聞こえた。

 しかしこの話をしている時の大男たちは、揃いも揃って楽しそうだった。男だけのむさ苦しい旅ではこういう手の話題に飢えていると、私は気づくのが遅かったのかもしれなかった。
 アヴドゥルもよっぽど混乱しているようで、頼りにならない。私は半笑いのまままた大きく息を吐く。そうしてから、落ち込みすぎるのも空気を悪くするのではないかと思い至った。
 アヴドゥルを見上げても、照れからくる火照りを冷ましながら、一行に呆れた表情を浮かべているだけで、別段迷惑であったり嫌がっている様子も、深刻さはそこに微塵も窺えない。
 私は開き直ることにした。どうせアヴドゥルの人格には影響のない誤解だ。そんな軽い勘違いなんて、いつか解けるものなのだ。その時は拗れに拗れたとしても、逆らおうとせずに放っておいていると、時間が経つとあっさりと消えてしまったりもするのだ。
 それに数日の付き合いだし、面白いからいっか──
 そんな風に、納得をして。



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14/07/27 短編