03


 ホテルのロビーで学生二人とポルナレフ君と別れた後、チケットを買いに行くというジョースターさんに従って、私とアヴドゥルは駅への道のりをついて歩く。
 碁盤目のような街並みのせいもあるかもしれないが、ジョースターさんは食事中に一度見ただけの周辺の地図は頭に入っているらしい。それにしても初めて来たという異国でずんずんと迷うことなく歩を進めていくので、旅慣れしている雰囲気に私は関心を覚えた。アヴドゥルがどういう人と付き合い、どんな生活を送って、今の仕事についているのか。私の知らない数年間を、この紳士は恐らく見てきているからだ。ジョースターさんだけではない。共に旅をする彼らの仕草の一つ一つから、彼らから見たアヴドゥルの表情が見えてくる。
 私は短い再会のためだけに、今までの空白の時間を埋めようとしている、と気づいた。そうなってから、アヴドゥルがどれだけ会いたい人間だったのかを知らされる。そしてアヴドゥルもまた、そうであるという。
 別れが惜しくなる──
 そう思った途端、アヴドゥルと近くなったように感じた距離が、また遠ざかったみたいに思えた。そうだ、またすぐに別れなければならない。今埋めたってきっとまた、私たちにはどれくらい長いのか予想もできないほどの空白ができる。
 アヴドゥルとは恐らく、私が思うよりも以前の関係から遠ざかってしまっているのかもしれない。寂しさだけが追いかけてくるような気になる。
 でも、と思った。それくらいが丁度いいのだ。運に任せて出会うくらいの関係なら、それくらいがいいのだ。それよりも、短い時間を楽しむのが先決なのだ。
 言い聞かせるように納得をしながら、私はアヴドゥルと並んでジョースターさんの背中を追う。

 散策がてらにと繁華街らしい区画に差し掛かった時、ジョースターさんがおもむろに足を止めた。
 気になる店でもあったのかと思っていたら、駅前に旅行代理店が数ヶ所見えたので、そこへは一人で行くから構わないと、別行動を私たちへ提案してくる。私とアヴドゥルを観光させるつもりで気を遣ってくれたらしい。
「しかし……」
とアヴドゥルだけが難しい顔をした。
 二人がチケットを買うのは一行全員で決めていたことだったので、それをジョースターさん一人に押し付けて、一人で遊びに行くようで気が引けたのだろう。あれだけ強引に私を誘えば、彼らが気を遣うのは当然だというのに、厚意に甘えきれないところがアヴドゥルらしかった。
「なぁに、照れることはない。積もる話もあるだろうし、存分に今までの時間を埋めるが良し!」
 ジョースターさんはお節介を顔中に滲ませて、何故か嬉しそうにアヴドゥルの肩を叩きながら、どこに何があるかなど大まかな位置を説明して、それから意味ありげに薄っすらと歯を見せて笑った。
「ここなら迷うこともないだろうし、『休む場所』もたくさんあるからのォ~」
「『休む場所』?」
「路地を曲がれば何件も……」
 アヴドゥルはカッと目を見開いて、
とはそういう関係ではありませんッ」
と叫ぶと、私の腕を鷲掴みに引っ張った。私は驚きの声を上げながら、ぐんとつんのめる体を小走りに整える。
 アヴドゥルは照れているのか激高しているのか、「有難くお言葉に甘えます!」と告げるなり、もう振り向かずにずんずんと大股に歩き出してしまっている。
 私は慌てて、掴まれていない手でアヴドゥルの腕を引っ張った。
「ちょっと、アヴドゥル!」
 熱くなっているのか、答えが返ってこないので、もう一度呼びかける。
「一回止まって、その、」
「なんだ」
「アヴドゥル、そっちは」
「だからなんなんだ」
「だ、だから『ホテル』なの!」
「何の話だ!」
 アヴドゥルの叫び声に遅れて、後ろでジョースターさんの吹き出す音が聞こえた。
 訝しそうにアヴドゥルは振り返って私とジョースターさんを見てから、また正面に目を向ける。繁華街とは反対側にあるのは、今しがた出てきたのとは違う、連れ込み茶屋のようないかがわしげな路地だ。それに気づくと、アヴドゥルはウッと唸った。またもやジョースターさんが口を抑えて吹き出している。
 私の手首から、アヴドゥルの手のひらが離れる。アヴドゥルは恐る恐るといった風にこちらを窺うと、サッとホテル街に背を向けて、気まずそうに咳払いをした。
 照れくさそうに目を伏せながら、ジョースターさんの元へ戻る。
「……すみませんでした」
「いやいや」
とは言うが、ジョースターさんは息継ぎができていない。
「からかいすぎたわしが悪かった」
 すまんすまん、とジョースターさんは悪びれもなく笑って頭を掻いている。
「余計な詮索をすると、アヴドゥルに誤って殺されかねんからな」
 相変わらず誤解をしたままだったけれど、ジョースターさんの表情はあの優しげな雰囲気を纏っていたので、またアヴドゥルのことを頑なだとでも思っているのかもしれない。
 アヴドゥルは難しく唸りながら、「構いません」と絞りだすように言った。厳しい男がここまで寛容になるのは珍しい。私は見たことのないアヴドゥルの一面を
 知ったような心持ちになった。不意にお腹の方からずんずと付き上がるような気持ちが沸き上がったが、それが何であるのか私には分からない。

 アヴドゥルの頑固さを考慮したジョースターさんの提案で、駅前までは一緒にいくことになった。点在する露店を流し見ていると、
「これくらいは尋ねてもいいだろう?」
と唐突にジョースターさんが言う。むっつりと黙りこんでいたアヴドゥルが、短く「どうぞ」と呟く。さすがのアヴドゥルでも、もう抵抗する気力を失いかけているようだった。
「お二人はどこで出会ったんだ?」
 わざわざ“出会った”なんて言い方をするジョースターさんに私ですら苦笑しかける。あんまりにも徹底しているのだ。しかし「レストランでは上手いことはぐらかされたからのう」と付け加えられると、わざと隠し事をしているようで、話さざるをえない。
 アヴドゥルは空回りしたさっきのこともあってか、ため息を軽く零すと、仕方なしに口を開いた。
「こいつとは、インドで知り合いました。私が知人を尋ねて滞在している時にカルタッタで……こいつは日本からの留学生だったのです」
「ほお~」
 ジョースターさんが興味深そうに私を見たので、紹介されるこそばゆさに照れ笑いを返す。
さんはよくまぁ、こんなカタブツを落とせたな」
「た、大変でした~……」
 無理に話を合わせれば、照れ笑いがギチギチと引きつっていった。眉を寄せたアヴドゥルが目の端に映ったけれど、見なかったことにする。


 約10年前のことだ。留学したはいいものの、私ときたら勉学に励むでもなく、日がなぼんやりと広場に座って人の動く様子を眺めているのが常だった。大学の教授が研究で長く滞在しているというので、そこに下宿してはいたが、そちらも別段何を言ってくるわけでもない放任っぷりだ。また、はるばる異国に来たという思いが、自分を何処か部外者のような、浮いた存在にしてしまっていたのかもしれない。そこには国境ばかりではなく、時代を超えたかのような雰囲気さえあった。
 とにかく、その頃は、眺めることが私の日常だった。
 ある日のことだ。やることもなく、寺院の前の広場で観光客に紛れるようにして立ち尽くしていると、一人の6、7歳ほどの少年が、身丈の大きな青年に手を差し出しているのが目についた。少年は乞食なのだろう。顔は乾いた砂にまみれていて、布切れを身にまとったような服を着ていたので、そう思った。
 別段珍しい光景ではなかったのだけれど、小さな子供が大の大人ですら怯むような身長の、しかも体格のいい青年に手を突き出しているので、興味が湧いたのだ。
 階級性の強いインドでは、裕福な層の人間は下層には大して目もくれない。乞食をして働かずして食おうとするような上手い者もいるので、気まぐれに恵むような光景ですらあまり見かけはしなかった。だから乞食の方も心得ていて、大抵は旅行者をターゲットに決めているものなのだ。特に子供などは徒党を組んで取り囲み、巻き上げるがごとくにせびる集団だっている。広場にはちらほらと外国人の姿があった。それなのに、何故あえてこの青年からなのか。
 お金をせびられているのだろう青年の方もまた、乞食に負けず劣らずといった皺の寄った茶けた服を身につけているのが、更に私の興味を惹いた。とても乞食に恵む余裕のあるようには見えなかった。言ってしまえば、その日暮らしもやっとというくらいに思えたのだ。だから私は、青年がどのようにして乞食に接するのかが気になった。
 はたして断るのか、それならどうやって振り切るのか、それともなけなしのお金を与えるのか──
 青年が、少年に話しかける。どこへ行くことも出来たが、私はとりあえずその様子を見守ることにした。
 会話を聞くには遠いので、声は聞こえない。それにもし聞こえたとしても、その頃の私はあまり言葉がわからなかった。しかし、なんとなく想像だけはすることが出来た。
 青年は恐らく、
「金はない」
というようなことを話したのだろうと私は思った。
 青年が再び何事か言った後、少年は不安そうに見上げて、静かに首を振った。ぐい、と少年が手を出すと、青年も首を振って地面を指した。そうして、石で文字を書き始める。
「これをなんと読むかわかるか?」
と、青年が石で示して言った。少年はわからないと答えた。
 青年は無言で立ち上がり、周りを一望してから、地面から一つ石を取り上げ、立ち尽くす少年の元へ戻って、小さな手を取ってから、少年の手のひらへそのひとつを乗せた。
 たいそう時間をかけて、九つか十ほどの文字を、少年へ教えていたように思う。彼の名前だろう、と私は思った。
 何やら不思議な光景に見入っていたが、ふと青年はお金を要求されていたことを思い出す。それで煙に巻くつもりなのだろうかと怪訝な気が浮かび上がる。
 私が見守る中、青年は石を地面に無造作に投げ捨てると、ポケットを弄り、石を少年の手渡した時と同じように、小さな手を取って拳を手のひらに乗せた。開いた指の間から、光るものが見える。
 硬貨だった。ルピー硬貨が数枚。それが相場なのだろう。
 青年はこれまでだ、というように少年の背中を押して、広場の隅に腰を下ろした。少年は硬貨を見つめて、自分が石でなぞった地面を見おろす。暫くそうしてから、ポケットに手を突っ込んで、細い背はゆらゆらと遠ざかっていった。
 道端に座り込んでいた牛が、不意に低く鳴いた。糞に混じってどこからか花の匂いがする。私は自分の中にあった疑心が、少しばかり恥ずかしくなった。

 自然と、青年の元へ足が向いていた。青年の大きな褐色の体を、私の影がすっぽりと覆う。白い眼球が、すっと私を見上げた。
「なにか私に用でも?」
 彼の口から出た予想外の音に、私は大いに驚いた。訛りのある英語だったからだ。
 インドでは英語を話すということは、教養と階級を示すようなものなのだ。よれた服を着て、地べたに腰掛ける青年に、私はますます話しかけなければならないような気持ちになった。
 私は英語も大して得意ではなかったけれど、騒ぐ詮索好きの虫がどうにかして口を開かせる。たどたどしい英語で、さっきの少年は知り合いなのか、といったようなことを私は尋ねた。青年は首を振って、この辺りに住んでいる乞食だと答えた。それ以外は知らず、話したこともないと。
 興味がそそられた。何故知りもしない少年に、文字を教えたのか。何かお使いを頼んだわけでもない、騙されたわけでもない、まして脅され囲まれたわけでもないのに、お金をあげたのか。
 青年は私の問いに軽く笑って、どこの生まれかを尋ね返した。日本だと答えると、「そうかもしれないな」と一人で納得をしている。
「私はカイロの生まれだが、そこでもおおよそ考え方は同じだ。持っている者が貧しい者に与えるのは当然だ、と思っている。裕福な者ではなく、貧しい者がそう思っている」
 私は「はぁ、なるほど」などと気の抜けた返事をしたが、表情は思案げだったのだろう。青年は隣へ腰を下ろすように私へ促して、石を拾い上げて、先ほど書いていた文字を幾つか地面に掘った。
「それに、知識は金になる。学んで、金を貰うことで、そういう風に思えばいいのだ」
「この文字は?」
 彼の名前だろうかと推測を口にした私へ、いよいよ大きな笑い声が飛んだ。目の前を横切ったハエを軽く追い払って、私は困惑しながら青年の答えを待つ。
「そんなもの」
と青年が笑って、その音を含ませたまま、「数字ですよ」と続けた。
「名前を書くよりも、ずっと役に立つ」
 私は名前に対する、青年の皮肉めいた口調が気になったのだが、後になって、名前にはカーストからくる差別的な意味が含まれているのだと知ることになった。たとえ書き方を覚えようが、少年ほど低い身分だと、誇りにはならないのだ。
 それを知った時、混沌としたインドで、私はアヴドゥルと名乗ったその人だけが好きになった。


 食い下がるアヴドゥルへ、「子供の使いじゃあないんだぞ」とへそを曲げたふりをするジョースターさんの厚意に甘えて、チケットの予約を任せ、駅前で別れる。
 国境の街は伊達じゃない。第二の都市と言ってもいいほどに、もので溢れかえっている。活気もある。それにマレーシアより物価も安い。この機会に必要なものを揃えておこうと、散策がてらに下着を買うと、アヴドゥルが呆れた顔をして私を睨む。そういうことに付き合わせるな、と言いたいらしい。
 適当に謝りながら繁華街を歩けば、やはり露店が目に入る。綺麗に並べられたフルーツから、乾物の店、海老やカニなどの魚介、ドリンクやカットフルーツを盛るデザートの飲食系の屋台から、衣類や雑貨、闘魚なんてものも売っている店もあって、暇はしない。
 何せこれまでの旅と違って一人で眺めて歩くだけじゃなく、今はアヴドゥルとの観光だから、楽しいに決まっている。「あっ」と言えば「ん?」とすぐ横から反応が返ってくるのだ。
 混みあう屋台から美味しそうなスープの香りが漂い、近くで売っているスルメの匂いと混ざって、食べたばかりだというのに何やら食欲がそそられる。
 色々と目移りする私へ、「」とアヴドゥルが呼んだ。その声がくぐもっていたので辺りを見回せば、離れた場所からこちらに手招きをしている。気づかなければ、危うく見知らぬ土地ではぐれるところだ。
「勝手にいなくならないでよ」
「お前が言うかお前が」
 口を尖らせる私へ、ストローを挿したココナッツが差し出される。大きな実なので、周りの皮がごっそりと切り取られた、真っ白の果実が天日に晒されている。
 突然のことに反応できず、眺めるだけでいると、私の顔の前に更にそれが突き出された。
「さっさと受け取らんか」
「わっ、待って!」
 ありがとうと言いながら、ずしりと思いそれを抱えるように持つ。アヴドゥルは自分のココナッツのストローに、早速口をつけている。それにつられて、私も吸い上げる。
 何度も飲んできたのに、不思議と懐かしい味がした。ちょっと生ぬるくて油っぽい水が、喉を通って染みこんでいく。
「インドでは毎日のように飲んだな」
 一緒に染み渡って行くような、穏やかな声が落ちた。
 ハッとしてアヴドゥルを見上げた。今浮かんだ気持ちを、なんと言い表せばいいのか分からなかった。私も、まったく同じことを考えていたからだ。
 しかし感慨深い思いに浸る私の胸を置き去りにして、次の瞬間にはもう、わっと溢れるように言葉が喉元に押し寄せてきた。
「覚えてたの?」
「なに、ココナッツだらけだったからな」
「初めて飲んだ時、私ったら白いジュースが入ってるものだと思って」
「ああ」
とココナッツジュースを飲み込みながら、アヴドゥルが笑いを含ませて頷いた。
「これは熟れてないものなのかと、素っ頓狂なことを言っていたな」
「そうそう、飲んでから実も捨てようとして……!」
「そういえばそうだったな。それがお前の言うココナッツミルクになると知らずにな」
「私、外国人の女だからって、てっきり騙されたんだと……」
 思い返せば思い返すほど、私の疑い深さに落ち込むばかりだ。そう零す私へ、アヴドゥルは笑いながら、
「慣れない場所では、それくらいでないと生きられん」
なんて言っている。慰めでも、温かい言葉だった。いつもそうだ。昔から、そういう男なのだ。
 もしかしたらアヴドゥルは、ココナッツを見た時に、私を思いながら買ってくれたのかもしれない。そう思うと、ぎゅっと胸が締め付けられるようになった。抑えられない嬉しさで突き上げられる。
 私は止めどなく流れてくる思い出を吐き出しながらも、喉元に詰まっている感覚があるのに気づいた。言いたいのに、上手く出てこない言葉があるのだ。むずむずとするが、それがどんな言葉なのか、どうやっても分からない。


 夕飯はジョースターさんが見つけたという、地元で繁盛しているらしい食堂で取った。前に大失敗でもしたのか、ジョースターさんに対して「本当に大丈夫なんだろうな、ジジイ」と承太郎君が零していたが、食べてみれば混んでいるだけあって美味しい。
 タイに来たのだからと燕のスープを全員で頼んだが、とろみがあって舌でとろけるようだった。熱々のそれを扇風機だけの暑い店内で、汗を流しながらはふはふと冷ましながら食べるのだ。鴨肉とニガウリの炒めものや、スープの透き通った魚介のラーメン、とろりとした卵の黄身が乗った豚ひき肉のハンバーグや、鶏肉とキャベツのターメリック炒め、それからトムヤムクンなどという料理を並べて、二つのテーブルを陣取って食べる。
 ジョースターさんから、明日は鉄道とバスで向かう予定を聞かされた後、国境近いからかどこかでテロがあったらしいとか、はたまた値切り交渉が面倒だとか、トイレがハズレだったとか、取り留めもない話をしながらの夕食は、食事をまた美味しくさせる。
 しかし問題はそこからだった。

 ホテルのロビーに戻り、ジョースターさんから渡された部屋の鍵を見つめて、呆気にとられたまま停止する。私の手に乗っているのは、ひとつの鍵だ。普通なら、それでいいのかもしれない。でも、これは私が取った部屋と違うのだ。そして問題は、3部屋しか用意されておらず、私とアヴドゥルには、この一つの鍵しか用意されていないということだ。
 誰がどうしてこんなことをしたのか、全て私とアヴドゥルには分かってしまっている。何せ、勘違いの末に、散々からかわれお節介を向けられたのだから。
「さ~て、俺はシャワーでも浴びてこよっかなぁ……」
 白々しい呟きとともに、鍵を手に立ち去ろうとしたポルナレフ君に、アヴドゥルが「ポルナレフ」と厳しい声で呼び止めた。
「あ?」
「お前、一人部屋がいいなどと言っていなかったか?」
 アヴドゥルの問いにそら来た、と言いたげに振り返ると、「いーや」とやけに間延びした声で、ポルナレフ君は返事をした。
「それはいつもの話で、旅をしてりゃドミトリーにだって泊まることもある。今日はそういう気分なのさ」
 ポルナレフ君はそう言って私にウィンクを投げかけ、もうアヴドゥルの言葉なんて聞かずに部屋へ歩いて行ってしまうのだ。彼が協力者であることは間違いなかった。
 承太郎君の方は、我関せずといったように、「俺も先に行ってるぜ」と花京院君から鍵を受け取って、ポルナレフ君の後を追っていく。
 二人の背中に零したアヴドゥルのため息が、気分を重くさせる。素泊まりでもう一部屋取り直そう、とフロントへ向かおうとするアヴドゥルを、ジョースターさんが引き止めた。
「なんだ、一緒の部屋だと、間違いでもあるのか?」
 ぴたりと、アヴドゥルが足を止めた。
「……なんですって?」
「わしらは明日出発するし、変更もできん。今日を逃したらさんとはいつ会うかも約束はせんのだろう? “友人”なら、話しても足りんと思って気を使ったのだが……」
 ジョースターさんはとびっきり残念そうな声色を絞り出して、アヴドゥルの背中へストレートに投げかけた。
「“そういう仲”の二人には、余計なお節介だったのう」
 ぴくりと揺れたアヴドゥルの肩に、私は額を抑えた。もう駄目だ。冷静なようで、挑発には本当に単純に乗ってしまうのだ。
 それまで見守っていた花京院君は、とりなしてくれるのかと思いきや、「道理で」と得心したように声を漏らした。
「お付き合いというのは冗談かと思って話に乗っていましたが、いくら友人とはいえ、礼儀正しいアヴドゥルがさんには荒い言葉を使うので、変だとは思っていたんです」
 アヴドゥルがおもむろに振り向く。真顔で表情はまったく動かない。熱くなっている証拠だった。
「ジョースターさん、本当にあいつとは何も……」
「エジプト人は婚前交際にキビシーからの~」
「だから私は……」
 最後の抵抗とばかりに、何度も繰り返した抵抗をジョースターさんへ語りかけているが、暖簾に腕押しというやつだ。元凶の私といえば、良心にぐさぐさと罪悪感が突き刺さって気が気ではない。下手なことを言うと拗れるので、口をつぐんでいたが、つい、
「私のことは気になさらず……」
と口走ってしまい、ジョースターさんの満面の笑みに迎えられることになった。しまった、と思っても遅い。
さんもこう言っていることだが……アヴドゥルがどうしてもというのなら、わしと部屋を交換するか?」
 安心じゃろ? と付け加えられた言葉は、わかりやすいほどに誘い出している。しかしそれに、判断力の鈍ったアヴドゥルが頷くのは早かった。
「このままで構いません」
 えっ、と思ってアヴドゥルへ顔を向ける。眉を寄せた気むずかしい表情のアヴドゥルは、正面を見つめたまま、

と私の名前を呼んだ。私も私で厳しい口調で呼ばれると、思わず背筋を伸ばして「はいッ」と返事をしてしまう。
「お前も構わんな?」

 もう代金はジョースターさんが払ってしまっているのだという。昼食も夕飯も、安いというのにご馳走になってしまっていた。ジョースターさん達が『厚意』と言い張るこれを、私が断れるというのなら断ってみたい。
 アヴドゥルをからかおうと思いついたのがいけなかった。義理堅い男を弄ぼうなんてやましい気持ちで近づいたから、バチが当たったに違いなかった。
 相変わらず正面を睨みつけたままのアヴドゥルに頷いて、私はがくりと項垂れ、弱々しく「構いません……」と返した。



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14/08/17 短編