04


 部屋に入って、ホッとした。ツインベッドだった。
 これがダブルベッドで枕がぴったりとくっついているのを見たならば、すぐさまフロントへ吹っ飛んでどんな高い部屋だって空いてれば借りただろう。幾ら意地っ張りなアヴドゥルだって、そうしたに違いない。でも可哀想だけれど、ダブルベッドを見て、面食らった顔を晒すアヴドゥルを想像するのだけは面白かった。
 12月でも、暑い日だ。風は緩やかと言うにも微弱で、時折カーテンの影が密かに揺れるくらい心もとない。冷房は合わないと言うアヴドゥルに合わせて、熱を吸い込んだ体を冷ますように、私は備え付けの扇風機のスイッチを入れた。
 ぬるい風を受けて一息つけば、汗でべたついた肌を自覚する。旅を始めてからシャワーを浴びないことなんてザラなのに、大して気にならなかったことが妙に頭を支配する。
 アヴドゥルはマントを脱いで椅子にかけると、窓に面したベッドへ荷物を下ろした。水の入ったペットボトルが取り出されるのと同時にキャップが外され、口元に吸い込まれる。アヴドゥルは砂漠から生還したかのように、喉仏を上下させて豪快に水を飲み込んでいる。排水口に流れるみたいに、ペットボトルはすぐに空になった。それはサイドテーブルへ無造作に立てられ、倒れることなく収まった。
 アヴドゥルから漏れた深い溜息が、私を壁際へ押し出しているような心地がする。居心地が悪い。パーソナルスペースをもっと空けろという強迫観念にかられる。それもこれも私の悪ふざけがいけないのだが、この場合のそれもこれもは、わざと話を拗らせたジョースターさんと、恐らく面白がっているだけの一行だ。
 部屋に同意してから、しかめっ面でむっつりと黙ったままのアヴドゥルは、ベッドに腰を下ろしても変わらない。
 私は肌に張り付く髪までもが気になりだした。汗がやけに気になる。落ち着かないのはそのせいなのだ。
 私に背中を向けてベッドに座り、地図を開いているアヴドゥルへ、何か話しかけなければと思った。でもそう思うほどに、胸が重くなって、喉に声を詰まらせてしまう。
 壁際のベッドの上からアヴドゥルへ体を向けて、大きく息を吸い込む。
「あのさ!」
 いつも通りを装ったつもりだった。けれど耳にしてみると、私のトーンは大仰でやけに明るい。無理に話そうとしたことに後悔をした。扇風機だけの生ぬるい空気が停滞しているこんな部屋では、空々しさだけが際立つ。
 幸いなのは、「なんだ」という、堅いアヴドゥルの声が返って来たことだった。
「……シャワー、先に浴びていい?」
 私の声も、ガチガチに堅かった。数秒の沈黙が落ちる。1メートルと数十センチの距離を、じわりじわりと、羞恥が遅れて忍び寄ってくる。居たたまれない雰囲気に満たされる。自分の声を思い返して、しまったと私は顔を顰めた。意思に反して頬が染まっていく。
 撤回したい。できるものならさっきのは違うって撤回をしたい。でも違うってなんなの? ただ普通にシャワーを浴びるって告げただけじゃない。撤回する方が、深読みしてるみたいで恥ずかしいことになる。
 悶々とする私へ、さっさと返事をしてくれれば良かったのに、アヴドゥルは気がかりで不自然な間をたっぷりと空けて、ようやく「……うむ」と呟いた。外で騒いでいた数時間とは、明らかに様子が違っていた。声の中に、僅かに緊張を感じ取る。
 私はもう耐えられなくなって、「じゃあ」と呟きながら、わざと乱暴にリュックを漁って着替えを取り出すと、逃げこむようにバスルームへ飛び込んだ。

 扇風機が唸っている。
 シャワーを浴びてしまうと、幾分か平静を取り戻した。アヴドゥルもスッキリした私の様子に笑みを返したので、調子が戻っているような気配がする。
 しかしベッドに埋もれてだらけてみるも、入れ替わりにシャワーを浴びる気配もなく、難しい顔に戻ったアヴドゥルは、やはり私へ背を向けて、ただひたすらにベッドに座り込んでいる。
「どうしたの?」
「隣の部屋」
と、アヴドゥルが淡々とした口調で、呟くように言った。
「聞き耳を立てている」
「えっ?」
 部屋には、窓と壁と平行にベッドが並べられている。その丁度頭側の方向が、ジョースターさんとポルナレフ君の部屋だ。薄い壁一枚といったアパートのような安ホテルではないけれど、高級ホテルというわけでもないので、隣の物音はそれなりに聞こえる。そういえば先ほどまでは笑い声が鈍く聞こえていた気がするが、今はしんとして静まり返っている。
 壁をちらりと見遣ってから、「まさか」と笑おうとしたが、私はアヴドゥルがそこまで突飛なことを言っていないと思い直した。お節介だか、アヴドゥルを心配しているのか知らないが、どちらにしても世話焼きの理由をいいことに、半分は、いやそれ以上に面白がっていることは確かなのだ。
 もうとっくに諦めきっている私は、どうせ明日別れれば、彼らもすぐに飽きるし忘れてしまうだろうと思って、頑なに背を向け続けているアヴドゥルに苦笑を漏らした。
「でも、いいじゃない、聞かれて困ることもないでしょ?」
 深いため息と共に瞑っていた目を開いて、すっとアヴドゥルの体が私へ向く。気難しさを形にしたような鋭い目が寄せられる。
「こいつを渡された」
 分かるか? と続いて掲げられたものを見て、私は口を開いたまま硬直した。全身が真っ赤に染まるくらい、恥ずかしさに熱くなる。
 褐色の無骨な指でつまみ上げられた正方形の小さな個包装は、どれだけ見つめようと、それだ。私は紅潮した頬を抑え、額に手を当てて、眉間を揉む。さっきの雰囲気もあって、不覚にもうろたえてしまった。
「避妊具くらい分かるに決まってるでしょ! もう……」
 石頭で強情一徹のアヴドゥルがそんなものを持っていると、余計に生々しいのだ。居た堪れないなんてものじゃない。
 まともに目も合わせられずに、あぐらを掻いた足に萎むように丸まる。うーうー、と言葉にならない唸り声ばかりが漏れだしてくる。
 頭を抱えて目を瞑り、暗闇に脈絡のない自分の思考を駆け巡らせると、次第に沸騰していた頭が冷めて来て、私は吐き出せずに心に沈殿したむず痒さに泣きたくなった。
 迷惑をかけすぎた──
と、さっきまでは少しも感じなかったのに、申し訳ない気持ちが急に沸き上がってくる。
「……ごめんなさい」
 気づけば弱々しい謝罪が、口をついて出ていた。
「こんなおかしなことになると思わなくて……ほんとにごめん」
 アヴドゥルはどんな顔をして聞いているのだろうか。確かめるのが、少しばかり怖かった。


 こんなことが前にもあった。
 アヴドゥルに、エジプトの住所を尋ねた時だ。
 その頃の私は既に大学を卒業をして、教授の助手としてインドに滞在をしていた。まだ一年程度だったのに、自分の居場所はここではないというような思いに取り憑かれて、辞める決意をしていた。でもそれは前々からの事だった。
 単なるホームシックからかもしれないし、ほとんど流れのままにエスカレーター式で決めてしまった自分の行く先が、インドという場所にいると味気なく薄っぺらく思えて、耐え切れなくなったのかもしれない。離れてしまうとその時の葛藤や不安は遠ざかって忘れてしまうもので、もうはっきりとは思い出せない。
 それでも私が長くインドに居座っていたのは、アヴドゥルがいたからなんじゃないかと、今になって思うのだ。私は友人として対等に接していながらも、アヴドゥルの生き方に、憧れているフシがあった。
 インドにいても、わたしはいつも“部外者”で、いつでも“帰る場所”があると思いながら暮らしているから、何年いようと溶け込めない。どんな場所へ行ったって、いつかは去るという思いがあるから、何を見ても他人事なのだ。無責任を当然のように受け入れて、延々と、ぬるま湯につかったままでいる。
 アヴドゥルはあの国を好いていたけれど、私には乾いた空気も糞が混じった土も、郊外の痩せた土地、じりじりと日に焼かれる人びと、溢れかえる孤児や乞食、焼かれることなく川に打ち捨てられる死体の数、好奇を失った目──それらをどうしても抱えきれなかった。だからといって目を逸らしたり、無視をすることもできなかったのだ。事象がひとつひとつ積み重なって、私の心にのしかかり、重みに耐え切れずにいつか無関心になっていくことが恐ろしかった。
 私が悄然とした日々を送っていたある日、アヴドゥルが「そろそろエジプトへ戻ろうと思っている」と私へ話した。突き動かされるような衝動があった。
「私もここを出て行くつもり」
 驚くほどあっさりとその言葉はこぼれ出ていた。アヴドゥルがいなくなってからのことを考えた瞬間に、私はインドを離れることを決めていた。きっと、取り残されるのが嫌だったのだ。私が滞在できたのは、アヴドゥルがいたからのようなものだった。
「住所、教えてよ」
 手紙を書くからと言うと、アヴドゥルは何故か笑いながら返事を濁した。
「なに? どうしたの?」
 私が追求すると、それがだな、とアヴドゥルは言いにくそうに唸りながら、
「お前にからかわれるようで恥ずかしいが……住所は、忘れてしまったのだ」
と頬を掻く。そんなことがあるものかとは思わなかったし、寧ろずっとインドにいたせいでアヴドゥルにも抜けたところが出てきたのだと、笑いそうになった。
 口元を緩ませながら、それならと、私は自分の住所を紙に書きなぐって、まだ苦笑いを浮かべているアヴドゥルへ差し出す。
「これ、私の住所だから、あっちに着いたら送ってくれれば……」
「いや」
 突然、アヴドゥルが遮った、思いの外強い語気だった。
 驚いて言葉を飲み込んだ私に気づいて、アヴドゥルは声の調子を整えるように咳払いをした。
「すまない」
 続いたのは、やけに穏やかな口調だった。まるで子供に教え諭すようだったので、私は知らずの内に眉を寄せてしまっていた。
「俺はバスで帰るから、長旅になる。途中で落としてしまったら、お前に迷惑をかける事になる」
「そんなの、」
、とアヴドゥルが名前を呼んだ。有無を言わせない、強い声色だった。私の喉が勝手にきゅっと締まる。出すはずだった言葉がつっかえる。
「エジプトに来たら、広場の乞食に聞いて俺を探してくれればいい。そこでも占いをしているから、すぐに見つかる」
 アヴドゥルは紙を受け取らずに、ただ、それだけを伝えた。


「……ごめん」
 今と記憶が二重になって、声が震えてしまった。
 あの時、ショックでならなかった。
 真面目なアヴドゥルのことだから本心だってことは分かる。でも、そうなのだろうけれど、反対の耳には、迷惑だと断られたのだと囁く、もうひとりの私がいた。
 考えないようにしていてもやはり胸のしこりは消えずに残っていて、どんなに仲直りをしようと、その時の居たたまれない気持ちだけは過去にはなっていなかった。いや、あの頃の距離を取り戻そうと過去を思い返す内に、心にあったしこりまで、いつの間にか当時に近づいてしまっていたのだ。
 それは、何でもあけすけに話し合ったアヴドゥルに大して、私が唯一感じた壁だった。とてつもなく大きな壁のように思えた。そして数年経っても、立ちはだかっているんじゃないかと。
 それがどうしようもなく寂しくて、親友なんて関係は、本当は自分だけが感じているものなんじゃないかと、不安で私を焦らせた。アヴドゥルは信頼していない人間に、優しくなんてしない。そんな器用な人間ではない、と思っても、住所を断られたためにできた数年の空白が、私とアヴドゥルの心の差を表しているような気がして、接し方すら、忘れてしまったような思いにさせた。
 だから、距離を置かなければそれに支配されてしまいそうだった。ちょっとした冗談でも言って、からかいながら、ほんの僅かな隙間を隠してしまいたかったのだ。
「迷惑をかけるつもりじゃなかったの」
 急に、どくどくと鼓動が早くなった。もし。自分でも驚くほどか細い息が出た。続けようとしている言葉が、単なる気遣いじゃないことは、自分でも感じ取っていた。深くて黒いものが混じっている。
 再会した時からひらひらと目の前をちらついていた疑問だった。それがたった数時間で、我慢できないほどに大きくなっている。どうしても、聞きたくなかった。聞いてはならないような気がしていた。無視しなければならない、と見て見ぬふりをしていた。それがどうしてなのかも。
「もし、」
 緊張で、体がガチガチに硬くなる。私は、これだけは言ってはならないと思いながらも、口を滑らせてしまった。
「決めた人でもいたなら……」
「そんなものはいない」
 アヴドゥルが笑う気配がした。私の胸が後悔でつぶれる前に、アヴドゥルの低い声が楽しそうに空気を揺らす。
「お前こそ、その様子じゃあいなそうだがな」
 私は不意の仕返しを食らって、「うっ」と呻きながら、ますます頭を垂れた。耳までが真っ赤に染まっていく。

 ピンと張っていた糸が緩んで、アヴドゥルに感じていた硬さも柔和になると、私はこれまで抱えていた黒々とした子供じみた不安が、急に恥ずかしくてたまらなくなった。
「いつも仏頂面してるから、からかってやりたくなっただけなの」
 それなのに、拙い言い訳を重ねてしまう。
「久々に、会ったし……」
「構わんよ」
 続きを押しとどめたのは、やわらかな声だった。
「俺は心から否定するほど、お前を疎んじてはいない」
 意味を解するまで、時間がかかった。
「ら、らしくないこと言わないでよ」
「うむ……」
 そうしてアヴドゥルは考えこむと、
「俺のキャラじゃあないな」
 穏やかに笑うので、こちらが照れ臭くなる。ぎゅっと胸が締め付けられる。

 むずむずとして落ち着かなかった。妙な気持ちが込み上げて何度も何度も振り払う。もしこれが狙いなのだとしたら、ジョースターさんの思惑通りになっている気がしてならない。
 私はいい加減にこの状況を打開したくて、そちらの冗談を言ってみることにした。
 アヴドゥルは謙虚のふりなんてしているが、自信家なのだ。礼節をわきまえるだけで、そんなところは全然隠しきれていない。コンドームなんてものでからかわれたことと、住所交換を突っ返した仕返しに、その辺りを、ちょっとだけ弄ってやりたくなった。
「それで?」
 アヴドゥルは「ん?」と言って、遅れて私へ視線を寄越した。
「そっちは自信あるの?」
 私は顔を上げて、にやけながらアヴドゥルへ目を向けた。さぞかし慌てふためいて、その後で眉を寄せながらむっつりと説教など始めるかと思いきや、きょとんとした真顔が、隣のベッドから私を見つめ返してきた。
「分からん」
「え?」
 まさか……と思って罪悪感すら抱きながら、動揺を見せない男を穴が空くほど見続けていると、
「若い頃に一、二度経験したが、そちらの技術はどうなのか分からん」
というようなことを至って真面目な顔でアヴドゥルは言った。
「は、はぁ……」
なんて、気の抜けた声が溢れて、呆気にとられてしまったのは私の方だった。それを見て、アヴドゥルは好戦的にニヤリと笑う。
「だからお前が試したいと言っても、保証は出来んぞ」
 私の肌はいよいよ真っ赤になった。シャワーを浴びたばかりなのに、体が火照って汗が滲んでいる。
 してやられた──と思った時にはもう遅かった。
「な、何サラッとセクハラかましてきてんの!」
「ハッハッハッ」
「ハッハッハッじゃなーい!」
「照れた顔はなかなか可愛いと思うぞ」
「う~~~~~」
 人差し指を軽く振りながら、調子に乗っている目の前の男ときたら腹立たしい。
 しかし呻けども呻けども、上手い返しは浮かばない。私はアヴドゥルのペースに、完全に飲み込まれてしまっていた。
 その間もアヴドゥルは愉快極まれりといったように、睨みつける私を、ここぞとばかりにおもちゃにしている。扇風機はちゃんと動いているのか。外の風はどうした。暑くて暑くてたまらない。
「ポルナレフのやつには見せられんなぁ、ハッハッハッ」
「ハッハッハッじゃなーい!!」
 叫びながらも私は、聞きなれない音を耳にしたような気がした。
 何かが鳴る。小さくて消えてしまいそうな音が。どこからか。それだけはわかる。胸の下の、心のずっと奥深いところから聞こえる。何かが実るような、静かな音が。

 そうだ──
と私は思い出した。
 私がインドを離れると決めた時、いや、別れの日のことだ。下宿先から空港までの短い距離を、昼ごはんを食べに行くみたいに、私達はいつも通り変わらない軽口を交わしながら向かった。数年を過ごしたインドを発つのは、私にとって前に進むための決断だった。ずっと流れるままに生きてきた私にとっては、大きな決断だったのだ。アヴドゥルはそれを知っていて、わざと湿った空気を避けてくれたのかもしれなかった。
 空港のロビーで、ぎこちない挨拶を交わした。アヴドゥルはまた訪れることもあるだろうけれど、私はもう戻らないかもしれないとアヴドゥルには事前に告げていた。インドで会うのはこれが最後かもしれないと。
 エジプトには、いつ行けるかわからない。もしかしたら、行かないかもしれない。確かに変な意地が働いて、暇が訪れようと、私はアヴドゥルを探しに行きはしなかった。だから私は、「元気で」と別れを告げようとした。アヴドゥルは手でそれを制した。
「今度来る時も、俺を呼べ」
 普段通りの、のんびりと朗らかな口調だった。呆気にとられる私に、目の前の男の目が細められる。
「どうせお前はまた、一人で歩くんだろう?」
 そう言うなり、アヴドゥルは何がおかしいのか、大口を開けて愉快そうに笑っていたような気がする。
 下宿先のベルを鳴らして、何度だって怒りに来たアヴドゥルとの思い出が私の胸に雪崩れ込んで、荷物と一緒に整理したはずの感情をぐちゃぐちゃにかき回した。
──遠出の際には必ず付き添う
 アヴドゥルはそう言っていたはずだ。いつだって心配をしてくれていた。気にかけてくれていた。一人で歩くななんて、子供のような扱いで。
「……わかった、絶対に呼ぶから」
 少しだけ詰まった私の声に、アヴドゥルは満足そうに頷いて、
「誓うな?」
と尋ねた。空港のロビーに、下宿先の前の街並みがぱっと広がった。
 あんまりにも予想と違う離別になった。
 もしかすればもう二度と会わないかもしれないというのに、別れを言わない別れに後悔はなかった。涙ながらに励まされるよりもずっと、私は背をぐんと力強く押された気がしたのだ。
 思い出だから、そう思うのかもしれない。けれど、アヴドゥルが最後まで約束を守ってくれたのだけは、確かだった。
 再会した時に、渋る私を強引に誘ったのだって、アヴドゥルらしくない。ジョースターさんにあれだけ気を遣っている男が、一行を顧みないで、私を誘うなんて。
 だから、今でも、もしかすると──


 灯りを消した暗がりで、とくりとくりと鳴る心臓の音を聞く。静かな夜が体に染みこんできて、私の胸の鼓動だけが心を覆い尽くす。
 私はもう隠し切れないことを悟った。忘れようとしても、結局思い出してしまう。風化してもいいような、情景の細かいところまで、はっきりと。そっと胸の奥に手を伸ばしてみた。埋めるようにしてきた言葉を手のひらに抱えてみると、思いの外新鮮な香りがする。
 胸に広がり渡るその匂いを噛み締めながら、私はシーツを被ったベッドの上で、静かに呼吸を繰り返した。隣のベッドで、私に背を向けて横たわるアヴドゥルは、起きているのか寝ているのか分からない。規則的な呼吸は、帳の空気を静かに揺らしている。
 私は少しだけ耳を澄ました。まだ隣の部屋のお節介な彼らは、熱心に聞き耳でも立てているのだろうか。
 音を立てずに起き上がって、カーペットに足先で触れる。ふにゃふにゃのスリッパはやわらかく足にくっついて丁度いい。カーテンは朝寝坊をしないように、半分だけ開けていた。ネオン街か遠くに明るい一帯が見えて、そこに重なるように、うっすらとアヴドゥルの寝顔が映る。胸で熱が膨れ上がって、私は思わず緩んだ頬を引き締めなければならなかった。
 ベッドの端に腰掛けたまま、私は小さく「アヴドゥル」と声をかけてみた。返事はない。扇風機の音だけが絶え間なく部屋に満ちている。
 私は大きく息を吸った。鼓動が鞭打たれたように激しくなる。
「すき」
 足りないような気がして、もう一度呼吸をする。
「ずっと好き」
 まどろみに溶けるような呟きだった。アヴドゥルはゆっくりと呼吸を繰り返すだけで、やっぱり返事はない。窓の外に真っ暗な夜と、眠らない一帯が紫色に空を染めているだけだ。
 荒い心臓を必死で鎮めながら、私はアヴドゥルに背中を向ける。シーツを掴もうとする手が震えた。それでもなんとか体に掛けて、こわごわとベッドに寝転んだ。それでも満足だった。私の心は、長年の凝りがとれたみたいにすっきりとしていた。
 目を瞑る。耳鳴りが高く上る。荒くなる呼吸を頑張って押し殺す。脳裏を私の声が何度も何度も流れた。恥ずかしさに転がりたくなっても、我慢をした。
 瞼の裏には、窓越しに映ったアヴドゥルの顔が浮かび上がる。
 私は頬に力を入れて、にやけそうになる口元を引き絞った。聞いていた。アヴドゥルは、聞いていたのだ。私が見ていることなんて知らないで、目を開けて、じっと私の声を──
 羞恥に悶絶なんて、していられなかった。

 まだまだ鼓動は落ち着かない。ぐるぐると体中を思考が駆け巡る。
 もしかしたら、今までみたいに冗談を言い合うことなんてできなくなってしまうだろうか。でも、不思議と後悔はない。どうせ、次はいつ会えるかなんて分からないのだ。本当にしわくちゃになるまで会えないかもしれない。これは、最後のチャンスかもしれない。
 だからちょっとくらい言い逃げしたっていい。アヴドゥルも、ちょっとくらい悩んでくれたっていい。ちょっとくらい、動揺してくれたっていい。今まで散々期待させてくれた分、ちょっとくらい、眠れない夜があったって。
 私は背後の呼吸を振り切るように、思いっきりシーツを頭から被った。狭い暗がりに、アヴドゥルの笑い声が耳にこだまする。穏やかな声も、私を呼ぶ声も、慌てた声も、それを紡ぐ厚い口元も、大きな手も、力強い腕も、太い眉も、困った顔も怒った顔も、好きだ。ぜんぶぜんぶ好きだ。気づいてるのか、このやろう。気づいててあんなに優しくするんですか、このやろう。
 枕に顔を押しつければ、ため込んだ全ての思いが胸の中に止めどなく流れこんでくる。もう、我慢なんてしてたまるものか。絶対にしてやるものか。
 今度は、アヴドゥルが抱える番なのだ。石のように固い頭に、私の一言を刻み込んでくれればいい。それはもう、じっくりと。奥深い実に気づくくらいに。

 私たちの夜は、長いのだ。



|終
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14/08/17 短編