声よ、めくらの声よ

01


 ラノーンから出港し、丸一日航海をすると、ミャンマーのシットウェに着く頃には、私の酔いは限界点を越える瀬戸際でなんとか耐え忍んでいるような状態で、船を降りると些か目が回った。旅の間にも何度か船には乗ったけれど、ここまで酔いはしなかった。きっと寝不足がたたったに違いない。平衡感覚が鈍っているのを感じる。
 それもこれも──
と思って、船のタラップを降りてくる褐色の男を恨めしげに睨めつけるが、素知らぬ顔でポルナレフ君に声をかけている。
 ため息を付いて額に手を当てた。頭がぐるぐるとして気持ちが悪い。
 ジョースターさんには、最後の最後までまんまと乗せられている。ハジャイで別れる予定だったのに、駅まで見送りに行けば、
「ほれ、何をやっとるんだ」
と一緒に電車に乗せられてしまったのだ。どうやらアヴドゥルと私が観光なんてことを呑気にしている間に、私の分のチケットまで購入してしまっていたのだという。
 事前にビザを取得していることを話していたので、そんな誘い方をしたのだろう。
さんの旅を邪魔するつもりじゃあない。カルタッタまでは確実に行けるはずだから、好きなところで別れても構わんのだし」
 いいじゃろ? と気のいい笑顔を見せられてしまえば、目的もなくふらついている私は、引っ張られるようについて行ってしまうというものだった。

 俯きながら酔いを収めようと息を整えていると、アスファルトを擦る足音がこちらへ近寄ってきた。緩い吐き気に揺られ、視界にスモークを当てられたような暗い気分の中でも、反射的に期待が胸に差し込む。
「船酔いは問題ないか?」
 案の定、かかったのは期待した通りの低い声だ。それに安堵が広がっていくのに、どうにも、素直に表すのは出来なかった。
「大丈夫、少し……疲れてただけ」
 はにかむように言うも、覇気はなかった。
 そうだ、疲れているのだ。アヴドゥルにゆっくりと話す自分の声を、頭の隅で聞く。私の冗談に端を発して、一行にあれよこれよと外堀を埋められ、散々な思いをした。そういう気疲れもあるけれど、そうじゃない。私は、私は告白をしてしまったのだ。今、私の体調の気遣いをしている、この男に。それを確かに、アヴドゥルは聞いていたはずなのに。
「一度吐いてしまえ、その方がすっきりする」
 こいつめ──と私は心の中で悪態をついた。アヴドゥルときたら私とは正反対に、ピンピンしているのだ。まるで悩んだ様子がない。私だけが悶々とした夜を過ごしたみたいじゃないか。いや、“みたい”なんかじゃない。絶対にそうに決まっている。
 昨日の朝、起きた時だってそうだった。

 アヴドゥルは早起きのたちだから、恐らく空が白む頃からまどろんではいたのだろう。開けていたカーテンから差し込む日が強くなってきたのに、
「ム……」
と呻いて、次いでベッドのシーツが擦れる音が響き、アヴドゥルが起き上がったのだと、私はすっぽり被ったシーツ越しに想像をした。
 ようやく訪れた眠気に落ち着き始めていた頃だったので、背後を意識した途端、ドクドクと心臓が早足になって、息苦しかった。でも私はアヴドゥルに告白してしまった手前、どんな顔で目を合わせればいいのかわからないのだ。我慢して息を潜めているしかない。
 暫くの間、耳だけで相手の様子を探った。カチャリと時計を確認したような間があり、それからトイレやら歯を磨いたり顔を洗ったりする物音が続いた。ひとつ音がする度に、体がぎしぎしと硬くなっていく。
 アヴドゥルの支度が終わったかと言う頃、私のベッドの足元を通り過ぎる気配が不意にピタリと止まり、、と私の名前が呼ばれた。息が詰まる。鼓膜まで震えるほどに、脈が早まって顔が熱くなった。ああどうしよう、どうしよう。目を思い切り瞑って、続く声を待っていると、
「そろそろ起きた方がいいぞ」
なんていう、存外普段通りの言葉が降ってきたのだった。
 肩透かしをくらうのとは違う。ほっと安堵したような、がっかりしたような、いやそれらが綯い交ぜになって、少しだけ萎れた気持ちになった。
 声をかけられたら、無視もできない。もしかしたらこの後で、返事をくれるのかもしれないのだから。
 そういうふうに、頑なにシーツに丸くなっていたくなる自分を励まして、恐る恐る起き上がった。やはり目は見れなかった。顔を合わせるに忍びなくて、わざと目をこすったり寝ぼけたふりをして頭を掻いてみたり、頬をさすってみたり、挙動不審になってしまう。
 自然にしたほうがいいのだろうか、それとも答えが来やすいようにあからさまにしていたほうがいいのだろうか、と焦りでしどろもどろになっていると、突然ぱっと部屋が明るくなって、私は窓へ顔を向けた。
 細めた目の先では、光を背負ったアヴドゥルがカーテンをいっぱいに開けて、快活に笑っている。
「見ろ、気持ちのいい朝だな」
 それは、朝日を共有した者にしか感じられない、じんとくる瞬間だった。朝だけに見られる、透明で澄んだ色をした光は夜の冷たい空気が少しずつ暖められ、溶け出していく境目の時間。そんな空間で、笑いながら私を呼ぶアヴドゥルの姿に見惚れつつも、私は同時に理解してしまった。
 きっと、そうだ。夜の声は、この光に全て消えてしまう。私への答えは、返ってくることはないのだ、と。

 また知らぬふりをする気だ、と思った。住所を教えなかった、あの時のように。
 嫌なら嫌と、迷惑なら迷惑だと、はっきり言ってくれればいいのだ。それなのに、どうしていつも有耶無耶にしようとするのか。気ばっかりを持たせて、いつもいつもそうだ。
 今度は、友情なんかじゃない。ただの信頼なんかでもない。そのどちらも全部を覆い尽くした恋に、私は気づいてしまったのだ。そしてまたその気持すら無視をされることには、耐えられそうになかった。
 とてもじゃないけれど、私にはこの気持をどうすることも出来そうにない。いつの間にか、こんなに大きく膨れ上がってしまっていたなんて、思いもしなかった。気づきもしなかったのだ。

 押したり引いたりしていた吐き気がまた強くなる。船に乗っている間は一度も吐かなかったが、それがまた体内に不快感を貯まらせているような気さえする。
「いいの、大丈夫だから」
「しかしお前、顔が真っ青だぞ」
 思わず、伸ばされたアヴドゥルの手を振り払ってしまった。慌てて「ごめん」と呟く。視界が未だに揺れている。
「……本当に大丈夫だから、ほっといて、お願い」
 やはり、アヴドゥルの顔を見ることは出来なかった。酔いのせいもあって、気弱になっている。理不尽な苛立ちも沸き上がってくる。この調子だと、カルタッタに着く頃には、修復できないほど険悪な仲にでもなっているかもしれない。それも私だけが、一方的に。
 私は俯きがちになって、船長と話しをしているジョースターさんへ歩み寄った。
 船は積み荷を載せてから、また夕刻に出発するという。私はここで別れた方がいいのかもしれないと思った。どうせ何することなく、ひと月近くマレーシアに滞在していたのだ。今更先を急ぐ旅でもない。
 青い顔でここで降りることを説明すると、ジョースターさんは驚くでも別れを惜しむでもなく、意外にもあっさりと頷いた。理由を尋ねることもしない。
 利己的な事情だと知られるのは、あまりにも情けなくて、これ以上拗れて行けば、思い出すのさえ憚られる記憶になってしまいそうだ。だからその反応は寂しくもあったけれど、今の私にはちょうど良かった。
 渡航中も、ジョースターさんは私とアヴドゥルの間にある変化に気づく様子もない。
「それじゃあ、まずその船酔いを治すかのォ」
とジョースターさんは呟くように言った。思案げに顎を擦っていたかと思うと、また頷く。
「いい方法があるぞ!」
 ウィンクを投げかけて愉快そうに私の背中を叩けば、早速ジョースターさんは承太郎君やアヴドゥルへ、私と用を足しに行くことを伝えて、通りすがりのサイカーを華麗に捕まえると、船酔いに唸る私を半ば無理矢理に押し込んだのだった。


 サイカーの乗り心地は、吐き気を催している身には、お世辞でも快適とは言いづらい。町中で吐しゃ物をまき散らしたくはないので、気を紛らわすために、必死で景色を見るのに専念することになる。
 国境近くの町というのは、宗教を利用した政治的対立の格好の的となりやすく、あまり情勢は安定していない。ハジャイ駅もテロ対策で乗降者が比較的厳しく監視され、それでも流れる人の波に活気があったが、シットウェは港町ということもあるせいなのか、街路樹が道幅に沿うように点々と影を作り、のどかな町並みが続いている。
 途中、一本道にずらりと並ぶ市場を見かけたが、午後を過ぎたばかりのためか、人はまばらで閑散としていた。サイカーの男はジョースターさんと私が市場に興味をもったことを知ると、それは野菜市場だと説明をした。幾らかの英単語は分かるらしい。殆どは地元の言葉を話していたが、時折挟む英語のお陰で、何を話しているのかは予想できた。しかし多民族国家なので、他の言語は想像もつかない。きっと港町なので、ビルマ語を使っているのだろうと、重たい頭でぼんやりと思った。
 男の話を聞けば、市場を抜けると、魚市場に出るのだという。朝には捕れたての魚や海老を人びとが取り巻いて、賑やかな川辺の風景が見れるのだと。
 ジョースターさんの「ほ~」という相槌を聞きながら、活気が好きなアヴドゥルが見たら喜びそうだと思い浮かべて、私は遅れてやってきた胸の痛みに、少しだけ目を瞑った。


 いつの間にこんなことになったのだろう。もう何杯飲んだのか分からない。
 グラスを空ける度にお酒を注がれ、ついには瓶ごと渡され、手に預けられたが最後、がっしりと握りしめて放していないような気がするけれど、気のせいに違いない。だって、ジョースターさんも心地よく酔っているようなのだから、私が一人で飲んでいるわけがない。ましてやラム瓶を抱えて一本飲みきろうとしているなんて、あり得るわけがない。私はお酒に弱いのだ! いつもはすぐに酔うはずなのに、こんなに飲めるわけがない!
 とにかく自分がへべれけの手前であるということは、それとなく理解してるつもりだった。
 そもそもどこへ行くのかと思いきや、掘っ立て小屋のような平屋の酒場に連れてきて、
「船酔いにはアルコールが一番だ!」
といつの時代の船乗りかと、突っ込みたくなるようなことを論じるなり、私の否定も聞かずに飲ませに飲ませたジョースターさんも悪いとは思いませんか? そーなんです、女性に無理に酒を勧める男性は紳士とは言えない! よって私は被害者なわけです!
 ケラケラと笑いが溢れて愉快な気分が次から次へと突き上げてくる。
 ジョースターさんは先ほどから、「酔いやすいやつじゃな」とか「アヴドゥルに叱られかねん」なんて、聞き捨てならないことをぶつぶつと呟いている。
 アヴドゥル──
 まったく気持ちよくなっている時に、一番聞きたくない名前を出してくるものだ。気が大きくなってる私は、無礼講とも言われてもいないのに、「言っておきますけどね」とエラソーな口調で、ジョースターさんに詰め寄った。苦笑いをしながら、紳士は僅かにのけぞる。
「恋人っていうのはですね、本当に冗談なんです」
 嘘なんですよ、嘘、と繰り返した後で、「本っ当に巻き込んでごめんなさい」と真っ赤な顔で謝ると、ジョースターさんは視線を彷徨わせながら咳払いをして、
「知っとるよ」
ときまり悪そうな笑いを浮かべた。

 一瞬、何を言っているのか頭に入らずに、ぽかんと老紳士の皺を眺める。酔っ払ったせいで、ちょっとばかり思考が鈍い。
 え、と小さな音だけが、半開きの私の口から漏れて、それでも中々頭のほうが追いついてこない。
 ジョースターさんは私の手からラム瓶と飲みかけのグラスをそっと抜いて、代わりにいつ買っていたのか水のペットボトルを握らせる。
「飲みなさい」
と言われるがまま、蓋を開けて二口ほど喉に流す。ぬるいけれど、澄んだ軟水は徐々に高ぶっていた気持ちを落ち着かせていく。
「知ってるって、じゃあ……からかってたって、ことですか……?」
「ま、まあ……そういうことじゃが」
 ジョースターさんの肯定に眉を寄せると、焦った紳士は頼んでいたらしいお茶と間違って私のグラスを飲み干し、アルコールに噎せている。たとえ私が発端だとしても、あれはいくらなんでも悪ふざけがすぎる。思い込みが激しいけれど、とても友人思いなのだと信頼していた私やアヴドゥルの思いまで、弄んでいたようなものだ。
 文句の一つでも言わなければならない、と思って息を吸い込めば、ジョースターさんが涙目になりながら、「まず、怒らんで聞いてくれ」と言うものだから、私は喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。
 私は君ほどアヴドゥルのことを知らないのだ、とジョースターさんが言った。上擦ってはいたが、静かな口調だった。
「アヴドゥルは寡黙な男で、自分のことはあまり話さないからだ……だが故郷のことになると、必ず別れた友人の話をした」
 左右の高さの合わないテーブルは、身じろぎをするだけでグラグラと揺れる。木製の薄い板が腕に振動を与えて、私の顔を上げさせる。手元を見つめていたジョースターさんが私を振り向いていた。
「普段遠慮ばかりするアヴドゥルが、ハジャイで君を強引に誘った時、話に何度も出てくる友人とは、君のことだと思った」
 ごくり、と喉が鳴った。私は知らずのうちに、息を飲み込んでいた。
 ジョースターさんはそんな私の分かりやすい様子に、喉の奥を震わせて、渋い笑いを零す。
「すぐにピンときたよ。年の功ってやつだな」
 空気を求めるみたいに、口を開けっ放しにして、私は返すべき言葉を探していた。でも。どうして。そんな単語が真っ先に頭を浮遊する。
「それなら……」
 なんで騙されたふりなんてしていたのかと、呆気にとられていると、ジョースターさんはニヤリとしながら、「友人にも色々ある」と諭すように言った。
「わしが思うに、本当の友人というのは、離れてみるとあっさり忘れてしまうものだと思う。それでいて、どーでもいい時に限って、ふと思い出すようなものだ。それも、喧嘩の内容も、どんな悩みを話したかも思い出せないくせに、くだらない掛け合いばかりが鮮明に浮かんでくる。そうやって思い返す内に、昔とはまた違った思いすら抱くようになる」
 モスグリーンの瞳が、薄暗い店内に差し込む日で、チラチラとエメラルドのきらめきを見せ、暗い蝋色へと変わり、また戻っていく。樹の枝で風に流れながらひらめく、ヴェールを見ているかのような色のさざめきに魅入っている内に、私は酔いもあっていつの間にか、紳士の話にすっかり耳を傾けていた。
「もしかしたらだ……だが、君に話すからには9割の確信を持って言おう」
 ジョースターさんの瞳に吸い込まれるようにして、私は視線をじっと合わせて続きを待つ。紳士が置いた呼吸の間には、話を聞かせる力があった。
「アヴドゥルは、君のことが好きなんじゃあないか」

「…………え?」
 今度こそ本当に、思考が追いつかなかった。直ぐ様飛び出してくる、そんなはずはない、という思いが、私の時を止めた。
 アヴドゥルが私を?──ジョースターさんの言葉を繰り返して、まさか、と思った。もう、分かったのだ。十分すぎるほどに、理解してしまったのだ。
 アヴドゥルは女を女とも思っていない、ただの思わせぶりな男で、気を持たせるようなことばかりしておきながら、その距離感を“友人”という人種で済ませられ、肝心なことは寡黙をいいことに濁す、ご都合主義の人間なのだ。
 そうだ、今まで気づかなかったけれど、人間関係の捉え方が違うのだ。私のことだって、迷惑だって思っているのかもしれない。本当はその場だけの付き合いで済ませたいのに、執拗に友人面をしてくる、しつこいやつだって。本当は。
さん、君ももう長く旅をしてるんだろう」
 ジョースターさんの穏やかな声に、黙って頷く。目の前に白い何かが差し出された。頭がぼんやりとして、何なのかわからない。
「なんですか」と尋ねようとしたのに、息が鼻を抜けただけで、声にならなかった。そうして初めて、私は声が詰まって出ないことに気づいた。ぎゅっと喉が閉まる。ぱたぱたと、手の甲にぬるい感触が落ちる。
 情けなかった。なんだ、私ったら、失恋くらいで情けない。出会ったばかりの紳士の前で、それも旅先なんかで泣くなんて。そう思うと、また喉が熱くなって、目頭からつ、と涙が溢れ出てくる。
 洗いたてだから使いなさいと、ジョースターさんから手に布を握らされ、私は迷わずに目元に当てた。誰かに差し出すためにあるような、染み一つない、綺麗なハンカチだった。
「アヴドゥルも落ち着かないやつでな、彼を連れ出したわしが言うことじゃあないが、二人ともそろそろいい頃だ。いつかは決めねばならんよ、自分の留まる場所を。そればかりは、誰でも持たなきゃ生きてはいけない」
 こうして不意に優しい言葉をかけられると、もうどうしようもなくなってしまう。一番信頼していた人からの失恋だった。会いたくなるから、記憶の奥底に押し込めて、思い出さないようにしていた。胸の穴を埋めようとしても、物足りなさだけが残った。それでも、たまにアヴドゥルの夢を見た。懐かしい砂埃にさらわれるようにして霞む、遠い記憶の夢を。知らなかったのだ。私がこんなにも、好きで好きでたまらない感情を持っていたなんて。
「アヴドゥルにも、そう言ってやるといい」
 私は精一杯首を振って、「できないんです」と答えた。ジョースターさんは知らないかもしれないけれど、私は二度も別れ際に断られているのだ。わざと長い期間会えないような、そんな話題で。
「きっと、迷惑なんです」
 ハンカチで目を覆ったまま、裏返りそうな鼻声で呟くと、「それはない」と語気を強めて、ジョースターさんが私の言葉を遮った。
 確信を含んだ言い方に私は疑問を抱いた。赤らむ目を上げて、紳士を見つめ返す。ジョースターさんの口調も、そして合わせられた視線も、まるで理由を知っているかのような。
 そんなわけはない。そう思いながらも、でも、説明できない事情を、この紳士が知っていても不思議ではないような気がした。
「待っていても自分からじゃ動かんのだ、あの男は……何せ岩石よりも堅い男だからな」
 そう言って男を思い浮かべているのか、穏やかに笑うと、ジョースターさんは支えるように私を椅子から立ち上がらせた。そして矢継ぎ早に囁く。
「君のチケットを取らせたのはアヴドゥルじゃよ」
 その言葉に顔を上げようとするも、頭を押さえつけるようにぐいぐいと撫でられる。この話は終わりだとでも言うように、大きな声が続いた。
「さぁ出発するぞ」
「でも、私はここで」
「折角だから、インドまで行こうじゃあないか」
 紳士はテーブルに置いていたソフト帽を被ると、後ろを振り返らせて、強く私の背中を押した。よろめいた先に、人影が見えた。
 外はまだ強い日差しが照っている。白っぽい地面の照り返しも眩しい。暗い日陰の店内から見る、開けっ放しの戸口は、フレームで形どられたみたいに際立つ。
 その明るい景色の中に、腕組をしたアヴドゥルがむっつりと立っていた。目を瞑って、日にじりじりと焼かれながら、私たちが来るのを待っている。その光景が目に飛び込んだ途端、私の胸が動かされた。どうしてか、またじんときて、その熱が目頭に込み上げてくる。
 黙り込んだまま見つめる私に、アヴドゥルの静かな視線が寄せられる。
「迎えが来たぞ~」
 後ろから追ってきたジョースターさんの愉快そうな声に、アヴドゥルは目を離して、組んでいた腕を降ろすと、「皆待ってますよ」と溜息混じりに呟いた。



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14/08/24 短編