02


 飢えて 「まったく」
とアヴドゥルが零したくなる気持ちも、分からなくはない。もし仕事の間ずっとこの調子なら、疲労も溜まるに違いないだろう。
 ジョースターさんときたら、アヴドゥルからお金を借りるふりをして財布を巻き上げると、自分だけさっさとサイカーに乗って、
「承太郎たちには話しておくから、安心して歩いてくるんだぞ~!」
と不穏な台詞を残して去っていったのだ。気まずさを引きずる私が距離を置くせいで、ただでさえギクシャクしているというのに、こんなところで二人きりにされてはたまらない。慌てて追いかけようとした私は、自分がしたたかに酔っていたことをすっかりと忘れていた。何もない場所で足をもつれさせ、ものの見事に転び、さらに悪いことには足を挫いてしまった。
 ジョースターさんもなら、お前もか、と言いたげな呆れ顔のアヴドゥルに、返す言葉はない。どんなにアルコールが入っていようと、この醜態を晒した痛みだけは緩和されるはずもなく、沈んだ気分で軽口すらも出てこない。
 自己嫌悪に陥っている私の眼前に、当たり前のようにすっとアヴドゥルの手が差し出される。いつも通りに思わず掴みそうになったのを、私はぐっと堪えた。
「ありがとう」
と言いながら、私は自力で立ち上がる。鈍い痛みが走った。強くはないけれど、無理をして悪化すれば、旅を続けられなくなってしまう。
 近くで休んでいる男に手を上げた。サイカーを捕まえて、船に着いたら支払ってもらえばいいと思ったのだ。怪我をしたのだから、これ以上に都合のいい言い訳はない。
 そう思っていたところ、私の足元に近寄ったアヴドゥルが、おもむろにしゃがみこんだ。驚いて、サイカーに向けて掲げかけた腕をそのままに、私は立ち竦んでしまった。まんじりと背中を見つめても、疑問符ばかりが飛び出してくるだけだ。
 アヴドゥルはそんな私へ、催促するように背中を揺らして、「さっさと乗らんか」と肩越しにわずかに振り向いてくる。おんぶをしようというのだ。一寸、また言葉を失った。
「だって、普通にサイカーに……」
「サイカーにも車にも乗らん」
 しゃがんだアヴドゥルは断固として譲らず、私の言葉を切り捨てるように遮った。幾らジョースターさんに言われたからといって、そこまで頑なにならなくてもいいのに。
 思いながらも、広い背中に引き寄せられそうになる。身を任せてみたいという、期待を孕んだ欲が沸き上がってくる。それをどうにかこうにか律して、「いらない」とか「やめて」としきりに繰り返していたのだけれど、続いた声を聞いて、私のもろい城壁はいとも簡単に崩れ去ってしまったのだった。
「俺に背負われるのは嫌か?」
 肩越しに軽く覗いた横顔からは、表情は見て取れない。こんな台詞を、この男は一体どんな顔で言ってのけたというのだろうか。
 断れない。嫌なはずがない。それを知っていて言っているのだ。だってアヴドゥルは、私の告白を聞いていたのだから。
 胸にはよくわからない痛みが込み上げてくる。甘いような、苦いような、平静を削っていく、そんな痺れが走って行く。なんてずるいやつなんだろう。こんな人間だっただろうか。こんなに残酷な人間だったろうか。私の知っているアヴドゥルは、もっと優しくて、温かくて。
「馬鹿。意地悪。最悪。ひとでなし。分からず屋」
 悔しくなって、背中に掴まりながら悪態を並べても、胸の不可解な感触は消えていかない。この歳でおんぶされる身にもなってみろ、このやろう。この歳になって、失恋する身にもなってみろ、このやろう。
 アヴドゥルはそんな悪態にも、
「構わん」
と一言素っ気なく返すと、「舌を噛むなよ」と言いながら勢い良くぐんと立ち上がった。揺れは少ない。私が落ちないように、支えているからだ。力強い腕で、しっかりと。
 視界に、セピアに染まった、穏やかな街路が延々と飛び込んでくる。自転車をこぐ僧侶や、木の枝をナイフで削ぐ子供、荷車に載せた野菜を、市場まで運ぶ男、日傘を差して歩く老婆。行き交う人びとを頭上から見下ろすと、私の降り立った町が別の国に変わったように感じられた。
──君のチケットを取らせたのはアヴドゥルじゃよ
 唐突にジョースターさんの言葉が蘇った。今になって意味を理解して、私ははっとして項垂れる。アヴドゥルの首筋に、額が触れた。顔が真っ赤になった。息も心なしか大きく吸い込まなければ苦しい。
 私はてっきり、ジョースターさんがまた余計なお節介で、私を旅に同行させたんだと思い込んでいた。だから紳士に頭の上がらないアヴドゥルは、仕方がなくそれに従っているのだと。そんなふうに、思っていた。
 勘違いをしていたのは私だ。忘れていたのは私だった。嫌いなら、そんなことしたりしない。迷惑なら、こうして迎えに来たりしない。それならそうと、早く言ってくれれば、ここまで悩んだりしなかったのに。
 そう思ってから、私は少しだけ息を吐いた。苦々しくて、上手く笑えなかった。
 そうだ。本当のアヴドゥルは、これくらい、口下手だったのだ。
 心なしか、肩を掴む手に力が入る。俯いた顔は、暫く上げられなかった。私が甘えているのをアヴドゥルは気づいているだろうけれど、何も言わず道を歩き始めた。ゆっくり、ゆったりと。散歩でもするように。

 大分歩いたはずなのだけれど、アヴドゥルに疲れた様子はない。「疲れたら言ってよ」とは注意したものの、見栄を張っているわけでもないらしい。背負い方が上手いのか、抱え直すことも少ない。不覚にも鼓動が早くなって、私は落ち着けるのに必死になった。
 市場のある近くを通りがかった時、すんすん、と町の空気を吸い込むふりをして、アヴドゥルの背中の匂いを確かめてみる。ちょっとばかり埃っぽいが、安心する匂いだ。変わらない。昔とちっとも。
「朝には魚市場が出るんだって」
 照れ隠しに仕入れたばかりの情報を口にすると、
「もう出発するんだぞ」
と、呆れたようにアヴドゥルが答えた。声の振動が、引っ付いた体の表面全てに伝わって、こそばゆくて、それでいて嬉しい。体は遠慮がちに強張る。
 それでも不思議と心には、昨日の朝ホテルを出てから、船の中で一夜を過ごした時とは別の、お湯に浸かったみたいな安らかさが満ちていた。背負われている今なら、何でも話せるような気さえした。顔を見なくてもいい。それでいて、大きくて温かな背中に、擦り寄ることも出来る。
「チケット」
「ん?」
「聞いたよ、ジョースターさんから」
 一呼吸置いてから、背中越しに、
「そうか」
という、小さな振動が耳に伝わった。そのあとの会話は続かなかった。ゆらゆらと景色を揺らして進むだけだ。どうしてかなんて、アヴドゥルは自分から話すような男じゃない。そういう人だと知っていた。思い出していた。もう気まずさはない。ぬるい風に、私はもう一度、すん、と鼻を鳴らした。

 あの時の私たちは何でも話し合えた。少なくとも私はそうだと思い込んでいた。でも数年一緒に過ごす内に、アヴドゥルにはまだまだ、人に話したことのないようなことを、胸の内に隠しているんじゃないかと、段々に私も気づくようになっていた。
 農村地帯に行った時のことだ。常々私に、辺境の一人歩きを諫止していたアヴドゥルは、私が暇を潰すために研究の一環などと理由づけて都市を離れる時には、いつも助手のように付き添ってくれていた。
 茅葺きの質素な丸太小屋の並ぶ一帯を過ぎると、藪に覆われた急な土手に出た。急斜面が続き、藪を越えたところには地肌の出た切り立つような崖が見えた。
 こういう隔離された場所では、あまり便所は使うなと、普段から教授に注意されていた。その当時から女性の強姦は取り沙汰にされないだけで、止まることを知らない。トイレなどという密室に入ってしまえば最後、狙われて終わりなのだと聞いていた。それもこれも女性というのは、生まれは関係なく、カースト外に位置しているので、ほとんど“物”同然の存在だからだと。だから個室で用を足すならば、野でやった方がマシだと、田舎へ足を運ぶと、確かにたまにそんな光景を目にする。木陰で、或いは藪に隠れてひっそりと屈む女性らしき人影を。
 傾斜に気をつけながら、周りの地形を確認していた時、土手下の背高い藪の中で、アヴドゥルが静かに何かを見つめているのに気がついた。私の場所からは、アヴドゥルの足元がよく見えた。それが何であるか認識した時、ゾッと悪寒が走った。
 死体だった。アヴドゥルの立ち竦む前にあったのは、腐乱して肉が崩れ落ちた、人の死体だったのだ。野犬にでも食い荒らされたのか、引きずり出された腸はもう黒ずんでいる。長い髪と、辛うじて覗く乳房で、女性だと判断できた。
 私は突然のことに驚愕して、目を逸らしてしまった。初めて目にする凄惨な光景に、目の前がふっと暗くなる。
 どうしてこの女性が死ななければならなかったのかは分からない。もしかすると教授の話したようなことが、藪に紛れて起こったのかもしれない。でもそんなの、原型を失った屍を前にしては、推測にすぎなかった。
 アヴドゥルは大丈夫なのだろうかと、私はすぐに気を取り直した。精神的なショックで体が震えていたけれど、生理的に襲ってくる不快感を押しとどめながらまた土手の下に目を遣る。
 それは、夢を見ているかのような光景だった。
 振り向いた時、腕を振ったアヴドゥルの前で、死体を含んだ一帯の藪が、一瞬で消え去った。私は錯乱していたのかもしれない。でも、夢ではなかった。確かに、燃えつくように、消えたのだ。焦げた臭いが残り、黒い灰が崩れて下降して行った。
 映画のチープな加工よりもずっとリアルだったのに、それが逆に非現実的さを増長させた。

 死体と一緒に消し飛んだみたいに、空っぽになった頭には、前にただの一度だけアヴドゥルが零した、諦めたような一言が浮かんでいた。
「人には理解されないことがあるのだ」
と、やんわりと拒絶を含んだ言葉だった。
 それだけを聞けば、変哲もない言葉なのかもしれない。でも私はアヴドゥルの心の奥深いものを垣間見た気がして、その時の言葉をずっと気にかけていた。
 超常現象を目の当たりにした時、現実味を失った頭で、アヴドゥルの抱えているものはこのことなのだと、私はすぐに思い当たった。
 アヴドゥルはふと顔を上げて、私の存在を目視した。真っ青になって言葉を失っている私に、アヴドゥルは何を考えているのか、ただただ真っ直ぐに見つめ返してくるだけだ。
 私は恐怖も抱いていたはずなのだけれど、やはり冷静を保とうとすると、理解の追いつかないことは後回しになる。
 もつれる舌をなんとか回して、
「だ、大丈夫? 滑り落ちなかった?」
と声をかけて、私はその場にそぐわない心配をした。「ああ」と言いながら土手を登ってきたアヴドゥルは、ズボンの汚れを軽く払うと、依然真顔で私を見返した。
「今見たことは、忘れろ」
とやけにはっきりとした口調が、私を射抜いた。
 私はなんと言われようが、すぐに追求することも出来たのだ。けれど、これがアヴドゥルの触れられたくないものだったら、と思うと不安が胸を渦巻いて、ひた隠しにして来た秘密か、もしかすればコンプレックスを勝手に覗いてしまった罪悪感で一杯になっていた。
 だから、聞けなかったのだ。きっと一番、私が知らなければならないことだったのに。それでも思考の追いつかないその時では、空っぽの言葉しか出てこなかっただろう。それが私にはどうしても許せなかった。
 抱えている本人から忘れろと言われてしまえば、無理に傷口に触るような気がして、私は遂に聞くことができなくなってしまった。
「腐って食いつくされるよりも、せめて焼いてやりたかったのだ」
 木々のざわめきに紛れるように、ぽつりと呟かれた言葉には、私は心から頷くことが出来た。
 アヴドゥルが寡黙を通すのも、己のあり方に意固地になるのも、その原因が常人には理解されないものを持っているからなのだろうか。真面目にそう考える自分自身を、変だとは思わなかった。幾ら時が経とうと夢だと済ませなかったのも、インドという浮世離れした国にいたからかもしれない。

 今まで、触れることを避けていた。隠していたいことを浮き彫りにしたら、誰だって傷つくに決まっている。私のエゴや興味だけで、ほじくり返すことなんてできない、と思っていた。
 でも、本当にそうなのだろうか。だからいつまで経っても、歩み寄れないんじゃないだろうか。アヴドゥルは、壁を作っているんじゃないだろうか。
 もしそうなのだとしたら。ずっとそのことだけに沈黙を続けているのだとしたら。
 今ならなんでも聞ける、と思った。遠回しでもいい。ちょっとずつ、時間の許す限り、近づいていたい。背中だけじゃなく、せめて、ほんの少しの心だけでも。

 小さく「ねえ」と呟けば、私を抱え直しながら、アヴドゥルも「ん?」と呟いた。
「本当は、さ」
 アヴドゥルの肩を掴む、指の力が強くなる。
「仕事なんかじゃないでしょ」
 アヴドゥルが息を詰めた気配がした。けれどすぐに、
「仕事だ」
と頑固な声が返ってくる。跳ね返すような言い方だった。引き下がりかけた気持ちを踏ん張って、前に押し出す。私は逃げないと決めたのだ。告白したのだ。アヴドゥルといたいと思ったのだ。
「教えてくれたっていいじゃない」
と私が必死に食い下がると、アヴドゥルが絶えず進めていた歩みを止めた。自転車がすぐ傍を走り去っていく。俺は。アヴドゥルは、私に言い聞かせるように、静かに言葉を紡いだ。
「お前を関わらせたくはないのだ」
「……自分から無理やり誘ったくせに」
「む……」
 上下の振動が、また再開する。突然動いたので、私は慌ててアヴドゥルにしがみついた。都合が悪いと、すぐに黙りこむのが良くない癖だ。
 アヴドゥルは十数歩ほど歩いたところで、不自然な咳払いをすると、ようやく話を続けた。
「つい、自制が効かなくなってな……一日なら問題ないだろう、と」
「ホント、チケットだって私に聞きもしないで」
「うむ……」
 強張った声が可笑しかった。まるで昨日からとは正反対だ。ついさっきまでは、私の方がえらく緊張していたというのに。
「住所くらい聞けばいいじゃない」
 自制が効かないなんて、殺し文句を吐いておきながら、頑なに住所を知ることを拒むなんておかしな話だ。この時ばかりは、過去の恨みもホテルでの恨みもひっくるめて、責めるように追求してやりたくなった。
「ねぇ、何で聞かないの」
 そしたらもっと会えたかもしれないのに、という思いを込めて呟くと、またまた喉の奥から苦しそうに呻きながら、アヴドゥルは意外にもあっさりと言い訳じみた答えを返した。
「あの頃、俺は金がなかったのだ。聞けば会いに行きたさに、ない金に幻想を抱く」
「じゃあ今は?」
 沈黙に、砂利を踏む音だけが響く。こちらの返答はなかった。
「まずいことでもしてるの?」
「……いいや、ただの仕事だ」
 これは聞いても無駄なのだと思った。こうなると、梃子でも動かない。

 アヴドゥルがどうしても話せないこと。それはアヴドゥルが隠したいことと、どこかで必ず繋がっているのだという直感が、私にはあった。
 嘘をつけないたちの男が、正直をねじ曲げる時は、拒絶の中に、優しさを含んでいたのかもしれない。私は今まで、少しだってそれを知ろうとしなかった。
「いつ帰るの?」
「わからん、それに俺には、これといって帰る場所はないからな」
「……私ね」
 落ち着いた体に落ちてくる、ジョースターさんの言葉を思い出して、私はようやく決心をした。深呼吸をする。
「インドに着いたら、旅、やめるつもりなの」
 息を吐くように呟くと、胸に淀んでいた濁りまで、空気に散っていくような気がする。そっと、アヴドゥルの後頭部におでこくっつけて、もう少しだけ、背中にしがみついてみた。
「いつ、帰ってくる?」
 アヴドゥルは答えなかった。
 日差しが、いつの間にか斜めに差し込んでいる。建物の影が道路を覆うように長く伸びて、交互に体の上を通る白と黒の道に目を細めながら、ゆらゆらと揺られて、夕陽の匂いを嗅ぐ。
 足元を、勢い良く猫が横切って行くのが見えた。
、と静かな声で、アヴドゥルが私の名を呼んだ。
「私を待つな」
「……うん」
「待たせることになる」
「……うん」
 すん、と鼻を鳴らした。匂いを嗅いだのではなかった。
「待つよ」
 やめろ、という声は続かなかった。ため息も聞こえない。
 はたして、私の声は音になっていたのかと疑うような静けさが、ゆるやかに熱気に紛れた。よく聞き取れないビルマ語らしい会話が、穏やかな夕陽の町に流れている。似ても似つかないのに、まるで読経のようだと思った。異国の赤々とした光が、ノスタルジーな感傷を沸き上がらせていたのかもしれない。背中に抱えられていると、ますます、過ぎ去った日々を思い起こすような、やわらかな寂しさが込み上げてくる。
 アヴドゥルも、そんな旅愁の思いに駆られたのだろうか。微かに鼻をすする私に、ぽつりぽつりと、心の響きをなぞり始めた。
「インドにはサズゥという行者がいてな、差別の激しい国だが、他国の浮浪者のように蔑まれたりせず、どちらかといえば敬われていると聞く……カーストも家も捨てて、住む場所も持たず、ひとところに居座ることはない。信仰だけを胸に歩く者たちだ。世捨て人と言えばいいのか……私もそういうものに憧れたこともあった」
 うん、と私は相槌を打ったけれど、きっと必要のないものだろうと思った。アヴドゥルは、自分の胸を見つめ返しているような、そんな話し方だったからだ。
「一時、世の中が嫌になってな……虚無や無知や退廃ばかりに支配された」
 アヴドゥルは一度唾を飲み込んで、
「本当は気づかぬだけで、今もそういう願望を持っているのかもしれない」
と、呟くようにいった。私と同じように、すん、と夕陽の匂いに鼻を鳴らす音が聞こえる。背中から響く、低くて渋い心地いい声の振動は、私の胸にじんわりと安堵を広げていく。
「だが、たった今思ったよ」
 私の弛緩した体を抱え直すと、アヴドゥルはそっと息をついた。笑ったように聞こえた。
「こうしてお前を背負って歩くのは、存外……心地いいな」

 今度は、私が返事をできなかった。急に喉につんとした痛みが走って、もう声なんて出なくなってしまったのだ。
「こら、返事をせんか。俺の一世一代の、その、なんだ」
 そんな私を、アヴドゥルは急かすのだけれど、正直な性格だから、口を滑らせて、言わなくていいことまで言ってしまっている。
 私は胸に突き上げるいっぱいいっぱいの思いに震えながら、詰まった声でも構わずに、精一杯喉から押し出した。
「なによ?」
「む……」
「一世一代の、なによ」
 沈黙するアヴドゥルを覗き込んでみる。近くで見る顔は、しかめっ面だ。ぎゅっと眉を寄せて、目を忙しなく動かして、狼狽えている。
 私がもう一度なによ、と追求すると、
「……ぷ、プロポーズだな」
と消え入りそうで、羞恥と不安を隠さない声色を晒すので、私まで釣られて動揺してしまった。
「じ、自分で言って自分で照れないでよ、もう……」
 嬉しさで、人は泣けるのだと思った。じんわりと口元にせき上がってくるのは、笑みだけじゃない。それだけだったら、こんなに引きつった不細工な顔になるわけはないのだ。
 もう少しで、ジョースターさんたちの待つ船に着く。
 それまでに、この真っ赤な顔は治るだろうか。この心臓の鼓動は収まるだろうか。泣きそうな目元を隠せるだろうか。
 気を紛らわせるために、今は考えなくてもいい懸念を思い浮かべる。

 ああ、破裂しそうだ。夕焼けの熱と一緒に膨張して、思いが破裂してしまいそうだ。緩い涙腺のせいで、もう少しでアヴドゥルの肩を濡らしてしまうに違いない。
 私は遠慮なんて忘れて、思いきり首にしがみついた。アヴドゥルは苦しいなんて言うけれど、構うものか。どうせすぐに別れなければならないのは、おんなじなんだろうから。
「ジョースターさんに言われたの。帰る場所を持った方がいい、って」
「そうか……」
 俺は、と落とされた声が、何を言うのか、私はわかっていたような気がした。
「お前となら、どこでも構わん」
「……うん」
 前とは違う。今度は別れても、待っていられる。それだけでもいい。

「だが、あまり待つな。人生は何が起こるかわからない」
「そればっかり」
 笑いながら鼻をすすって、それから私は目を瞑った。アヴドゥルも密かに、くつくつと笑いを零している。
 暖色の闇に、耳を澄ませた。盲目だって構わない。知ることの出来ないことに、目を瞑ったって構わない。それでもいい。聞けるのなら、構わない。
「ほら、船に着いたぞ」
と呼ぶ、私の焦がれた声が。



|終
theme of 100/005/散歩
14/08/25 短編