03


 帽子を返さなければならない。こんな簡単なことに、今まで悩んだことがあっただろうか。
 聖子おばさんに教えられながらスープを作り、昼食までご馳走になった。承太郎だってその時に顔を出したし、並んで食事もとった。だというのに、帽子のことなど素知らぬ顔で部屋に戻っていってしまう。帽子を差し出そうとした私を無視して、リビングを出て行ってしまったのだ。
 これを置いていったのも、多分、後で返しに来いということなのだろう。その時に、私が言うべきことがあることも。
 承太郎はいつもそうだ。人の話は少しも聞きはしない。煙草をやめてといっても聞かないし、失踪した理由も、怪我をしたことも、心配したというのにこれっぽっちも話はしない。今回のことだってそうだ。自分勝手で、あんまりにも傲慢すぎる。
 そう思っても、私だって悪いところはある。承太郎のことだ。邪険にしたって、喰らいつけば融通をきかせることだってあるのだろう。それなのに私ときたら、承太郎を前にすると「まあいっか」と、責めようとしていたのも忘れてどうでもよくなってしまうのだ。
 承太郎の自室の襖を開けた時もそうだった。私の悪い癖が出て、片膝を立てて本を読んでいた承太郎を見るなり、どうしてか恥じらって、真っ赤な顔を晒してしまった。
「はい……帽子」
 一畳の距離を空けて手を伸ばした私を一瞥して、承太郎は黙って帽子を受け取った。何か言ってくれるのを待つけれど、それきり本に目を落としてしまう。
 正座をした足や、お尻や腰がむずむずとして居心地が悪かった。
「それでね、私、承太郎……」
「はっきりしやがれ」
 静かに言われたのに、一瞬怯んでしまう。ストーブをつけていない部屋は少し寒い。でも私の顔は、熱気に当てられたみたいに熱くなっている。
「承太郎が死ぬところだったって聞いた時、とても怖くなった」
「ああ」
「それで……」
 膝の上に置いた両手で、ぎゅっと握りこぶしを作った。あまりにも脈が早くてうるさくて、ちゃんと息が吸えているのかも定かじゃない。
「出来るなら今日みたいに……ずっと承太郎にご飯、食べてもらいたい」
 呟くのでいっぱいいっぱいだった。私の体はガチガチに強ばってしまっている。
「おう」
 たった一言が、畳の上に落ちた。承太郎の声に、そっと顔を窺う。
 私は一瞬、息を呑んだ。本と帽子を片手で包み込むように膝の上に乗せていた承太郎は、とてもあたたかな表情をしていた。柔和で、久しぶりに見る気がする、穏やかな雰囲気。
 でも目を見た途端、私にはそれがどこか寂しげに映った。いや、そうじゃない。切ないような、置いていかれたような、どんな表現でも言い表せない、ひそやかで微かな感情を交えた目が、私には見えたような気がしたのだ。

 私はやはりその理由を聞くことが出来ないまま、少しだけ、承太郎と時間を共有することが多くなった。それは、特に承太郎と私が意識して時間を作ったからじゃない。春休みの聖子おばさんお料理教室が、結果として生んでくれただけだった。
 相変わらず承太郎は帰っても自室へ直行だし、私も今までどおり空条家の静かな空間を楽しむだけで、お互いの関係は、それといって変わらなかった。
 そうして春がやってきた。承太郎は元々気まぐれに学校を休むことが多々あったようで、冬にふた月失踪したこともあって留年が心配されていたが、驚くことに進学が出来た。少し残念だった。
 そう言うと承太郎は「いい性格してやがる」と顔を顰めたが、私にしてみれば生まれ年は同じなので、同じ学年の方がしっくり来る。
 学校が始まると、私はポケベルを活用しては承太郎を捕まえるようになった。やることといえばぶらぶらと散策をしたり、校則違反もものともせずに喫茶店へ立ち寄ったり、本屋で参考書を買ってみたりと、他愛もないことなのだけれど、その頃になってようやく、私達は恋人らしいことをしたように思う。
 承太郎はよく相撲の話をしては、放課後の気だるさと一緒に、私を眠りに誘った。

 数ヶ月も経って、私の周りでも進学の話がちらほらと上がるようになる中、見かけによらない承太郎の博識にはますます磨きがかかって行っていた。
 いつ頃からか海洋生物に興味を持つようになったらしく、その話を聞くことも増えた。未知の領域の多いことが、承太郎の向上心と冒険心を強烈に刺激したようだった。もしかしたら、承太郎はそっちの方向に進むのかもしれないと思いながら、私自身も進路に真剣に悩んでいた。
 というのも、母が病を患うようになり、床に伏せがちになっていたからだ。病気は治ったとしても、一生薬は飲み続けなければならないし、副作用で生活にある程度の支障を来すのだという。
 母にとって私以外に頼れるものはいない。行きたかった学校を受けるか、地元に留まるかをずっと考えていた。母は行きたいところへ行くべきだと言うけれど、様子を見る限り、とても一人にしては心配でならなかった。
 初冬のある日の帰り道、脇に分厚い本を抱えた承太郎と会い、肩を並べて歩くと、
「おふくろさんはどうだ」
と尋ねられた。冬服の隙間を、冷たい風が吹き込んでくる。私は首を竦めながらなるべく明るい声を上げた。
「快調だよ。でも私が支えて行かないとね」
 車の通りすぎる音が幾台か流れて、無言が続く。これから先に対する漠然とした不安が、じわりじわりと胸に迫っては隙間風を吹かせる。
「お前なら大丈夫だ」
 承太郎がひっそりと呟いた。私は幼馴染みを見上げられずに、口を引き結んで小さく頷いた。承太郎のそれは、枯葉と一緒に流れていくような、おぼろげでいて、しっかりと響く声だった。


 承太郎が急に「留学する」と言ったのは、もう卒業式が終わってからのことだった。部屋に呼び出されるなり、前振りもなくいきなりのことだったので、いつもの承太郎の自分勝手が出たのだと、この時も大いに呆れ返った。しかし内容が内容なだけに、私は少なからずショックを受けた。
 今までも進路のことを聞いたことはあったけれど、決して話そうとはしなかったし、決めていないとはぐらかされることが続いて、私も半ば諦めていたのが悪かったのかもしれない。それが私の抱える悪い癖だった。
「連絡先は?」
と私は聞いた。当然だと思ったのだ。ここで終わる関係ではないと思っていた。でも、承太郎は違ったようだった。
「その必要はねぇ」
「……え?」
 突き返すような言葉に、私は声を漏らした。
「お前とはこれでお別れだ」
 耳を疑った。頭が不可解な言葉を反芻する。
「お別れって……」
「多分もう、会わねぇ」
 淡々と承太郎は言い切った。その時になって、初めて私は動揺した。別れるとは、どういうことだろうか。別れる。会わない。だってそんなことは、小さい頃から一度だってなかったのだ。
 思考が全然追いついてこない。それでも目の前に、すっと闇が落ちたような感覚がした。承太郎は暫く黙って座っていたが、私が何も言わないとわかると、静かに部屋を出て行った。
 私は放心したままで、どうやって家に帰ったのかわからない。あの後、聖子おばさんと何かを話したのかも覚えていない。気づけば私は自分の家の玄関先で、ずっと立ち尽くしていた。
 頭に聖子おばさんが倒れた時のことが浮かぶ。承太郎が消えた冬のこと。帰ってきた日に見た、赤くただれた傷のこと。私は、どうしてあの時聞けなかったのだろうか。それだけじゃない。いつだって、後回しにしてしまったのだろうか。聞かなければ。今度こそ理由を聞かなければ。そう思っても、空条家が近づくと力が抜けて一歩も動けなくなった。
 私がもたついている間に、三日の後、承太郎はおじいさんがいるというアメリカへ飛び立って行った。そうして結局、私が大学を卒業するまで、一度も帰ってくることはなかった。

 これでお別れだと、そう言ったくせに去り際、何かあったらおふくろに連絡しろと、承太郎は告げた。でも私はどうしても行きづらくて、年賀状を送る以外に聖子おばさんへ手紙を送ったこともない。おばさんにも、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。わけが分からない内に、今度こそ本当に、大事なものを失ってしまったような気がしたのだ。
 承太郎がアメリカへ行ってからも、聖子おばさんは母の顔をよく見に来てくれたし、暇だからと言っては家事の手伝いもしてくれた。そのためか、私が大学を出る頃には母はすっかりとは行かないが元気を取り戻していて、私も安心して仕事を探すことができた。でも承太郎とは本当に、それきりだった。
 どんなに近い存在であっても、長い付き合いであったとしても、他人である限り疎遠になるのは驚くほど簡単なのだと、私は痛感したのだった。

 承太郎と私の間に、一体何があったのだろうか。どんな障害があったのだろうか。臆病な私には、真実は知る由もなかった。承太郎が去ってしまったことで、もうとっくに、機会は失われてしまっていたからだ。
 別れてから、ひとつだけ忘れられないことがあった。承太郎が旅立ったことを知らず、私は四日目の朝に、おずおずと空条家を訪れたのだ。広い豪邸には承太郎はいなく、聖子おばさんが一人で寂しそうに縁側に座っていた。
 おばさんは私の顔を見るなり、ふんわりと笑って居間へ引き入れた。おばさんも後で承太郎の元へ行くつもりだったのだろう。旅行かばんが置かれていたので、私は承太郎の話を本当だったのだと受けれなければならなかった。
「承太郎がいなくなると、こんなに不安になっちゃうなんて」
 いつだったか、承太郎が好きだと言っていた羊羹をやっぱり大きすぎるくらいに切って、おばさんは私の前に綺麗に出した。湯のみから立つ湯気で、ほんのりと香る緑茶はいつもと同じくあたたかい。
「今度一緒にあそびに行きましょ」
とおばさんが言ったので、私は思わず俯いてしまった。出来ないと思った。
「もう会わないって」
 承太郎が。私が消え入りそうに呟くと、流れるように紡がれていたおばさんの話も、笑い声も、しんと静まり返って、杉のざわめく音だけが居間を満たした。いつまで待ってもそのままだった。
 私はためらいがちに聖子おばさんの方を窺った。どきりとした。おばさんは、ひどく苦しげで切ない顔をしていたのだ。白くて長い手が、ふっくらとした口元を覆っていた。指先が微かに震えているように見えた。
「承太郎は、おじいちゃんと違って臆病なの……だから」
 おばさんの声は続かなかった。次の瞬間には、おばさんの目からぽろっと涙がこぼれたからだ。何故か私よりも泣いて、悲しむはずの私がなだめすかしていた。でもその言葉は強く、私の心に残ったのだった。
 俺が守ってやる──
 不意に、幼い承太郎の声が蘇った。もう守られるはずのない約束に思えたのに、どうしてか私の胸にすとんと落ちて、染みこんでいった。その感覚は、そうであればいいという、私の願望に過ぎなかったのかもしれない。けれど、いくらか心が軽くなった気がした。
 おばさんはそれからも何度か、承太郎と会う機会があれば私を誘ったものの、私はその度に首を振った。承太郎の方は分からない。けれど私は恋心を引きずってただ、意地を張り続けていただけだった。
 自分でも不思議なほど、色あせることのない想いだったからだ。


「今思うと、いつでも彼は私のことを気にかけてくれていた気がするの」
 待合室の壁に貼られた雪だるまの切り絵を見つめながら、おばあさんは「美化してしまっているのかもね」と照れ臭そうに言った。
 私はいつの間にか握りしめていた手をそっと解いた。しっとりと汗をかいていた。
「その後、その方はどうしたんです?」
「数年後に結婚したって聞いたわ」
「……そんな」
 私の反応に、おばあさんはクスっと笑った。
「聞いたときはそれはもう悲しくて泣いたけど、母のことを考えたらそんなことしてられないって思ったの。その時になって、彼が言った“お前なら大丈夫だ”って意味を知ったわ。私には何よりも大切なものがあったんだって」
 私はおばあさんの言葉に、納得出来ないものを感じていた。そんな私の気持ちが顔に表れていたのだろう。おばあさんはやはり笑いながら「彼は何かを克服できたのかもしれないわ」と、自分に言い聞かせるように呟いた。それは幼馴染みのおばさんが言ったという、“臆病”のことを指しているのだろうか。
 受付番号を呼ぶ声がした。二人で揃って手元を見るが、自分たちのものではない。おばあさんは、背後で立ち上がった人を無意識に目で追っている。話はもう終わりなのだろうか、と思ったところで、「それでね」と見送った体勢のままで、おばあさんが再び呟いた。
「結婚してからね、彼に一度だけ会ったことがあるの」
「えっ」
 私はまた、自分が手を握りしめていたことに気づいた。すっかり話に惹きこまれている。
 私の期待するような目に頷いて、どこか遠くを見るように、おばあさんは話を続けた。
「それでも30年以上も前よ。デパートの中で」


 ひと目で分かった。幼馴染みの姿は、少しも変わってなかったから。承太郎は白いコートを羽織って、人混みを悠々と歩いていた。見つめすぎていたためだろうか。エレベーターへ向かう通路を曲がる途中、ふと顔がこちらに向けられた。視線を交わすのは、実に何十年ぶりだったのだろう。端正な顔立ちも、あの時のままだった。
 承太郎もすぐに私と気づいたみたいで、遠くからはっと目を見開いたのが分かった。3メートルほどの距離で、お互いに歩み寄ることもせず、見つめ合ったまま立ち尽くした。恥ずかしかった。だって私ときたら、初恋の人と会えるような、碌な格好をしていなかったのだ。
 私は夫と休日を過ごしている最中だった。私が背格好の高い男性と見つめ合っているのを見て、夫は知り合いだと気づいて、話してきていいと私を促したけれど、彼はその前に帽子を一度取って、頭だけで軽く礼をした。それ以上は近づこうとはしなかった。承太郎は私の隣にいる夫に気づいて、穏やかに微笑んだような気がした。
 彼の横には仕事の仲間がいたみたいだった。スーツを着た老齢の紳士に呼ばれると、人ごみの中、また私達に向かって帽子を下げて、言葉を交わすこともなく去って行った。
 帽子のツバをきゅっと絞る動作は、十代の頃と全く変わらなかった。静かに通路の向こうに消えていったあの優しい背中を、今でも覚えている。


 おばあさんは話し終えると、「こんなの、つまらないわよね」と面映ゆい表情で微笑んだ。私はそれに首を振る。
「落ち込んでたので、元気が出ました」
「なぁに?悩みなら聞くわよ」
 これだけ聞いてもらったんだもの。とおばあさんはすっきりした様子で言った。ずっと胸に大事に抱えていたのかもしれない。誰にも話さず、大切にしまっていた思い出なのかもしれない。それを、私を元気づけるために話してくれたように思えた。
「ええと、言いにくいんですけど……」
 今度は私が照れる番だった。
 幼馴染のことだ。おばあさんの話のあとでは、気恥ずかしくて仕方がなかった。
「実は、喧嘩しちゃったんです」
「好きな子と?」
「分からないけど……多分」
 小さな声で頷く。喧嘩の発端は、本当にどうでもいい内容だったと思う。でも一度喧嘩をしてしまうと、顔を合わせるのも口を利くのも、とても難しいことのように思えた。
「じゃあ謝りなさい。意地を張っちゃだめよ」
 おばあさんは穏やかに微笑んでいたけれど、少しだけ寂しげな声色をしていた。
「私達、もうすっかりお友達ね」
 意外な申し出に私は嬉しくなって、「はい!」と大きく頷く。目を細めたおばあさんは、「」と呼んだ。背筋が伸びる。
よ。私の名前」
 私は目を見開いた。それから私は病院だということも忘れて、思わず大声で笑ってしまった。


 病院から出て、私は幼馴染みの顔を思い浮かべた。急に、会いたくなっていた。おばあさんの話を聞いていたら、喧嘩したことなんて、いつの間にかどうでもよくなっていたのだ。
 早速携帯を取り出して、番号を探した。はらはらと降る雪の間に白い息が落ちて、寒さで手がもたついた。
 何度目かのコールの後、聞き慣れた優しい声が出る。
「……はい」
「ひ、久しぶり……」
「……何だよ、
 着信で映った私の名前を見て、不機嫌な声を絞り出しているのだろう。今になって、私は何て言えばいいかを考え始めた。
「あのね、」
 私はあえぐように言葉を紡いでいた。何となく、焦っていた。
「話してなかったんだけど、病院でね、素敵なおばあさんに出会ったの」
 幼馴染みに生まれた時からあるお腹の痣は、まるでそこを射抜かれた大きな穴のように見えて、少し怖かった。
 幼馴染みは小さい頃からプールのたびにそれを気にしていたし、それをネタにする心ない同級生もいた。それでも前世からの因縁があるのかもしれないなんて、冗談みたいなことを言っては、長い前髪を揺らして穏やかに笑っていた。
 おかしなことは他にもあった。旅行なんて近辺の県位で、一度も海外旅行なんて行ったことがないくせに、見てきたかのようにエジプトの話をするのだ。冒険譚は面白くてお気に入りだったけれど、おじさんや誰かから聞いたのだろうと大人達へ尋ねると、誰もが首を振ったので不思議に思ったこともあった。
 別の記憶が住んでいるような言い方に、たまに不安になることがある。周りと距離を置いているように感じるのは、そのせいなのだろうか。
「の、典明……」
 聞かなくてはならない。おばあさんの初恋の人のように、すれ違いたくはない。臆病にはなりたくない。どこかへ行っては欲しくない。
「……、何かあったのか?」
 急に心配そうな声色になった優しい典明の声に、私は寒さで赤くなった鼻をぐい、と擦った。言うべき言葉は決まっていた。おばあさんの話を聞き終えた時から多分、きっと。
 私は携帯を持つかじかんだ手にあたたかい息を吐いて、強く握りしめた。仲直りをするための三文字と、たった二文字の気持ちと、そしてこれから歩み寄るための覚悟を、受話器から落とさないように。



|終
theme of 100(2)/033/帽子
13/01/31 短編