02


 年内には帰ってくるだろうと思っていた承太郎からは一向に連絡もなく、時折空条家の前を通っても未だに門には黒塗りの車と見張りが構え、容態を聞いても首を振られるだけの日々が続いた。
 母も明るい割に昔から病弱だったので、聖子おばさんのことが人事とは思えなかったようだ。口には出さなくても、毎日気にかけているのが傍目からも分かった。
 そうして12月も過ぎていく。降りそうで降らない曇天が続いていた。年が明けても変わらない様子に、本当に病気なのだろうか、資産家故に何か不測の状況に巻き込まれたのではないか、といよいよ私達親子は幼馴染み家族に不安を募らせるようになった。

 承太郎がいなくなってから50日も過ぎた頃だった。
 冬休みも明けた学校の帰り道、自販機の前で煙草を買っている大きな高校生を見かけた。制服姿で堂々と小銭を入れていた端正な顔が、言葉を失って立ち尽くしていた私へ向けられる。
「じょ……」
 承太郎。私の声は、本当に口から出ていたのか分からなかった。ただ、白い息がひとつの塊みたいに口から溢れた。
「おう」
 ボタンを押した電子音と、箱の落ちる音。ふた月前の病院からの帰り道、承太郎と最後に会ったあの日とおんなじように、私の幼馴染みは取り出し口から煙草を取ると、挑発的に箱を上に投げてキャッチしてからポケットに突っ込んだ。
「元気だったか?」
 それを言うのは私の方だ。何が何だか、全然わからないのだ。
「……どこ行ってたの」
 どうしてか、声が勝手に震えた。小さくて、薄暗い冬の空に飲まれてしまいそうな声をようやく搾り出す。学生カバンを抱えて立ち止まったままの私を、承太郎は無表情で見つめていた。答えるまで、どこまでも食い下がるつもりだった。
 数秒して、ため息を吐きながら襟足に手を当てて、承太郎は首をひねった。
「ジジイとエジプト旅行に行っていた」
 おちょくっているんじゃないかと思った。母親が倒れて、のうのうと遊びに行く家族がどこにいる。
 でも非常識な答えにカッとなる前に、私は承太郎の首筋に見慣れない傷を捉えて、言い返すはずの言葉を忘れてしまった。首の付根から、包帯がちらりと見える。帽子の下の、左の額の上からも。
「待って、どうしたのその怪我……」
「なんでもねーよ」
 跳ね返すような言い方。幾ら承太郎が詮索嫌いでも、見逃せるはずがない。どう考えたって、喧嘩で怪我をしたこともない承太郎のようなやつが、そんな場所に包帯を巻くほどの事態は、軽いものではない。何か今回のことと関係あるのだろうかと、私は不安に思った。
 真っ青になる私に、「そうだな」と仕方なく承太郎は言った。
「旅行先で喧嘩して、拘留されてたって言やいいか?」
 言葉を失った。怒る気持ちは起こらない。心配した。そんな思いも結局、伝える気にもならなかった。それは、あまりにも下手な嘘だったからだ。

 承太郎に再会したその日、実にふた月ぶりに聖子おばさんの顔を見ることが出来た。門前にはもう警備の人もなく、このふた月の物々しさは何だったのかと思うほどに、おばさんもけろりとしていて、元気そのものだった。
 どうやらおばさんは、承太郎が見舞いにすら来なかった事情を承知しているらしい。事情を聞こうとした私に、頬を染めながらにこにこと頷いた。
「パパと承太郎が助けてくれたのよ」
とは言うものの、やっぱり承太郎のように話す様子はないので、腑に落ちない気持ちを抱きながらも、「心配してくれたのにごめんなさい」と頭を下げるおばさんに、空条家の問題なのだろうと私と母は納得することにしたのだった。結局私達は聖子おばさんと仲がいいだけで、家族ぐるみの付き合いをしているわけではない。家の問題には、口は出せなかった。

 承太郎のおじいさんにも、その時に初めて対面した。前に聞いたことがあった気がしたけれど、承太郎のおじいさんというのは、イギリス系アメリカ人らしい。随分と背が高く顔立ちもしっかりとしていて、承太郎は母方の系統なのだと私は改めて思い知らされた。
 訪問者を冷遇するよう指示していた張本人なだけに、どんな偏屈な人なのだろうと私はすっかり偏見を持っていたのだが、予想していたより感じがよく、愛嬌のある笑みもおばさんに対する親ばかっぷりも、間違いなくおばさんの父親だと納得せざるを得ない。だから今までの門前での対応も、呆れ混じりに許してしまう気持ちの方が勝ってしまったのだった。
 けれど、不可解な気持ちは依然として消えることはなかった。
「まだあまり動くな」と聖子おばさんの後を慌てて追いかけては追い返されていたそのおじいさんも、全身いたる所傷だらけで、やはり服の下に包帯を巻いているのが見て取れたのだ。
「その傷、どうしたんですか?」
と何気なく聞いても、愉快そうに「事故に遭っての~」と笑って誤魔化すばかりで、空条家の人間は皆口をそろえてはぐらかそうとする。家族の問題に口を突っ込む気はなくても、一度疑心を抱くとなかなか頭から消すことはできなくなる。

 聖子おばさんの代わりに、承太郎とおじいさんへ客間へお茶を運びに行った時だった。承太郎、という低く静かな声の後、「死ぬところじゃったなぁ」とおじいさんが呟いて、私は思わず障子を開け損ねた。少しの静寂が続く。畳の上を身じろぐ音が微かに聞こえた。
「お前が生きてくれて良かった」
 夕暮れの空は紫色に変わり、杉の大木が遠くの闇の中でざわりと枝を揺らしている。薄暗がりの中、しんと静まり返った廊下に、低いその声はよく通った。
「お前が死んだら、元も子もないからなぁ」
 中には、承太郎も座っているはずだった。けれど一言も声はしない。黙っておじいさんの話に耳を傾けているのかもしれなかった。
 どちらのものなのか、部屋からため息が一つ聞こえた。
「傷口が塞がるまで、ホリィに心配はかけるなよ」
「てめーに言われたかねーぜ」
 私は冬の冷気で冷えきった板に膝をついたまま、微動だにも出来ずにいた。お盆の上のお茶は、すっかりあたたかさをなくしている。冷蔵庫に入れていたみたいに、冷たくなってしまっているに違いなかった。
 不意に足音が聞こえて、障子が開けられる。
「おや」
 おじいさんが目を丸くして、床に座り込んでいた私に声を上げた。部屋の中に、自然と目が行く。掛け軸の近くに片足を立てて腰を下ろしていた承太郎が、ちらりと私を一瞥して、すぐに目を閉じた。
「お茶を持ってきてくれたのか」
 おじいさんの声が耳をするりと抜けていった。
「そんなところで寒かろう、入るといい」
「いえ……冷めてしまったのでお茶を淹れなおして来ます」
 お盆を持って、急ぎ足で廊下を戻る。冷たい板に足を擦りつけながら、客間からどんどん遠ざかる。心臓が嫌な音を立てていた。
 動く度に見える、承太郎の包帯が脳裏に浮かび上がった。本当に旅行だったのかどうか。そんなことは私にはわからない。詮索しようとも思わない。でも障子越しの会話を聞いて、そして承太郎を見て確信してしまった。あれはやっぱり、とても軽傷とは呼べないものだったのだ。
 承太郎は帽子を取っていた。制服も、シャツすら脱いでいた。包帯を巻き直している最中だったのだろう。私は承太郎の体中にざっくりと走った傷跡を見てしまった。まだくっついていない生々しい傷口に、思わず目をそらしたくなった。
 あの会話は大袈裟な比喩なんかじゃない。何をしていたのかはこれっぽっちも知らないけど、もしかしたら本当に、承太郎は死んでいたのかもしれない。私にだって分かる。あれは死んでも、決しておかしくはない傷だってことくらい、分かる。
 お盆を持つ手が、無意識に震えた。私はとても現実的な死の影を見てしまった。唐突すぎる身近な死を想像して、焦燥感に駆られたのだ。
 ゾッとした。初めて血も繋がっていない他人に対して、失う恐怖を感じた。それがどうしてなのか、まだ私には分からなかった。
 でもそれがあったから、多分、気づけたのだと思う。


 私はそれ以来、空条家へ今まで以上に頻繁に通うようになった。承太郎の無事な姿を、確認しに来ていたのかもしれない。馬鹿馬鹿しいと思っても、なんとなくあの傷口が頭にこびりついて離れなかった。
 訪問してやることも少し変わった。家でやりなさいと母に呆れられながらも、聖子おばさんの台所の手伝いをすることも多くなったし、絶対に夕飯のおかずを一品だけは作らせてもらった。
 承太郎の口に入ればいいと思ったのだ。私が作ったなんて、押し付けがましいことを嫌う幼馴染みには、一度も言ったことはない。私の料理が食卓に並び、承太郎がそれを手にとって、ご飯と一緒に食べる。それだけで何か、とても幸せだと思えたのだ。

 終業式を終え、春休みを迎えた昼のことだった。
 春休みの内に、聖子おばさんに洋食を教わろうと約束をしていた初日だったので、私は学校を終えるなり真っ直ぐに空条家の門をくぐり抜け、台所で下拵えをしながら、おばさんが買い物から戻ってくるのを待っていた。
 よく晴れた日だった。まだまだ肌寒くても、暖かい日差しが広い台所を照らしていた。足りない食材があったと出かけていった聖子おばさんは、まだ戻って来ない。すっかり支度できた私は、椅子に座ってうとうととしながら、面倒な宿題をいつまでに終えるかぼんやりと考えていたように思う。
 ふと台所の引き戸から影が伸びて、暖かな日を遮った。おばさんが帰ってきたのだろうと、私は顔を上げた。
「よう」
 いつもの見慣れた学ラン姿が、のっそりと鴨居をくぐって台所に足を踏み入れる。
「なぁんだ、承太郎か」
 珍しいと思いながら、私は持ち上げていた腰をまた椅子へ戻すのもどうかと思い、そのままお茶を淹れてあげようかと棚へ歩いた。小さい頃から通っていれば、勝手知ったる人の家だ。私が飲むお茶でもないので、遠慮をすることもない。
 丁度ポットに入れようと沸かしていたお湯を使って、急須と湯のみを温めてから茶葉を蒸らした。並々と注いで振り返ると、承太郎はテーブルの側まで来て、座るでもなく立ったままでいる。見つめられていたらしく、ひたりと目が合った。
「……どうしたの?」
 承太郎にしては、少し様子がおかしい。緊迫した雰囲気を感じて、僅かにどぎまぎとしながら尋ねるが、承太郎は口を閉ざしたままだった。
 お茶を差し出すと、受け取って飲みもせずにテーブルに置く。また無言だ。そうして帽子の下の陰った目から、じっと視線が注がれる。
「どうしたの?」
と私はもう一度尋ねた。湯のみから、湯気がゆらゆらと空気に溶けていく。私が幼馴染みへ視線を戻すと、
「こんなことを言うガラじゃあねーんだが、」
と歯切れ悪く承太郎が言った。
「何?」
「……いや、やっぱいい」
「何よ、何なの?」
 承太郎が体ごと背けるので、ぐるりと回って正面を追いかける。「しつけぇな」と承太郎は嫌な顔をした。
「言いかけてやめるなんて、承太郎らしくない」
 実際は珍しかったので面白がっていただけなのだ。こんな承太郎は滅多に見られないし、何を迷っているのか必死で隠そうとするのが可笑しかった。まさか答えてくれるなんて思ってもいない。私は仏頂面の幼馴染みをからかうことができる稀有な機会を楽しんでいただけで、内容なんて、それ程気にはしていなかったからだ。
「いい加減にしろ」
 その声とともに突然、視界が真っ暗になった。承太郎が帽子を、思いっきり私の頭に被せたせいらしい。ぶかぶかの使い古されたそれは、最後に洗ったのはいつなのだろうか。少し汗臭かったけど、ほのかに聖子おばさんと同じ匂いがした。
「うわっ」と大声を上げた私に、承太郎は頑丈な腕でぐいぐいと帽子を押し付けてくる。
「ちょっと承太郎ったら!」
 幼馴染みの悪戯に笑いながら、私は帽子を除けようともがいた。
「どうやら俺は……」
 真っ暗な視界に、承太郎の低音が流れる。
「お前が好きらしい」
 両腕から、力が抜けるのを感じた。耳が、今になって音を拾おうと、過敏に澄まされている。あれだけ帽子を取ろうと足掻いていた私は、その一言で、力を失ってしまった。
 帽子から重みが消えていく。頭が急に軽くなった。
「……って言いたかっただけだ」
 カタン、と物の擦れる音がして、板を擦る足音が一歩一歩遠ざかっていく。そうして静かになった。
 承太郎の手は頭からとっくに除けられている。私を抑えるものは何もない。それなのに私の両手は、帽子に添えられたままだ。
 顔ごと覆ったまま、立ち尽くす。熱くて息苦しい。だけど取らなくて良かった。そう思った。取ることなんか出来るわけがない。どんな顔をしているか、自分だってわからないのだ。私は熱が冷めるまで、暫く帽子に顔を埋めてやり過ごした。

 暫くして聖子おばさんが帰ってくるまで、私はついに帽子を取ることは出来なかった。テーブルに目をやった時には、湯のみはとっくになくなっていた。




13/01/30 短編